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(調子狂うなあ)
神殿の中の一部屋、畳四、五畳の範囲が三十センチほど窪んだ場所があり、ぬるい湯が並々と注がれている。信じられない事に、わたしは今その中に身を浸して手足を伸ばしていた。
後ろを振り向くと白目のない黒曜石のような目が四つ、わたしをじっと見ている。屈強な体付きをしているがさっきの偉い人はどちらも女性だと紹介していた。
(さすがに見張りをつけるか)
これ見よがしに大きなため息をついて彼女らの反応を窺う。打たれるだろうか。
少しだけ身を強ばらせたが彼女らは何の反応も示さなかった。
――― ちゃぷん
湯の中でゆらゆらと両足を揺らすと、僅かだが彼女らの視線がそちらへ流れる。見張りというよりも観察されているような気分になって隠れたくなった。
(なんであの人はわたしを殺さなかったんだろう)
大きな鋭い爪が振りかぶられた時、わたしの人生はこれで終わると安堵したのにそうはならなかった。
わたしの肉を割くと信じて疑わなかった大きな手は、ぶんぶんと上下に振られて微風を送ってくるのみ。まるで扇ぐような動作をするので面食らっていたのだが、そんなわたしの様子には全く構わずやめない。
何がしたいのかわからず只管困惑していると彼女達が現れてあっという間に神殿内部へ通され、そうして入浴介助紛いのことをされた。
彼らに入浴の概念があるのか知らないが、汚らしい小娘だと思われたのかもしれない。
改めて自分の体を見下ろすとそれも納得できる。
手足ばかりひょろりと長くて、鶏ガラみたいにガリガリと痩せた体。滅多にないことではあったが看守に何度か打たれた際についたアザも跡が残ってしまっている。わたしが彼らの立場だったら鼻を摘んでいたかもしれない。
もうすぐ死ぬ者に結構な労力を掛けて世話をするなんて、彼らなりの矜持があるのだろうか。
「湯加減はいかがでしたか?」
ぽかんと口を半開きにして相手の顔を見返す。
今日は終始こんな顔をしてばかりだ。
流暢ではあるが、声帯の違いからか若干の違和感を覚えるのは仕方ないだろう。がたいの良さからは想像できない高めの若い男性の声に驚いた。少年と青年の間、変声期途中のような声。最高位に就く者だと言うから勝手に老人だと思っていたが、もしかしたらわたしとそう変わらない年齢なのかもしれない。彼らは顔面含めて硬い皮膚に覆われているので、性差だけでなく老若の度合いも見た目からはわからなかった。
それにしてもどうしてわたしにそんな事を聞くのだろう。湯加減が良かろうと悪かろうと把握しておく必要はあるのか。
「ああ、僕が人間の言葉を喋ることに驚いているんですね」
彼が喋る度に五つの顎がゆったりと開いたり閉じたりする。
「敵の情報を得るには言語習得は避けて通れません。通信を傍受できても理解できなければ意味がないですから」
それはそうだろうけど、それをわたしに言われても反応に困る。そもそもわたしはその敵側なのだし。
「失礼しました。もう敵ではないですよね」
穏やかな語り口だが、なんとなく面倒そうなタイプだと感じて口をつぐんだ。
わたしが気分を害したとでも思ったのか、一旦話を止めて目の前の食事を勧められる。
(多分食事、だよね?)
目の前の皿に載せられた食事はディストピア感の強いものだった。彼が率先して食べてみせるので辛うじて食べ物だと判別できる。サプリメントのような粒や真四角に整形されたパンのような何か。きっちり立方体のゼリーは副菜の立ち位置だろうか。
出された物に文句は言いたくはないが、全く美味しそうには見えない。
地球で聞いた彼らの情報を思い起こす。
上下関係に重きを置き規律を遵守し作法を外れるような行動は避けられるそうだ。効率的で合理性のある選択をする傾向にあり、全体主義的だとも聞いた。
この食事にその全てが現れている気がした。最高位の者と同じ食事を提供されているだけで栄誉なことかもしれないが、味気なさすぎてぴくりとも食指は動かない。
「空腹ではないのですか?」
これが最後の晩餐かと思うともっとマシなものが食べたいし、それよりも悠長に食事など出していないでさっさと殺してくれればいいのにと思った。まさか太らせて食料にしようなんて考えていないといいが。
だけど一方で、わたしに対してこんなに丁寧に接してくれる者などもうずっと居なかったのだから最期くらいコミュニケーションを取っておくのもいいのかもしれない。
小さな粒をスプーンで掬い上げて口に入れると、ごろりと錠剤が舌の上で転がった。
(味がない・・・)
錠剤だと噛まない方がいいんだろうか、だったら水が欲しい。横に乗ったゼリーを同時に丸呑みしてどうにか胃袋流し込んだ。
半ば自棄っぱちで全ての錠剤をもごもご飲み込もうとがんばるわたしをじっと見る二つの目。マナーがなっていないとでも思っているのだろうが食べにくくて仕方がない。
「あなたにはもう少し栄養が必要です。もっと食べられますか?」
ふるふると首を横に振って拒否した。味が無いものというのは想像以上に飲み込みづらくこれ以上は食べられそうにない。
ことりとスプーンを置いた。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
下を向いてこっそり深呼吸すると、ずっと聞きたかった事をついに口に出した。
「わたしの処刑は今晩ですか?」
*
「で、彼女は覚えておりましたか?」
遠くを見たままぴくりとも動かないでいると、宰相であり幼馴染でもあるアルジズが近づいて来た。後ろに控えた部下達に食事の後片付けを命じながら顔を覗き込んでくる。
我々の種族は人間と違い表情なるものは持ち得ないが、代わりに声の調子や行動に感情が如実に反映される。彼の声音にも明らかに揶揄うような響きが含まれていた。
隠すと更に揶揄われるだけだ。正直に首を横に振った。
「無理もないでしょう。まだ幼い時分の事ですし、その後の彼女の境遇を考えれば忘れてしまっていても仕方がない」
一応慰めてはくれるようだ。
「彼女はこれからずっとこちらにいるのですから、徐々に思い出してもらえればいいじゃないですか」
「さっき彼女に―――」
そこで会話を終えればよかったのにさっきの会話で受けたショックが大きく、思わず口を開いてしまった。
「自分の処刑はいつかと聞かれたんだ」
しんと沈黙が降りるが一度開いた口はなかなか閉じない。それに、と続ける。
「熱中症のような症状が見られたから応急処置的に手で扇いだら、明らかに切り裂かれるのだと誤解されたようだった」
「・・・まずは信用を得ない事には思い出すどころではないですね。ただし」
一度言葉を区切ると体ごと向き直ってはっきりと、しかし厳しい口調で刺された。
「彼女が全てを思い出したとしても、彼女とて我らと考え方や生き方が違います。人類は信用に足る生命体なのか判断が揺れている今、知人程度の交流に留めてそれ以上の深入りはされませんようくれぐれもご注意ください」
「わかってるよ」
短い返答の中に含まれる複雑な感情をアルジズも感じ取ったらしい。尾を横方向に大きく振るとこちらの脛を軽く叩いて去っていった。まあがんばれ、とでも言いたいのだろう。
覚えているとは期待していなかったが、今日という日を心待ちにしていただけに彼女のあのよそよそしい態度に思ったよりも落ち込んでしまった。
今はあの時よりもお互いの立場が複雑になってしまったために、思い出してもらおうと安易に昔話をするわけにもいかない。
明日から彼女の様子を気にかけよう。せめて良き知人だと思ってもらえるように。