紫陽花のような人
それは梅雨のぐずついた空が少しだけ機嫌を直して、雲の隙間に半月を見せてくれた日のことだった。
帰り道にある公園で、見慣れぬ人影が視界に映り込んだのだ。
気付いたときにはもう遅かった。
その異質さと儚さの両方に、俺はついつい目を奪われてしまっていたのかもしれない――
◇
最近の俺はほぼ毎日のように塾に通っている。来年頭に大学受験を控えているからという至って平凡な理由からだった。
周りの皆がそうしているから、また親がそうしろと言っているから、特に反発することもなく従っているだけ。
志望先の大学で特にやりたいことがあるわけでもなかった。
物心がついた頃からだろうか。親にずっと言われ続けてきた言葉がある。
〝せめて大学だけは出ておけ。叶うならイイトコロだと尚良し〟
全体的にふわっとしていて具体性は無いに等しいが、彼らの言いたいことも何となくは分かる。将来が少しも見えていない今のうちに、未来の選択肢を潰してしまわない為なのだろう。
それを理解してしまっているからこそ反発はしない。けれども大それた目標もないから深くまでは入り込めない。
変なところで大人びてしまった自身への嫌悪を抱きながら、ただ黙々と素点を落とさないことだけを目標にした、ある意味空虚な勉学を繰り返す日々。
ふわっとした親からの推奨と。
ふわっとした未来への憂慮と。
ふわっとした俺自身とが合わさって。
……何事も中途半端で、それなり。
これが俺の基本的なスタンスと言っても過言ではないだろう。
◇
今日もまたそこまで気の向かないままに塾に通って、夜遅くまでそれなりに学んで、家に帰ったら眠るだけという日を過ごすはずだった。
連日の雨のせいでジメジメと蒸し暑かったが、今日は久しぶりに晴れ間が見えた。夜に脇を通り抜ける風がほんの少し肌寒い、そんな季節。
ただ、いつもとは違っていたのは。
帰路にある小さな公園に、ふと見慣れない人影の姿が目に映ったことだった。
「……うぅぅ……ぅぅ……ぐすん……」
その人物は、放っておけないかまってオーラを放っていた。最悪死んでやるぞーという極端な圧を感じてしまったのだ。
お子様用のブランコに小さく腰掛け、ズビズビと鼻を鳴らしながら大人気なくべそべそと涙を流している、おそらくビジネスパーソンなその女性。
ハンカチを目に当てるという思考もないのか、滴り落ちた涙が顎を伝って、そのほとんどが服に染み込んで、胸元一帯が僅かに黒ずんでしまっている。
キッチリとしたビジネススーツを身に纏っているというのに、キコキコともの悲しそうにブランコに揺らしている姿が何ともシュール過ぎて、初っ端なから俺の理解力を超えさせるには充分過ぎるほどのインパクトを放っていた。
俺よりもずっと歳上の――とは言え二十代半ばか後半くらいだろうが――女の人の涙を見るのはこれが初めてだった。
長く伸びた黒髪が月の光を反射して、それが筆舌に尽くしがたい美しい一枚絵を作り出しているような気がして。
けれどもこのままではよくないような気もして。
「…………あの……」
とても放ってはおけない気持ちに駆られてしまい、ついつい目の前で立ち止まってしまった俺を、いったい誰が責められようか。
幸い向こうは嗚咽するのに夢中らしく、俺のことなんか地面を歩くアリほども視界には入っていないらしい。
「あの!」
だから勢い余って声までかけてしまった。
実際のところ行動にまで移れた理由は自分でも分からない。
「…………ぅぐ……は、い……?」
二度の声掛けでようやく気が付いてくれたのか、恐る恐るという雰囲気で女性が首を上げた。意外に童顔だったことに更に驚いてしまう。
少し慌てたような表情で彼女は続ける。
「……あーっえとごめんなさっ、もしかしなくても職質ですよね? こんなところでこんな女がベソかいてちゃそりゃ目立ちますよね?
あははは……うん? あなた覆面警官さん? いやそれにしちゃあちょっと若者過ぎるか。
あのごめんなさい、えっと……誰?」
「あ、いや、ただの通りすがりの男子高校生っス」
「なぁんだ。謝ってちょっとだけ損した」
目元を指で拭って、くすっと優しげな微笑みを向けてくれる。どうやら自分の勘違いと早とちりさに笑ってしまったらしい。
しかしながら、数秒後には憂いを帯びた遠い目に戻ってしまった。
改めて正面から眺めてみれば、それこそ一目見ただけで分かるくらい瞼の下を真っ赤に腫らしている。十分やそこらの涙ではないようだ。かれこれもう一時間近くはずっと泣き続けているような……。
今の笑顔は精一杯の取り繕いだったのだとさすがの俺にも分かってしまった。
辺りの漂う湿った空気がそれをより強く感じさせてしまうような気がして。
じっとりと肌に張り付くシャツを振り払うかのように、この重苦しい雰囲気を何とか打破したいと思ってしまって。
「え、えと! こちらこそなんかスンマセン。あの、変に気になっちゃったんでつい。
ほ、ほら、こんな辺鄙な公園で何してんのかなーとか。なんでこの人泣いてんのかなーとか。そしたら――」
だからこそ、考えもなしに口から飛び出してきた空っぽな言葉に、自分自身が一番戸惑ってしまっていた。
元より俺は歳上はおろか普通の女性とも面と向かってしっかりと話した経験はない。まして大号泣中の女性など尚更だ。
挙動不審になってしまうのも無理はないだろう。さすがに変過ぎたかと思ったときにはもう遅くて、もはや開き直るしか選択肢は残されていない。
「……えと、あの……なんかスンマセン」
「ううん。大丈夫。ありがと気にしないで。私の方こそ完全に不審者ムーブしてたよね。大したことじゃないからホントに。よくあることだからさ」
大袈裟にぶんぶんと手を振って否定する彼女の妙な子供っぽさに、何故だか俺は助けられてしまったような気がしていた。
子供のような身の振る舞いと、オトナな気遣いとが絶妙にミスマッチしていて、それが俺の脳を更に困惑させてしまう。
まるで純真な心をそのままに大人に成長したかのような、勝手なイメージさえ湧き出てくる。
俺、気の進まない勉強で疲れてんのかな……と思う他に、今の自分の感情を表現できそうにない。
「……あの、失礼かもしんないけど、聞いちゃってもいいスか? その、俺なんかでよかったら」
話聞きますよ、とまではこの口からは出てこなかった。
果たして赤の他人のプライベートにズイズイと踏み込んでもよいのだろうか。それよりいきなり話しかけられて怖くはないだろうか。
途中途中で飛び出してくる良心的思考のせいで、最後の最後で怖気付いてしまった俺を誰か許してほしい。
不安が二割、疑問が八割というような表情の彼女が微かに小首を傾げる。
「えっと? こういうときって誰かに話したら楽になるとか、そういう研究データがあるんだっけ?」
「いや、それは知らない……スけど」
少しぶっきらぼうに返してしまったことを、言ったそばから後悔してしまう自分もいる。
こういうことを自然に出来る人はどういう思考回路をしているんだろうか。
「あはは。君、正直者だね。お姉さんそういうの嫌いじゃないよ」
口元を緩めた微笑み兼ドヤ顔に、不覚にもドキリとしてしまった。
変に悟られないように顔を逸らしておく。
「……んー、分かった。まだ若々しいガキンチョ君に言うのも変な話なんだけどさ。今から独り言こぼしてあげる。好きに拾ってもらっていいよ」
横目で見てみると、彼女はこちらの方は見ずに、ただただ遠い目で空を見上げているようだった。
立ったままというのもアレなので、俺も空いている側のブランコに腰掛けさせてもらう。幸いにも板面は乾いている。
錆びた鎖からギィという静かな金擦り音が辺りに鳴り響いた。
すぅっというため息が聞こえてくる。
自嘲気味に微笑んだ、悲しげな横顔が見える。
「――私ね、さっきフラれちゃったんだ。ここ半年くらいは結構いい感じだったんだけど、だんだん雲行きが怪しくなってきちゃって。そんでついに今日、正式に、その人からのご通達」
ぼそり、またぼそり、と。
空から少しだけ目線を落とした彼女は、公園の入り口に咲いていた青い紫陽花を、憂いを帯びた目でひたすらに見つめている。
花弁の集まりにその人の顔を重ねているのかもしれない。
何故だかそう思えて仕方ない。
「……あー、えと。それはなんつーか、ご愁傷様で?」
「ふふ、ありがと。けどいいの。これは仕方ないことなの。そもそもの話、実らない恋なんだろうなーってのは最初から分かってたし。私のワガママに、お相手さんに、ただ付き合ってもらってただけだし」
口振りこそ軽いのにまたも目元に涙が溜まってきているのが分かってしまった。
絞り出すようにして彼女は言葉を続ける。
「今思うとさ、私ちょっとだけ背伸びしたくなっちゃったんだろうね。もしくは手の届かないところだからこそ欲しくなっちゃったのかも。昔っからそうなんだ。いつだって無い物ねだりの人生。おーるうぇいず隣の芝生イズぶるー」
苦笑いにも似た複雑な表情を浮かべている。
おーるとぶるーの発音が下手な巻き舌だったし、しかもそこはせめてグリーンなのでは? という浅はかな疑問は胸の中だけにしまっておこうか。
こういうときは余計なことは何も言わずに素直に頷いておくか、もしくは気の利いた言葉を投げかけておくのがベストだと、何かの恋愛漫画の裏表紙に書かれていたような気がする。
ただしそんな浅知恵を素知らぬ顔で遂行できるほど、俺は賢くはない。
一つ一つの言葉選びさえ、とにかく慎重に。
「あの……えと、月並みな言葉でアレっスけど、ほら。いい男は星の数ほど居るって言うじゃないスか」
少しの重みも感じられない自身の言葉に、言った直後からこっそりとため息をついてしまった。
星の数とは具体的にはどれくらいだろうか。
その理論からすれば、いい女も星の数ほど居るのではないだろうか。
「それはそうだね。でもそれ残念! 私気付いたの。手の届かないところの男はぜーんぶクズなのっ! つまりは星屑! 眺めるだけの星屑なんて私は要らないのっ」
こちらに向けられたのはとても悲しそうなドヤ顔だった。けらけらと笑ってはいるが、瞳の奥は笑っていない。ずっと悲しそうなままだ。
きっと何か思うところがあるのだと思う。
星屑の男たち、か。
まるで高嶺の花の最悪版みたいだな。
綺麗な言葉を極限にまで貶めたような言い方だったが、何故だか妙にしっくりきてしまった自分がいる。
確かに、手の届かないものはあまり好きではない。
高嶺の花……つまりはすぐには見に行けないデリケートな高山植物よりも、俺はそれこそそこら中で健気に咲き誇っている紫陽花みたいな花の方がずっと身近に感じられていいとさえ思っている。
酸性の土でもアルカリ性の土でも、どこでも野太く生きられて、水と光だけでぐんぐん大きくなれるような強い花。
毎年シーズンが来たら丸っこい花を塊にして、小さくて可愛らしい花弁を沢山見せてくれるような健気な花。
雨のときこそ輝けるような、前向きな花。
ふと売れない詩人のようなことを思ってしまった自分に唐突に恥ずかしくなってしまい、またまたお姉さんから顔を背けてしまった。
彼女の方からくすりという微笑みを聞こえてくる。
何事かと邪念を振り払って見てみれば。
「案外研究データの通りだったね。なんだかちょっとだけスッキリした気がする。そうだよ。星屑なんて追っかけても始まらないんだよ。新しい人、もっと前向きに探してみなきゃ」
「そ、そうっス、その意気っスよ。よく分かんないけど」
こちらとしては何もしていないが、最初に比べればだいぶ肩の荷が下りたのか、ぐーっと背中を伸ばしてくれている。
揺れたブランコでバランスを崩していたのは、見ていないフリをしておこう。
目元の涙はもう見当たらなかった。
「君は、もしかしなくても受験生?」
「はい。正直あんまり、実感ないスけど」
あまり勉強に手が付いていないからこそ、こんな場所で油を売ってしまっているのかもしれない。
きっと学生的には、さっさと帰って寝て頭を休めた方が効率的なのだろう。
それが出来ないのは俺の芯の弱さからか。
それとも大して変わらない日常に飽きてしまっているせいだろうか。
「そっか。なら頑張った方がイイね」
「……まぁ、そりゃそうっスよね」
口から出てきたのは空虚な生返事だけ。
「お姉さんはバカだったからあんまりイイとこは出てないけど、学んだ分だけイイことが待ってるとは思うよ。
〝大学は人生の夏休み〟っていうキーワード、今なら分かる気もするんだ。確かに色んな出会いがあったから」
「出会い?」
彼女は懐かしんでいるような優しい表情をしていた。
唐突にニマニマと微笑んだり、そうかと思えばぐっと顔を顰めたり、そのうちには苦虫を舌の上でソテーしたような渋い顔をしたりと、同じ表情なんて一つとしてないんじゃないかと思えるほど、俺には出来ない感情を表している。
自身の平手を見つめながら、楽しそうに彼女は言葉を続けた。
「頭を七色に染めてる人と突然仲良くなっちゃったりとか、筋トレにハマり過ぎてボディビルの道にまで進んじゃった子とか、真面目そうに見えて裏では平気で五股しちゃってる子にアドバイス貰ったりだとか。他にも……」
その後も聞き取れない声量と指折りとで数えているようだが、右手を超え左手を超え、早くも指の動作が往復を始めようとしていた。
この人単体でも不思議さを極めているというのに、その身の回りの人はどれだけ奇想天外だったのだろうか。
「それじゃ、お姉さんみたいな人もいたんスか?」
夜の公園でしこたま泣きじゃくっているような変な人とか。こんな男子高校生の相手をしてくれてる子供っぽいオトナな女性とか。
「何それ私どういう扱い? でもね。多分それこそ星の数ほど居ると思うよ。知らないけど」
「そっスか」
「そっ。ていうか人生なんてそんなもん。色んな人に出会って別れて、ずーっと当たって砕けろの繰り返し。雨降って地固まって、そんでもって鉄面皮をゲットした人だけが優勝。
……残念ながら、私はまーだっ」
今度は目の奥から笑ってくれている。
そんな彼女に釣られて、俺もつい微笑みをこぼしてしまった。
ふと空を見上げてみれば、雲の切れ間が少しずつ大きくなってきていた。住宅街の明かりのせいで星は一つも見えないけれど、綺麗な半月がくっきりとその形を見せている。
なんでだろう。
俺自身の肩の荷も下りたような気がする。
やりたいことなんてないとは思っていたけれど。
初めて、大学に行ってみたいと思った。
こんなつまらない人間でも、俺なんかよりずっと面白そうな人に出会えるというのなら――今日みたいな出会いがまた、もっと身近に感じられるようになるのなら。
少しだけ楽しみに思えてしまったのだ。
小さなきっかけだったのかもしれないけど。
ただの偶然で声をかけただけに過ぎないのかもしれないけれど。
お姉さんに出会えたこの事実が、そして未来への淡い期待が、俺の胸をほんの少しだけ熱くしてくれている。
「あぁそうだ青年。ジュース飲むかい? 気分イイから今ならお姉さんが奢ったるよ」
「お、マジスか、どもっス」
提案されるまで気がつかなかったが、幾度とない緊張を重ねていたせいで既に舌の根がカラッカラになるほどに渇いてしまっている。
正直に言ってありがたい提案だった。
跳ねるようにして立ち上がったお姉さんに続いて、公園の隅に設置された自販機の前まで移動する。
彼女は小脇に抱えていた鞄から小銭入れのようなモノを取り出すと、中から数枚の硬貨を摘み上げてはイチイチオーバーなアクションで自販機に入れていた。
最後のボタン入力なんて、それこそ自販機相手に突き指するんじゃなかろうかというレベルの勢いで――
「あ」
指がボタンに触れた瞬間、その口から本当に漏れ出たような小さな声が聞こえてくる。
ガコンという無慈悲な音が周囲に響き渡った。
実際に突き指したわけではなさそうだが、何とも不安そうな瞳が俺を捉えて離さない。
「ごめん。押すボタン間違えちった」
てへぺろと舌を出して笑っている。
取り出し口にしゃがみ込むと、月当たりに照らされた黒髪が艶やかに煌めいていた。
「じゃじゃーん。あったか〜いの、缶コーヒー。おまけに味はブラック〜……」
あちゃーという声と共に、絵に描いたような苦笑いがこちらに向けられてきている。
「別にちょっと肌寒いかなとも思ってたんで、コレはコレでいいっスよ」
好きではないが別に飲めないわけでもない。
「おおーう飲めるんだ。おっとなぁ〜」
どうなんでしょうね。
子供の頃、周りの奴らに自慢してやろうと必死に慣れましたから。
あの頃のひたむきさはもう忘れてしまったけれど。
今日、少しだけ、思い出せたような気もするんスよ。
彼女から手渡された缶コーヒーは、当たり前だけれど、なんだかとっても温かった。
プルトップを開けて、中の液体をちびちびと舌に触れさせる。
「……あー。やっぱ、苦いっスね」
感じる独特な苦さが、今はとても心地が良かった。
「ありがとね、青年」
「いえ、こちらこそ」
地面に残った水溜りに、空の半月が浮かんでいる。
ああ。今日はなんだか、よく眠れそうだ。
本作品をお読みいただきまして
誠にありがとうございました。
初めてチャレンジしてみたジャンルなので
うまく書けたかどうかは正直分かりませんが
皆様の御心を響かせられたのなら幸いにございます。
素直な心の声を沢山お聞かせくださいませ。
感想や評価など、諸々お待ちしております。
それでは。いつか、またどこかで。