4 寿ぎの舞
雲ひとつない透き通った青空と、紅葉に染まる野山。
そんな美しい景色を背景に設えられた祭壇前で、神への感謝を述べる宇嘉良。その口上が終われば、いよいよ玲の出番だ。
玲は、布で囲まれた控えの場で、静かに出番を待っていた。
いつもの巫女服ではなく、千早を身につけ、花冠に五色の鈴緒。寿ぎの場にふさわしい華やかな装いは、着付けを手伝った女たちが感嘆するほどの美しさだった。
(なにやら……照れ臭いのう……)
銅鏡に写る自分の姿を見て、落ち着かない気持ちになる。着飾って人前で舞うのが初めてというわけではないが、もう十年以上も前のこと。しかも主役は別の者で、自分は舞台の端で舞っていただけだ。
(きちんと舞えるかのう……)
この華やかな場にふさわしい舞を。鎮魂の舞とは異なる、寿ぎの舞を。本番を目の前にしてどうにも不安が募り、玲は幾度もため息をついた。
宇嘉良の口上が終わり、歓声が上がった。
楽師が先に出て、準備を整える。いよいよ出番だと思うと、さすがに緊張して顔がこわばってきた。
鉦が鳴らされ、周囲が静まり返る。
玲が出て行くと、観客がその美しさに感嘆の声を上げた。
大勢の視線を一身に浴び、やや怯んだ玲だが……祭壇正面、ど真ん中にどっかりと腰を下ろした大男を見てドキリとした。
多々良だ。
何もそんな目の前に座らなくても、と気恥ずかしさを感じたが、どうにかこらえて平静を保った。
(……集中せねば)
玲は大きく息を吸い、ふう、と吐く。
ピィッ、と笛が鳴り、楽が始まる。
シャラン、と鈴を鳴らし、楽に合わせて玲は舞い始めた。
やや難しい手順だが、教わった通り、間違えることなく玲は舞う。
しかし、何も間違えてはいないのに、違和感を覚えた。初めは小さな違和感だったが、舞えば舞うほど、何かがずれていくと感じた。
これではいけない、しかし、その理由がわからない。
どうすればと焦りが募る。
──玲、それではだめよ。
緩やかに、静かに足をさばいたとき、ふと記憶が蘇った。
──鎮魂ではないのだから。
──もっと軽やかに。ほら、顔もこわばってる。
寿ぎの舞、喜びの舞。
昔から苦手だった。何度も姉に教わったがうまくできず、何がダメなのか、どうしてもわからなかった。
──好きな殿方でもできれば、少しは変わるのかしらねぇ。
ため息交じりに笑う姉の言葉とともに、思い浮かんだのは昨夜のこと。
無遠慮に頰を握る、多々良のごつい手の感触。
──寿ぎの舞に、沈んだ顔は似合わぬ。
握られた頰の痛みを思い出す。まったくあの男は、と思うものの、なぜか笑みが浮かんだ。
──巫女殿の舞はとても美しい。
着飾らぬ姿での、鎮魂の舞をそう褒めてくれた多々良。
ならば今日、着飾って舞う寿ぎの舞には、どんな感想をくれるのだろうか。いっそあの軽口が叩けぬほどに見入らせてやりたいものだ──そんなふうに思ったら、すうっと体が軽くなった。
シャンッ。
鈴を振る手に、思わず力が入った。
だが、おかしくない。
そのまま二度、三度と、うるさいぐらいに鈴を鳴らしたが、不思議とそれが楽に合った。
シャンッ。
澄んだ鈴の音が、軽やかに、そして賑やかに響く。鈴の音に合わせて動きも軽やかになり、舞のずれが消えていく。
激しすぎると思う動きが、奏でられる楽とピタリと合った。
楽に煽られ心が浮き立ち、その浮き立つ心のままに玲は舞う。
とん、と跳んだ。
くるり、と回った。
笛に誘われ、太鼓に導かれ、鉦に合わせて、玲は風に踊る木の葉のように、ひらりひらりと舞った。
──そう、それでいいのよ、玲。
姉の声が聞こえたような気がした。
やっと舞えたと嬉しくなり、ますます心浮き立たせて、玲は笑顔で鈴を振る。
これが、寿ぎの舞。
厳かに、しかし、華やかで軽やかに。
そして、楽しげに。
一年の実りへの感謝を祈り、新たに夫婦となった者への加護を祈り。
人の想いよ神へ届けと、玲は楽の音と一体となって、無心で舞った。
りん────。
小さな鈴の音が聞こえたような気がした。
はて、と思い我に返ると、玲は光に包まれた不思議な場所に立っていた。
(ここは……)
楽の音は鳴り続けていたが、楽師の姿は見えない。祭壇も、村の人々も、そして目の前で見ていたはずの多々良の姿も。
──あな、楽しや。
困惑する玲の頭に、何者かの声が響いた。
──よき舞ぞ、よき舞ぞ。
──奉られし舞、しかと受け取った。
「氏神様……か?」
──然り。
玲を包む光が答え、揺れた。
どうやら、呼ばれてしまったらしい。
──心配せずとも良い。
玲の困惑を察したか、氏神が笑いを含んだ声で告げる。
──連れ去ったりせぬ。
──そなたが背負う神が、黙っておるまい。
遠くから、りん、と鈴の音が聞こえた。
──おや、舌打ちしておるわ。
──ほんに、怖いのう。
──あんなもの、よう呼び出したことよ。
氏神はため息交じりに笑う。
──そう苛立つな。
──ただ、賛辞を送るだけ。
──届けられし祈りに、応じると告げるだけ。
感謝の気持ち、確かに受け取った。
新たな夫婦への加護、承知した。
神の言葉を受け取り、玲は感謝を込めて一礼した。
──さあ、戻るがいい。
──こたびの寿ぎの舞、一の姫にも匹敵したぞ。
──ではな、二の姫よ。
玲を包む光が強くなる。
あまりの眩しさに目を閉じたとき、とん、と背中を押されて。
玲は、ぐらりと前に倒れた。
────りん。
小さな鈴の音が聞こえた。
姿勢を崩し、倒れそうになっていた玲を、たくましい腕がしっかりと抱きとめてくれた。
「平気か、巫女殿」
耳元で聞こえた声に振り向けば、思わぬ近さに多々良の顔。
ぼやけていた意識が戻り、自分が多々良に抱きしめられていると気づいて、玲は慌てた。
「た……多々良殿、い、いったい……?」
「舞が終わったと思ったら、倒れそうになったのでな。立てるか?」
「う、うむ……」
うなずいたものの、疲労困憊で力が入らなかった。
「無理するな」
「いや、しかし、の……」
顔を上げれば、宇嘉良や玉野を始め、村中の人が玲を見ていた。
衆人環視の中で多々良に抱きしめられている……そう思うと、玲は顔から火が出る思いだ。
「いやはや、すばらしい舞であったぞ!」
いきなり、多々良が大声で叫んだ。
何事かと驚いた玲だが、多々良の声で村人たちが我に返り、割れんばかりの拍手が起こった。
神が、現れたという。
舞が最高潮に達した時、風が起こり森が揺れ、色づいた木々の葉が舞い上がった。そして、天より柔らかな光が降りてきて、新たな夫婦への加護を約束するとの声が響いたそうだ。
「……そうか」
玲を帰すときに、氏神もこちらへきたのだろう。
やれやれと、玲は息をつく。来る気があるなら、わざわざあちらへ呼ばなくてもいいではないかと、恨み言の一つも言いたくなった。
だが、晴れがましい。
巫女として役目を果たせたことが、誇らしい。
「かなり疲れているようだな。平気か?」
結局自分で歩くことはできず、玲は多々良に抱えられて控えの場に戻った。
そのままぺたりと座り込み、ふうと息をつく。
「ちと、きついの。じゃが……」
「うん?」
「久々に、よい気分じゃ」
くくっ、と喉の奥で笑い、玲は多々良をまっすぐに見た。
「して、どうであった、妾の舞は?」
「……言葉にできぬな。見入ってしまって、我を忘れた」
目をそらすことなく返された言葉。望んでいた答えを聞けて、玲は満足した気分だった。
「それはよかった。では、褒美の酒などいただきたいものじゃな」
「酒? 巫女殿、飲めたのか?」
「当たり前じゃ。神事に酒はつきものぞ? ケガをしておったゆえ、控えていただけじゃ」
「それもそうか。よし待っておれ」
多々良は宇嘉良のところへ駆けていき、酒の入った甕と椀を二つ抱えて戻ってきた。
受け取った椀に、並々と酒が注がれた。
それを静かに口に運び、玲は平然とした顔で飲み干した。
「おいおい、一気にあおっては酔いがまわるぞ?」
「どの口が言うのかのう」
「確かに、言えた口ではないな」
では俺もと、多々良が隣に腰を下ろし、椀に酒を注いであおる。相変わらず豪快な飲み方だと、玲は呆れ半分で微笑んだ。
「飲みすぎぬように、の……」
涼やかな秋の風が、玲の頰を優しく撫でた。
頰が火照っているのは、酒のせいか、それとも他の理由のせいか。
(ああ、いかん……)
やはり、一気にあおったのはいけなかった。
舞で疲れた体に酔いが回り、まぶたが急激に重くなっていく。
「……巫女殿?」
多々良が呼びかける声が聞こえた。
玲はそれに言葉ではなく、笑顔で答え。
コトリ、と巌のような体に身を預け、しばしの眠りについた。