2 玉野の依頼
多々良が部屋に戻ってきたのは、東の空がうっすらと白み始めた頃だった。
「これはこれは。お早いお帰りじゃのう」
「……み、巫女殿」
寝巻姿の玲が横目でにらむと、多々良はバツが悪そうに頭をかいた。
「あー……ずっと起きていたのか?」
「一眠りして、目が覚めたところじゃよ」
フリとはいえ、妻をほったらかして朝帰りか──そう思うと、玲の胸に何やらモヤッとしたものが生まれ、つい口調も険しくなった。
「まったく、夜明け近くまで飲むとはのう」
「いや、その……すまん。話がはずんでな」
「……ま、妾がとやかくいうのも、なんじゃがな」
玲が視線を外すと、多々良が恐る恐るという感じで部屋に入ってきた。
夜具の向こう側にどかりと腰を下ろし、多々良は大きく息をついた。酒臭い息に、どれほど飲んだのやらとあきれながら、玲は少しだけ窓を開けた。
ひんやりとした空気が流れ込んでくる。
空気の冷たさに、秋の深まりを感じる。暑さが和らぎ過ごしやすくなるのはよいが、ぐずぐずしていると冬になり、旅を続けるのがつらくなる。
(さて、今年の冬は、どこで越すか……)
白んでいく空を眺めながらぼんやりと考えていたら、多々良が「んんっ」と咳払いをした。
「その……巫女殿……」
「なんじゃ?」
「その……怒っているか?」
「怒ってはおらぬが、呆れてはおるな。そなた、飲み過ぎじゃ」
それに、と。
玲はため息交じりに振り向いた。
「ここにいる間は夫婦であろう。名で呼ばぬと、バレてしまうぞ」
「う、うむ……いや、その……色々と、まことに申し訳ない」
「色男はつらいのう。それで、あと何人ほど待たせておる女がおるのじゃ?」
「いや、そういう女はおらぬから。あまりからかってくれるな」
「……そういうことにしておこうかの」
モヤッとしたものは晴れ切らないが、玲は話を変えることにした。
「ところで、相談があるのじゃが」
「ん、なんだ?」
「玉野殿に、頼みごとをされての」
玉野に誘われて温泉へ行き、そこで色々と聞かれるのだろうと覚悟していた玲だが。
身構える玲に、玉野は意外なことを告げた。
「実は私、近々祝言を挙げるんです」
「は……祝言?」
「はい」
玉野は幸せそうに笑みを浮かべ、十日後に予定されている祭りの日に合わせて、祝言を挙げる予定だと教えてくれた。
「いや、その……玉野殿は多々良殿と……」
「多々良様のことは憧れてはおりましたが。結婚となると別です。多々良様を夫にというのは、なかなかに覚悟がいるでしょう?」
確かに、と玲も思う。
傭兵として、多々良は戦場を転々とする暮らしをしている。当分ひとところに落ち着く気はないとも言っていた。そんな男を夫に持てば、妻としては気が気ではないだろう。
「私ももう二十歳。そろそろと思っていたら、案外あっさり出会いがありまして」
春に行われた歌垣で歌を掛け合ったのがきっかけだったと、玉野は頬を染めながら教えてくれた。
気がつけば想い合う仲となり、夏の終わりに夫婦になりたいと宇嘉良に伝えた。最初、宇嘉良はいい顔をしなかったが、いつ来るかわからない多々良を待ち続けるわけにもいかないと、結婚を認めてくれたという。
「では先ほどの騒ぎはなんだったのじゃ……」
「息子同然に可愛がっていた多々良様が、結婚の挨拶に来てくれたことが嬉しかったのでしょう」
まあ、素直な人ではないので、ああいう形になったのですがと、玉野は笑った。
「それで、折り入ってお願いがあるんです」
「妾にか?」
「はい。祭りで、氏神様への奉納の舞をしていただけませんか?」
「奉納の……舞?」
「ええ。玲様、巫女ですよね?」
驚く玲に、玉野は「ふふっ」と楽しそうに笑った。
「実は私も少々力がありまして……なんとなくわかるんです」
長の娘ということもあって、ここ数年、祭事で舞を納めるのは玉野の役割だった。
しかし今年は祝言を挙げるので難しい。巫女の才がある娘がいないわけではないが、祭事で舞うほど上手ではない。どうしたものかと頭を悩ませていたところに、多々良が玲を連れて来たという。
「お礼はいたします。そうですね……私の客人として、冬が終わるまでここで過ごすというのはどうでしょう?」
「それは……」
魅力的な提案だったが、冬が終わるまでこの珍妙な夫婦ごっこをするのは、無理だと思った。
無理というか、嫌だ。
「ちと……多々良と相談してよいかの?」
玲はそう言って、いったん返事を保留にして戻ったのだ。
「なんだ、そんなことか。よいのではないか?」
玲の話に、多々良はあっさりと答えた。
「武骨な俺でも、巫女殿の舞はとても美しいと思う。皆、喜ぶと思うぞ」
「お主、よく考えぬか。祝言は十日後。それだけおれば、夫婦ではないと気づかれるかもしれぬぞ?」
そうなったら、多々良と玉野の結婚話が蒸し返されるかもしれない。祝言を目の前にしてそのような事態になったら目も当てられぬと、玲は心配しているのだが。
「それはあるまい。宇嘉良どのも、俺にも息子ができるのだと喜んでおったし」
「……そうなのか?」
「おう、さきほどの酒席でな。俺がノコノコと玉野と夫婦になりたいとやって来たら、もう遅いわ、と追い返してやるつもりだったと言われたよ」
はははっ、と笑う多々良に、玲は冷ややかな視線を向けた。
「……のう、夫婦のフリなぞ、しなくてよかったのではないか?」
「うむ、俺の杞憂だったようだな」
「では、もうやめてよいか?」
「いやいや、あれだけ祝いの酒を飲んで、嘘でしたは申し開きできん。やり切るしかあるまい」
「それ、妾のせいかのう……」
「それに独り身と知れ渡ったら、男どもが入れ替わりに夜這いに来るぞ。それは構わんのか?」
「……ごめんこうむる」
玲はげんなりとした顔になった。
幸か不幸か、玲は人並み以上の器量だ。危うく、という事態になったことも一度や二度ではない。多々良と夫婦ではないと知られたら、「では俺が!」といきり立つ男が出てくるだろう。
「まあそんなわけで。巫女殿が嫌でなければ、舞を納めてもよいのではないか?」
「なにがそんなわけで、じゃ。妾はのう……」
「ああ、すまぬ。さすがに少々眠い。続きは一眠りしてからにしてくれ」
玲の言葉を遮り、多々良はふわっと大あくびをした。
そしてそのまま夜具に潜り込み、あっという間に眠ってしまった。
「ああもう、まったくこの男は。豪放磊落というか、考えなしというか……」
こちらにも色々事情があるのだぞと、たたき起こしてやろうかと思った玲だが。
気持ち良さそうな顔で寝ている多々良を見たら、なんだか毒気が抜かれてしまい、やれやれとため息をつくだけにした。