世界最終日まで(髄膜腫が見つかったある日から)
風呂上がりに、服を着て、ドライヤーで髪を乾かそうとした時、頭がくらくらする目眩がやってきて、脱衣所でそのまま意識をなくした。救急車を呼ぼうにも、この世界には、人間なんて数える程しかいない。
この世界は、俺達しかいない。
俺には、なんにもわからないが、世界は滅亡の危機に瀕してるらしい。俺は、世界の情勢とかどうでもいい。なにもしらないんだ。
目を覚ました後。全身を痙攣発作で震わせながら、数少ない知り合いに連絡しようと思った。新型ウイルスの蔓延によって、とか、戦争兵器の甚大な被害とか、巨大な隕石が空側の宇宙から降ってきたとか、そんな理由付けなんて、さして興味はない。今はただ、あの人に連絡がしたい。
もし、俺にとっての世界が終わるなら、誰に、なにを伝えたい?
俺はあいつに。上空祐奈に電話をかけた。震える手だが声は出るはずだ。問題ない。
「え。もしもし! 下々くん! 下々歳月くんだよね!?」
「おう」
「なに、らしくない返事してんのお前」
「たしかに、その通りだ。会話なんてどうでもいい。……伝えたいことがあって」
「なに」
「世界の終わりに、愛してるって言うのをだな。やってみたい」
「お前」
「俺はアンタのことを愛してる。幸せになってくれ」
「まあ悪くない」
「ああ。そうだろ」
「つまんないの。そんだけ? もっとなにか凄いハーピーサプライズを期待してた」
「痙攣発作で死にそうな俺になにを期待してるんだ」
「そんなことより、最近ハマってる漫画があるんだけど。チェンソーマンって知ってる? お前でも知ってるだろ?」
「知らない。それじゃあ」
電源を切った。後は、もう死んでも後悔はしない。死んだら、後悔なんてできないけど。全く。お前とはなんだ。何でもかんでも、他人にマウント取る癖は直らないらしい。わかってんだ。世の中、全部にせものだ。恋だって、脳の信号だ。こんな嫌いなものが増えた、世界を壊してくれたのはいいことだ。
世界滅亡ってのはあると思う。それもある。世の中全て、想像できることならなんでもある。
俺はただ、少しの間、気を失っていただけなんだ。
そして、現在、病室の白い天井を見つめている。いつか、こうなることは、わかっていた。だが、あまりにも早すぎる。身近な死を、自分のことのように思っていなかった。あまりにも、呆気ないな。
この時、人間の儚さを知った気になった。MRI検査でわかったのは、脳腫瘍だった。俺の父親も、四十代の頃、脳腫瘍で手術をしたらしい。どうでもいいか。左脳に丸いたん瘤があって恐ろしかった。良性の髄膜種というやつで、二、三ヶ月で増殖するものではないらしい。緊急性は低い。
それでも、いつかは、こういう病棟で。病室の白い天井を見ながら、残りの余生を過ごすことになるかもしれないことを思った。ああ、そうか。人間は誰しも死ぬんだな。そんな当たり前のことを、わかっていなかったのかもしれない。
人間はほとんど居なくなって、周りにあるものが飛躍的に進歩した科学ばかりになって、人工知能が全てやってくれる。そんな世界になって、やっと、心以外、全てにせものになれる。言葉以外、全てにせもの。
病床から見える窓から、空が見える。その青さが、最期にきっとわかる。
いずれ終わりが来る。
オスカー・ワイルドの評論『嘘の衰退』で『芸術が人生を模倣するよりも、人生が芸術を模倣する』という言葉がある。そこだけを切り取ってもしょうがないけど、俺達はうその人生を生きている。芸術至上主義が、全く。嫌になる。
どうせ生きていくなら自信を持て。
世の中全部うそだらけ。
ああ。夏の匂いがする。
俺の人生はにせものだ。上空祐奈というマウント女のことだって、どうせ興味もないだろう。人生最期に、彼女と話しができたのは、よかったけれど、それ以外は、空の青を見ながら、ヨルシカの曲をギターで弾いたりして、それだけでいいんだ。
喪失感。全て、許している。いいねは、自分にするものだろ。自分自身にな。
明日、全て終わるかもしれない。ああ、わかってんだよ。もうそろそろ、世界は終わる。滅亡するんだ。
それなら、これまで、ダメだったことが、ダメじゃなくなるんだ。ブラックだったことが、グレーになるんだ。わかってんだよ。そんなこと。
正解なんて、決められないよ。毎日、好きなことだけして生きていたいよ。嫌いなものが増えすぎたから。全てにせものだと思いたいから。仕方ないだろ。こんな生き方しかできないんだから。
病室で、窓から空を見ている。全てにせものだ。でも、その青さがわかる。俺にも、それがわかるんだ。お別れの、切なさもわかるんだ。その光景を一区切りとして、芸術と呼びたい。人生は、芸術を模倣する。別離のなんとも言えない感情を、芸術と呼びたい。
空の景色を、美しいと思えるのも、芸術のおかげだ。耽美主義なんだ。どうせ、生きてるだけで苦しいことが多いんだから。美しいものばかり見ていたい。
明日、死ぬ人もいるんだ。わかるか。久しぶりに連絡した、上空祐奈も、どうせ死ぬんだ。だからさ。俺は、美しいものだけを、見ていたいんだ。今のうちに。俺が、彼女のことをどう思っているかなんて、どうだっていいだろ。苦しいだけだ。そんなのどうだっていいんだ。
ギターを弾きたい。夜明けと蛍を弾きたい。嫌いなものが増え過ぎたから。美しいものだけを感じていたい。人がいない場所で、生きていることの不思議を感じていたい。
ああ。髄膜種の手術をして、後遺症は残るのだろうか。いや、いずれ、歳を重ねれば、病気になって、長生きするだけの身体になるんだ。それが長いか、短いかの違いだろ。わかってるんだ。
言葉以外がにせものになればいい。
夏の匂いがする。
⌘⌘⌘
手術は成功した。
初めて『他人には他人の痛みはわからない』ことを実感した日。
退院した。
辛い時期を過ごした。
海を見た。
父親がフルーツの盛り合わせを毎週買って来てくれた。
桜が美しかった。
青い空を見ていた。
風がこれほどまでに心地よいということを初めてわかった。
待っている。
彼女から、たまにLINEが入る。
ずっと待っている。
夏を待っている。
サヨナラだけを待っている。