ラーメン
阿久津の家は大学に近い。徒歩5分で着く距離にあるアパートで、数年前に建てられたから外観も部屋の中も綺麗だ。数人で鍋をしても余裕があるくらい部屋も広いし、過ごしやすい。そのアパートがある大きな坂を上り切った後に、ようやく家に着く。坂があるとないとでは気持ちも違う。帰りにこの坂で自転車を押して歩くことを思い浮かべて嫌になり、講義をサボったこともある。阿久津の家の前に着くと、押していた自転車に目をやる。すると阿久津がその様子を見てかなんなのか、話し始める。
「今日さ、時間もあるわけだし俺のレポートも終わったし、飯食いに行かね。」
「家着いてから言うなよ。そもそもまだレポート終わってないだろ。」
「だーかーら、あれはもう終わったようなもんだから。ね、いいじゃん行こうよ。」
「わかったよ、行こう。その代わりチャリ置かせて。」
阿久津のアパートにも駐輪場がある。あまり自転車を使う人はいないようで、せっかく広々しているのにがら空きだ。自転車を置いて、左肩にかけていたリュックに図書館からずっと付けていた片耳のイヤホンをしまう。図書館で阿久津に話しかけられたときに外したイヤホンはパンツのポケットに入れていた。それも取り出しケースの中にしまう。
「俺、この重たい本たちを置いてくるから、ちょい待ってて。」
そういうとアパートの階段を2段とばしながら上がっていく。少しして鍵を開けてドアを勢いよく開く音が聞こえた。自転車の鍵を閉めてスマホを取り出す。通知がいくつか来ていたが、やっぱりどれも迷惑メールだろう。何気なく開き確認しようとしたとき不在着信が来ているのに気が付く。この着信はもしかしたら、あの投稿主さんからかもしれない、と思い急いでその電話番号に掛けなおす。
プルルルル…プルルルル…
4コールくらいたった後に電話に出る音が聞こえた。
「もしもし、電話をいただいたものなのですが、」
「あ、何度も掛けてくれてたのに遅くなってしまってすみません。」
「いや、全然、こちらこそ気付かなくてすみません。」
少し沈黙が続く。確かにあのメールだけでやり取りしたわけだから気まずくもなる。
「早速なんですが、お会いできる時間とかってありますか。」
「いつでも大丈夫です。あ、でも今日はちょっと出ちゃってるんで、明日とか明後日とかなら、」
「そうなんですね。それじゃあ明日の3時にあの駅の改札前で待ち合わせでお願いします。」
「あ、はい、わかりました。じゃあ明日またお願いします。」
そういうと電話は静かに切れた。横にはとっくに阿久津が待っていたようで退屈そうにこちらを見ていた。そうはいっても内容はあまり聞こえなかったようだ。
「バイト先の人からの電話だったん」
「うん、そんなとこ。それより今日何食いたいの。」
「…コテコテのラーメン食いたい。」
「ほんとあそこのラーメン好きだな。よし、行くか。」
大学の近くにそこそこ美味しい家系ラーメン屋がある。なんて言う店だったか忘れたが、とことん胃もたれするくらいの溢れんばかりの量のラーメンが出てくる。だから阿久津はよく「とことん屋」という。基本、気が進まないし生半可な気持ちじゃ食えないぐらいの量なのに、それでも飽きずに狂ったようにとことん屋に通っていた時があった。とにかく吐きそうになるくらい麺を食べた。店員さんも昔からずっと経営してたご夫婦のようで、卵の追加とかスープを器ぎりぎりまで入れるとか、いろんなサービスをよくしてくれた。その後しばらく焼肉ブームが続き、別の店に行くことが多くなった。そこでようやくとことん屋通いを卒業したわけだが、時々再熱することがある。久々に言っても相変わらず優しいおじさんは卵を追加してくれる。
「休み中、実家には帰らないんだな。」
「まぁ、行ったところでお年玉もないし、なんなら俺が出さないといけなくなるからね。」
「確かに、せっかく入ったバイト代は自分に使いたいよな。」
すると阿久津はニヤッと笑った。
「そっかぁ、お前いないもんね、彼女。」
「うるさいわ、別に欲しくてできるもんでもないだろ。」
阿久津は誰にでも優しくて明るいから男女問わずモテる。先輩からも好かれるし、後輩からも慕われる。だから彼女ができない、という悩みが理解できないらしい。全く贅沢な悩みだ、と羨ましくまた妬ましくも思う。初めて会ったときにはもうすでに彼女がいた。あれからもう3年経とうとしているが、相変わらず彼女とは仲がいいしお互い大切にしあっているし、誰が見てもお似合いだと思うだろう。でも、彼と一緒に過ごしているうちに、彼はとにかくいろんな人の様子を見て、空気を読んで行動して、沢山の努力をしていることを知った。彼女のこともそうだ。記念日だの、プレゼントだの、旅行だの、そこまでしないといけないのかとこちらが億劫になるほど彼女のことを考えて日々動いている。そんな様子を見ていると、きっと人一倍ストレスを溜めているだろうなと思う。だから、せめて男同士、二人でいるときくらいは、力を抜いてくれればいいと思う。だが、まだ一回も本気の愚痴や彼の弱みを一切聞いたことがない。そう、彼は不思議なほど完璧すぎるのだ。だからこそ余計何か裏があるんじゃないか、と時たま現れる彼の違和感の正体を探りたくなる瞬間がある。
とことん屋に着くと阿久津は上着のポケットに入れてた手を出してスライドのドアを開けた。暖簾の隙間から温かい光が差し込み、あのこてこてのラーメンの匂いがする。胃もたれするのがわかる匂いだ。吐きそうなくらいお腹が膨れるのが容易に想像つく。だが、なんだかんだ言ってやっばりここのラーメンは美味いのだ。
いつもの席の椅子の背もたれに着ていたダウンをかけていると、おばさんがお冷とおしぼりを持ってきてくれた。いつもので、と注文すると卵追加しとくね、と当たり前かのようにサービスしてくれた。この後えげつない量のラーメンを持ってくるようには到底見えないくらい、おばさんの笑顔は優しく柔らかい。お冷を二口くらい飲むと阿久津は話し始めた。
「最近、なんか悩みあるんだろ。」
「え、何急に。」
突然の問いに驚き、つい固まってしまった。
「…別にそんなこと一言も言ってないだろ。」
「でも、なんかあったんだろ。なんかあったらいつでも話聞くって毎回言ってんじゃん。」
阿久津の眼は真っ直ぐこちらを見つめている。
「いや、そうかもしれないけどさ、話したところで解決する話じゃないからいいって。大丈夫だよ。」
「そんなの分からなくね。話したら案外、あっさり解決するかもしれないよ。」
「そんなことは絶対にないから。…そんなことより彼女とはどうなんだよ。上手くいってんのか。」
話を反らそうとしたが、珍しく阿久津は突っ込んできた。
「俺の話よりお前の話しにきたんだよ。一人じゃ抱えきれない大事な話なんだろ。」
「なんでそんな言ってくるんだよ。そんなこと言ったら阿久津だって、話してないことあるじゃん。」
不意を突かれたのか、彼は大きく目を見開いた。自分に番が回ってくるのは想定外だったらしい。おばさんが大盛りラーメンを持ってきてくれたがそれどころではなかった。おばさんもそんな空気を感じ取ったのか、何も言わずラーメンを置いていく。
「…俺がこのことを話したら、お前も話すのか。」
「内容によるよそんなん。まぁ考えるけど。」
そして阿久津は俯き気味に小さな声で一言言い放つ。
「…俺がもし、何十年も生きてるって言ったら、信じるか。」
「え。」
「俺がもし、死ねない体なんだって言ったら、お前は信じるかって聞いてんだよ。」
その瞬間に今まで感じていた阿久津の不思議な雰囲気の正体がわかったような気がして、今までにない寒気を感じた。