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「失礼します」
椋とゲタ箱で一旦別れ、教室ではなく保健室に向かう。朱乃は遠慮したが消毒だけでもと説得――なかば強引に引っぱってつれてきたのだ。
「おはよう、いらっしゃい。……ってなんだ、北条か」
営業用のスマイルが振り返って生徒を確認するや一転退屈そうな顔をする。
「おはようございます、土方先生。でも『なんだ』ってひどくありません?」
口ではそういうが特に気分を害した様子はない。
「ああ、悪かったね。昨日は夢見がよかったから美少年でも朝一番に来たのかと思って」
「意外です、土方先生は美少年好みだったんですか?」
「観賞用にはもってこいだろ」
と言って笑う。
明るい茶色の髪を器用に結い上げた髪に薄い化粧ではあるが、十分に大人の女性のメイクをほどこしている。フレームレスの眼鏡と身にまとった白衣はともすれば愛想のない恰好だが気さくでやわらかな雰囲気のせいか威圧感というものは皆無。
頼れるお姉さんとして男女ともに人気のある校医である。
「まぁ先生の趣味に私はとやかく言いませんけどね、鑑賞するくらいなら特に犯罪でもないですから」
ひかりが高校一年の時、保健委員として校医の土方に出会った。互いに人前で猫をかぶる癖がある二人はどことなく波長があったのか、互いに軽口をたたけるくらいの親しさになるのに時間はかからなかった。
「で? 朝からどうした? お湯まだ沸かしてないからお茶は出してやらないよ」
学年が変わりクラス委員に指名され、会う機会が減った今でもそれは変わらない。用がなくとも暇を見て会いに行き、お茶をごちそうになっている。
「人聞きの悪い。お客さんですよ」
ひかりは後ろの朱乃を前に押し出す。
「ん? ああ如月か」
「おはようございます」
「どうした?」
「え、ええっと……」
「――――?」
普段人見知りしない朱乃がどこか遠慮しがちな様子をおかしいと思いつつ代弁する。
「転んで膝をすりむいちゃったんです。消毒をと思いまして」
「ん? ああ、なるほどね」
朱乃の膝の血ににじんだ絆創膏に気がつき頷く。
「はいよ、じゃあ座って……」
「はい」
朱乃が座ろうとするとひかりはまるで助手のように慣れた手つきで消毒薬と新しい絆創膏を用意する。土方は絆創膏を丁寧にはがし、脱脂綿で汚れを丁寧に取る。
「…………」
消毒薬を受け取りつける際に傷口を神妙な顔で見る。
「……転んだ……のね?」
「はい」
「ホントに?」
「ええ。……それにいくらなんでもまだ早いでしょう?」
「そうだな。それにお前がケガするならもっとひどくないとおかしいか」
「そうですね」
妙な間で二人にしか分からない会話をする。
「いったい何のことです?」
消毒が終わって差し出す手に絆創膏を置きながら聞いてみる。
『――――エッ!』
いることがわかっているはずなのに完全にその存在を忘れていた、そんな表情で二人はひかりを見る。
「え、えっと……ねぇ先生!」
「そ、そうよね、……如月さん!」
顔を見合わせ、とっさのアイコンタクトで乗り切ろうとする。
だがお世辞にも成功するとは思えないほどの狼狽ぶりにひかりはどう対応するのがいいかとこめかみを押さえながら考え、折れることにした。
「あ~はいはい。わかりました」
大きくため息をつき、二人を見る。
「秘密のお話なんですね? そういうことなら別にいいですよ。話せないことを無理に聞く趣味ありませんから」
その言葉に一瞬安堵の表情を浮かべるものの、すぐに不安げな瞳で見返す。
「本当よ。秘密にされたからって根に持たないから。でも……」
ひかりはにっこりと笑いながら、
「立場が逆になったときに私の秘密を暴こうとしないでね」
「――うん!」
朱乃は顔を明るく輝かせる。
「さすが北条、心が広いねぇ。私が見込んだだけはあるよ」
「いい女には秘密の一つや二つあるもんだ、と教わりましたよ、土方先生から」
ホッとした表情を浮かべる土方に軽口を叩くことで気にしていないことをアピールする。
気にならないというと嘘になる。
だが自分がむやみに詮索されることを好ましく思わない以上、自分が詮索するのはポリシーに反する。冷たいと思われるかも知れないがそれがひかりの生きかたなのだ。
「学校にちゃんと来てるのにホームルームに間に合わず遅刻ってのもみっともないですから手早くすませましょうよ」
「ああ、そうしよう」
「おねがいします」
話題を振った本人から終了宣言に異を唱えるはずもなく、治療を再開した。
「――――?」
治療後、保健室から教室に向かう途中に出会った少年にひかりは目を疑う。
まったく見覚えがないが三年生の下駄箱から出てきたことから上級生だと判断した。
彼の外見的に特にどうこうというわけではない。
一見細身に見える身体だが華奢という印象は皆無。夏服からのぞく腕を見る限り相当引き締まっている印象をうける。それもたくましいではなくむしろ鋭いというところだが。
一本一本にまるで強固な意志でもあるかのような直毛な黒髪はどこか野生の動物を連想させた。
「ひかりちゃん、……どうしたの?」
「あ、うん。……!」
その少年と一瞬だけ目が合う。
鋭い、いや、鋭すぎる眼光を秘めた双眸が自分を確かに睨みつけた。
同年代とも思えない威圧感にひかりはえもいわれぬ恐怖を感じる。
「――――」
少年は一言も発せず、背を向け教室に向かって行った。
「……ひかり、ちゃん?」
「え、ううん、なんでもないよ。行こう、朱ちゃん」
「う、うん」
ひかりは朱乃の手を取り引っぱるように歩き出す。
(そう何でもない。あるはずがない。何かの見間違えに決まってる)
彼の背後に黄色がかったモヤ――まるでアニメの気とかオーラとかの効果のようなもの――が見えたなんて目の錯覚に違いない。
そうひかりは自分を納得させた。