後日談 ちょっとだけ、王宮メイドに戻りそう。
「アーニャ、あなたを少しの間、王宮メイドとして雇いたいのですが」
「はひ?」
秋の暖かい日差しが台所の小窓から入ってきて、旦那さまの金茶の髪をきらきらと輝かせている。
きれいだなぁ、なんてぽんやりと見ていたら、薄紫色の瞳を静かにこちらに向けて、アーニャの夫であるベネット・パッカーは言った。
アーニャはりんご色の目を見開き、まさか……と卵を割ろうとしていた手が止まってしまう。
「で、出戻りメイドですか?! いやですっ」
「そんなことさせますか、あなたは私の奥さんなのですよ? 臨時メイドとして雇いたいという事です」
出戻りメイドとは、一旦辞めたものの、何かしらの個人的事情で再び王宮へ戻り働き始めるメイドの事だ。
結婚と共に辞めていくことが多いメイドの中で、出戻ってくる理由はアーニャでさえもうっすらと思い当たる。
そういう時は何も言わずに、よく戻って来てくれたと温かく迎えるんだよ、とメイド仲間のディアナが言っていたのを思い出して手が震えてしまった。
「アーニャ、手元をおろそかにしない。そのまま割るとまな板に卵が乗りますよ」
「は、はい、ベネットさん」
ベネットは紅茶の湯沸かしを待ちながら、アーニャは隣でスクラブルエッグのタネを作りながら話していたのだが、驚きの申し出に手元がくるってしまった。
しかもあわてて卵を割ったので、小さな殻がボールに入ってしまう。
「あああ、やっちゃったっ、フォーク、フォークっ」
「フォークだと殻がすり抜けて取れませんよ。スプーンですくった方が早い」
ベネットはさっと水で洗ったスプーンを使って逃げる殻を器用にすくってくれた。
「あああ、ありがとうございます、ベネットさん」
「どういたしまして。でも、まさかと思いますが、私がいない時に殻付きエッグを食べてはいないでしょうね?」
「い、いいえ、最近はそんなことないです、ちゃんとやってますっ! さっきは、ベネットさんがびっくりすることを言うから」
一瞬キラリと光ったであろう切れ長の瞳を見ないように、アーニャはぶんぶんと首を横にふって卵をかちゃかちゃと混ぜた。
家ではあまりメガネをかけない旦那さまが、今どんな顔をしているのか想像がつく。
どうしよう、見透かされてるパターンよね。ベネットさんに追求されたら、本当は昨日も殻を入れちゃったのがバレちゃう。
でもその後に聞こえてきたのは悩ましげなめ息だった。
呆れられたのかと心配になって見上げると、ボールを貸してくれますか? と夫は柔らかくたずねてくれた。
あ、はい、とアーニャが素直に渡すと、ベネットはさっとフォークで卵をつぶしてかき混ぜながらとき卵をつくり、ひとつまみの塩、コショウを入れた。
オリーブオイルをフライパンに敷いて手早く卵焼きを作っていくのをじっと見ていると、アーニャ、お皿を用意してくださいと指示が出たので、はいっ、とあわてて食器棚から二人分の平皿を出す。
アーニャが作ろうとしていた簡単なスクランブルエッグは、きれいな黄金色の卵焼きに変わっていた。
「本当は見るより慣れろ、ですけれどね」
ベネットはフライパンをずらしながら卵焼きを器用にまな板にのせると、冷ましている間にベーコンをスライスして空になったフライパンにふたたび敷いていく。
「でも私が作っていると、いつもベネットさんが代わりに作ってくれますよね」
じゅうじゅうといい音を立てて縮まっていくベーコンを見ながらアーニャが応えると、ベネットはトングでベーコンをひっくり返しながら、はぁ、とまたあの悩ましいため息をついた。
「仕事場では我慢していましたが、本来の私はこういう性分なのです。あなたはただ座って朝食が出てくるのを待っていてくれたらいいと今でも思っているのですよ?」
「そんなのダメダメな奥さんになっちゃう。それは嫌です」
「つれないですね」
「そういう事じゃないと思いますっ」
ベネットと結婚して王宮メイドをやめたアーニャだが、二人で一緒に暮らし始めて驚いたことが、夫の溺愛ぶりだ。
上司だった時の事を思うと、手のひらを返したようにアーニャを下にも置かない世話焼きっぷり。
こちらの方でまったをかけないと、何もできない人になってしまいそうな恐ろしさ。
一緒にいるときのベネットはアーニャに甘すぎる。それに囚われてはいけないと、普段から自分に言い聞かせているのだ。
だってベネットさんは、いつも一緒にいてくれる訳ではないのだから。
「……そんなこと言うんだったら」
「アーニャ?」
はっと口に手を当てて止めた。
いけない。
いっちゃいけない言葉が出ちゃう。
「あっ! わたし、最近咲いたお花をベネットさんに見てもらおうと思ってたんです。ちょっと摘んできますね、お湯沸いたみたい、すみませんが紅茶をお願いしますっ」
それだけ早口にいうとぱたぱたと勝手口のドアを開けて、中庭にある小さな花壇へ走った。
毎日お水をやっているアーニャの小さな花壇には、今朝は白地にうす紫色のシェリンクという花が咲いていた。
全体を見ると白い花なのだけど、花弁の縁と花が開くと中心がうす紫色に染まっているすっきりとした小さな花。
アーニャはしゃがみ込みこんで、ひやりと肌をかすめる秋風に腕をさすりながら話しかける。
「一緒にいられるだけで大丈夫ですって、この間いったばかりじゃない。ね、聞いてたよね?」
ベネットとあまり会話ができない時、夫の瞳の色に似ているこの花にいつも慰めてもらっていた。
先月からベネットは、毎日家に戻ってきてくれるが、朝早く出てアーニャが寝入る頃に帰ってくる。
王妹殿下が隣国に嫁ぐことが決まり、婚約者である第二王子が親善を兼ねた顔合わせに来訪する事が決まってから、連日そんな感じなのだ。
ベネットは王宮で働く執事やメイドを束ねる侍従筆頭なので、こういった大きな行事がある時にはどうしても休みが不定期になる。
一緒に働いていたから分かる。
お仕事が大変なときだって、分かってる。
「心配かけないように笑顔でいようって、ここで誓ったじゃない……しっかりして、アーニャ」
「そんな事だろうと思いましたよ」
ふわりと肩に暖かいショールが巻かれたかと思うと、ベネットはしゃがんだアーニャを子供のように抱き上げた。
「ベネットさん……」
「さぁ、嘘つきさんにはどんなペナルティがいいですか? 一、朝ご飯を食べさせてもらう。二、今日は一日キスを拒まない。三、臨時メイドを受けて休憩時間に私と一緒にいる」
「それペナルティじゃないです……」
「おや、もっとですか? では、四、手がふさがっているのであなたからキスすること。五、抱きしめてくれてもいいですよ。六、寂しかったらちゃんと言うこと」
ベネットは軽く片方の眉をあげると、柔らかく笑いながらつらつらと続けるので、アーニャはストップ、ベネットさんっと夫の口に手を当てた。
「……っ」
なんとか普段どおりに応えようと思うのだが、言葉にならない。
こみ上げる想いが抑えられなくて、ベネットの首筋に顔を埋めた。
ぽんぽん、と黙って頭を撫でてくれる手が優しくて、少しだけ鼻をすする。
アーニャは、小さく小さく、寂しかったです、と告げた。
「私もですよ、いや、むしろ私が、だな」
ふわりと頭にキスをされて、頬から耳たぶの方にするりと手が入ってきた。
うながされて顔を上げると、こつんと額が合わさる。
間近なベネットの存在に耐えられなくて、アーニャはとても目を上げていられなかった。
「あなたは、いつまでたっても慣れないですね」
「だってっ……」
メガネを取ったベネットは涼やかな目元がゆるんで、愛おしそうにこちらを見てくるのだ。
見つめあうだなんて、そんなことできない。きれいな薄紫の瞳の中に自分の真っ赤な顔が写り込んでしまう。そんなの、恥ずかしくてみていられない。
しかも少し泣きそうだから、さらにひどい顔になっているはずだ。
アーニャがふるりと震えていると、頭の上でくすりと笑った気配がした。
「あなたにとっては見せたくない顔でも、私にとっては食べてしまいたいほどですが」
「ベネットさん……っ」
こぼれ落ちそうだった目元の涙を薄い唇に吸われて、ひゃあとますますうつむいた。
「栗色の髪の毛から覗く赤い耳たぶも美味しそうだし」
「やめっ、ひゃあ!」
「そうやって白い首筋をさらしてしまう無防備さに、私はいつも理性と戦っているのですが」
「だめです、くすぐったいからっ、だめ……ひゃん!」
「そう、だめですね。いつもあなたに負けてしまいます」
満足そうに頷いた旦那さまに、ひどいですっと腕をつっぱって身体を離そうとすると、これでも我慢しているのですよ? と覗き込まれた。
「口づけをしたら止まりませんから。紅茶の湯が沸きました、朝食を食べましょう。その時に臨時メイドの詳細を説明します」
「でも、私、久しぶりだしできるかどうか……」
「大丈夫です。出来なければ教育し直しますから」
「はひっ! そ、それは」
「嫌ですか? マンツーマンで指導できる絶好の機会なのですが」
「こ、こわくないですか?」
「怖くしてほしいならそのようにしますが?」
「いえ! あの、ふ、普通に!! 普通にご指導をお願いいたしますっ!」
「分かりました。では、そのように」
空気をも凍らせる夫の鬼教官ぶりを思い出してアーニャは思いっきり首を横にふると、ベネットは残念ですね、と肩をすくめた。
でも、と妻の乱れた前髪を愛おしそうになおしながら、あなたと一緒にいる時間が増えるのがとても嬉しいのですよ? と蕩けそうな眼で微笑むので、アーニャはますます顔を赤らめながら夫にだけ聞こえる声で、わたしもです、とささやいた。
なぜか大股でリビングに戻ったベネットに、説明もそっちのけで朝食を食べさせられたアーニャ。
午前中に予定していたお買い物は午後に変更を余儀なくされ、へろへろになった休日の数日後、お世話になっている小間物屋さんのバード店長にしばらくお暇する旨を告げてアーニャは臨時の王宮メイドに復帰するのだが。
一日に一回は職場の片隅にて、ひどいですっ、と上司の肩をぽかぽか叩く羽目になり、家に帰ったら帰ったで疲れて抵抗できず、すこぶる機嫌の良い夫に甲斐甲斐しく世話を焼かれる事となるのであった。