後日談 おっちょこ元メイドとメガネ執事
「アーニャ、起きなさい、アーニャ」
むにゃむにゃあと五分、と言っているアーニャの頬をむに、とつまむ手が優しい。
「アーニャ、起きないと酷いですよ?」
ヒドい? ヒドいって何?
なんだっけ、えーっと……
そんな事を思っている間にするりと夫の手が耳をくすぐったかと思うと、ぐいっと襟足に絡んで顎を少しだけ上に上げさせられた。
「?! っむーーー!」
目も開かない内に口を塞がれてすぐに貪られる。ドンドンと肩を叩くのだが、その手もいつの間にか取られらてベッドに縫いつけられてしまった。
やっと解放されて涙目でヒドイですっと言うと、サラサラの金茶の髪を垂らしながらラベンダーの瞳が緩く微笑んでいる。
「起きないと酷い、と言いましたが?」
朝から色気が半端ないこの夫の魔の手から逃れる為に、起きます! もう起きました! と訴えると、残念ですね、とゆっくり身体を起こしつつアーニャも一緒に手を添えて起こしてくれる。
ひとまず身体を起こしてそれでもまだベッドの上でぽんやりしているアーニャに、夫であるベネットはそちらに朝食を持って行きましょうか? と声をかけた。
その声にアーニャは慌てて、いいです、いいです、すぐに支度します! とバサッと掛布をはいでベッドから這い出た。と同時に下にずり落ちていた掛布に足を取られて。
「また。慌てたらいけないといつも言っているのに」
「すみません……」
まるで転ぶのが前提のように、体勢を崩したアーニャをベネットはさっと支える。
「ペナルティー 一」
「な、なんで?!」
「あなたからキスする事」
「べべつにこれはわざとやった訳ではっ」
「それにしたとしても転ぶ回数が多い。あなたが自覚して直してくれないと。いつも一緒に起こしてあげられるとも限りませんから」
ベネットはメイドと執事を束ねる侍従筆頭なので、アーニャより早く出るのが常だ。ベネットの休日でないと一緒に朝食も食べられない。
アーニャは結婚してメイドの仕事を辞め、城下町の洋品店で午前中だけ小物を売る店番をしている。
アーニャは相手に合う色味を見るセンスが良く、結婚後、少しだけ働きたいけれどどうしようか迷っていたアーニャに、ベネットが求人が出ていたと教えてくれたのだ。
そのお店はメイドの時のように時間に追われる事もなく、少しずつ慣れてくると、服や小物も店長と相談しながら配置をさせてもらえたりして、アーニャにとっては理想的な働き口だ。おっとりとしたバード店長の人柄もアーニャは大好きだった。
「アーニャ」
「はひ……」
今だ腰に手を回されて解放してくれそうにない夫に、アーニャはもじもじしながらうつむく。
このベネットのだだもれの色気にアーニャはいつも恥ずかしくなってしまう。
付き合う前は、オールバックに眼鏡をかけてビシッとしている時しか知らなかったが、オフの時のベネットの変わりようにアーニャは度肝を抜かれたのだ。
色気はだだもれ、アーニャを下にも置かない甘やかしっぷり、あれもこれもアーニャが言わない前に何もかもが用意されている感じに、嬉しいような困るような……。
お付き合いが始まってベネットの甘やかしに気付いてからは、アーニャは自分で気を引きしめてなるべくベネットの手をわずらわせない様に気を付けている、つもり、なのだが。
「アーニャ」
何故かいつも気がつけばこの甘い柔らかな声の人の腕の中に入っていて、何故かいつもアーニャが恥ずかしいと思う事をさせられている気がする。
今もそう。
こんな改まってキス。
自分からなんて……恥ずかしい。
恋人の期間も短くて、あっという間に結婚式を上げて新婚になったアーニャは、まだ、何というか、蜜月も慣れていなければ、恋人同士なら当たり前な普段の触れ合いも、まだ、慣れない。
だんだんと恥ずかしい気持ちが上がってきて、どんどん顔も赤らんで、逃げたくてもぞっと身じろぎをしたら、ぐいっと手を取られて指をかじられた。
「ひゃあ! ベネットさん!!」
「もうさん付けはいらないと何度いったらわかるのですかねぇ」
「だって」
どうしようもなく顔を赤らめながらもじもじするアーニャを愛おしそうに見るベネットに、アーニャはいつもどうしたらいいか分からなくなってしまう。
「ペナルティーに、あなたから好きだと言ってキスする事」
「ふ、ふえぇ」
アーニャはふるふると首を振った。
****
りんごの紅玉のような目を潤ませながら、そんなの無理、と訴えてくる可愛い嫁に、夫はまた指を甘噛みしながらゆっくりと笑う。
甘噛みしても恥じらう、言葉で攻めても恥じらう、この新妻は自分の仕草がどれほど夫の心をくすぐっているのかまったく分かっていない。
それに、全てを急いで進めてしまったがゆえにベネットはアーニャから愛を告げられた事がほとんど無かった。
もちろん気持ちが無い訳はなく、顔を見ればベネットを愛してくれている事は明白なのだが、常に先回りしてしまうベネットの行動がアーニャの言葉をつんでしまう。
それに気付いたベネットは、事あるごとにこうしてアーニャを絡めとりながら誘導する。新妻の恥じらいを楽しみながら。
「余り焦らされるとペナルティーが増えるのですが?」
「じらしてないです! ……は、恥ずかしいんです……」
「なぜ?」
「だって」
誰も居ない、二人だけの部屋での事なのにアーニャは恥じらう。特に明るい内に攻めるとだめなのはもう結婚前の逢瀬で学んでいた。
恥じらい、見ないでと顔を隠す仕草が少しずつ緩んで行くのを眺めながら攻めるのが、ベネットの楽しみであった。
夫が攻め、妻は恥じらう。今日もまたそうなるだろうとふんで、そろそろ降参か? とこちらからキスをして終いにしようとすると、アーニャはふるふると震え、かがんで下さい、と蚊の鳴くような声で言った。
「え?」
「っかがんで下さい!」
「あ、はい」
突然大きくなった声に思わずかがむと、細いながらも柔らかい腕が首に絡んだ。
ふわりと甘やかな香りと共にブラウンの髪が頬をくすぐる、と、
「……大好きです……だんなさま……」
細く消え去りそうな声が耳をかすめたかと思うと、そっと頬に唇が触れた。
ベネットは思わず頬に手をやると、新妻はするりと腕から抜け出して、逃げるように支度部屋の中へ入ってしまった。
ベネットは呆然とたたずむ。
いまだかつてこんな可愛らしい告白をされた事はなかった。
もう妻なのに、あんな事もこんな事も済んでいるのに、この新妻は何故これほどまでに可愛らしいのか。
どうして、くれようか。
全てを整え、ベネットの思うとおりに誘導しても、新妻は夫の斜め上の行動をして驚かせる。こんなに自分を振り回す人など居ない。
可愛らしくて可愛らしくて
また、鳴かせたくなる。
小春日の休日の朝、支度部屋から出てきた新妻はまたすぐに夫に捕らえられてしまった。
用意したバゲットが再度軽く炙られて、入れ直したティーと共にベッドのサイドテーブルに置かれた時、夫は嬉しそうに、ブランチになってしまいましたね、と呟いた。
妻はくったりと枕に顔をうずめて、
ヒドいです……と一言だけ、呟いた。
すみません。。。
なんだか後日談、出てきてしまった。
おまけです。召し上がれ。