メガネ執事 3
翌朝、ベネットは従業員食堂に一列に並び始めた執事とメイドの顔ぶれをいつもと同じように確認すると、ある二人がまだ来ていないのに直ぐに気付いた。
あれほど念を押したのに彼女はまた寝坊したようだ、点呼五分前になっても姿を現さない。三分前でやっと彼女と同室のディアナが到着。ベネットはゆらりと脚を組んで座っていた席を立つと、側にいる同僚に、後、お願いします、と一言だけ言い置いて従業員食堂を後にする。
従業員食堂の廊下を出て左の角を曲がると向こうから必死の形相で前を見ず足早に歩いてくる愛しい人が見える。
ベネットはカチャと眼鏡を中指で押し上げた。
「おはようございます、アーニャさん」
「は、はひ! あ……」
目の前に来てやっとこちらに気付く彼女は、いつもの様にびくり、とした後、パッと顔を染めてうつむいた。
ベネットはその反応に口元が緩むのを抑えきれず、またカチャ、と眼鏡を上げてごまかす。
「おはようございます、アーニャさん、と私は言いました」
「は、はい、おはようございます、ベネットさん」
さっと顔を上げて挨拶をするのだが、目が合うとまたパッとうつむいてしまう。胸の前で手を組んでもじもじしている姿が非常に可愛いのだが、どうしてくれようか、とベネットは思いながらもじもじと動いている手を凝視する。
新しい刺繍穴はないようだ
彼女はベネットの言いつけ通り、あの後、刺繍を刺してはいないようだ。しかし今日も遅刻、そしてベネットを見ての反応。
ベネットはまた口元が緩みそうになり、カチャカチャと二度眼鏡を上げる。
「今はもう三分は過ぎてしまいましたか。あれから刺繍はやっていないと見受けましたが?」
「は、はい。やっていません」
「遅刻しないという約束でしたが?」
「はい……すみません」
しゅん、とわんこならば尻尾がしゅるんと垂れたであろう雰囲気をかもし出すアーニャの頭を、ぐりぐりと撫でまわしたい気持ちに蓋をしてぎゅい、と自分の拳を握る。
「あなたの朝食の時間をさいて、というのは昨日も話しましたね。昨日と同様に。ペナルティーとして今日は給仕はやめて一日掃除をする事」
「そ、そんな……!」
「返事は?」
「はい……ベネットさん」
ベネットさんのせいなのに、とでも言うようなうるんだ上目遣いに、どきゅんと胸を貫かれながらもベネットは必死で体面を保つ。
とにかく早く食堂へ、と告げ、先に歩かすと、ベネットは危なかった、と自分は厨房へと向かう。
怒号が飛び交う、厨房に入ると、ベネットを見た細身のコック長がさっとサンドウィッチを二皿出してくれる。
「いつもすみません、コック長」
ベネットが頭を下げると、
嬢ちゃんがいつもの時間に厨房の前を通ったからな、とぼそっと言った。
「明日は多分大丈夫だと思いますが」
「気にするな、あんたの説教の時間も見越して作っている。余裕を持って嬢ちゃんが歩いていたら作らねぇよ」
コック長のアーニャに対する細やか配慮に、ありがとうございます、ときっちりと頭を下げてトレイを二つ持っていく。
食堂に戻り昨日と同様に食べながら彼女のスケジュールを口頭で伝え、紙も見せながら彼女の脳内に覚えさせていく。
哀れみの視線が集中する中、彼女の同室であるディアナだけはニマニマとこちらと彼女を見ている。
正直そのニマニマ顔は気に入らないが、アーニャの事を口は悪いがかなりフォローしているディアナを敵に回すのは得策では無い。
ちらりとディアナを見て、余り余計な事は、と視線を送ると、にんまりと笑って任せなさいと言わんばかりに男らしく?整った胸を一つ拳で叩く仕草をしたので、軽く会釈をしておいた。
****
今日、彼女に与えた仕事は中庭の掃き掃除だ。中庭と言っても王宮の庭は果てし無く広く、一日で出来る仕事ではない。
余り無理せずに出来るだけでいい、と言い置いて他のメイドや執事達の仕事の見回り、また彼女の所へ戻ってしまう。
最初に王宮に来た時はあまりの行動の遅さにここで勤まるのかとイライラとしながら見ていたのに、仕事は遅いがきっちりと丁寧にしている事、人柄としては申し分ない事、気持ちに余裕がある時は、他人に気付かれないくらいの絶妙なフォローをしている事に気付く。そしてそれをひけらかさない。
さらにはもっと早く仕事をやろうと自分に言い聞かせているのか、空回りしてちょいちょい色々とハプニングをやらかしている。それに気付いてフォローし出したら俄然彼女が面白く、そして愛らしく思うようになった。
いまも一心不乱に紅や黄色の枯葉を竹ぼうきで集めている。風はなく秋晴れ、気温は下がっているにもかかわらず少し広いおでこに汗が光っている。ブラウンのまとめた前髪も左右に垂れてきていて、ボサボサになっていた。
「アーニャさん」
「はひ?!」
こちらがしばらく見ていた事など全く気付いていなかったのだろう。顔を上げてびっくりしている。
「アーニャさん、昼食の時間を過ぎましたよ」
「え? もう?」
慌ててエプロンのポケットから小さな懐中時計を出して見ているアーニャに、一先ず片付けてこちらに、と中庭の隅にあるベンチに誘導した。
アーニャを座らせてコック長にまた願って作ってもらったランチボックスを開ける前に、ベネットは苦笑してアーニャの髪の毛に付いた赤茶色の木の葉を取る。
「どれだけ夢中になっているのやら」
「す、すみません」
「謝る事ではないですが。夢中になると周りが見えなくなるのはどうかと思いますけれどね、気が気じゃない」
「え?」
「いえ、こちらの話」
ランチボックスを渡して、二人並んで食べ始める。お腹が空いていたのか、いただきます、と言ってものの十五分でもきゅもきゅと食べていってしまう様子は、子リスのようにも見える。
食べ終えたのと同じタイミングでポットカバーで熱を逃さないでおいたティーポットから紅茶を注いでティーカップを渡した。
「あ、ありがとうございます」
「いえ」
まさか上司から給仕してもらうとは思っても見なかったのだろう。目を白黒とさせて、アーニャはティーカップを受け取った。
続いて自分の分も入れて口をつける。
外で飲む温かい紅茶は胃に染み渡るように入っていき、ベネットも少しだけ口元が緩む。
「あ、あの!」
「はい?」
飲み終えたティーカップを置いてアーニャの方を見るとアーニャはうつむきながらもじもじしていた。自分から話しかけて来たにもかかわらず中々話し出せない、といった風だ。
「何か?」
「えっと……」
ぱっと顔を上げてまたぱっとうつむく。そして意を決したように前掛けのエプロンを握りしめると、ぎゅっと目をつむって言った。
「あの! べべべべベネットさんは最近というか昨日から親切なのですが、あの、何か、私に対して、あるのでしょうか……」
最後は尻切れとんぼのように声を小さくして身体も縮こまってしまったアーニャを見て、ベネットはああ、とメガネをカシャと掛け直した。
ベネットの好意に気付きながらも確信が持てなかったのだろう。
まあ、それはそうだな、とベネットも思った。好意は持っていたが、それを見せてはいなかったからだ。だがそれも昨日で方向転換をした。もちろん理由有りだ。
「そうですね、あなたに対しての好意を前面に出すようにしました」
「こ、こうい?!」
「つまりは好きだ、という事です」
あんぐりと口を開けたアーニャに、ベネットはふっと笑ってメガネを外し、内ポケットに入れる。もしかしたら、とは思ったかも知れないが、本当に好意があるとは思っていなかったその頬に手をかける。
「べべべべベネットさんっ」
「返事を頂きたいのですが」
少し引いたアーニャの腰をぐいっと引き寄せる。至近距離で見つめるアーニャの瞳は紅玉のようにきらめいて美しい。赤く染まっている薄いそばかすも、ぷるんと薄いのに弾力がありそうな唇も、早く食べてしまいたい。
「アーニャさん」
「はひ!」
「承知しました」
「あ!ちがっ、そういう意味じゃ」
「では、どういった意味です?」
腰もがっちりガードして滑らかな頬も捕らえている。もう逃げ場は無いのに他に何がある?
「ししし仕事の時間に!」
「まだ休憩時間です」
「だだ誰かに見られたら!」
「大丈夫、ここはどこからも見えない位置だから」
「ここここんな昼間に!」
「……夜に? キスだけで済まなくてもいいのなら承りますが」
ふるふるふると涙目で首を細かく振ったアーニャに、ベネットはゆっくりと微笑む。
「では、いいですね」
「まだなにも言ってなっ……んーー! んむーーー!! ……っ……ぅ……んっ……」
あなたの言葉は必要ない。
顔を見れば分かる。
これ以上待たされればもっと酷いというのに……可愛い人だ。
さり気なく息の合間に耳たぶをくすぐると、アーニャは可愛い声で鳴いた。
その声にベネットは苦笑する。
不味い、癖になる。
ベネットはゆっくりと最後に唇を甘噛みしてアーニャを解放した。
呆然とぽんやりとしているアーニャを見て満足し、眼鏡をかける。
「アーニャさん」
「は、ひ……」
「アーニャさん、返事ははいです」
声音を冷たくしたつもりだが、まだ甘かったのか、アーニャがとろりとした顔でこちらを見る。
ベネットは苦笑しながら破顔した。
仕方がないですね。
お昼の休憩時間はあと五分。
ベネットは眼鏡をつけたまま、アーニャにもう一度応じてみせた。
問答無用で唇を奪えば、後はこちらのものだという算段はあった。自慢じゃないが自分がキスをして落ちなかった女性はいない。
ただこちらから落としたいと思ったのはアーニャが初めてであった。
ゆっくりと角度を変えて何度もむさぼる。
もうアーニャが他の誰かにぽんやりとしないように自分の存在を刻む。近衛隊の騎士なんざ何処にでもいる。この間のようにうっかりぶつかって惚れられでもしたら目も当てられない。
あれだけの事でぽんやりしたアーニャにベネットがどれだけ戦慄したのかアーニャは知るはずもないだろう。
恋をした事もないアーニャをゆっくりと攻略するつもりだった。アーニャに合わせてゆっくりと、進めていくつもりだったのだ。
だがしかし。
ベネットが方向転換したのは、自分がただ憧れをもってぽんやりと見ただけの行為からだったとは、アーニャは一生知らずに収まるところに収まるのである。