おっちょこちょい 2
午前中の仕事を終え、午後からは城内の清掃を順番にやっていく。今日のアーニャの担当場所は城内二階の廊下の掃除だ。ハタキで窓や自分の背丈の二倍はある銅像を脚立を使ってホコリをはらい、落ちたホコリを集めて取ってからモップをかける。
銅像の中には槍を投げようとしているのもあって少し気をつけなければならない。槍の先が本物とまでは言わないがとがっていて、何度ハタキの布を取られたか分からない。
一度力任せに引っ張ったら、ぐらりと槍がたわんで危なかった。これが当たったら血が吹いちゃう、とゾッとしたのは一度や二度じゃない。
今日はハタキの布を取られずにはたけたので、アーニャは上機嫌でモップをかけ始めた。
モップの先を廊下の端に置くと、丁寧にゆっくりとかけていく。集中して前から後ろに下がりながら右、左とかけていた時だった。
「そのまま下がると串刺しですよ、アーニャさん」
ひやりとする声がした。
「はひ?!」
「アーニャさん、返事ははい、です」
モップをかけるために曲げていた身体をがばっと起こすと、アーニャの背後に長身のベネットが立っていた。
「ベネットさん、どうされましたか?」
「アーニャさん、私は返事ははいです、と言いました」
「……はい、ベネットさん」
よろしい、とベネットは眼鏡をカチャっと上げる。アーニャから見ると光の反射でベネットの目は見えない。無機質なベネットの表情を見て、こくりと喉がなる。
「モップを丁寧にかけることは良い事です。しかし集中し過ぎて他に目が入らないのはあまり良くありません。あなたが串刺しになるのは目も当てられませんし、何よりお客様が来られた時に真っ先に気付いて掃除道具を素早く隅に起き、お客様の足をわずらわせることなく道を開けねばならないのです」
「はい……ベネットさん」
「仕事をしながらも後ろに気を使う事。いいですね?」
「はい、ベネットさん」
アーニャの返事を聞いてよろしい、とまたベネットは頷くと、身を返して去っていった。
廊下の角を曲がるまで見送ったアーニャは、深呼吸をする。
ベネットに声をかけられると、緊張で心臓が早鐘のようになってしまう。よく不意に声をかけられる事が多いのも一因だ。
ベネットはメイドと執事を統括している。神出鬼没に現れるのだが、こちらに入ってまだ半年も経っていない新人のアーニャは目につくらしく、よく声をかけられ怒られている。
アーニャさん、とひやりとする声を聞くとびっくりして、はひ、と言ってしまうのは、もう条件反射のようになっていた。
アーニャも好きで怒られているわけではないのだが、もともとのんびりした性格な所に、素早くきっちりな仕事を選んでしまったものだから、とにかく早く、と気ばかり焦って空回りしているのだ。
今日みたいに一人で黙々とやる作業なら気が楽で集中して時間を気にせずにやれるのに……。
ため息をつきながらモップ掃除を再開する。
ベネットの言葉通り後ろを気にしながら、モップをかけると、何か物には当たることは無かったが、何もないのに気ばかり使って倍疲れた気持ちになってしまった。
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バタバタと一日の仕事を終えて、夕食にお風呂にと忙しなく寝支度をすると、あっという間に就寝の時間になる。
じゃおやすみーと早々に寝床に入ったディアナの寝付きの良さを確認してから、アーニャはもそもそとベッドから降りた。
ディアナを起こさないように窓際の小さな文机の所に行き、シュッとマッチに火をつけ、小さな燭台のろうそくに灯りをつけた。
「さてと」
家から持って来た裁縫箱を取り出して、文机に広げる。バーミリオンという紅色の糸を取り出してししゅう針に通すと、裁縫箱から紙に挟んだ紅葉の葉を取り出してちらちらと見ながら布に針を刺し始めた。
白いハンカチにバーミリオンの色は、実際の葉の色よりも明るかったが、アーニャはケイトの事を思うと、こちらの明るさの方が合うと思った。
アーニャには三男四女の兄弟が居て、一番末っ子の妹、ケイトは七歳にもかかわらず非常にオシャレ好きなのだ。先月の里帰りの時に来月のお誕生日に何が欲しいか聞くと、白いハンカチに紅葉のししゅうが入ったものがいい、と言った。
最初は宝石がいい、から始まって、そんなの買えるわけないと押し問答をし、パーティバッグ、革の可愛いお財布、シルクの上等なリボンと下がっていって、むりむり、私の給金じゃ買えないわよ、と言ったアーニャに、じゃあ何を買ってくれるのよ! と半ギレしたケイト。
うーんと考えて、ハンカチなら、とアーニャが言ったのだ。
「じゃあししゅうをつけて!」
「し、ししゅう?!」
「これと同じはっぱのししゅう!」
それなら貰って上げるわ! フンっという鼻息付きで手に持たされた紅葉の葉はアーニャの眉をハの字にさせる色と形だった。
アーニャは黙々とやる作業は好きだが、ししゅうに関しても全くといっていいほど才能が無い。まず糸を通すのにもたもた、糸止めの玉を作るのも、上手く作れなくてせっかく刺した糸が布からすっぽ抜けるのもよくやってしまう。
それでもケイトの為に、と集中してやっていると、ふいに手元が暗くなってきた。
「あ、ろうそくが……取りにいかなきゃ」
小さな燭台なのでろうが無くなるのは早い。でももう少しでししゅうが仕上がる所だった。
迷ったが膝掛けの布を身体に巻き、きしっと鳴る扉を開けた。
廊下は防犯の為に等間隔で灯りが点いているのだが、それでも人っ子ひとりいない廊下はアーニャを震え上がらせた。
平日の夜に就寝時間外で起きているのは夜番の騎士ぐらいだ。
ろうそくの予備が置いてある従業員食堂まではもう、走って取りに行くしかない。
そう心に決めて廊下の角を曲がり、厨房の前をタタッと通り過ぎようとした時だった。
「アーニャさん?」
ひやりとした声に似た、しかし柔らかい声がした。
「は、い?」
振り向くと長身の人が居た。
「こんな夜更けにどうしました?」
柔らかい声、でも知ってる声に、似てる。
金茶色の髪がさらりと前に垂れている。
その面もちに、何か、足りない物がある。
「何かあったのですか? それとも……どなたかの部屋へ?」
心配そうな声が最後はひやりとなって、やっと気がついた。
「ベネットさん?」
「はい?」
「あ……びっくりしました……眼鏡、されてないから」
「それはこちらの台詞です。こんな夜更けにどちらへ?」
「あ、ろうそくを取りに」
アーニャの言葉に、ベネットは眉をひそめる。
「また刺繍を刺していたのですか。だから朝が起きれないのに」
「べ、ベネットさん、知って……?」
「知らないわけないでしょう、あなたの指に増えていく刺繍針の穴」
そう言ってベネットはアーニャの左手を取り、そっと指を絡ませてなぞる。
アーニャは突然に手を触れられて、ひゅっと言葉が出なくなってしまった。
「今日はまだついてない?」
柔らかい声がゆっくりと微笑んだ。
廊下の灯りはほの暗くてあまり良く見えないはずなのに、ラベンダーの瞳を見た気がした。
「は、はい」
昼間とはずいぶんと雰囲気の違うベネットにドギマギして頷くと、それならばよし、と満足そうに頷いたベネットは、
「今日はもう寝ると言うならば、予備のろうそくを渡しましょう。明日は遅刻しない事。約束できますか?」
こくんと頷いたアーニャに、いい子だ、とくしゃりと笑ったベネット。少し待って、とすぐ近くの厨房に入ると、どこからかろうそくを一つ持ってきてアーニャに待たせ、空いた手をまた握って部屋まで送ってくれた。
おやすみなさい、と蚊の鳴くような声でアーニャが挨拶をすると、おやすみ、と握った手をまたさらりとなぞられて離された。
ぱたんと扉を閉めると、コツコツと足音が去っていく。
アーニャは慌ててベッドの中に滑り込んで頭から掛布をかぶった。
柔らかい声
くしゃりと笑った顔
ラベンダーの瞳
それに何より。
アーニャは左手を胸の前で握りしめる。
あんな風に男の人に手を握られた事なんてなかった。
触られた指が熱い。
アーニャはぎゅっと目をつむった。
なにこれなにこれなにこれ
ベネットの事が頭から離れない。
眠りたいのに眠れなくて、アーニャは翌朝また寝坊してしまった。