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烏翠国物語

黒耀の翼

作者: 結城かおる

龍が駆け、鳳凰ほうおうが飛ぶこのそらの下で、人々が語り伝えてきた昔話をひとつ――。


 天子様てんしさま京師みやこから遠く、一千華里いっせんかりばかり離れた辺境の地。そこに、いにしえの天子様の末子すえごによって開かれた、ある小さな御国みくにがある。

 開闢かいびゃくして以来三百有余年、その国人は白いからすを神として崇め、狩りに畑にと精を出し、代々その国を守ってきたのである。


 さて、何代目の国君こっくんの御世であったか、御方おんかたに三の姫君がお生まれになったとき、国一番の占い師でさえも、その運命を読むことはできなかったという。



「――さすがに宮中でお作りになった扇は、拝見していても並のものとは違いますね。この描かれた牡丹の繊細なこと美しいこと、またこちらの蘭のたおやかなさまといったら、一たびあおげば、たちまち香りが立ち上りそうではありませぬか、王妃様」

「まあ、嬉しいこと。趣味の高い天山夫人てんざんふじん誇賞こしょうに預かり、恐縮ですわ。どれでも、気に入ったものがありましたら、一本と言わず幾本でもお持ちくださいまし」


 王妃から「天山夫人」と呼ばれた中年の女性は呉氏ごしといい、王弟の妻である。いま彼女は、王宮で義姉とともに扇の品定めをしているところであった。


 ――宮中出来きゅうちゅうできの良い扇がありますので、ぜひ夫人にも一本お持ちくださるように。


 天山府てんざんふにやってきた使いの口上はこうだったが、呉氏には王妃が自分を王宮に呼ぶ、その真の目的がはっきりと見えていた。


 彼女は日を選んで参内さんだいし、王妃に久闊きゅうかつを叙しつつ拝礼を行うと、妃は答礼もそこそこに、女官長に盆を持ってこさせた。見ればその上には美しく、細工に趣向を凝らした幾本もの扇が並べられている。

 天山夫人は、王妃とは歳もひとつしか違わず、また彼女達の夫、すなわち王と王弟もまた幼少より互いに親しんできた間柄ということもあって、今日こんにちまで変わらぬ交情をはぐくんできたのである。


 いまも彼女は王妃に勧められるまま、窓にほど近い紫檀したんの椅子に腰を落ち着け、まず茶菓を喫したあとで、卓上に広げられた幾本もの扇を、女官ともども賑やかに批評していたところであった。


「…恵玲けいれいのことはもうあきらめていますけれどもね。何しろ一応は尋常に相手の言葉を解し、また自分からも言葉を発することができるのですが、その表情はまるで石そのもの、『あの烏』と何やら話したり、戯れたりするときだけですわ。笑顔を見せるのは」

 王妃に釣られて、つい呉氏もため息をついた。

「王妃様、それはいたし方のないことでございましょう。恵玲公主様は生まれてよりこの方、ごく少数のものを除き、人とはほとんど交わりを持たずに過ごされておいでなのですから…」

 そうやって憂鬱ゆううつげな王妃に懇々と諭した後、呉氏は扇を拝領した礼を述べて後宮を辞した。


*****


客人の去った後、王妃は女官達に扇を片付けさせ、窓際の椅子に座って園林にわを眺めていた。先ほどの語らいにおいて、呉氏の慰めに王妃はうなずきながらも、心は一向に晴れなかった。

 実は、呉氏自身は知らぬことだが、王妃の屈託は、恵玲公主けいれいこうしゅのあの不可思議な能力への恐れからも由来しているのである。


 ――我が娘、我が腹から出でし者ながら、わからぬものよ。他の公子や公主たちと同じように育て、慈しんでいるはずなのに。


 王妃の物思いを妨げるかのように、回廊の向こうから力強い、しかし苛立たし気な足音が聞こえたかと思うと、女官への取次もそこそこに、戸口を覆うとばりが勢いよくめくられた。

「母上!」

「――まあ、興礼こうれい

 としは十八、はあはあと息を切らせ、顔を赤くした自分の長子ちょうしが、帳の縁を握りしめて立っている。


「興礼、いけませんね。すでに世子冊立せいしさくりつの礼も挙げたというのに、そのように不調法なことでは」


 そのたしなめにやっと我に返ったのか、興礼は居住いずまいを正して呼吸を整え、王妃の前にぬかづいた。

「失礼をお許し賜りたく。改めまして、わたくしこと興礼が王妃ははうえにご挨拶を申し上げます」

「気遣いに感謝します、世子。あなたの御身おんみもつつがなきや否や?」


 堅苦しい親子の挨拶が終わり、やっと興礼は本題に入ったが、既に先ほどの憤懣ふんまんやるかたない顔つきに戻ってしまっていた。

「母上、また恵玲が私に無礼なもの言いを――」


 どうしたものか、いくら教えたところでその公主は敬語というものを全く使えず、たとえ父母兄姉といった尊長そんちょうに対しても何ら変わるところがなかったから、王夫妻はほとほと困りはて、長兄の興礼などは日々の怒りの種ともなっていたのである。


 何しろ、

「お前は馬鹿か」

 それが今朝、兄に向けられた妹の言葉だったのだから、興礼が激怒するも無理はなかった。


 あれこれ言い立てる興礼を目の前にして、王妃の眉間に漂う憂愁の霧が濃くなっていく。

「…わかりました。そなたにはこらえても堪え切れぬでしょうが、あれには私からよく言って聞かせるゆえ、今日はこれで退がりなさい」

「母上…」

 顏から不満をぬぐい去れぬ興礼の様子を目の当たりにし、自分の言葉に説得力が皆無であること、徒事とじであることを知っていつつも、王妃はそう息子を諭して帰すほかはなかった。今まで、何度このやり取りが繰り返されてきたのか、数え切れぬほどだ。


 興礼が回廊の向こうに姿を消すと、母は傍らの女官を振り返った。

「恵玲はどこに?」

「おそらく、園林にわ風花亭ふうかていにおられるかと……いつものように」



*****



王妃が風花亭に近づくと、穏やかならぬ鳥の鳴き声がした。


 季節は春も過ぎ去ろうかというときで、棚の藤が重たげな房を幾本も垂らし、緑は日ごとに濃くなりまさっている。

 彼女は随従の女官達に待つように命じると、一人で風花亭に入った。後苑こうえんで最も瀟洒しょうしゃな佇まいを見せるこの四阿あずまやに、一人の少女が座っていた。


 小づくりな顔、星を宿したかのような瞳、薄い白磁のごとき肌。桃の花びらが皮膚の下に沈んでいるかと見間違える頬。薄い藤色の衣に濃い紫の上着を重ね、銀のかんざしや首飾りが若さを彩る。母親が一瞬たじろぐほど、娘は美しかった。


 だが、その美貌を大きく損なっていると王妃に思えるのが、まず少女の瞳の色が尋常ならざる深い紫であること、そして彼女の肩に乗った一羽の鳥だった。


 大きく、黒耀石こくようせきのような羽を持つ鴉。


 その鳥は恵玲公主の肩に掴まりながら、王妃を睥睨へいげいしている。何もこれが初めての経験でないにせよ、この鴉を目にするたび王妃は動揺と恐怖を禁じ得ない。今も、我知らず襟をかき合わせていた。


 鴉はそんな王妃を嘲笑うかのように一声鳴くと、ばさり、と羽を広げて飛び立っていった。


 鴉がみるみる遠ざかり、やがて黒点になるさまを、公主は空を仰いで見送っていたが、やがて自分の母親に向き直った。

「――何か?」

 娘に促されて王妃は声を出したが、情けないほど力のこもらぬ声だと自らを恥じた。


「お前、またあの鴉と一緒だったの?」

 公主は頷いたが、それきり何とも答えない。今日に限らず、公主は口数が極端に少なく、表情も変わらない。たまに口を開くと、兄が怒り出すような物の言い方である。

 母親は娘との間の沈黙に耐えきれなくなり、溜息をついた。

「この宮中にあっては人と遊ぶこともままならぬゆえ、禽獣きんじゅうと話すようになるのも詮無せんないこと…」


 あの鴉にしても、不気味ではあるが、間違いなく幼いときから公主を訪ねて戯れ、あの娘が唯一心を開いて笑顔を見せるもの、つまり公主にとってはただ一人――いや、一羽の「知音ちいん」とも呼べる存在なのだ。


 とはいっても、と母親は思う。そもそも禽獣としか遊べぬようにしたのは、私達ではないのか、と。

 王と王妃がこの娘を養う際に、接する女官を極力減らし、宮中の最奥で半ば閉じ込めるようにして育てたのは、公主が幼少から、人には見えぬものを見て、聞こえぬものを見て、また人にはできぬ能力を顕現したからである。

 手を触れずに物を空中に浮かべたり、後宮の端から端まで一瞬で移動したり――。


 そればかりか、この紫の瞳。


 当国では、公主のように紫の瞳を持つ者がたまに生まれる。しかし古来から、その瞳は吉凶半ばする存在、特別な力を持つものと信じられているのだった。

 たとえば開国の君、すなわち天子様の末子にして初代の国君は、名君として知られた方だが、やはり尋常ならざる瞳の色だったという。

 しかし、尊い御方と同じ瞳を持つ歴代の王には、度し難い暗君も何人かおり、良きにつけ悪きにつけ、「紫瞳しどう」は多数の人々にとって、畏怖の眼差しで見るものであった。


 恵玲公主もまた紫瞳の持ち主だったが、彼女がこの世に生を受けた際、彼女が公子でなく公主だったことに、王妃は胸を撫でおろしたものだった。なぜならば、如上じょじょうの理由ゆえに、「紫瞳」の公子は王位継承の資格から外されるという不文律がすでに出来上がっていたことと、公主ならばあまり人目にも触れず生きていくことが可能だからである。


 ――だが、娘のためには果たしてこれで良かったのか、それとも他の養い方があったのだろうか?


 娘への困惑と罪悪感を押し殺しつつ、王妃は娘に語りかけた。

「興礼から委細は聞きました。またお前は、兄に対して無礼な物言いをしたとか」

「……」

 叱られてふて腐れるわけでもなく、かといって恥じる風もなく、公主はただ黙って母親を見返すばかりである。


「いずれ、そなたも他の人間と普通に口を利かねばならなくなる。というのも、お父様――王が仰るには、そなたにも二、三、縁談らしきものが舞い込んでいるとか。そういえば、そなたもそろそろ、そんな年頃だと……。何しろ興礼も、この年末には世子妃を迎えるのですからね」


 告げながらも、母親は虚しさを感じていた。

 ――かくまで変わり者の娘が、果たして無事に嫁ぐことなどできるのか。どんなに人目に触れさせぬよう育てても、宮中の壁に耳目あり、この子のことは、宮外にまで漏れ出ているに違いない。このまま誰にも嫁がず、後宮の奥深くで一生を終えたほうが幸せなのか。しかし、それではあまりにも不憫…。


 いっぽう娘のほうはというと、「縁談」の言葉に両の眼を見開いた。このような反応を見せるなど、絶えてなかったことである。そして、大きくかぶりを振った。


「まあ、お前。嫌だといったところで公主たるもの、いずれ他国に妃として嫁ぐか、臣僚に降嫁こうかするものと決まっているのに」

 しかし返答は、またも首を横に振った拒絶である。とりつくしまもない。

「…夕の風がそろそろ冷たくなる時分なれば」

 王妃は帰るよう促すとふうっと大きな息をつき、なお四阿から動こうとしない娘を残して居殿へ戻った。


*****



東宮殿とうぐうでんでは、先ほどから何かを撃ち合う鈍い音が聞こえる。世子の興礼が短衣と籠手こてを身につけ、一人の侍衛じえいを相手に剣術の稽古をしているところだった。


「……?」

 興礼は、視界の隅に異様なものを捕えた。遥か彼方に離れた、高さ一丈ほどはある塀の上に、何か鮮やかで不自然な色彩の固まりが見えたからである。


「つっ…!」

 次の瞬間、彼は呻き声を挙げた。気を逸らしたために隙が生じ、稽古の相手に籠手を打ちこまれたのだ。木剣ぼくけんを降ろした主人を前に、撃った若い自衛は跪いて無礼を謝した。

「良い、油断したこちらが悪い」


 首を横に振った興礼は、木剣を侍衛に預け、差し出された手巾しゅきんで額と首筋の汗をぬぐった。そして、自身は塀のほう――東宮殿と後宮を隔てる塀に足を向けた。急ぎその場に向かう彼は、塀の上の奇怪なものの正体を知るや、駆け足になる。

 息を切らせて、彼は「そのもの」の真下に立った。顔には怒りで朱が上り、まなじりは裂けんばかりである。


「…この馬鹿!早く降りてこい!!」


 視線の先には、妹がいた。塀に腰かけ、相変わらず無表情に兄を見下ろしている。折からの風に、恵玲の簪の飾りがぴらぴらと翻り、淡い桃色の裳裾もすそも揺れていた。


「――隙を見せれば、打ち込まれる。当然の理だ」

「なっ…!!」


 興礼は怒りのあまり、口をぱくぱくさせた。眉は濃く上背は高く凛々しい外貌で、若い女官達から密かに憧れの的となっている世子も、妹の前では一切の調子が狂う。先ほどの稽古での無様さを彼女に見られていた、いやそもそも、侍衛に一手を取られたのは――。

「誰のせいだと思っている!さては、この塀の上から見ていたな」

「見ずともわかる。人のせいにするでない。それに、私がここにいるのは、そのようなつまらぬものを見るためではない」


 無礼な言葉を流れるように繰り出しつつ、公主はすっと塀の上に立った。も鮮やかな袖口がへんぽんと翻る。

「お、愚かなことをするな!そこに立ったりなどしたら…」

 今度は、兄は焦り始めた。自分の身長よりずっと高い塀の上である。万が一、妹がこの状態で平衡を失い落下でもすれば、ただではすまない――。


 そんな興礼の焦りもしらず、恵玲は両のかかとを浮かせた。

 ――飛ぶのではないか。

 そう錯覚した興礼は、何事かを叫んで、思わず両腕を差し出す。踵が塀から離れ、彼女が空中に躍り出た。

「わっ…」

 本当に、公主はふわりと飛んだ。そのままゆっくり宙を舞い、兄の腕のなかにすとんと納まる。彼女の身体は鴻毛こうもうのようで、まるで重さを感じなかった。


「何てことをするんだ、怪我でもしたら…」


  自分の顔を見上げる妹に、兄は小言を投げかけたが、それも長くは続かなかった。大人と少女の狭間にあって、臈長ろうけているような、あどけないような面差し。その輪郭を彩る艶やかな黒髪。深々とした紫の瞳、わずかに開いた、紅を塗った唇。抱きとめた時、彼女の服越しに感じた柔らかな肌。


 どう形容すべきなのか、見てはならぬものを見て、触ってはならぬものを触ってしまったかのような心地がするのは何故だろう――。


 須臾しゅゆの間とはいえ目の前の少女、実の妹に魅入られてしまった、その罪におののきながら、兄は身体を離し、両腕のなかに咲いた花を解放した。

「大丈夫か?」

 いつもより優し気な言葉はいたわりではなく、自分に突如沸き上がった、湿った気持ちを覆い隠すための嘘だった。


 ――何ということだ。俺は、妹に対して何という気持ちを!すでに世子妃も決まり、年末には人の夫となる身である俺が。もしや、逢魔おうまが時の見せた戯れだろうか。どうか恵玲に悟られぬよう…。


 脳裏に、婚儀の前にと一度だけ引き合わされた、世子妃の顔が浮かんだ。ひっそりと咲く路傍ろぼうの花のごとき相貌の、慎ましく温雅な物腰の少女だった。

――いや、違う。世子妃と妹を比べるなどと…。

 恵玲は兄のそんな動揺を知ってか知らずか、二、三歩後ずさると口を開いた。


「人はなぜ、飛ぶことをせぬのだろう?」


 そして相手の答えを待たずに、くるりときびすを返した。


*****


翌日、国君が政務を終えて後宮に戻るとき、まず王妃のもとではなく恵玲の殿舎でんしゃに足を向けたのは、興礼から塀の上の娘について聞き及んでいたからである。


 女官達が頭を下げるなか、公主の房間に入ると、翡翠ひすい色の羽を持つ鸚鵡おうむが一声鳴いた。

 父親が来たというのに、恵玲は立ち上がって拝礼することもせず、気づかぬように一心に手元の巻物を繰っている。

 何を読んでいるのか、覗き込んだ父王はあっと声を上げた。


「――白紙ではないか」


 娘はなぜか白紙の巻物を読んでいるのだった。彼女はやおら顔を上げて父親を見る。

「何も書かれておらぬ書物など、なぜ広げている?それに書き込むというわけでもなさそうなのに」

 公主の傍らには、日ごろ彼女が愛用している緑石の硯も、玉の軸で作られた筆もなかった。


 ――娘のすることは不可解だ。


 王は妻と違って心配性ではなかったから、娘が国君たる父に対してすら一片の敬語を遣ったことがないことも、説明がつかぬことを度々しでかすことも、すべて自分の度量で受け止めているつもりだった。だが、白紙の巻物とは?

 娘はほぼ無表情だが、わずかに眉が上がった。


「そもそも人は、有難い先賢せんけんの教えと奉じているものがあり、それを万巻ばんかんの書として残しているが、だがしかし、本当に書かれていることをどれだけの人が理解し、話し合っている?そして実践している?――私にはわからない。この白紙の巻物を読むのと、どれほど異なるというのだろう?」

「だがしかし、公主よ」

 

 公主は書物を慎重な手つきで巻き戻していく。

「私の運命は、国一番の占い師でも読むことができなかった。この巻物も、私達には読めないだけであって、他の者が見れば読むことができるやもしれぬ。だから、ただの白紙の巻物と決めつけることはできない」


 わかったような、わからぬような話に、思わず国君は平素から厳しく自戒していること――つまり、曖昧に頷くということをしでかしてしまった。


「まあ、小難しい問答はよい。恵玲――先ほど興礼から聞いたが、そなたは昨日、後宮と東宮殿の塀の上で何をしていた?危ないではないか」

 公主は立ち上がって、王をじっと見た。


「あそこから、国情を偵察していた」


 大真面目な口調の答えだが、父親は思わず小さく噴き出してしまった。

「あの塀の上から?空といらかの波くらいしか、見るものはあるまいに」

 だが、娘は首を横に振った。


「いや、見えるのだから仕方がない。夕刻に近かったゆえ、ほうぼうでかまどの煙が上がっていた。良いことであろう、竈の煙が盛んに立ちぼっているとは」

 ――もしかして、娘は本当に遠くが見えていたのでは?

 今さら驚かぬとはいえ、娘の能力はこの先どこまで広がっていくのだろうか――正直なところ、やはり王は戦慄を感じざるを得なかった。


「ともかく、私は満足した。やはり王が善政を敷き、竈の煙が盛んというのは、国のあるべき姿だ」

 少女がまるで高官のように天下国家を論じ、そればかりか王の政治を当人の眼前で批評することに、王は怒りではなくおかしさを覚え、不思議と違和感はなかった。また、長子や妻の発する百言ひゃくげんよりも、この何を考えているかわからぬ娘の一言のほうが、何故か重みがあるように感じた。


 ――惜しいことよ。この娘が男子であったなら。


 いずれにせよ、自身の治世を賞せられていることがわかった父親の顔は、わずかに赤みを帯びた。彼は照れをごまかすため、笑みを浮かべて頷くと公主の房間を出たが、肝心の目的である縁談については、言い出せぬままに終わってしまった。


 ――まあ良いか、何かしらの縁があれば引き寄せられるまでだ。たとえ運命を読めぬ娘でも、いつか白紙の巻物に文字が浮き出るように、その運命も明らかになるだろうか?


*****


国君は、娘の房間に寄った次に妻の居殿に入った。

 昨日は側室の殿舎に宿やどっていたため、王妃と顏を合わせるのは二日ぶりである。訪れを待ちかねていたように、公主の様子と縁談への反応を伝える王妃の言葉に耳を傾け、王は髭を撫でながら「ふむ」と声を漏らした。


「あくまで拒否する、か。やはりな――母親が言ってもその調子だとは」

「もし嫁がせねば、余人よじんは何と思うでしょう。…いいえ、何と思われようとかまいませんが、彼女はあのまま何もなさず、何にも触れず、宮中で朽ちて行ってしまうのでしょうか。もっとも、彼女の不可思議が外に漏れるのを恐れるあまり、籠の鳥のように閉じ込めて育ててしまった私達です。今さら何をいっても…」


 うなだれる王妃の肩を、王はやさしく叩いた。

「気に病むな、そなたのせいではない。…そうだ、お前、公主が生まれたときのことを覚えているか?」

「まさか、忘れるはずがありませぬ。…でも、何故そのことをお尋ねに?」

 あの時の占い師の言葉を思い出したのだ、と王は答えた。



 ――話は十五年前にさかのぼる。

 公主が誕生して間もなく、王室の慣習に従って、王は「卜占師父ぼくせんしふ」と称される最高の占い師に、公主を見せて運命を占わせようとした。

 しかし奇妙なことに、この国随一の腕を持つ占い師の力と、筮竹ぜいちく四柱しちゅう、人相いずれの手段をもってしても、ついにその運命を読むことは叶わなかったのである。


「そなたでなければ、この国では誰も公主の運命を読めぬというのに…」

 王は腑に落ちず、師父にその理由を問うた。

「どんなに高名で、力がある占い師でも、運命が読めないということがあるのだろうか?」

「人でないものは、人としての運命が読めない。そういうことなら、あり得ます」

「だが、我が娘は人間だ」

「さようでございます」

「では天子はどうだ?明らかに常人と異なる相をお持ちになり、異なる星辰を負われる方であれば、たとえ淵に沈んだまま、いまだ天に駆け上るときではなくとも、その運命も簡単に読むことができるのでは?」

「仰る通りにございます。天子になる運命をお持ちの方は、たとえ遠くからでも龍気が立ち上っているのが見えるといいます。それに、ご生誕の折には必ずなにがしかの瑞祥が顕現するもの。ですから、力を持つ占い師ならば、彼のもつ龍の運命がたちどころに読めるとも申します」


 そこまで言うと、師父は咳払いをした。

卑賤ひせんの身を顧みず、天朝のことについて申し上げますれば、国君――あなた様からお許しを賜りたく」

「かしこきあたりに代わってゆるす。申せ」

  師父は一礼して、君恩に謝した。


「その昔、哀帝あいていは、革命を――新たに天より命を受け、天下を統治する龍の出現を――恐れ、国中の占い師を片端から殺したというではありませんか。そもそもいにしえの帝王は占いをもって国を治めたというのに。ですから、哀帝がその終わりをよくしなかったのは、身は天子でありながら、運命を恐れるあまりに、天を恐れることを忘れてしまったためです」


「なるほどな。もっとも運命を読み取りやすいのが天子。であれば、もっとも運命を読みにくい、いや運命を読むことができない我が娘は一体――?」

 大占師は、顔を袖で隠して一揖いちゆうした。

「私にもわかりませぬ。人としての運命でありながら、人にあらず。――公主の運命の告げるところは、それだけです」


 ――もう一度、あの卜占師父に、娘の行く末を尋ねよう。果たして誰のもとに嫁ぐべきなのか…。


 追想から醒めた国君は妻に提案し、そして師父を召し出した。彼は、公主が生まれた十五年前よりも白髪が増え、髭も滝のように流れていたが、白い眉毛の間から除く眼は、変わらぬ英知のきらめきを見せていた。


 王は公主の縁談のことも正直に話し、娘の結婚につき今一度占ってくれるように頼んだ。師父は首を傾げたが、

「では、私ではなく、巫女から神に御心をその伺わせるというのはいかがでしょう?」

 と提案した。


 そこで、師父の信頼する巫女が密かに呼ばれた。宮中の祠堂しどうの祭壇を前にして、国君夫妻が見守るなか、白烏の神に巫女の舞いが捧げられる。

 このようにして、巫女を通じて降ろされた神託は、砂を敷き詰めた盤上に書かれていき、師父がそれを写し取った。王が盤を覗き込むと、こう記してあった。


 ――速やかに「撞天婚どうてんこん」の儀を行い、もって公主の夫を定めるべし。


*****


三日後、王宮の正門が国人に開放された。これは滅多にないことである。

 正門内の殿庭には、老いも若きも、身分低きも高きも、裕福な者も貧窮している者も、とにかく多くの人々が詰めかけていた。衆人の共通項はただ一つ、男性であることだけだ。


「何だか、嫁をもらえるというから来たんだけどよ、一体何が始まるんだ?」

「王様が、ご自分の公主様に対して、『撞天婚』を行われるそうだ」

「ドウテンコン?何だ、そりゃ」

「それは――」

 説明しようとする誰かの声は、大きな歓声にかき消されてしまった。


 群衆が一斉に注ぐ視線の先、三層の構えを見せる高楼こうろうの最上階には、国君夫妻、そして二人に挟まれた形で、今まで国人には姿を見せたことのなかった恵玲公主が佇んでいる。

 少し離れたところには、世子の興礼や、呉氏とその夫をも含む王族がおり、さらに百僚ひゃくりょう宮衛きゅうえいの兵がびっしりと高楼を取り囲んでいる。


「うわあ…彼女が例のお姫様か。これはこれは、なんというお綺麗な公主様だろう」

「彼女を見よ、あの手に持つ糸毬いとまりを。あの毬をお姫様が投げて、見事に受け取った者こそ彼女の夫になるのだ」

「彼女の夫となる者は、まことに幸せ者よ」

「にしても、随分乱暴な決め方だねえ。こう言っては難だが、王様も愛娘をなぜこんな方法で嫁にやっちまうんだろ」

「馬鹿なことをいうな。撞天婚は、神のご意思にお任せする聖なるもの。あの毬には、神のご意思が込められているんだよ。嫌なら、毬を受け取ろうとせずにとっとと帰れ!」

「わかりました、わかりましたよ。何だい、自分が夫になれると思って、かっかしちゃって」

「うるさい!」

 とこんな調子で、殿庭は男どもの熱で、いまや異様な雰囲気に染め上げられている。


 しかし、並の少女であれば怖気づいてしまうか、泣き出してしまうかするところ、恵玲は見上げたことに、いつもの人形のようなかおを保ったまま、五色の糸に美しく色どられた毬を手にしている。

 母親が今日のため、特に念を入れて調製ちょうせいさせた衣装が、彼女をさらに輝かせていた。黄の地に若草色の模様の浮き出た上着、濃い緑の飾り帯、耳元で煌めく金の耳飾り――。


 冷静沈着な娘を見守りながらも、王妃は不安で胸が張り裂けそうな思いだった。

 ――毬が、一体どのような男の手に渡るかわからぬ。だが、この選び方が神のご意思である以上は…。


 見届け役を命じられた卜占師父は、王夫妻の御前に進み出て一礼したのち公主に向き直る。

「さあ、公主様。いまこそ、その毬を…」

 促された娘は、毬に桜色の唇を押し当てると、欄干の手前まで進んだ。沸騰する大鍋のようにあれほど喧しかった殿庭が、今はしんと静まり返る。公主は毬を一度高く差し上げてから、放り投げた。彼女の手を離れた毬は、美しく五色の紐をなびかせながら、弧を描いて落ちていく。どよめきが地鳴りのように、人々から発せられる。


 そのとき。

 一つの影が、その場所に落ちた。

 鋭い羽音が居合わせた人々の鼓膜を震わせたかと思うと、大きなものが殿庭に舞い降り、そして毬の紐を咥えて急上昇する。

「わあっ…」

 横から毬をさらっていったのは、あの大きなからすだった。


 ――鴉?神のご意思を受け取ったのが、よりによって禽獣!?


*****



高楼の上下は、すでに狂乱状態となっていた。国君は呆然とし、王妃は何事かをつぶやきこめかみを押さえて倒れ込み、興礼は眉をしかめ、宮衛達は鴉を捕えようと大空をこもごも指さしながら、怒声を上げている。


「何という番狂わせだ…!」

「まさか人外の者が――禽獣のたぐいが毬を取るなどと!」

「やり直すか?」

「しかし、この婿選びは神のお決めになられた聖なるもの。むやみに仕切り直すわけには…!王よ、どうなされますか!?」

 蜂の巣をつついたような騒ぎとなっているこの場において、冷静なのは当の恵玲公主と、卜占師父の二人だけである。


 もちろん、殿庭の方も沸騰寸前となっていた。

「どうするんだよ!よりによって鴉が持っていっちまった!」

「てことは、姫様は鴉の嫁さんになるのかい?」

「馬鹿、何てことをいうんだ!お姫さんが、『けだもの』の嫁になんかなれるかい」


 高楼をはるか下に臨み、鴉は毬を咥えたまま、くるりと空中でもんどりうった。その瞬間、翼の黒い羽はすべて白に代わっていた。

「あれは……?」

「神様…?まさか」

白烏はくうの神様!!」

 人々は眼をぱちくりさせ、口を半開きにしてその「奇術」を見物するだけである。


 そのとき、殿庭を抑えるかのごとき少女の声が凛と響いた。

「――我が夫、定まれり」


 周囲が止める暇もなく、彼女は欄干に飛び上がり、裳裾を翻しながらふわりと空中を駆けた。そして高楼の向かい側の建物、その甍の上に降り立つ。


「……公主、我が娘…恵玲」

 先ほどからの、信じられぬ出来事の連続に腰が砕けんばかりの王は、やっとのことで娘に呼びかけた。それに応え、娘はひたと王を見据える。

 「十五年の長きにわたり私を養ってくれたこと、厚く礼を言う。まことに良き国君、良き夫、良き父であった。あの巻物には、最初から全てが書かれていたのに、ただ見えなかっただけ。いま、全ての文字が現れ、私の運命は明らかとなった」


 次に、虚ろな状態の母親にも眼を向ける。

「王妃よ、私に対して悩まれた日も多かっただろう。しかし、悔いてはならぬ、自分を責めてもならぬ。王妃の、私に対する慈しみは十分であった。それに苦労もするはずだ――神を育てた人間など、この天下広しといえども、そなた一人だけゆえ」

「恵玲……」

 王妃は娘の言葉に目を見開き、女官達に身体をささえられたまま、しきりに首を振った。

「我が娘……いや…」


 そして、恵玲は最後に興礼の姿を認めると、一笑した。それは興礼だけではなく、両親も初めて見た、「人間に向けられた笑み」だった。いかにも冷たそうだったその頬は、いまは血が通っているかのように桃色に染まっている。


「興礼、そなたは私に怒ってばかりだったな。だが、いずれ王となった暁には、むやみに怒ってはならぬ。怒りが生じたとしてもそれを決して国人に向けず、自分にのみ向けよ。あの時のように、隙を見せるな。近く迎える世子妃を大切に。そして、国人の福寿尽きず、国運の長久たらんことを祈る」


「…お前!私が怒っていた理由を何だと思っている!?このに及んでも、まだ兄に対して偉そうな物言いを…!」

 相手が何者であるかも忘れ、顔を紅潮させ罵る興礼に、妹はいかにも嬉しそうな、ふわりとした笑みで応えてやると、甍をひと蹴りして、日輪に向かって跳んだ。


「我は、白烏の妃神きしんなり!」


 そして、幼き日々より羽がいの内で守ってくれた「友」であり、今は夫となった白烏とともに遠く飛び去って行った。


 娘を突然喪った王と王妃は、涙に暮れながらもやっと全てが腑に落ちた。たとえ父母に対してでも、なぜ他人に敬語を用いて話すことができなかったのか、なぜ幼いころより尋常ならざる力を有していたのか。なぜ鴉がしばしば彼女を訪ね、慰めていたのか。そして――

「あれの運命を読めなかったのも道理。人の運命でないものを、どうして我々が知ることができるだろう?」


 ――白烏は御国みくにの守りにして、国人全ての生を司る。妃神は御国の公主にして、国人全ての死を司る。



 のちに、この国で最悪の暴君とされる王のときも、最良の名君と称えられる「紫瞳の国君」の御世みよにおいても、つねに白烏とその妃神は国人とともにあった。いまでも二神は変わることなく、国の安寧を守り続けているという。


      【 了 】


最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

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