第5話
そこは、広い部屋の中だった。
全体が白く統一され、石の壁には複雑な模様のタペストリーがかけられている。中央に大きな円卓があり、そこに幾人かの人が深刻な顔で話し合っていた。
頭を抱えた彼らの一人が、しかたないとばかりにため息を吐いた。それを待っていたように、全員が重々しく頷き、ひとりの男がゆっくりと立ち上がる。
「事態収拾のために、代わりの神子を仕立てる。これは極秘とし、代理神子を知るものはすべて排除しなければならない」
低い声で告げられた言葉に、反対するものは一人もいなかった。皆そろって頷き、代理神子の候補として挙げられた書類からひとりの少女を選び出した。
少女の村は、彼女を連れ出すと同時に焼かれることになった。村人は誰一人として生きることを許されない。
どうせ森に入ってしまえば、贄の神子は戻ってこられない。本物の神子でないことは、誰も知ることなく終わるだろう。それで話し合いは終わりだった。
広い部屋にひとり残った男は、がらんとする廊下を一人で歩き出す。
向かう先は、神殿の地下。何重にも鍵がかけられたその部屋だったけれど、今はドアが開けっ放しで、中には誰もいなかった。
その中に置かれたベッドに、彼はそっと視線を落とす。
誰かが使った後のそれは、赤く染まっていた。おびただしい血の海はシーツや枕、かけ布、ベッドを囲うカーテンにまで広がり、まだ生々しい血のにおいに、男は眉をきつくゆがめる。
まだ、年端も行かない、無垢な少女だったと男は思う。
魔女の生贄となるべく育てられた娘。元は国はずれの小さな村に生まれた、普通の少女だった。生まれてすぐに両親がいなくなり、神殿が引き取って生贄として育てた娘。名前ないその子を教育したのは男だった。
たった数年。その短い時間の中で、少女は無垢に、神聖にあれと育てられた。生贄の儀式まであと少しだったのに、と男はこぶしをきつく握る。あと、本当に少しで、少女はこの薄暗くて寒い地下室から出られたのに。
生贄となった神子が、その後森から戻ることはない。それは死に行かせると同義。だから神子は生贄と呼ばれるけれど、男は解放されると思っていた。
神子となるべく育てられる娘。何も知らず、外界とは一切の接触を許されない娘。それゆえ彼女はその生が辛いものだと知ることはない。
死ぬことを望まれて生きる。その残酷さを知らない。
だからこそ、魔女の元へ行くのは開放なのだと。男はそう信じていた。そう思うことで、自分を正当化しようとしたのかもしれないけれど、それでも、そう思いたかった。
でも、彼が育てた神子は、解放を前に死んでしまった。
部屋中を血まみれにして。少女とは何の関係もない、政治の駆け引きのためにその小さな命を奪われた。むせ返るほどの濃い血のにおいは少女が生きていた確かな証。けれど、彼女の死は一切外部に伝わること無く、隠匿され、その亡がらは秘密裏に神殿の近くに、墓標もない墓に埋葬された。
血に塗れた部屋は何もなかったように掃除され、代理として立てられた少女を迎え入れた。
何も分かっていない少女。年のころは死んだ神子に良く似ていたけれど、その瞳は深い悲しみと怒りのともる、人間の目だった。神子のような、どこまでも澄んだ人形のような目ではない。そのことが、男を苦しめた。
少女が神殿に着いた頃には、もう村は燃えてなくなっていたはずだった。
けれど、少女はそれを知らない。だから、儀式の責任者である司祭は、村人の命を盾として生贄になることを強要した。少女も、村にいる家族がもう生きていないことを知らず、小さな体で愛する者を守ろうとおとなしく言うことを聞く。
それは、全てを知る男からすれば酷く滑稽で、残酷な話だった。けれど、もう、男には何もいえなかった。その瞳に深く絶望の色を落として、男はただ、神子にしたように少女に優しく「神子」としての教育を施した。
――そうして、少女は森へと送り込まれたのだった。
◇ ◇ ◇
ながい、話だった。
時間としては、そんなにながくはなかっただろう。それでも、魔女も少女も、映像が途切れてもしばらく何も言わなかった。
少女から手を離した魔女は、小さく息を吐くと柔らかな手つきで紅茶を入れた。そのにおいは少女が館に来たときに入れてもらったのと同じにおいだったけれど、少女は何も感じなかった。暖かさも、優しさも、何も感じる余裕さえなくて。
「……わたしは、みがわり、だったのね」
重い重い沈黙を、少女がポツリと破った。
膝に置いた手をぎゅう、と握り締めて、けれど声音には何の色も混ぜずに、ただ淡々と告げた少女に、魔女は彼女の髪をなでることしかできなかった。
「かえる村はもう、ないのね……」
囁くような小さな声には深い悲しみと絶望が溢れていて、魔女は「かわいそうに」と少女を優しくなで続ける。震えもせず、涙をこぼすことさえしない少女は、それきり口を閉じて、ぴくりとも動かなかった。
ただ、ひたすら悲しみを堪えるように目を瞑っていた。