第4話
その森の名は「世界の森」といった。
いつからそこにあるのか、誰も知らない。その森の中すら、誰も知らなかった。それでも確かに森はいつだってそこにあり、世界の全てを見つめていた。
いつしか森の近くには国が出来た。たくさんの人がそこで暮らしていたが、森に何があるのかはわからないままだった。
人は森に近付かなかった。なにかがあるというわけではなかったけれど、それでも人は森に干渉しなかったし、森も人に干渉しなかった。そうして世界は続いていった。
だが、その均衡はもろく崩れ去った。
森にひとりの少女が迷い込んだのが最初だった。
少女は国のはずれに病んだ母と暮らす、貧しい娘だった。
母に与える薬草を探すうちに森の奥深くに迷い込んでしまった少女は、それからしばらくして帰ってきた。腕にはたくさんの薬草を抱え、森に迷い込んだ姿のまま戻った。
でも、少女が帰った時、もう母はいなかった。家も無かった。――少女がいなくなったあいだに、何十年も経っていたから。ひとりだけ時間に取り残された少女は、それからまた森に帰り、もう二度と帰らなかった。
それから、森には「魔女」が住んでいると囁かれるようになった。
その噂は、長い間に「人の子を食らう魔女」の噂に変わり、人々は森を恐れるようになった。森はたたそこにあるだけだった。
魔女の噂は、長い時間をかけて少しずつ変わっていった。人から人へ、口伝えで伝わるうちに人々は、その魔女がかつて人間だったことを忘れさせ、やがて凶事は全て魔女の怒りなのだといわれるようになった。
天災が起るたびに、人々は魔女を畏れた。
魔女は人の子を喰らうという。だから人々は怒りを鎮めてもらうために子どもを供物として捧げ始めた。天災は鎮まり、捧げられた子どもは誰一人として帰ってこなかったから、人々は子どもを捧げ続けた。
やがて贄の儀式は、天災を鎮めるためではなく、繁栄を願うものへと変化していった。もう、誰も森の名を覚えていなかったけれど、その森は神聖なものとして崇められるようになった。
長い移り変わりを、森に暮らす少女はずっと見つめ続けた。
誰もいない森に館を造り、そこでひっそりと暮らすうちに名前も何もかも忘れてしまったけれど、少女はずっと世界を見つめ続けた。
そのうちやってきた少女は、自らを「生贄」だと名乗った。帰るところもないという彼女を、魔女は館に迎え入れた。一人ぼっちだった少女は一緒にいてくれる少女にとても歓び、ずっとずっと一緒にいて欲しいと願った。
けれど、それは叶わなかった。少女はずっと少女のままだったけれど、生贄の少女は大人となり、やがて老人となって眠るように息絶えた。
ひとり取り残された少女は、どうして自分が歳を取らないのかを嘆いた。ひとりだけ取り残されることに怯え、悲しみ、森に人が来るたびに館に迎え入れたけれど、あっという間にまたひとりになった。
何度もそれを繰り返し、やがて少女は気付く。
もはや自分が「人間」ではなくなっていることに。
少女は嘆くことをやめた。そして魔女として生きることを決めた。
魔女として初めて迎え入れた少女は、それまでの少女とは違った。
今までの少女は、みんな帰るところはないと言った。だから館の部屋を与えたのだけれど、その少女は何もわからないと答えた。どうして自分が生贄に選ばれたのかも、帰る場所がどこにあるのかも。
少女は森の近くにある村の娘だったのだという。楽な暮らしではなかったけれど、父も母も兄もいて、とても幸せだったのだと。
でも森に生贄を捧げる儀式の前の日、国の神官がやってきて、自分が今回の生贄に選ばれたのだといって家族から引き離されたのだという。そのとき既に神殿には生贄がいたはずで、けれど連れてこられた神殿に自分以外の少女はいなかった。
質問は全ても黙殺され、一晩かけて生贄としての知識や所作を教え込まれ、着替えさせられ、口を挟む暇もなく森に連れてこられたのだと、少女は語った。
本当は戻りたいのだと少女は言う。引き離された家族の下へ帰りたいのだと。
けれど、帰れないのだと少女は悲しげに告げる。森の入り口には見張りがいるのだと。もしも家に戻ることがあれば、家族の命無いと言われ、森に来るしかなかったのだという少女を、魔女は優しく抱き寄せた。
その時だった。
きぃん、と魔女の耳に高く響く音があった。それと同時に、魔女の目の前を走馬灯のように流れる映像に、魔女は一瞬めまいを覚える。
それはほんのわずかな間のことだったけれど、魔女はしばらく動けなくなった。見えた情景に胸が痛み、気付けば頬にひとしずく、涙が伝っていた。
その様子に少女も気付き、首をかしげた。魔女は動揺を抑えるために少女から手を離し、ソファに座って紅茶を一口飲んだ。
心を落ち着けて少女を見れば、また胸が痛んだ。どうしたのかと問う少女に、魔女はゆるく首を振るだけで答える。
できれば、今魔女が見た情景を、少女が知って欲しくなかった。少女にはあまりに過酷だから、何も知らないままここで暮らしてくれればいい。そう思ったけれど。
でも、少女は「帰ること」を望んだ。
彼女が望むのなら、帰らせてもいいと思った。森の見張りも、きっといまごろはいなくなっただろうから、きっと森を出ることが出来る。
けれど――
帰りたいと望む少女に、ここにいて欲しい魔女はどう声をかけていいかわからなくなった。
彼女が望むなら帰したかったけれど、それは酷く残酷な世界を彼女が歩むということだから。できるなら帰って欲しくなくて、魔女は迷う。
「……私は、帰ってもいいの? 村に、帰ってもいいの?」
重い沈黙を破った少女に、魔女は驚いた。
少女の瞳には、今までになかった光が宿っていたのを見た。暗いとび色の瞳の奥に、焔のように揺らぐのは意志の光だと魔女は直感する。
答えを求めて揺らぐ瞳に、魔女は自然と口を開いていた。何も考えていない。それでも言うべき言葉を知っているように、魔女は優しく言葉を紡いでいく。
「その、答えを知ってどうするかはあなた次第。……私は『答え』を与えるだけ。それでも、あなたは知りたいと望むのね?」
問いかけた声に、少女は一瞬ためらって、それでも力強く頷いた。
知りたいと望む少女に、魔女はわずかに目を伏せた。
できれば知らせずに、ずっとここにいて欲しかった。いつまでも一人ぼっちは淋しくて、いつかいなくなると知っていても誰かがそばにいて欲しかったから。
でも少女は知ることを望んだ。どんなに辛い真実だろうと、少女は知ると、その瞳は告げていた。
だから、魔女はそっと少女の頬を撫でた。
「……帰っても、あなたの場所はもうない。あなたはもう、帰れない。――これが答えよ」
優しく告げられた答えに、少女は大きく目を開いた。
その瞳がみるみる悲しみに染まり、涙に濡れる。かえれない、と声にならない言葉を最後に硬く口を結んだ少女の額に、魔女はそっと手を当てた。
さっき見えた映像を、少女にも流す。言葉にするのは残酷で、でも伝えなければきっと答えにはならないから。だから魔女は、さっき少女に触れた時に見えた映像を思い出した。