第3話
ふ、といいにおいがした気がして、少女は目を覚ました。
顔を上げると、そこは見たことの無い部屋で、見たことの無い寝台に寝かされているのに気付いてからだを起こす。
寝台は大きくてふかふかで、薄いカーテンに覆われていた。そっとカーテンを開けてみれば、夕日に照らされたきれいな部屋が目にうつる。
寝台の横の机には水が用意されていた。触ってみるとまだ冷たくて、少女は一口だけ飲んだ。不思議と体の疲れが溶けるように無くなるのを感じて、息を吐く。
「目が、覚めたのね」
不意に聞こえた声に、少女はびくりと体をこわばらせた。
人の気配なんてしなかった。見渡した部屋には誰もいなかったはずなのに、いつの間にかソファーには魔女が、ゆったりと座っていた。
おどろきすぎて目をぱちくりする少女に、魔女はゆるりと微笑んで「こちらにいらっしゃい」と手招きする。少女は少しためらった後、ゆっくりと寝台を降りた。
立ち上がると、幾重にも重ねた衣とたくさんの装飾品が目に入る。でも不思議なことに、衣にも布靴にも泥汚れはなく、髪も寝起きだというのに結われた時のままだった。
促されてソファに座ると、眠る前と同じように紅茶を差し出された。甘いにおいに少女はありがとう、と小さく言って口をつける。甘く優しい紅茶の味に、少女はほう、と小さく息を吐いた。
心がほわりと温かくなったような、不思議な感じがした。胸の中が暖かいような、くすぐったいような。なんだか分からないけれど嫌じゃなくて、少女はそっと胸に手を当てて、首を傾げる。
少女には、その胸の温かさが、なにかわからなかった。今まで感じたことが無かったから。教えられることも、与えられることも無かったから。――でも魔女は分かっていた。少女にはわからなかったけれど、きっとその表情を見れば誰だってわかっただろう。
それを、人は「安堵」というのだと。
「ねぇ、あなたの名前を聞いてもいいかしら?」
柔らかな表情で紅茶を飲む少女に、魔女はふわりと笑って聞いた。
人には必ず名前があるのだと知っている魔女だったけれど、問われた少女はその一言に表情をこわばらせ、恐る恐るというように魔女を見上げた。
「……私に名前は、ありません」
紡ぐ声は小さくて、ぽつりと落とされたその言葉に、魔女は少しだけ眉尻を上げた。
少女には名前というものが無かった。
生まれる前に、既に魔女に捧げられる生贄となることがきまっており、生まれると同時に神殿の地下に入れられた。故に両親の顔も名前も知らず、乳母もある日突然いなくなった。
窓さえない地下に訪れるのは教育係でもあった司祭の老人と、食事を運んでくる侍女の二人だけ。
彼らは少女を「巫女」と呼んだ。
巫女は魔女に仕えるもの。人であって人ではないモノ。それゆえに人に与えられるモノは少女には与えられなかった。愛情も、優しさも、幸福も、名前すらも。
それを当然だと、少女は思って生きてきたけれど。
だからこそ、自分には名前は無いのだと。
そう語る少女の声音は淡々としていて、魔女は悲しげに目を伏せた。
「なら……そうね、名前を決めなくてはならないわね」
伏せた目を優しく細めて言う魔女に、少女は目を瞬いて見つめ返した。ほんの少し首を傾げて、まるで何を言われたのかを解かっていないようなその顔に、魔女は、そっと少女の頬に手を添える。
「名前は、人がその世界にいるという証。だから素敵な名前を付けさせてね」
「……はい」
幼子を諭すような声音に、少女はこくりと頷いて答えた。ほんとうはよく分かっていなかったけれど、魔女の声音があんまり優しいので、つい、頷いてしまったのだった。
すこし冷えてしまった紅茶を一口飲んで、少女は魔女をじぃっと見つめた。
魔女は、少女のイメージとはまるで違っていた。神殿の地下で聞かされ続けた魔女の話は恐ろしくて、だからきっと魔女はこわいひとなんだと、そう思ってきたけれど。
(魔女はやさしい。あったかくて、こころがふわふわする)
実際に触れた魔女は暖かくて、今までのイメージなんか、何一つとして当てはまっていなかった。
だから、少女はじぃっと魔女を見つめた。イメージの中にしかいなかった魔女ではなく、こうして自分に優しくしてくれる魔女をもっと知るために。
「聞きたいことがあるなら、なんでも言っていいのよ?」
そんな少女の気持ちを見透かしたように、魔女は薄く微笑んで言った。
少女は目をぱちくりするけれど、居住まいを正して魔女を見上げ、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「あの……魔女さまはずっと、この森にすんでいるのですか?」
「ええ。もう、ずっと――どのくらいかわからないほど昔から、ここにいるの」
答えた魔女の目に一瞬悲しそうな色がにじんだけれど、少女にはそれがなんだかわからなくて、小さく首を傾げるしかできなかった。
「魔女さまは、世界を支える存在なのだとききました。そのために――人の子を喰らう、とも」
「……それは少し、ちがうわね。でも少し、あっているわ」
「少し?」
言いながら目を伏せた少女の言葉に、魔女は彼女の髪をさらりと撫でて答えた。少女が首を傾げれば、もう一度撫でて、そうよ、と頷く。
「魔女は……私は、世界の守り人。森が枯れれば、世界は滅ぶ。そうならないために森を守るのが私」
歌うような声で魔女が言葉を紡ぐ。でもね、と続ける魔女に、少女は頷くことすら出来ずにじっと魔女を見つめ続けていた。
「人の子を食べたりはしないの。というより、できないの。――私は森から出られないから。契約に縛られて、森の神域すらでられない」
そう語る魔女の瞳は悲しそうで、でも少女にはなにもすることが出来ない。だからただひたすらに、魔女の言葉に耳を傾けた。
そんな様子の少女に、魔女は少しだけ微笑むと、ふっと遠くを見つめた。少女がその視線を追えば、広がるのは窓の外、もう殆ど暗くなった空に、細い月が見える。
「……そうね。御伽噺をしましょうか。森の、物語を」
少し逡巡するように間を空けて、魔女はゆっくりと言った。
その瞳は柔らかな金色で、少女は少しだけ首を傾げる。
見つめる目のその奥、ほんのわずかに、金の瞳に紅い光を見た気がしたけれど、よく分からないから考えるのをやめた。