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「お見事ですよ、副会長。ここまでミス一つもなしとは、正直私も驚いています。この調子で音を間違えないで弾いてくださいね? さて、次は……」
「ま、待て! どうして僕にこんなことをするのか理由を聞かせてください! 僕と君とは初対面のはずでしょう?」
「理由、ですか?」
まるで問われるとは思いもしなかった、とでも言いそうなきょとんとした顔に、僕の苛立ちはさらに増した。
理由がないはずがない。僕をこんな目にあわせておいて、一体何が目的なんだ。僕とこの女は初対面だから怨恨の線は薄い。だとしたら身代金? でもそうだとしたらこんな高級そうなピアノを買ってまでこんなことをするだろうか。
ぐるぐると思考を巡らせている僕の視界では、藤波がいまだ難しそうに首を傾げていた。見かねたのか、僕の背後で拳銃を握りしめていた上村が助言する。
「ナギ様。別に教える必要はないのでは」
「いや、詳しく教えるつもりは毛頭ないんだけどね。どうせ何にも分からないだろうし。ただ、私たちがやろうとしているコレを、一言でいうならなんて言えばいいのかな」
「……無難に言うなら、復讐、ですが……」
「うーん、それじゃああまりに陳腐な言い方でしょ? ……あ、こういうのはどうだろう」
ガッ、と後頭部を思い切り殴られる。あまりに不意のことだったため、反応すらできなかった。
そのまま勢い余って前方に倒れこんだ私は、ピアノの蓋部分に鼻をぶつけその痛みに悶えた。
「 憂さ晴らし 」
頭上から聞こえる声は低く冷たく、竦みあがるような気迫を持っていた。
いきなり殴ってきたことに抗議をしようと開いた口を慌てて閉じる。
殴られた頭が、冷たい声を拾った耳が、けたたましい警鐘を鳴らしていた。こいつは異常者だ。怒らせたら何をされるか分かったものではない。
「さて、質問にもお答えしたことだし、次の曲にいきましょうか」
「なっ……! これ、は……!」
気を取り直すように手を叩いた藤波は、今度は譜面を渡してくる。
今まで譜面なしで弾かせていたというのにどういうつもりだ? 疑問に思いながら目を落とすと、そこには嫌と言うほど見覚えのある音の並びが書かれていた。
「貴方が宮川皐月のために作ったラブソングですよ。さすがお坊ちゃんはやることが気障ですね」
勝手にこの譜面を持ち出されていたことと、この場で“ミスなく”この曲を弾けと諭す女に、押さえつけられていた怒りが沸き上がった。
「ぼっ、僕を馬鹿にしてるのか?!」
「どうしてでしょう?」
「この曲は僕が作った曲だ! どんな状況であろうとも、この僕が、この曲を弾き間違えるはずがない!」
「さぁ、どうでしょう。では期待して聞かせていただきましょう」
ふざけるなふざけるなふざけるな!! 調子に乗るのもいい加減にしろ、この異常者!
弾いてみせる、弾いて、弾い、弾くんだ! 正確に!
最初は甘やかなメロディ。次第に哀愁を含むようになってリズムが早くなったりゆったりしたりを繰り返す。フォルテにからピアノへ、さらにデクレッシエンド、再び最初のメロディへ。高音と低音が入り混じり、感情が高まっていく。そしてようやく、サビへ……!
ボーン……
…………え、
「ああ、」
耳を澄ませていた悪魔が嗤う。
違う、ここは、ミの音だ。
僕の 左手の中指 が埋まっているのは、
レ。
「間違えちゃいましたね?」
ガンッ
ごきゃ
痛みよりも先に、
驚きよりも先に、
衝撃よりも先に、
その音が頭に響いた。
「あ、」
何が起きた、何が。
鍵盤の黒い蓋が閉まっている。
僕が、弾いていた途中だったのに。
「あ、あが、」
勢いも強さも十分にあった。
藤波が鍵盤の蓋を唐突に閉めたのだ。振り下ろしたと言ってもいい。
僕の、僕の指を巻き込んで。
「ああが、い、ひっ、うあ」
ゆっくりと開けられる蓋。
あの音は、あの、音は……!
「ふふっ、
ちゃんと折れてますね?」
「ああああがああああああああああ!!!!」
僕の僕の僕のゆゆゆゆゆび、指がああああああああ!!
僕の、僕のてんさいのゆび、うごかない、ピアノの申し子、うごけ、死んだ、指が死んだ折れた潰れた死んだ僕の才能天才指指指指ピアニストプロ指天才一番兄さん指才能死んだ死んだ折れた僕ボクゆび!!
* * *
「ナギ様、指が折れるというのはそんなに痛いものなんですか?」
「こんなに狂うほどには痛くないでしょうね」
「では何故この人間は狂ったのでしょう」
「ピアニストにとって指は命のようなもの。折ったら最後、たとえ治ったとしても以前のような指使いができるとは限らない。その事実に、耐えられなくなったんでしょう? 大切な公演も目前に控えていたみたいだし」
「ではかけがえのないものとは指ですか?」
「違うわ。私が奪ったのは、あいつの高すぎるプライド」
「そうですか」
「ふふっ、きっと面白いことになるよ」
「楽しいですか、ナギ様」
「楽しくはないよ。あの子がいないから」
「それにしても、醜い悲鳴ですね」
「そうね。醜い音楽だ」