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冷たいものが頭から全身にかけて掛けられ、その衝撃で僕は目を開ける。
「おはようございます。副会長」
「は……? あ、あなたは……!」
見覚えがない白い部屋。病院よりも更に白く、さらに物が少ない部屋の中央に、黒髪の女は立っていた。
女は全身のラインがくっきりと分かる黒い服を纏っていて、そのすらりとした背丈と大人びた美貌から、一瞬自分より年上に見えた。
だがその顔はこの間会ったばかりの、年下の女生徒のものであることを思い出す。それでも彼女を“少女”と形容するのは何故か憚られた。
女は高級そうなグランドピアノに寄りかかり、僕に微笑みかけていた。
白い部屋にただひとつ、大きな黒が存在を強調している。
状況が呑み込めなかった。自分は確かに会長に指示され生徒会室にいたはずだ。
それが突然どうしてこんなところにいるのだろう。
「私の名前を覚えていますか?」
な、まえ? 顔は覚えている。忘れるわけがない。皐月が紹介してきた“親友”で、僕はその時「また邪魔なやつが来た」と憎々しく思ったのだ。
確か、確か名前は、
「藤波、渚……」
「はい。さすが、副会長。記憶力はいいみたいですね」
「な、ど、どういうつもりですか?! 僕をこ、こんな、こんな目に合わせて!」
両手を揺らせば、腹部のあたりでギシギシと縄の擦れる音がした。僕は今、手足を縛られてこの女の足元に転がっているのだ。
縄が皮膚を削って痛い。だがそれ以上に、僕が他人の足元に転がっているというこの事実が酷く屈辱的だ。
「あまりヒステリックに喚かないで頂けますか? 不快なんで」
「ぐはっ……!」
脇腹に食らった鋭い蹴りに思わず声を上げた。そのまま何度も咳き込む僕を見下しながら藤波渚はにこやかに笑っていた。
その時になってようやく、恐怖が屈辱を上回る。女の力とはいえ、自分は縛られて一切の抵抗を封じられている。何をされてもおかしくない状況なのだ。
「さて、質問にお答えしましょう。副会長をここに連れてきた理由、ですか? そうですね……私が副会長のピアノを聞きたかったから、なんていうのはどうでしょう」
「ごほっ、はぁ……? ピアノ?」
「はい。風の噂によると、一ヶ月後にプロとしてのデビューを果たす気なんだとか。楽しみですねぇ……。それぐらいプロに近いというのならさもお上手なんでしょう? あなたのために最高級のグランドピアノを用意させていただきました。是非、聞かせてください」
「ふざけるなッ! 僕をこんな目にあわせておいて、ただで済むと――」
「要」
かちゃり。頭のすぐ後ろで鉄がこすれる音がした。
振り返らなくても形で分かってしまう。後頭部に押し付けられた冷たい銃口。
あまりの恐怖に喉が情けなく引き攣れた。
「彼は上村要。私の従者です。私には従順ですが必ずしも他人に優しい人間ではないので、気を付けて下さいね? ……さて、ではこちらへ」
後ろに立つ男に無理矢理立たされ、ピアノの前まで引きずられる。僕を強引にピアノの椅子に座らせると、そのまま静かに引き下がった。
視線を少し背後にやって、ようやく男の全貌が見える。燕尾服に身を包んだ男は、人形めいた端正な顔立ちをしていた。無表情に向けてくる拳銃が恐ろしい。
藤波渚が僕の隣に立ち、手にしたバタフライナイフで腕の縄を切った。続いて足の縄も。
だけど上村という男が僕を監視し、いまだに銃口を向けている現状では僕に逃げ出す隙なんてあるはずがない。
僕はあきらめ、恐る恐るピアノの鍵盤に指を置く。曲を問う意味で藤波を睨み付ければ、彼女は満足げに笑んだ。
「ではまず、かの有名な『運命』を」
「っ……!」
何を言われるかと思えば。有名故に僕も何度も弾いたことがある。
大丈夫……大丈夫……。自分に言い聞かせるように心の中で繰り返し、深く息を吐いた。
「間違えないで下さいね?」
「ま、間違えるはずがない、ぼく、僕が、この僕が……!」
そうだ、僕は天才ピアニストの息子。一番優秀な子供。
間違えるはずがないんだ……!
一音一音決して間違えることのないように弾いていく。いつもは羽根のように軽い指が、脅されて引いているという恐怖から、ひどく重く感じた。
鍵盤もこんなに堅かっただろうか。こんな、こんなに乱暴な音でいいのだろうか。
でも間違えてはいない。リズムも音程も正確そのものだ。音それ自体は、恐怖が染み出しガサツなものになってしまったが。
何とか弾き終えた僕は鍵盤に手を付き、大きなため息を吐いた。
ピアノの弦のけたたましい音に重ねて、拍手の音が聞こえる。ピアノに寄りかかり拍手をしていたのは藤波だった。
「緊張されていましたが、ミスはありませんでしたね。では次は『白鳥の湖』を」
な、なんだ。次も僕が弾いたことのあるやつだ。
ぼ、僕なら大丈夫。だって僕は、才能に恵まれたピアニストなんだから……!
先ほどよりかは自信ありげに、しかし慎重さを損なうことなく弾いていく。一曲目と連続して緊張ある演奏を強いられているからか、手の平に脂汗がじんわりと溜まっていった。
僕がしたかったのはこんな演奏じゃない。僕はもっと大きなホールで、黄色い光を一身に浴びながら、観客の心を奪うような演奏がしたかったんだ。
僕を小馬鹿にしたような笑みを浮かべるこいつらに聞かせるために、今までピアノを練習してきたわけじゃない。
今度も間違えることなく弾き切った。
だが恐怖だけでなく沸々と湧き上がる怒りにより、心臓が煩いぐらいに鳴り響いていた。
一体いつまで続くんだ、この地獄は……!