ハッピーエンドの末路
柏原雄介視点。
過去編。
『あんたがたどこさ ひごさ
ひごどこさ くまもとさ
くまもとどこさ せんばさ』
わらべうたと共に聞こえる、ぽんぽんとボールが跳ねる音。男か女かもわからない子供は、大きな庭には相応しくないほど貧相な格好をしていた。ボールをはじく手も見たことがないくらい細い。
父の知己だという藤波家は、俺の家と同じぐらい資産家だったはずだ。それなのにどうしてあんな、今にも死にそうな子供がいるんだろう。
気になった俺は、父の後ろから離れ庭に飛び出した。父が軽くいさめる声がするが、振り返らずその子供に話しかける。
『なぁ、お前このうちの子?』
『…………』
子供は歌うのをやめ、大きな瞳をこちらに向けてきた。父に教えられ人の感情を瞳から読み取れる俺だが、どうしてかその子の瞳からは何も読み取れない。
近くで見てみると、髪もぼさぼさだしずいぶん痩せているが、顔かたちは整っていることがわかった。
『おれ、かしわばら、ゆうすけ。なぁ、お前は?』
『…………』
『なーまーえ。お前おやになんてよばれてるんだ?』
『……くず』
『は?』
『くず、かす、しね、きえろ』
自分に言われた言葉なのかと思った。俺は一瞬唖然とした後、腹からこみあげてくる怒りをためて、言葉にしようと口を開いた。
子供が、首をかしげながら次の言葉を吐くまでは。
『これが、なまえ?』
『なっ……え?』
それは、どういう意味だろう。頭が子供の言葉を理解する前に、父に腕をつかまれた。
いささか強引に連れ戻され、俺は後ろを振り向きその子に未練がましい目をむける。その子は、相変わらず感情のない目で俺の方を見ていた。
父は「よその家庭の事情に踏み込まないほうがいい」と俺をいさめたが、俺はどうしてもその子が気になって仕方なかった。
何時間も食い下がれば、しぶしぶ父は俺に藤波家の最近の事情について教える。いわく、子連れの女と再婚したこと、その子供があの子――女の子であるらしい――であること、女はあの子にギャクタイをしていること、藤波の当主も今のところ黙認を決め込んでいること。
ギャクタイの意味を自分で調べて知ったとき、俺はようやくあの子の言葉の意味が分かった。
名前、呼ばれている名前。
くず、かす、しね、きえろ。……それが、あの子の最もよく聞く言葉。
俺は父に、再び藤波家に一緒に行きたいと頼み込んだ。意外にも父はそれを快諾した。
俺に会わせたい子がいるそうだ。俺より一歳の下の、綺麗な女の子らしい。あの子もそれぐらいの年に見えたが……あの子のことなのか?
『はじめまして。ふじなみ、さくやです』
だが、実際に座敷に連れられ対面したのは、あの子とは似ても似つかない、綺麗な着物を着た女の子だった。確かにきれいな子だったが、まだ6歳のくせに上等な着物を着て化粧もしているせいで、なんだか嘘くさい。
父と藤波の当主は楽しそうに酒を酌み交わし、俺と朔夜にあっちで一緒に遊んでこいと言って追っ払った。
なんとなく大人たちの目論見が見えた。たぶん父は俺と朔夜にも仲良くなってほしいんだ。時代も仲良しこよし、手を組んでいけってことか。
『さくや、おれ、さがしたいこがいるんだけど』
『さがしたいこ?』
『さくやとおなじぐらいのせのたかさで、すっごくやせてるおんなのこ。さくやのいまのははおやの、つれごなんだろ?』
『ああっ、なぎさのこと?』
なぎさ? なぎさっていうのか、あの子は。
俺はまず先に、ちゃんとした名前があったことに安心した。よかった。親から一応つけられているんだ。ギャクタイなんかする親のことだから、名前すらもまともに付けられなかったのかと思った。
朔夜は、俺の手を握ると庭の方へ向かって走り出す。何処へ行くのかと聞くと、喜色満面に「なぎさのとこ!」と返された。
『なぎさはね、今日はでてきちゃだめだからなやにいるの。でもそろそろごはんのじかんだから!』
ご飯の時間? 今は15時ぐらいだ。昼ご飯にしては遅すぎるし、夕ご飯にしては早すぎる。
庭をしばらく歩くと、小さな納屋が見えてきた。外から閂がかかっている。この中に……なぎさはいるのか。
『ゆーすけさんもごはん食べさせてみる?』
『は?』
『はいっ、これ!』
『これ……昼めしに出てきたパンじゃん』
『うん、なぎさのごはんはよういされないから、私のごはんののこりをあげてるんだ』
『よういされないって……なんだよそれ』
呆然と呟く俺の言葉が耳に入っていなかったのか、朔夜は上機嫌で閂を外し、納屋の扉を開ける。
納屋の中は寒く、明かりもついていなかった。朔夜が高い声で「なぎさー」と叫ぶと、暗闇の中で小さくなっていた影がパタパタと近づいてくる。
あの子だ。あの子が、嬉しそうな笑顔を浮かべて朔夜の前まで走ってきた。
『さくや!』
『なぎさー! ごはんのじかんだよー』
『うん。ありがとう、さくや!』
『今日はね、わたしのともだちもなぎさにごはんあげたいって。なぎさ、このこがゆーすけだよ』
『ゆーすけ?』
不思議そうに俺を見上げる瞳は、この間のものとはまるで違っていた。「この人見たことある」という感情が瞳からきちんと伝わってくる。
一瞬、別人かと思ったが、ぼさぼさの髪に古びた服。汚れていてもわかる顔の端正さは、たしかにあの子のものだった。
ドキドキする。朔夜の言葉に合わせてくるくる変わるこの子の表情が、とても可愛らしく見えた。
『ゆ、ゆうすけだ。わすれてるかもしれないけど……』
『……ううん。おぼえてる。かしわばら、ゆうすけ、でしょ?』
『そ、そうか。覚えててくれたのか! お前のなまえはなぎさっていうんだな』
『うん! さくやがつけてくれた!』
…………。は?
親が付けた名前じゃ、ないのか?
『なんだー、もうともだちだったんだね。あっ、ゆーすけさん、なぎさにごはんあげてみて。こーやってね……』
朔夜がパンを半分にちぎり、なぎさの目の前に持っていく。なぎさはあっさり俺から目をそらすと、嬉しそうにそのパンを咥えた。
少しずつ、少しずつ、パンを食んでいく。朔夜もにこにこと笑いながらそれを見て、時々なぎさの頭をもう片方の手で撫でている。
俺は初めて、その光景の異常性に気付いた。朔夜がなぎさを見る目だっておかしい。
いとおしそうにいとおしそうに見るその目は、
まるで、ペットを見る目だ。
『なに、やってるんだよ』
『え? だから、なぎさにご飯をやってるんだよ?』
『かってに名前つけたり、皿もなしにご飯食べさせたり! その子は犬やねこじゃないんだぞ!』
『え? え?』
無意識なのかもしれない、子供の無邪気さからくるものなのかもしれない。
それでも俺には薄気味悪くて仕方がなかった。朔夜が何もわかっていない様子で首を振っているのも気持ち悪い。
なぎさを飼っている朔夜。その時の俺にとっては、もっとも分かりやすい嫌悪の対象だったのだろう。俺は朔夜に向かって手渡されたパンを投げつけた。
『さくや!』
はじかれたようになぎさが動き出し、朔夜の前に立った。朔夜を小さな背中に庇い、俺をきつく睨み据える。
まさかなぎさに睨みつけられるとは思わなかった俺は、怯み後ずさった。なんで。俺は間違ったことなんて言ってない。
『さくやをきずつけないで』
『ちがっ……だってそいつがわるいんだろ?!』
『さくやはわるくない! さくやはやさしくしてくれた! さくやはごはんくれた!』
必死に“朔夜がしてくれたこと”を言い募る様子はまるで、狂信する神を庇うかのようだった。
違う、後ろで訳も分からず泣いている朔夜はきっとそんないい人間ではない。本当に優しい人間があんな目でなぎさを見るはずがないんだ。
ひな鳥が最初に見たものを母親だと思い込むように、なぎさは最初に優しくしてくれた人間を神だと思い込んでいるだけなんだ。唯一絶対の、慈悲深い神だと。




