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『きよしこのよる ほしはひかり
すくいのみこは みははのむねに
ねむりたもう ゆめやすく』
理化学準備室のドアに手をかけた時、内側から小さな歌声が聞こえてきた。音程というものがほとんどつけられていない、つぶやきに近い声は確かに彼のものだ。
教室から飛び出した私は、しばらく校舎を彷徨ったのち、この秘密の場所に来た。私に言われた酷い言葉のすべてを恋人――要さんに話して、慰めてもらいたかった。
ドアを静かに開ける。誰にも見つからないようにと暗幕カーテンを閉め切った中、白磁の肌が浮かび上がっている。要さんはまるでそこに月明かりがあるかのように、窓の外をじっと見つめていた。
「要さん?」
「……。皐月さん、どうしたんですか、浮かない顔をして」
感情の抜け落ちた顔に戸惑いを感じていたが、いつもと同じ、私を気遣う笑顔を向けられてほっと息をつく。
足早に要さんのところへ行き、その胸に顔をうずめる。背中に手を回せば、期待通り、要さんも優しく抱きしめ返してくれた。
回転式の椅子に腰かけていた彼の太ももに跨った。ここが私の定位置。ここは私だけの場所。
彼の温もりに触れているときだけは、つらいことも苦しいことも忘れていられる。
逆ハーを目指していたはずなのに、いつの間にかこの人だけでもいいと思うようになっていた。
そう思わせるほど彼は完ぺきな恋人だ。私の期待を先読みしているかのように言ってほしいことを言い、やってほしいことをやる。
私が攻略対象を幸せにするんじゃなくって、要さんが私を幸せにしてくれる。ひたすら与えられる甘い愛に私はすっかり夢中になっていた。
「ひどいのよ……っ、私何も悪いことしてないのに、みんな私が悪いって言ってくる! 要さんっ、私悪くないよね? 悪いのは、私を責める人たちのほうだよね?」
「皐月さん、落ち着いて。どうしてそんなことを言われたのか、経緯から話してみてください」
経緯? 経緯なんて知らない。いきなりみんなが死にはじめて、今日突然友達から突き放されたんだ。
何が起こっているのか知りたいのはこっちのほうだ。私は何も間違ったことなんてしていない。ベストな選択肢を選んできて、逆ハーエンドにたどり着いたはずなんだ。
私は悪くない。ならば、誰が悪いのか。
「あいつの、せいよ」
ひくりと、口端が動いた。胸の中は苛立ちで埋め尽くされているというのに、なぜか笑みが浮かぶ。
要さんの静かな瞳が私をじっと見据えていた。どこか温度のないその瞳に、焦りを覚える。ちがう。私は悪くない。ほんとうにわるくないのよ。
「あの女が悪いのっ、あの女が、あんなふうに自殺なんかしたりするから! だからみんな怖くなっちゃったのよ! 全部全部、あの二階堂朔夜って女が悪いのよ!」
「……その人が悪いんですか?」
「そうよ……っ、だってそうでしょう? わ、私あの子に虐められてたの! 私が人気者だからって嫉妬して……それをみんなに責められた途端自殺したのよ?」
「すると、彼女はあなたにとって“悪役”だった」
「そう、そうよ」
そう。悪役に仕立て上げた。
だけど今は本当の本当に忌々しい悪役だ。学校の中で自殺なんかしたせいで、誰もが私に責任を擦り付けようとしている。
なんだっていうの、これ。なんなのよもう。私は悪くない。私はただゲームを進めただけじゃない。あんな脇役、別にいなくなったっていいじゃない!
「男を“攻略”するのに邪魔だったんですか?」
「え……?」
意味深な言い回しに戸惑い、要さんの瞳を注視する。
要さんの腕はいまだに私を抱きしめていた。優しいそのしぐさなはずなのに、どこか違和感を覚える。
薄く笑うその顔は、この世のものとは思えないほど美しい。
「貴女がよく使っている言葉じゃないですか。言いえて妙だと思いました。貴女はまるで恋愛ゲームの主人公のように、対象の心をつかむ言葉を選んで口に出す。まさに“攻略”だ」
「か、要さん?」
「ですから私も貴女を“攻略”することにしました」
ゆっくり、細長い指がスカートの下に潜り込む。太ももをすぅとなぞるその動きに、たびたびの情事を思い起こし体の奥が熱くなった。
要さんの言葉に疑問をぶつけるよりも先に、彼の首にしがみつき、硬い太ももに股を摺り寄せる。こんなはしたない行為、彼以外の人間にはしない。
耳元で「要さん……」と彼の名を呼び、先を促そうとした。彼がくつくつと喉の奥で笑う。
「あなたが性的欲求の強い人間だということはすぐにわかりました。どうやら処女喪失する前からその方面への興味があったようだ。副会長と書記は童貞でお堅い性格のため、誘いに乗ってはくれなかったみたいですね。会計には適当にあしらわれましたか?」
「え……?」
「結果的に貴女の肉体を満たせる男は柏原雄介ひとりだった。物足りなかったんですよね? あなたのココはとても、食べたがりのようだ」
「ひゃんっ」
スカートから出た彼の手が、今度は下の腹あたりを撫でさする。ちょうど子宮や膣があるところだ。
いやらしい言葉に顔が熱くなる。だけど今回ばかりは、淫蕩にふけるわけにもいかなかった。
要さんの言葉が気になる。どうして私が生徒会の皆を誘ったことを知っているの?
どうして私が雄介に抱かれたことを知っているの? まさかあの映像……っ、あの女、あれをネットに流出させたの?! それを要さんが見ちゃったとか?
要さんはきっと私と雄介の仲を疑っているんだ。確かに“前作”では雄介が一番のお気に入りだったけど、もうあれは終わったはず。雄介だって最近めっきり私に構ってくれなくなったし。
きっとこれは嫉妬イベントってやつなんだろう。エロ担当の人間はその実、誠実な女性が好みだっていうのは乙女ゲームの定石だ。
私はごくりとつばを飲み込んだ。選択肢を間違えちゃいけない。これがルート分岐になるかもしれないんだから。
「わ、わたし……雄介に、襲われたの……っ。確かに私のハジメテは雄介に奪われたわ、でもあれは! あれは雄介が無理矢理……!」
「めったに使われない男子トイレで? どんな誘い文句を受けてそこに行ったんですか」
「……っ!」
そうだ、そうだった。あの映像は男子トイレで撮ったものじゃないか。
男子トイレで無理矢理なんてシチュエーション、今どきAVでもない。連れ込まれる時に違和感を覚えて叫び声をあげるのが普通だからだ。
でも、仕方なかったのよ。雄介は“あの話”をするときはあそこでしかさせてくれなかった。どうしてかなんて知らないけど、彼なりに人目を気にしていたんだと思う。抱いてもらうにもあの場所しかなかったんだ。
だけど要さんの言い方も酷い。なんでそんな嘲ったような言われ方しなくちゃいけないの。要さんだって私のこと「淫乱で可愛い」って言ってくれたじゃない。二人目だからって何よ。
状況を打破できない焦りが次第に苛立ちに変わり、私は要さんをきっと睨みつけた。
「私が誰と付き合ってたって関係ないじゃない。そういうの聞くの、野暮だと思うわ!」
「ええ、貴女が私以外の人間と体をつなげていた。そっちの事実はどうでもいいんです。むしろ貴女には深く感謝をしています」
「え?」
「ありがとう。貴女の盗撮したビデオのおかげで、あの子を死に追いやった人間を見逃さずに済んだ」
そう低くつぶやいたのは、要さんではなかった。背後から聞こえた女の声に私はあわてて後ろを振り向こうとする。
しかし要さんに後頭部を強く掴まれてそれは叶わなかった。
ぎょっとして彼の顔を見上げれば、美しい笑顔。しかし目の奥が笑っていないのがありありと分かり、その様は何か悪いことを企んでいるようにも見える。
耳鳴りに似た警告音がした。彼は、私に害を与えようとしている。
気付くのがあまりに遅かった。抵抗する間もなく、冷たい感触が太ももに走る。
「え……?」
まるで、薄く冷たい氷が肌の上を走り抜けたよう。そう思ったのに、一瞬後には燃えたように熱くなる。
濃紺のスカートにあっという間に広がっていった、赤黒いしみ。
赤?
「いた、い?」
頭のどこかが麻痺して、この感覚を言葉にすることを忘れている。
力の入らなくなった太ももも、スカートから出てきた彼の手に握られているナイフも、全部見えているのに、認識ができなくなっている。
赤い。熱い。熱い。痛い?
血?
「ひっ、あ、ああ゛あああっ!!」
転がり落ちるようにして要さんの膝から降りた。その際にスカートがめくれ、間一文に切り開かれた傷口が姿を現した。
心臓の音とシンクロして血を吹き出す縦長の泉。彼が、要さんが切ったの?
要さんがナイフの血を布でふき取りながら椅子から立ち上がり、二三歩あるく。その時になってようやく、背後にいた女が視界に入った。
「な、なぎさ……?」
「要、ごめんね。黒田真司を孤立させるためとはいえ、こんな酷いことを強いた」
「いいえ。彼女を攻略するのにこの手段を選んだのは私ですから。それに、少しでもナギ様の苦しみを分かりあいたかった」
「どういうこと?」
「同じ苦しみを味わいたいと思ったんですよ。貴女も柏原雄介に“食べられて”いるでしょう?」
「……そういうこと」
まるで恋人同士のように寄り添いあい、お互いを気遣うしぐさを見せる渚と要さん。
どういうこと? 二人は知り合いなの? なんでそこで真司の名前が出てくるの? ――どうして要さんはケガをした私を心配してくれないの?
その傷をつけたのが要さん本人だということも忘れて、私は“駆け寄ってきてくれない要さん”に絶望を感じていた。
クラスでのことが脳裏に浮かぶ。違う、私は愛されているんだ。見捨てられたりなんかしない! 私は愛されているんだ!!




