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手引き

作者: たてばん

     1.プロローグ


 ――私と同じ場所に来てしまったのね。長い時間あなたを待ち続けていたけど、いざ、その時がくるとなんだか複雑な気持ちだわ。

 村上和子(むらかみかずこ)は寝ている戸塚清(とつかきよし)の頬を撫でながら優しい眼差しで見つめ、清と共に過ごした子供の頃を思い出していた――。

 朝御飯と夜御飯。一日に二食、蛇やタニシや薩摩芋(さつまいも)(つる)に至るまで、食べられる物は全て食べた。しかし、それでも満腹感は得られない時代だった。

 この日本は戦争に負けてしまった。そのせいで異国の自動車が走り回り、金色に輝く髪をした兵隊が町をうろつくようになった。いや、問題はそこではなく、負けてしまった結果、私たちの明日を支える食料が無いのが問題なのだ。

 政府から雀の涙ほどの食料が配給されてはいるものの、それでは全然足りていないのが現実だ。米は配給制で買えない決まりなのだが、闇米と言って、直接米屋に行って裏で買ったり着物と交換する者さえいた。

 当時の子供は遊びのついでに御飯のおかずを採ってくる。今考えれば変なことなのだが、その時はそれが遊びだと思っていたし普通の事だった。そんな『遊び』に、引きこもりがちな清を連れ出して、近場の小さな山に向かっていた。

 自分の身長よりも遥かに長い釣竿を担いで清の手を引く和子の姿は、母親がだだをこねる子供の手を引くような有無を言わせない振る舞いだった。そんな和子と清の横を、異国の自動車が喉に絡み付く嫌な土埃を巻き上げながら追い抜いた。不意に追い抜かれたものだから、和子も清も土埃を吸ってしまい咳が止まらなくなる。

 目の前は曇天のような灰色の視界だが、少し見上げれば空は澄み渡る大海のようにどこまでも青い。空の水面を透過して真夏の太陽が、和子たちを蒸し焼きにしていく。そのせいか、清と繋いだ手は、じっとりと熱を持ち力強かった。

 緑色に染まった山を汗を垂らしながらゆっくりと登っていく。周りの木々が太陽の光を遮り、日陰の中は暗く空気が冷えて気持ちのいい気温になっていた。

 木々のトンネルを抜けて頂上に着くと、そこには小さな池があった。池は緑色で汚く見える。しかし、池を囲む草木の葉っぱの緑色は綺麗で、なぜ同じ色でこうも差が出てしまうものなのかと思ってしまう。

「じゃ釣れたら大声で呼んでね」

 清を池の前に座らせて釣竿を持たせた。そして、和子は被っていた麦わら帽子を清の坊主頭に被せる。清は肉を担当して和子は木の実や山菜などの野菜を担当している。分担して自分の仕事をする。この日も何も変わらない、いつも通りの作戦だった。

 だが、毎日同じ作戦をしていても、上手くいくとは限らない。

「さっきから後ろでうろうろと、何やってるの?」

「食べられそうな物が全然見付からなくて……」

 最近はずっとこの山で採っていたので、池の周辺の食べ物はあらかた取り尽くしてしまったのだ。清を一人にして離れるわけにもいかないし、でも、それだと今日の御飯が食べられない。木陰の暗さが心の不安を表しているようだった。

「僕なら大丈夫だよ」

 池を真っ直ぐ見据えている清の白いタンクトップの背中が、僕は大丈夫だから行って来い、そう言っているように聞こえた。

「……分かったわ。そのかわり、何かあったら大声よ」

「分かってるよ」

 清は振り返る事無く、手を挙げて返事をした。

 清の位置から十メートルほど後ろに下り勾配の土手があり、まだその場所には立ち入っていないので、山菜があるはずだ。しかし、下り勾配という事は清に何かあった時に駆けつけるのに時間がかかる。いや、何かあった事すら気付かないかもしれない。

 土手を下る前に清が心配で振り返ると、返事をした手が拳に親指を立てた、いわゆる『大丈夫』のポーズをしていた。背中に目が付いているのでは無いかと思うタイミングに、和子は清に背中を押してもらった感覚を覚えた。

 土手を見下ろすと暗海に先が見えず、後ずさりをしてしまった。こんなことでは駄目だ。和子は覚悟を決めて、闇に足を踏み入れた。倒木を乗り越え垂れ下がる(つた)を散らしながら進む。時折、靴の中に土が入り込み違和感からくる嫌悪感で、土を取り除きながら下ったため、心なしか時間がかかってしまった。だが、清のおかげなか、和子は臆する事無く土手を下る事ができた。

 下りきった先には大きな草の絨毯が敷き詰められ、まだ荒らされた形跡がなかった。これだけたくさん生えていれば食べられる野草の一つや二つぐらい探すのに苦労はしないだろう。その一つを手に取ってみる。タンポポの葉のようにギザギザな形状をしている野草だった。その野草を見て和子の顔が青くなる。まさか……。

 和子は次々と野草を手に取っては捨てていく。

「なんで同じ草しか生えてないのよ」

 握り締める手に掴むその野草は、以前食べたことのある野草だった。名前はわからないが、和子も清も食べた次の日腹痛に苦しめられた。山菜や野草の知識はなく図鑑などあるわけもない和子は、とりあえず食べてみることで、身をもって勉強しているのだ。

「大丈夫。こんなにあるんだもの。どこかに食べられる野草があるはずだわ」

 和子は自分に言い聞かせるように独り言を発し、辺りの探索を始めた。


 ――どのくらい探していただろうか。

 肌寒くなった風にさらされて、気が付けば日が傾き太陽も新鮮な卵黄のように光沢のあるオレンジ色を放っていた。これだけ食べ物のことを考えているのに、肝心の物は一つも取れなかった。木を隠すなら森の中とはよく言ったものである。悔しいが日が暮れる前には小さいとはいえ、下山をしないと危険だ。

 和子は踵を返し成果のない寂しい手を力なく開きながら、目の前の斜度のある坂を見つめた。まだ一歩も進んでいないのに、坂に足を踏み入れる気力が湧いてこない。空腹のときは気が滅入る。気を確かに持て和子、和子は自分の頬を叩き赤く腫れた顔で清のいる池を目指した。

 足を重く感じさせる上り坂は、まるで誰かが足を掴み、食料を探しに戻れと言っているように思えた。

 坂を半ばにして水が跳ねる音が聞こえてきた。音の大きさから察するに、メートル級の鯉といったところか。期待が現実になったことで、足が軽くなった気がする。しかし、登りきった和子の目に入った光景は信じられないものだった。

 池で派手な水飛沫を上げていたのは鯉ではなく、なんと清だったのだ。なんで清が池の中に……、今はそんなことを考えている時じゃない。早く清を助けないと溺れて死んでしまう。和子は池まで走ると、そのままの速度で池に飛び込んだ。

 水の冷たさや泥臭さ、自分の靴が脱げてしまったことにいたるまで、何一つ感じることはなかった。清を助けることで頭がいっぱいだったのだ。

「捕まえたわ」

 必死に泳ぎ溺れて暴れている清の腕を捕まえた。しかし、清の暴走は止まらない。

「大丈夫だから、暴れないで」

 清を掴むまでは良かったのだが、溺れている人間が暴れ続けるまでは予想できなかった。男が本気で暴れているのだから、和子には押さえ付ける事は不可能に近かった。

 苦しい……。清の水に対する抵抗の巻き添いをくらい、和子も水を飲んでしまい半分溺れているような状況に陥った。それでも一生懸命足掻き、何とか清と一緒に陸に上がる事ができた。足掻くのは私たち庶民の得意分野である。

「なんで池に……、入ってるのよ」

 和子は息切れ切れに清に聞いた。すると、清から涙声で予想外の言葉が出てきた。

「後ろから……い……きなり……押されたんだ」

 押された? 誰に? それを清に聞いてもしょうがない。和子は言葉を飲んで、それから周りを見回した。

 木々に藪に山草、清に別れを告げた時と特に変わった様子も無く、誰かいる気配も無い。

 空を見上げると星が見え始めていた。夕暮れの肌を撫でる空気とすっかり暗くなってしまった山の不気味さに、お化けでも見たかのように前だけに焦点を合わせて清の手を引き急いで帰った。


 釣竿を無くしてしまったし清を危ない目に合わせた。、素直に謝った方が良いよね。

 釣竿は清の父親の物を借りていたのだ。今は他人の子供を叱ると後々面倒ごとになると敬遠されがちだが、この時代の大人は自分の意見と意志は子供だろうが拳骨(げんこつ)と共に伝えたものだ。下手なお化けより怖いかもしれない。

 和子が玄関の戸を叩こうとした時、中から声が聞こえてきた。

「――な――ちゃん――」

「村上さんと――ったんだよ」

 声は途切れ途切れだったが、どうやら私のことを話しているようだった。やはり怒っているのだろうか。

 和子は気づかれないように、戸に張り付き聞き耳を立てた。

 話を聞くにつれて和子は、自分でも血の気が引くのがわかった。これ以上長居するのは危ない。静かに誰にも悟られないように戸から離れて、和子は急いで家に帰った。

 さっきの話が本当だとしたら清が……、そんなこと私の目が黒いうちは絶対にさせない。声から推測するに話ししていたのは清の母親と父親だろう。清に害をなすものは私が許さない。それは例え清の親でもだ。

 和子はこの日、清の事を守る事を誓った。


     2.十~


 1.


 今は何時だろうか。ずいぶん寝た気がするが、時間がわからない。

 清は布団から起き上がり伸びをひとつした。そして、重たい瞼を開いてみる。寝起きの視界は、早朝の濃い霧のようにかすみ、時計の秒針さえ見ることができなかった。何度目を擦ってみてもその結果は変わらなかった。

 いつもと変わらない景色。白く明るく霞む世界。その事実を受け入れることから清の一日は始まる。

 どのくらい呆けていただろうか。明るいということは、朝がきた、ということなんだろう。それならば、あの子がそろそろ来るはず……。

 建て付けの悪い玄関の引き戸が悲鳴をあげながら開く音が聞こえる。もちろん玄関に鍵などかけてはいない。むしろ、玄関に鍵があるのかさえわからない。

「もう起きてたんだ。おはよう」

 左のほうから和子の声が聞こえる。なんだか、さっきから妙に静かで不安になっていた清は、和子の声を聞いて胸を撫で下ろした。

「お母さんは?」

「おばさんは用事があるみたいだから、今日は私が面倒をみるわ」

 和子の張り切っている姿が目に浮かんだ。ついこの間までは和子のほうが落ち込んでいたのに、今では、僕のほうが気落ちしていまっている。

 空気が動く感覚を頬がかぎ取る。次の瞬間、布団が捲られ服を引っ張られた。

「ほら、着替えるわよ」

 上着を脱がされ、ズボンに手をかけられたところで、はっとした。

「自分で着替えるから大丈夫だよ」

 いくら和子とはいえ、さすがにパンツ姿を見られるのは恥ずかしい。清が必死にズボンを押さえていると、こっちの考えが読めているのか、恥ずかしがらなくても大丈夫よ、と必死に説き伏せようとしている。何が大丈夫なのだろうか。強引で献身的なのが和子の長所だが、行き過ぎた善意は悪意と似ている。

「こっちは大丈夫だから、朝ごはん作ってよ」

「んーわかったわ。ご飯作っておくから着替え終わったら呼んでね」

 なんとか和子を離すことに成功した。これでゆっくり着替えることができる。手探りで服を探して、埃っぽいタンクトップに腕を通す。洗剤の使っていないタンクトップは、ごわごわして着心地が悪かった。

 布団をたたんでから、柱から壁へと手の感覚を頼りに移り、一寸先も見えない洞窟を歩くように自分の家を探索した。目的地は、和子とご飯の待つ茶の間だ。柱は手触りが良く触って気持ちが良いのだが、壁はざらざらしていて触ると足元に砂が落ちるので、なるべくなら触りたくない。しかし、そうも言っていられない。

 無防備の裸足に壁から落ちた砂が容赦なく付いていく。家の中なのに、実は外を歩いているのかと勘違いしてしまいそうだ。

「ちょっとなにしてるの」

 驚いた和子の声が目の前から聞こえてきた。

「着替え終わったから茶の間に行くとこだよ」

「着替え終わったら呼んでって言ったじゃない。もう、土壁がぼろぼろ……」

 和子から落胆が感じられる。どうしたものか――。僕にはこの方法しか移動手段がない。悪いわけじゃないのに謝るのもどうなのか。なんと返事をして良いのかわからず下を見ていると、清の手に暖かい和子の手が触れてきた。

「別に怒ってるわけじゃないわ。ただ私をもっと頼ってほしいの。私にはこんなことしかできないから」

 和子はあの時のことをまだ気にしているのだろうか。

「わかったよ。これからは、もう少し和子に頼るよ」

「そう決まれば朝ごはんね」

 和子は清のその一言で機嫌を直した。なんとも現金な奴だ。機嫌を直した和子は清の手を引き茶の間に向かった。

「おかず何も無かったから、醤油の実と麦飯だけだけど我慢してね」

 醤油の実とは醤油の絞り粕で、戦時中や戦後の食料難の時はこれをおかずにして、固くて美味くもない麦飯や芋飯を食べていた。白米のことは銀シャリと呼んでいたが、滅多にお目にかかれない代物だった。

 清は朝食をぺろりと食べてしまった。和子が作った朝食だから、あまりの美味さに食が進んだ――、わけわなく、美味くはなくても腹が減っていればどんなものでも美味く感じる。空腹は最高のスパイスとはよく言ったものだ。

「今日は釣りに行かない?」

「池の魚は泥臭いから食べたくないな」

「贅沢言わないの。さぁ行くわよ」

 清は和子に手をとられながら立ち上がった。そして、そのまま玄関に向かった。玄関に座る清に靴を履かせる和子の姿は、まるで、幼稚園児に靴を履かせる母親のようだった。

「そういえば竿はどうするの?」

「清のお父さんのを借りるわ」

「壊したら怒られるよ」

 清の父親は亭主関白で気に入らないことがあると、誰であろうと拳骨の隕石を落とす子供にも大人にも恐れられていた存在だった。それなのに和子は竿を借りると言う。しかも無断でだ。怖いもの知らずとは、和子の為に作られたのかもしれない。

 カラン、と玄関の隅にある傘たてから竿を抜いた音がした。次に玄関の悲鳴にも似た金属が擦れる音がする。

 清が右手を前に伸ばすと、和子の手のひらがそれをしっかりと掴み、前へ前へと引っ張っていった。

 和子の手はひんやりと心地よい冷たさを保ち、弾力と艶のある肌質をしていた。それと比べて、自分の手は少し汗ばんで熱をもっている。今日は暑いね、とさり気ない和子の優しさが身に染みる。

 しばらく手を引かれて歩いていると、あることに気がついた。――音が聞こえない。町を歩く人の雑踏。暴走する自動車。野良犬の鳴き声。生活感のない世界が広がっているように感じる。

「なぁ和子、なんだか静か過ぎないか」

「そんなことないわ。それよりすぐ池に着くわよ」

 なんだか話をはぐらかされたような気分だが、和子がそう言うなそうなのだろう。周りの状況は和子に頼らないとわからないことが多すぎる。

 家から西に十分ほど歩くと小さな山がある。その山の中に池があり、いつもそこで鯉や鮒を釣って晩御飯のおかずにしているのだ。

 池に着くと清は釣竿を持たされ、釣れたら呼んでね、と一言だけ言われて放置された。和子が意地悪しているわけではなく、清は餌となるミミズを捕まえられないので釣りを担当して、代わりに和子がミミズを捕まえてくるのだ。これはいつも通りの作戦だった。

「なかなか釣れないね」

 大量のミミズを捕まえて暇を持て余した和子がぼやいた。そうだね、と清が答えようとした瞬間釣竿が大きくしなった。タイミングを合わせて釣竿を引く。昔ながらの延べ竿なのでなかなか引き寄せられず、竿立てて、と和子の言葉に従いながら竿を操る。岸辺まで魚を誘導するのが僕の仕事で、その魚を陸に引き上げるのが和子の仕事だ。

「大きいの釣れたよ」

「どのくらい?」

 釣竿が軽くなって、期待がふくらむ。魚も何もかも白い霞の中の住人で見えないので、和子から大きさを聞くこの瞬間がたまらなく楽しみで好きだ。

「四十センチぐらいかしら。二人で食べるにはちょうど良いわね」

 まずまずの大きさに納得した。しかし、和子の何気ない一言には疑問を抱いた。

「二人? 母さんと父さん、それに和子の母ちゃんで五人だろ?」

「あぁ……、私のお母さん今日いないから清の家に泊まるように言われたの。清の両親は町内会の集まりで帰りが遅くなるから、ご飯いらないって言ってた。いやー、すっかり言うの忘れてた」

 わざとらしい言葉使いで、なにかを隠すような感じがした。

「なにを隠し――」

「もう遅いし帰ろうか」

 言い切る前の清の言葉に和子が言葉を被せてきた。やはり何かありそうだ。手を引かれての帰路の最中もそのことで頭がいっぱいだった。

 母さんと父さんは僕のことを捨てたのではないか。そのことを知った和子が世話をしにやってきた。いや、そんなはずはない。首を振って精一杯の否定をしてみる。気も済まないし気分も晴れない。心は曇天模様だ。

「首振ってどうしたの?」

「いや、なんでもない」

「そう、今日の晩御飯は鯉の煮付けよ。相変わらず麦飯だけどね」

 その言葉を最後に一時間ほど経った頃、和子が料理を出してきた。それを一口食べて目を見開いた。――美味い。いままでも何回か和子の料理を食べたことがあるが、可哀想になるほどの腕前で、どうやったらそんな味になるのか知りたいくらいの腕だったのに――。

「いつの間にこんなに上手くなったんだよ?」

「清に美味しく食べてほしくて、たくさん愛情を入れたから美味しくなったのかな」

 それを聞いて、なんだか無性に恥ずかしくなった。和子はこんな台詞を言ってて恥ずかしくないのだろうか。

「晩御飯も食べ終わったし寝ようか」

「そうだな」

 和子が布団を敷く音が聞こえてきて、辺りに埃の臭いが立ち込める。その布団の中に清が入った。

「布団敷いてくれてありがとう」

「いえいえ、それじゃお邪魔します」

「おい、なに入ってきてんだよ」

 清の布団の中に和子が入ってきた。和子の甘い香りが周りに広がる。

「清汗臭い」

 和子は笑いながら地味に傷つく言葉を投げつけてきた。

「だったら出ろよ」

「でも、清の匂い私好きだよ」

「勝手にしろ」

 恥ずかしい言葉を臆せず言えるのは和子の良いところ。言った本人より言われた僕のほうが恥ずかしくなってくる。和子のほうを向いて眠るのは恥ずかしいので、和子に背を向けて眠ることにした。


 2.


 茶色く少し黄ばんだ天井。湿気を含み重みの増した布団。埃の臭いとかすかな汗の臭いが交じり合った清の匂い。隣では清が小さな寝息をたてている。窓から朝日が家の中を明るく照らしている。時間は午前七時を過ぎていた。

 先に目を覚ました和子は、清を起こさないように静かに布団から出ると、まっすぐ台所に向かった。

 台所で水を一杯飲んで顔を洗ってからが今日一日の仕事の始まりだ。

 まずは清が起きる前に朝食の準備だ。まず釜に入れた米を水砥ぎしてから火にかける。この時代の家庭にはまだ炊飯器という便利な代物が無かった。軍隊が持っている炊飯器ですらお粗末な代物だった。米が炊けたら15分以上蒸らしてから、おひつに移してご飯は出来上がりだ。おかずは大豆の粕だけ、何も食べられない家もある中、毎日食べられるのだから私と清は幸せな方だろう。しかし、女の仕事の一つの料理があまりにも簡素すぎて、思わず和子の口からため息が漏れる。

 ご飯が冷めないうちに和子は清を起こしに行った。ぎしぎし、と廊下の床が重いと言わんばかりに声を上げる。そんなに太ってないんだけどな……。

「おはよう、今日も早いのね」

 清の寝ている寝室に行くと昨日と同じく、清は上半身だけを起こして静かに前を見ていた。清の視界

には何が映っているのだろうか。

「もうご飯できたの?」

「うん、はい。掴まって」

 和子は清に手を差し伸ばした。清の手が和子の手を捉えた。清の手は和子の手より大きくて、手汗をかいていた。しかし、汚いとか触りたくないとか、そんな子供のような悪意の塊の気持ちは抱かなかった。逆に清は気にしているのかと気になり、後ろを振り向いてみると清の頬が桃色に染まっていた。そんな清に動揺の色を見せ、和子の手も自然と熱を帯びていった。

 茶の間に着くと、清をテーブルの前に座らせて、おひつから茶碗に白い米をよそった。その匂いを嗅いだのか、清から問いが飛んできた。

「この匂いは銀シャリだろ? こんなのどこにあったんだよ」

 今では普通の白米も、この時代では滅多に食べられなかった。呼ばれ方は白く輝く米で銀シャリだ。問題はこんな代物を勝手に子供が食べて、親たちがなんと言ってくるかだ。普通なら一発殴られて家から追い出されるだろう。和子はそんな大罪を何の悪びれも無くやってしまったのだ。しかし、和子の答えは意外だった。

「台所に普通にあったわよ。でも、おじさんに食べていいって言われたから、そんなに怖がらなくても大丈夫よ」

「あの親父がそんなこと言うかな……」

 焦点の定まらない疑念の目が和子に向けられる。

「本当よ。清が食べないなら私が全部食べてあげるわ」

「誰も食べないなんて言ってないだろ」

 清は茶碗を持つと、鼻の近くにそれを持っていき銀シャリの匂いを嗅いだ。滅多にお目にかかれないので、五感を使って楽しみながら食べるのだろう。そんな清を見る和子の目は、自分の子供を見るように優しさに溢れていた。

「今日は栗拾いをして、晩御飯は栗ご飯にするわよ」

「栗拾いするのは良いけど、僕は拾えないよ」

「大丈夫。暇はさせないわ」

 不安がる清をよそに、和子は清の手を引き外に出た。外は昨日と打って変わって曇りで肌寒い。なんだかお天道様が、今日は外に出るな、とでも言ってるようだわ。風の音と私と清の足音以外何も聞こえない、寂しい世界がどこまでも続いている。灰色の空が落ちる気持ちに拍車をかける。

 風が強いことが功を奏してか、今日は清に怪しまれずに山に辿り着くことができた。

 昨日釣りをした池から少し離れたところに切り株がある。そこに清を座らせた。

「清はここにいて」

「僕は座ってるだけ? 暇はさせないって言ったじゃないか」

 語気に迫力が増した清に、和子は黒い箱を渡した。そして、黒い箱に刺さっている棒状のアンテナを伸ばした。すると、雑音と共に歌が聞こえてきた。

「これは――鉱石ラジオ?」

 鉱石ラジオは真空管ラジオが普及する以前に使われていたAMラジオ受信機だ。アンテナが拾った微弱な電波を使い音を鳴らすこのラジオは電池が必要がなかった。放送局の遠いこの地域は電波が弱くて雑音も混ざってしまうが、それでも、電気の必要ない鉱石ラジオは一家に一台は欠かせない存在だった。

「そう鉱石ラジオよ。家から持ってきたの。それ聞いて待ってて」

 ややあって、わかったよ、と清の諦めた声が聞こえた。これで安心して栗拾いに集中できる。

 和子は切り株に座る清を置いて、あの時下った坂に踏み入れた。あの時と違い、清を危険な目に合わせる人はいないけど、池から離しておけば安心だろう。そう思い清に鉱石ラジオを預けて切り株に座らせたのだ。

 家から持ってきたザル籠に栗をどんどん入れていく。ふと、坂の上から清の声が聞こえる。ラジオから流れる歌に合わせて歌っているようだった。今まで何十回何百回と聞いた歌だ。自然と歌ってしまうのだろう。だが、その清の歌声を聴くと、不思議と力が湧いてくる。

 私は清がすべて。あの日から清のためにすべてを捧げると誓った。

 気づけば清の歌声が聞こえなくなっていた。上り坂を登って清との距離が縮まっても聞こえてこない。ラジオの歌が終わったのか。それか、単純に歌い疲れたのだろう。坂を登りきった和子の目に入った光景は、そのどちらでもなかった。

 ――清がいない。

 切り株に清が座っていないのだ。この山の中を清が一人で歩くことは不可能に近かった。では、どこに行ったのだろうか。この世界には清を傷つける者は存在しない。

 和子は有り得ない状況に軽い引き付けを起こしながら思考を巡らせた。右手で爪を噛みながら切り株の上を見ると、鉱石ラジオが清の席を守っているように置いてあった。どうやら、自分から切り株から離れたようだった。

 視線を切り株の先、池に向けると何かが大きな水飛沫を上げている。鯉とか池の主とかそんなもんじゃない。それは、見間違いじゃなければ清だった。

 和子は栗が入ったザル籠を投げ捨て池に走った。なぜ前と同じことが起きるのだろうか。いや、起きることは問題じゃない、起こしてしまった私の不注意だ。涙に視界がぼやける。泣くな。泣いても何も変わらない。今までの経験で嫌というほど味わってきたじゃないか。

 池に着いた。そこには、和子にも理解できない状況があった。

 清が泳いでいたのだ。あの時の清は泳げなくて溺れたはずなのに……。

 和子は無意識に開いていた口を強くかみ合わせた。

「あんた何してんの!」

 和子の怒鳴り声が静かな山に響いた。その声を聞いて清は岸に上がった。清の体は水浸しな以外は、特に変わった様子はなかった。

「いや、便所に行きたかったんだけど、ここ山じゃん。だから、池の近くの茂みでしようかと思ったら池に落ちちゃって。さすがに便所に和子を呼ぶわけにはいかないからな」

「私……気にしないよ?」

「僕が気にするんだよ」

 泳いでいたのには驚いたが、落ちた理由がくだらなさ過ぎて拍子抜けした。それと同じく膝の力も抜けて和子は崩れ落ちた。良かった。この世界に来てまで苦しい思いをしてほしくない。

 和子の崩れ落ちた音に反応して、清が心配の声をかけてきた。

「大丈夫か? いったいどうしたんだよ」

「私はてっきり前みたいに清が溺れちゃったのかと思って――」

 和子はそこまで言って自分が犯したミスに気がついたが、もう遅かった。

「前? 僕は溺れたことないけど……大丈夫?」

「うん、少し疲れただけだから大丈夫よ。それよりも、便所はいいの?」

 和子は苦し紛れに話の路線を変えた。

「池で泳ぎながらしたから大丈夫」

「じゃ、その服についてるってことじゃ……、近づかないで!」

 清の大丈夫じゃない答えに、和子は顔を引きつらせながら清から離れた。

 山の中でゾンビのように手を伸ばしながらふざけながら和子に近づこうとする清に対して、和子は顔を青くしながら本気で逃げてはいる。しかし、自然と笑みがこぼれてくる。

 この時間がずっと続いてほしい――。和子は叶うはずがない願いを頭に思い描きながら走った。


 あなたは、まだこの世界がどのような場所なのか知らない。でも、それはしょうがないわ。私も初めて来た時は全然わからなかったもの。

 この世界の終わりが一歩一歩近づいている。まだ始まったばかりの世界の終焉が――。



     3.三十~


 1.


 周りに人が集まって僕の名前をしきりに呼んで、騒がしいことこの上ない。うるさい、と一喝しようとして、仰向けに寝ている身体を起こそうと力を入れてみる。どうしたことだろう、力が全く入らない。手足は氷のように冷えた感覚で、全然反応を示さない。

 声を出そうとしたところで、誰かが僕の上に乗りしきりに胸を押してきた。しかし、押されている実感があるだけで、苦しさは感じられなかった。むしろ、なんだか眠くなってきた。

 急に体を揺すられて意識が現実に帰ってきた。

「――なた。あなた朝よ」

 清を起こす和子の声がする。どうやら、ろくでもない夢を見ていたようだった。頭を掻いて欠伸をして深呼吸をする。この何気ない行動で寝起きの頭を覚醒させるのだ。そこで、違和感に気づいた。

 さっきまでの和子の声ではない。それは子供の時より声が低くなり甘美な艶のある大人の女性の声であった。どこか和子の面影が残る声だし、昔にこの声を聞いた気がする。

「あれ? そこにいるのは和子か」

「そうだけど、どうしたの?」

「いや、さっきまだ山でご飯のおかず取ってたときと声が違うから、てっきり別人かと思ってな」

「夢でも見てたんじゃないの。私たちもう大人よ」

 ふっくらと柔らかい枕。肌触りのいいシーツ。軽いけど暖かい布団。確かに子供の時の暮らしとは違った。どうやら長い夢を見ていたようだ。それも、懐かしくとびっきりに良い夢を。

 和子に手を引かれて居間に向かった。子供の時に住んでいた家と比べて、清潔感のある温かい空気が感じ取れた。空いている手で壁を触ってみる。そこは土壁ではなく、ひんやりと冷たい溝のある板状の壁があった。子供の頃住んでいた家とは別の家のようだ。

 居間に着くと、銀シャリの甘くて食欲を誘う香りがした。テーブルの前に座り箸を持つ。卵焼きに焼き魚、それに味噌汁とおかずが豊富で、本当にさっきまでのことは夢で、僕は大人になったんだな、とどことなく否定的だった感情が現実を受け止めていく。

「さぁ、行きましょう」

 ご飯を食べてから清の手を引き家を出るのは、どうやら子供の頃から何一つ変わらないようだ。不安だった清の心に安心の小さな芽が芽吹いた。

 外の冷気に頬が痛い。和子と繋いでいる手は熱を持ち暖かさを保っている。歩を進めるたびに、きゅっきゅっ、と音がして足を取られる。どうやら雪が積もっているようだ。この雪では和子がいないと清はどこにも行けない。

 和子と他愛もない話をしながらしばらく歩くと、扉の開く音が聞こえた。どうやら着いたようだ。行き先は、あえて聞いていないのでわからない。

 扉をくぐると風が遮断されるからか、生暖かい空気がさまよっていた。それを感じ取ると同時に、塩素の匂いが鼻の中を駆け巡った。

「着替えてきてね」

 和子から袋を渡されて和子の走り去る音が聞こえた。袋の中を触って確認する。肌触りの良いズボンだった。そして、この塩素の匂い。どうやらここは週一で来ているプールのようだった。

 着替えをすませてプールに行くと、真夜中の静寂な湖を連想させる静けさだった。いくら午前中とはいえ、和子と僕の二人の客じゃ商売あがったりだろう。

 後ろから和子の声が聞こえた。

「今日は貸切みたいね」

 和子に手を取られながら、ゆっくりとプールに入っていく清。プールの水は温かく、プールから出るほうが寒く感じられた。鼻が慣れたのか、いつのまにか塩素の匂いは感じなくなっていた。

 和子の手から離れてから、ややあって、遠くのほうで手の叩く音が聞こえる。和子がこっちに来いと合図をしてくれているのだ。普通ならいらない合図だろうが、僕にとっては大海を照らす灯台のような、自分の居場所を教えてくれる大事な存在だ。

「子供の頃は泳げなかったのにね」

 合図する和子のもとまで泳ぎきった清に、和子は昔の記憶をプールの波に乗せて運んできた。その記憶は清にとっては、懐かしいというよりも昨日の出来事のような感覚だった。

 しばらく泳いでいた清と和子だったが、午前の部が終わりになったことを理由に家に帰ることにした。

 ここに来る時は雪が積もっていたはずなのだが、不思議なことに暖かくもないのに今は溶けて消えていた。

「来る時に雪が積もってなかったか?」

「積もってたけどもう溶けたわよ。もう四月で桜が咲いているのよ」

 清はてっきり真冬だとばかり思っていた。

 いつの間にかそんな季節になっていたのか。実感が湧かないまま和子に手を引かれて自宅の玄関を跨いだ。

 昼食を取った後、清は本を読んでいた。本といっても、それは既製品ではなく和子が清のために書き直してくれた世界にたった一つの本だ。その本を読んで、和子と二人の小さな討論会を開くのが清のささやかな楽しみである。

 いつもと変わらずに本を読んでいると、終盤のいいところで指の先に凹凸が感じられなくなった。和子が翻訳中の本を清に渡すなんて初歩的な間違いは今までに一度も無かった。

「和子、この本途中までしか翻訳されてないよ」

「あら、ごめんなさい」

 コトコトとお湯が沸騰し出来上がり間近の鍋の音に混じりながら、和子の謝る声が台所から聞こえてきた。一度味を占めた物を我慢すると倍以上に美味しく感じるのは、今和子が作っている料理も小説も同じなのかもしれない。

「終盤のいいところで途切れてしまっているから、なるべく早く読みたいな」

 どれどれ、と運んできた料理をテーブルの上に置くと、和子は清から本を受け取った。本のタイトルを見た和子は、清に気づかれないように小さく息を呑んだ。

「わ、わかったわ。すぐにやっておくわ」

「どうかしたか?」

「なんでもないわ」

 和子の声がうわずっていることに違和感を感じ取って問いかけてみたが、心配無用と言わんばかりの返事が返ってきた。

 そうか。そうだよな。

 君は必ず僕の一歩先に行ってしまう。そして、僕に一歩先を知る術はない。僕に心配かけたくないのか、それとも、話すだけ無駄だと思っているのか、君はたとえ問題が起きても僕に話たりしない。

 日が傾きかけたガラス越しの空を見つめる清の顔は、虚しさと悲しさがかすかにこぼれていた。


 2.


 昨日雪が積もっていたのが夢の中の世界だったかのような感覚にとらわれる。

 和子と清は、桃色の雪――ではなく、桜の花びらが雪のように舞う、桃色の河川敷の遊歩道を歩いている。二人は付き合ったばかりの恋人のように、どこかよそよそしく、触れたら解けてしまいそうな手を繋いでいた。

 少し休憩しましょう、と和子と清は緑の絨毯が敷かれた土手に座り込んだ。土手の冷たさと日差しの暖かさが相まって、油断をしていると眠ってしまいそうだった。

「懐かしいな」

「えっ?」

 いきなりの清の発言に、思わず和子は驚いた声で聞き返してしまった。

「いや、子供の頃にこの川でよく遊んだなと思ってね」

「……そうね」

 清の何気ない一言で、昔の記憶が鮮明に思い出される。


 まだ清がこうなる前だった。確か小学生の頃だ。この頃の遊びと言えば、コマ回しにベーゴマ、ザリガニ捕りなど外で遊ぶのが普通だった。なかでも、夏は暑いから川に行こうぜ、と夏と川は切っても切れない関係にあった。

 清に誘われた和子も、よくこの川に来ていた。清は川に入って魚を捕って友達と大きさを競い合って、和子は一人つまらなさそうに大きな岩の上に座っていた。ため息を一つ吐いて帰ろうとすると、決まって清はこう言うのだ。

「明日も遊ぼうぜ」

 ――遊ぶも何も、遊んでいるのは清だけではないか。この言葉に何度苛立ったことだろう。しかし、和子の家がある町に住んでいる同級生は清しかおらず、家族ぐるみの交友があるだけに自然と一緒にいる形になってしまう。

 一度だけ清の遊びを断って別な友達と遊びに行ったことがある。その時に清は和子の家を訪ねてきた。しかし、遊べるはずもなく清は肩を落として帰っていった。

 そのときから清の誘いが来なくなった。遊び相手が変わって二人の距離は徐々に広がっていった。

 季節が三つほど変わった頃だろうか。父親の戦死公報が届いた。和子の父は国から赤紙届いて戦争に駆り出されていたのだ。

 最初は母が泣いていて、どこか痛いのかと思った。しかし、空箱の棺を相手にした葬儀を目の当たりにして、現実の厳しさに晒された。帰ってきているのならまだしも、帰ってきていない父の葬儀になんの意味があるのだろうか。和子は父の死という事実が受け入れられなかった。

 父が死んでも涙が出ない。自分は心の冷たい人間なのだろうか。

 心が荒み食事が喉が通らなく、みるみる体重が落ちていった。苦しくて自分でもどうしていいかわからなかった、そんな時に清からの誘いがきた。

「川に行こうぜ」

 こんな時期に川に行ってどうするのだろうか。四月になり暖かくなってきたと言っても、まだ川に入るには早すぎる。川に入っても風邪を引くのがオチである。そんなことを思っているはずなのに、和子の体は清の後ろを歩いていた。

 河原に着くと、見事なまでに満開な桜が咲いていた。一本の桜の木の根元に清が座り、こっちを見ながら隣に座れと促してきた。その誘いに乗って和子は隣に座った。

 ――しばらく沈黙が続いた。清はなんて声をかけていいのか迷っている感じにみえた。

「どうしたんだよ」

「なにが?」

「最近飯も食わないで調子悪いらしいじゃん」

 今までなにも考えていないように思っていた清だったが、意外と私を心配してくれているようだった。

「父ちゃんが死んだからか」

「うん。私お父さんが死んじゃったのに泣けなかった。私どこかおかしいのかな」

 和子は体育座りをしている自分の足の中に顔を埋めがら、清からの返事を待った。

「お前は人は死んだら泣くのが礼儀だと思っているのか」

「でも、お父さんが死んだんだよ。普通は悲しくて涙が出るはずでしょ?」

「お前にとっての普通ってなんだよ。他人と同じじゃなくちゃ駄目なんて決まりはないぞ。お前は悲しかったけど泣けなかった。それでいいじゃないか」

 お父さんの葬式では、多くの親戚の人達が泣いているのを見た。だから、お父さんの子供の私が泣かないのは変だと思っていた。しかし、清は泣けなくてもいいと言ってくれた。たったこれだけ、この一言でどれだけ救われただろうか。

 和子は清のほうを見て、ありがとう、と一言だけ感謝の言葉を述べた。和子の頬には一滴の涙が流れた。涙が出る理由はわからないけど、流れるときはあっけないほどに簡単に流れる。

 清は頬を赤く染めて、別に、とそっぽを向きながらぶっきらぼうに答えた。

「じゃあ、そろそろ帰るか」

 清は立ち上がり、和子の手を掴み引き起こした。

 その帰り道で、けたたましい音の警報が町のメガホンから鳴り響いた。敵国から放たれる空爆を知らせる警報だ。この警報が鳴ったら防空壕に入るのが決まりだった。

 清に手を引かれて走っていると、目の前に一発の空爆が落ちた。



     4.七十~


 1.


 どこにいってしまったのだろうか。

 今朝から和子の姿が見当たらない。いつもなら声をかければ返事がくるのだが、今日は反応がなかったので寝ているものだと思い、布団に手をかけてみると、そこに和子の姿はなかった。

 清は台所や洗面台に行ってみても、結果は変わらなかった。なにより、玄関に靴がないのが和子が家にいない証拠だろう。

 腕時計のボタンを押してみる。『午前十時四十六分』と機械音声が教えてくれた。

 この時間に出かけることはあっても、僕に一言も無しに家を出て行ってしまうことは初めてだった。

 居間のソファーに腰をかけて待ってみることにした。静かな室内には一秒一秒を刻む時計の秒針の音だけが響く。

 ――お昼を過ぎても、和子は帰ってこなかった。もしかして、外で事故にあったのではないのだろうか……。そう決まったわけではないが、その可能性があるのならこうしちゃいられない。

 清は勢い良く立ち上がり片足を一歩踏み出した。その時、なにかを踏み足を滑らせて転んだ。何を踏んだのだろう。踏んでしまった物を手に取ってみる。これは、和子に翻訳を頼んだ途中までしか書いていない本だ。なぜ床に落ちているのだろうか。そんなことより、今は和子を探さなくては。

 清は手探りに目印となる柱を目指して、床に這い蹲りながら進んだ。

 何かに触れて少しずつ手を上に伸ばしていく。冷たいがどこか柔らか味がある。途中からいきなり平らになった。テーブルだろうか。次の瞬間、氷のように冷たい物に触れて反射的に手を引っ込めた。その冷たいものが床に落ちて、鐘の音が鳴り響いた。

 まさか、この音は――。いや、しかし昨日まで確かに和子と一緒にいた。

 もう一度手を上に伸ばして、四角い棒状の物を手に取った。間違いない。疑問が確証に変わった。そうと決まれば和子がいる場所は多分あそこだろう。そして、僕はもう……。いや、僕のことはどうでもいい。今は和子に会わないといけない。

 壁伝いに玄関まで行き靴を履いた清は、杖を持って玄関を出た。

 外の天気は――わからない。風は少し強めだが雨が降っていないことだけは確かだ。そして、ある異変に気づいた。

 ――音が無い。

 道路を走る車の音。井戸端会議をする主婦の声。鳥がさえずる鳴き声。聞こえてくる音は、自分の位置を知らせる杖の音だけだった。だが、清にはこれ以上ない都合の良い世界だった。

 家を出て五分も歩いていないだろう。なのに、なぜか息が上がる。苦しくは感じないが、手足に錘を付けられているかのように、清の体の動きは重かった。それに、喉に痰が絡み不愉快な感覚がつきまとう。

 音の無い青か赤かわからない交差点を渡り、膝に負担のかかる上り坂を登り、地獄にでも下りているのかと思うような急な階段を、ゆっくりだが着実に歩を進めた。

 生まれたての小鹿のように足ががたつき、力が入らなくなった頃に目的地の公園に着いた。

 公園の入り口は勾配の緩やかな坂だった。さっき、公園に入る前に休んだのが功を奏したのか、いくらか足が軽く感じられた。

 気づけば周りから銀杏の香りがする。昨日までは桜が咲いていたのに、今では銀杏の葉が舞い降りる季節に変わってしまっている。僕がここに辿り着くまでに季節が変わってしまうなんて有り得ない話だ。この世界は時間の進みが早すぎる。

 石が並ぶ最前列の一番手前が僕が買った場所だ。わかりやすい場所じゃないと、いろいろと大変ということで、この場所にしたのだ。

 石を前にして手を合わせる。すると、後ろから静寂な世界を破る声が聞こえた。

「どうして、あなたがここにいるの」

 和子の声の面影はあるが、昨日よりも柔らか味のある年老いた声だった。

「君が生きていたら、こんな声だったのか」


 2.


 私はこの世界がもうじき終わりを告げることを知っている。あなたとの生活が楽しくて、別れのときが辛く感じてしまう。少しでも楽に別れようと一人で先に自分の墓に戻ってきたのに、どうしてあなたが、清がそこにいるの。

 和子は、幽霊を見るかのような目で清を見据えている。先に口を開いたのは清のほうだった。

「君に翻訳を頼んだ本を踏んでしまって転んだんだ。そのとき偶然手にして気づいたんだ。位牌をね……」

 あの家には私の位牌がある。しかし、清には気づかれないと思っていた。

「全部説明してくれないか?」

 もう誤魔化すことはできそうにない。和子は真実を告げる決心をした。

「わかったわ。……この世界は死後の世界よ。清、あなたは死んだのよ。あなたは七十六歳、私は四十四歳で死んでしまったけどね」

 驚く素振りすら見せない清に、和子は淡々と説明を続ける。

「死ぬと人生が走馬灯のように見えるって言うじゃない。この世界はまさにそれよ。そして、現世に未練を残さないように、過ごしたい人と一緒に生活をして成仏するのよ」

「そうだったのか」

「あら、驚かないのね」

「歳をとると、大抵のことじゃ驚かなくなるんだ」

 清の態度に和子のほうが驚いたような反応を見せる。

「私がここに来た時は父さんが来たわ。子供の時に消えてしまった父さんに会えて嬉しくて、つい甘えてしまったわ。

 楽しい時間が終わって、いざ成仏するって時に、あなたの顔が浮かんだの。今までどんな時も私とあなたは手を繋いできたわ。あなたを置いて先に行くなんてできないと思ったら、成仏できなかった」

「そんなこと気にしなくてもいいのに」

「そういうわけにはいかないわ。あなたの人生を狂わせたのは私だし、過ごしたい人と一緒にいたい人は別だもの」

 空爆が落ちたときに、清は和子を守るように和子の前に立ち、空爆による破片をもろに浴びてしまったのだ。そのとき、運悪く目の辺りを被災し失明してしまったのだ。

 清がいなかったら、私はあの場で死んでしまっていただろう。その頃から、私は清に心惹かれていったのだ。

「僕は、君を助けられて嬉しかったよ。そのまえに、僕があんな場所に連れ出さなければ、こんな目に遭わなかったんだけどね」

「元気が出なくてどうしていいかわからなかった私を救ってくれたのは、他でもないあなたよ。今までありがとう」

「僕のほうこそありがとう。君がいなかったら僕が父さんや母さんに殺されていたよ」

「気づいてたの?」

「あんな隙間風が入り込むような家だもん会話は筒抜けだよ。君が来たことももちろん知ってたよ」

 清を池に突き落として殺そうと企んでいたのは、清の両親だったのだ。その日の食べ物も保障できない生活には、清のような使えない人は文字通り足手まといだった。それを阻止したのが和子だった。和子は毎日清を誘って、清の家の分まで食料を調達した。清の両親は『清が死んだら和子が来なくなって、食料が入らない』と思ったのだろう。それからは、清が危ない目にあうことはなくなった。

「私はあなたの親が許せなかっただけよ。こっちは父さんが死んでしまって会いたくても会えないのに、目が見えないだけで殺そうとする腐った根性が許せなかった」

「それでも、ありがとう」

 清はおぼつかない手で和子の手を取り、微笑みながら感謝の言葉を述べた。

「目の見えないあなたには、この世界の仕組みを知らないままで送り出せると思ったのだけどね。なにが起こるかわからないわね」

「それは今までも同じじゃないか。なにが起こるかわからない先が見えない世界。目が見えても見えなくても、世界は同じようだね」

 清が和子に気持ちを伝えると、周りの景色が消えて光に包まれた。清は周りを見渡している。どうやら、清にも異変はわかっているようだった。

「なにが起きているんだ」

「世界の終わりよ。私とあなたの別れでもあるわ」

「なにを……」

「私は父さんを拒絶して成仏するタイミングを逃したわ。だから、今も成仏は無理よ」

 これで全て終わり。肩を落として俯く和子の手を清が握った。

「なにが起きるのかわからない世界だ。ここから先は僕が手を引くよ。だから任せろ」

 いつの間にか、清の体が空爆を受ける前の姿に変わっていた。よく見ると自分まで子供の姿に変わっている。

 そうだった、子供の頃は清に手を引かれて遊んでいたのだ。長いこと立場が逆になってしまい、この懐かしい感覚を忘れてしまっていた。逆光に顔の見えない清を見つめていると、清の笑う口がかろうじて見えた。

「ほら、早く行こうぜ」

「うん」

 手を引きながら走る二人の姿が、光の中に消えていった。

 章の数字は、清と和子の年齢です。

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