キー・フィールド2
肌では感じることの出来ない風が、仮想空間の草原をやさしくなでる。聞こえない風の音が、まるで耳に届くように、二人だけの無言の空間が広がる。
タクと同じように、ヒナも空を見上げる。流れる白い雲が、まるで現実の世界にいるように、時間が進んでいく様子を示す。
「……私、元に戻れるのかなぁ」
うわ言のようにヒナが呟く。
「僕も、何とか戻れる方法を探しているんだけどね。結局のところ、最後はマスター次第、ってことになりそうだね」
「悠たん次第かぁ。でも悠たん、あんまり興味なさそうだしなぁ」
「たしかに……でも、僕たちがこういうふうになってしまった以上、きっともとに戻る方法はあるよ。あせってもしょうがないし、キーホルダーになったからって、悲観することは無いよ」
タクはそう言って、ヒナの肩を叩いた。しかし、感触は無い。
「でも、不便だなぁ、遊んだりごはん食べたりできないなんて」
「ヒナって、元の世界では自由に過ごしていそうだよね」
タクはクスクスと笑いながら言った。
「え、そ、そう見える? 私、普通の高校生だよ? 花の女子高生!」
「高校生、かぁ。遊びたい年頃だよね」
「タクたんは、いったい何歳なの?」
「……別に何歳だっていいじゃない。例えば僕が小中学生だったり、六十歳のおじいちゃんだったりしたら、対応を変えるのかい?」
「え、いや、そんなことはないけど、ただ、ちょっと気になるから……」
慌てるヒナを見て、タクはまたクスクスと笑いだした。
「冗談だよ。ヒナと同じくらいさ」
「へえ、タクたんも高校生なのかぁ」
ヒナはタクの姿をじろじろ見まわす。確かに、背丈や顔つきは、ヒナたちが行っている高校にいる男子とあまり変わらない。
「でも、学校とか勉強とか、心配にならない? 親も心配しているだろうし……」
「たしかに。でも心配したからって、元に戻れるわけじゃないからね。こんな体験なんてめったにないし、今はできる限りのことをしようよ」
「そうだよね、うん、タクたん、ありがとう」
「そろそろ寝ようか。とりあえず一晩ゆっくりして、落ち着くといいと思うよ」
上を向いたままのヒナに、タクは声をかける。
「え、あ、そうだね」
それに気がつき、ヒナも目線を空からタクに向けた。
「あ、でも寝るっていってもどうすれば……」
「あ、そうか。そういえばそれが目的だったね」
そういうと、タクはヒナにゆっくりと近づく。
「寝る、といっても人間のときに眠ろうとするのとは、少し違う形になるのかな。何も考えないようにして、意識を外からはずすんだ。そうすると、視界が真っ暗になるから、そのまま意識を遠くに持っていくようにすると、人間のときの眠った状態になるんだ」
「えっと、なんとなく分かったような、分からないような……」
「まあ、うまくいかなかったらまた声をかけるといいよ」
タクが笑顔を見せると、ヒナもつられて笑顔になる。
「じゃあ、そろそろ戻るよ」
そういうと、タクはゆっくりと目を閉じ、こちらに来た時と同様、何かをぶつぶつと呟き始めた。
「"鍵の平原"クローズ」
タクがそういうと、再びヒナの意識が遠のいた。
気がつくと、目の前には再び闇が広がっていた。わずかに見える、机やテーブルのシルエットが、こころなしか寂しく感じる。
『あ、あれ? あ、ああ、戻ってきたのね』
今までいた場所が明るかったせいで、突然の暗闇にヒナは慣れず、一瞬慌てる。しかし、先ほど見た光景だとわかると、ふぅ、と息をついた。
「おいっ!」
『ひ、ひぃっ!』
突然叫び声が聞こえ、ヒナは思わず驚いて声を出した。
「……それ俺の卵スープだぞ……」
よく聞くと、声の主は寝ている悠のものだった。どうやら寝言らしい。
『な、なんだ、悠たんか。びっくりしたぁ……』
『マスターはいつもそうだよ。一体何の夢を見ているんだろうね』
ヒナがほっとしていると、タクが話しかけてきた。
『え、悠たん、いつも変な寝言言ってるの? 卵スープって一体……』
『さあ。ただ、寝ている人には話しかけないほうがいいよ。脳にダメージを受けるらしいから』
『へぇ、タクたんって物知りなんだねぇ』
『そうでもないよ。ほとんどの物知りと言われる一般の人は、テレビや本で得た知識をそのまま使っているに過ぎないんだから』
『でも、覚えてること自体がすごいよ』
へぇ、と言いながらヒナはずっと感心する。
『要は、大事なのは得た知識をどこで使うかさ。それじゃ、今日はこの辺で。お休み』
『え、あ、うん、お休み』
ヒナが返すと、それ以降タクの声は聞こえなくなった。
『えっと、まず何も考えないようにして、意識を外に……』
再び静かな部屋に戻ると、ヒナはタクに教えてもらったことを試した。
一切の思考をシャットアウトし、意識をこの場から別の場所に移そうとする。薄暗い視界が徐々に真っ暗になり、意識そのものが加速的に別の世界へと向かう。しばらくすると、ヒナの意識はこの場所から離れていった。