最悪な一日
とあるライブ会場――
人混みの中に私は居た。
目の前にはロープが張られ、それを越えようとする者は警備員に捕まってしまう。
奥には駐車場が見え、皆が目を輝かせて立っていた。
そこへ、一台の車が到着すると立っていた人達は一気に騒ぎ始めていた。
車のドアが開き、中から一人の男が出てくると場の空気は最高潮に達していた。
その男の名は中村信。
ソロ歌手で、歌唱力はもちろんパフォーマンスも抜群の芸能人だった。
海外進出も成功し、この国で彼を知らない人はいない。ワールドスターだ。
「信くんー!」
そう。この人混みは皆、信の登場を待っていた。
いわゆる【出待ち】をしているファン達なのだ。
もちろん、私もその中の一人。私はダンスと同じくらい、信に夢中になっていた。
二年前、高校生だった私は友達の恋バナを聞いては【○○な男はダメだ】と自分の中でリストアップしていた。
おかげで恋をする気にもなれず、音楽だけがそんな心を癒していた。
あの時も、いつものように大好きな音楽番組を見ようとしていた。
夜八時、共働きの両親はまだ帰っておらず兄は自分の部屋でゲームをしている。
私は音楽番組を見るため、テレビの前で待機していた。
アイドルのダンスを覚えるため、録画の準備もできている。
ようやく番組が始まると、最初に新人歌手として信が紹介されていた。
一瞬だった。私は信を見た瞬間に恋をしていた。
同じ歳でこんなにも格好いい人がいるのかと。
すぐに兄に報告をすると、兄はバカ笑いしていた。
「芸能人とどうやって知り合うんだよ?」
兄の発言は正解だ。知り会う事も出来ない相手。
ましてや自分がアイドルになれるはずもない……。
私の恋はすぐに終わっていた。
ファンとして応援しよう……いや、ファンとしていられるだけでも、幸せだ。
そう割り切ったつもりだった。
信の出る番組は全て録画、ライブは必ず参加。
行くたびに【きっと私に気付いてくれる!】と変な期待を持ったまま全く割り切れていなかった。
常に信のことばかり考える私に、周りの友達は飽きれていた。
家族も同様。おかげでますます恋愛は出来なくなっていた――。
皆が信に声を掛ける中、私はひたすら手を振っていた。
いざ本人を目の前にすると、声を出す勇気がないからだ。
信が笑顔で手を振り返すと、ファンは更に興奮し少しでも信に近づこうと、押し合いが始まってしまう。
自分に注目されたいがための行為だ。
「す、すみません!……」
前後左右から人に押し潰され息苦しくなっていた私は、外へ抜け出そうと人混みを掻き分けていた。
ところが抜け出せるはずもなく、どんどん人混みに流されてしまう。
「うわっ!」
誰かに押された弾みで私は、信の居る方向へと勢いよく転んでいた。
さっきまで騒がしかった人達は、一気に静まりかえる。
「ダサッ」
誰かが言い放った言葉は、私の耳にも届いていた。
そして徐々に笑い声も聞こえてくる。
(最悪……)
恥ずかしくて起き上がれない。
「大丈夫ですか?」
そう言って誰かが私を引き起こしてくれた。
私は相手の顔を見る勇気も無く下を向いていた。
どうやらスーツを着た男性のようだ。
私は「すみません」と謝りながら、男性の背後に居る信が気になっていた。
恐る恐る右に顔を傾けると、信もこっちを見ているようだった。
(み、見られてる!)
私はなんともいえない複雑な感情が渦巻いていた。
【穴があったら入りたい】とは、まさにこの事だろうか。
私は男性にお礼を言うと、足早に去っていくしかなかった。
すると再びファン達の歓声が聞こえ、私は足を止める。
後ろを振り向くと、何事も無かったかのように信は会場の中へと入っていった。
(転んだ時、助けてほしかったなぁ。)
勝手な欲望が出ていた。
テレビでは常にファンを第一に考えている信が、なぜ助けてくれなかったのか。
やはりテレビ上の演出なのだろうか。
少しショックだったけれど、でも、そんなことを考えたくもなかった。
開場時間になり、私は気持ちを切り替えて席に着く。
タオルとペンライトの準備は万端だ。
「さっき出待ちでファンの人が転んでたんだー、痛そうだったなー」
気になる会話が耳に入ってくる。
隣の女の子二人が私の話しをしていた。
「え! そうなの? 私さっき来たから知らなかった。かわいそうだね~。信は何もしなかったの?」
やはり誰もが思う事だった。
「え? 知らないの?」
そう言って一人の女の子はこっそりと信の悲しい過去を話しだす――。
それは信がまだデビューしたての頃だったらしい。
この時から既に大人気だった信がテレビ局で仕事を済ませ、外へ出ると大勢のファンが出待ちをしていた。
信は立ち止まりファンサービスで手を振っていると、一人の女の子が転んでしまう。
すると信はすぐに彼女の手を取り引き起こした。
彼女に怪我は無く、信も安堵していた。
その時に女の子は準備していたファンレターを信に差し出す。
もちろん信は喜んで受け取りその場を去って行った。
ここまでは良い話だ。
ところが信が去って行った後、その女の子には地獄が待っていた。
気付けば女の子を取り囲むようにファンが集まっていたという。
一部始終をみていたファン達は信に接近した行為を妬み、集団で女の子を攻撃していたらしい。
ひどい言葉を浴びせる人も居れば、突き飛ばす人もいたらしく、状況に気付いた警備員がすぐに間へ入り、女の子は軽い怪我で済んでいた。
しかし、その子の親は黙っておらず、裁判を持ちかけようとしていた。
そこを、今の社長が示談で済ませたという内容だった。
公にはならずに済んだものの、一部のファンの間では有名な話になっているらしい。
それ以来、信もファンには近づかないようになったとか。
もちろん、ファンの間でも抜け駆け禁止は暗黙のルールになっているようだ。
その話しを聞いた私は信の事を何も分かっていなかった事に気付く。
芸能人には芸能人の辛さがあるのだと知り、私は落ち込んでいた。
そうこうしていると、会場の電気が消えついにライブが始まる。
暗闇の中、一本のライトが照らされ信が登場すると、会場は歓声と熱気で溢れ出す。
いろんな事があっても信は笑顔だった。
私はそれを見た瞬間に、さっきまでの暗い気持ちが一瞬で吹き飛んでいく。
二時間という最高の時間はあっという間に過ぎていた。
ライブが終わると、私は休む事なく出待ち場所へと急ぐ。
ファンは既に集まっていて、私は見やすい位置を確保するため、人混みを掻き分けて行く。
一時間後、やっと信が出てくると、ファンは騒ぎ出し、無数の声が飛び交う。
私はまた手を振り続けていた。
信は車に乗る間際、笑顔で手を振ると再び押し合いが始まっていた。
私の体は学習したのか転ばないように、しっかりと両足で踏ん張っていた。
「危険ですので、前のお客様を押さないよう、お願いします!」
警備員が注意をしても、誰も聞いていない。
(やっぱり、外に出よう……)
限界が来た私は必死に人混みをかき分け外に出ようと試みるが、やはりファンの力は強かった。
どんどん押され、さっきよりも息苦しくなっていく。
すると、誰かが私の腕を掴み外へと引っぱり出してくれた。
その弾みでその人の胸に飛び込む形になっていた。
その人は片手で私を包み込むように抱きしめている。
何が起こったのかもわからず、私は初めて男性の腕の中に居る事は判断できていた。
大きな胸板からはその人の力強い心臓の音が聞こえていた。
恋愛経験のない私の鼓動は速くなっていく。
(落ち着け!私!)
そう自分に言い聞かせながら体は硬直していた。
呼吸の仕方も忘れてしまう。
「あ、すみません」
状況に気付いた男性は、すぐに私を離し気づかっている。
「い、いえ、大丈夫です……」
気まずい空気が流れる中、私はその人の顔を見ていた。
(うわぁー。モテそうな顔だなー)
綺麗な顔立ちをしている。
身長は180はありそうだ。
スラッと見える体型でもよく見るとしっかりと筋肉がある。
いま流行りの【細マッチョ】というものかもしれない。
スーツもしっかりと着こなしモテないはずがない。
関係者なのか、周りに目を配っているようだった。
つい見とれていると、その人と目が合ってしまう。
私はすぐに目を逸らしお礼を言うと、足早にその場を離れていた。
帰り道、私はため息を吐きながら歩いていた。
(はぁ。せっかく信に会えたのに転んで笑われて、ほんと最悪……)
落ち込んだまま家に帰りつく。
そんな時でも信のライブDVDを見るだけで癒されていた。




