ストレート・ブルー
私は今日というこの夏の日まで、自分のことを凄い美人だと思っていました。
錦景地下街を歩いているときや東京に遊びに行ったとき、私は何度もモデルや女優やアイドルに興味はないか、という風に声を掛けられました。なので私は勘違いしてしまっていたんだと思います。
私は凄い美人だって思い込んでいたんです。
でもそれは間違いだと今日、気付きました。
私は凄い美人ではありません。
私が本当に凄い美人だったら。
私の好きな人は、私のことを好きになってくれると思うのです。
私が御崎ミヤビという女の子よりも美人だったら。
丈旗ケンという男の子は絶対に私のことを好きになっているはずです。
私は今日。
「一緒に海に行かない?」
ケン君を海に誘いました。私は勇気を出して海に誘ったんです。すでに江ノ島のことは少し調べてきていました。
ケン君と私はバッティングセンタにいました。ケン君は中学生の時、野球部でした。でも、今は野球部に入っていません。その理由を私は知っています。ケン君はミヤビちゃんに夢中なのです。その情熱的な愛のせいで、部活どころではないのです。
彼の恋は凄くストレートです。
ミヤビちゃんの恋が絶対に叶うわけでもないのに。
ピッチングマシンから放たれる百五十キロのストレートなのです。
迷いなく。
もの凄い速度で向かっていっているのです。
でも私のストレートだって負けません。
私はケン君のことが大好きだから負けません。
だからミヤビちゃんが好きなことを知っていても私は彼の部屋に行って一緒にゲームをするんです。ただそれだけのために彼の部屋に行くんです。バットを振るわけでもないのにこうしてバッティングセンタに付き合うんです。
ね、とってもストレートな愛でしょう?
……なんちゃって。
自分でもちゃんと分かっているんですよ。
ああ。
なんて。
なんて面倒臭い女の子なんだろうって。
いい加減気が済めって思っているんですよ。
本当ですよ。
でも、ケン君は拒絶しないから。
あっちいけとか、こっちくんなとか、言いません。
とっても優しいんです。
好きでもない女の子にとっても優しいんです。
だからもっと優しくされたいって思うんです。
思っていたんです。
ミヤビちゃんへの情熱。
恋心の向かう先が。
私に変わればいいのになって。
いや。
絶対に、どんな手段を使っても。
変わらせてやるって思っていたんです。
ケン君は今まで何度も私のストレートを打ち返し続けていました。
打ち返されてもでも私は平気でした。
それはケン君の優しさのおかげでした。
彼は優しいから、私のストレートを完璧に打ち返して来なかったから。
でも今日は。
違いました。
ケン君は私のストレートを打ち返し。
ホームランにしました。
完璧なホームランでした。
ネットの高い位置に掛かるホームランの看板の周囲の電球はチカリ、チカリと点滅していました。
バッティングセンタのベンチに二人は座っていました。
二人の間には、赤ちゃんが座れるくらいの不自然な距離がありました。
「一緒に海に行かない?」
私の誘いに、汗を掻いていい男になっているケン君はアクエリアスを飲み干してこう答えました。
「例え一緒に海に行っても、俺は先輩のことを好きにならないと思います」
完璧に弾き返された、という感じでした。
彼の言葉は今日はとてもハッキリしていました。
好きにならないと思う。
なんて。
彼の口から初めて聞きました。
私には厳しい言葉。
胸にざくっと突き差されました。
瞳はもう、濡れていたと思います。
私は唇を噛みました。
「先輩は俺と一緒にいて、楽しいですか?」
「分からない、」私は本当に、この世界の何もかもが、分かりませんでした。「でも私はケン君のことが好きだよ、ケン君は私と一緒にいて、つまらない」
「つまらなくはありません」
「なら」
「でも辛いです」
「辛い?」
「なんだか、先輩のことを見ていると辛くなるんです」
「どういう意味?」
「先輩は絶対叶わない恋をしているんですよ、辛くないですか?」
「ケン君だって、絶対に叶わない恋をしている、いや、私は叶わない恋なんてしてない、ケン君は絶対に私のことを好きになってくれるって信じてる、だから辛くない、こともないんだけど、辛くなんてないっ」
「俺だってミヤビが、俺のことを好きになってくれるって信じてます、でも俺は辛いです、だから先輩も辛いと思って、だから、もう止めた方がいいと思うんです、先輩が辛くなることは止めた方がいいと思うんです、絶対に先輩の恋は叶わないんだから」
「ケン君の方こそ、辛くなることを止めたら、ケン君の恋は絶対に叶わない、だったら別の恋を探すべきだと思う」
「先輩の恋に比べたら可能性は高いと思います、先輩の方こそ別の恋を探すべきだと思います」
「酷いわ」私の瞳から涙が落ちました。
「すいません」
「謝らないでよ」
「あの、すいません、俺が最初にハッキリ先輩のことを拒絶しなかったから、先輩の大切な時間が無駄になってしまったんですよね?」
「え?」
「先輩と海には行きません」
ケン君はハッキリと言いました。「それから先輩、もう家には来ないでください、それからバッティングセンタにも付いて来ないでください、あと学校で会っても話しかけないで下さい、とにかく、そういうことにしませんか?」
「何よ、それ、」私は絶叫、っていうくらいの声を出していたと思います。「何なのよ、それ、いきなり、いきなり、勝手に、何もかも、全部、終わりにしようって言うのっ!?」
「……はい、すいません、」ケン君は私の方を見ずに頷きました。「でも、先輩のためには絶対にそっちの方がいいと思うんです」
「勝手にそんなこと思わないでよ、よくないに決まってるでしょ? よくないし、っていうか、なんで? なんでケン君はさ、今まで私に優しくしてくれたの?」
「すいません、その、なんていうか、女の子には優しくしないといけないと思うし、それに先輩が俺のこと諦めると思っていたから、普通、そうなるって思いません?」
「普通って何だよっ!」
私は集まる視線に気付いていましたが、怒鳴ってしまいました。抑えていられませんでした。その怒鳴り声はバッティングセンタによく響きました。野球少年が驚きの目で私のことを見ていて、一球を無駄にしていました。
「普通って何だよっ!」
「すいません、」ケン君が深々と頭を下げているのを見て私は悲しい気持ちになりました。でもヒステリックは収まりません。
「いや、分かるよ、普通諦めるだろうって思うよ、私だって、思ってた、好きな女の子がレズビアンだったら普通諦めるだろうって思ってたよ、」私は両手で顔を隠して泣きました。「だからいつか絶対、ケン君が私のことを好きになってくれるって」
「すいません、」ケン君はまた謝りました。「先輩には痺れなかったから」
「何よ、痺れるって何よっ」
「ミヤビには痺れたんです、俺、だから他の人のことは考えられない、例え彼女がレズビアンでも、確かにそれは俺にとっては正直ショックだったし不利なところだけど、ミヤビのことが好きなんです、たまらなく好きなんです」
「私、振られたの?」
「はい、俺は先輩のことを、」彼は最後まで私のことを名前で呼んではくれませんでした。「振りました」
そういうわけで。
錦景市が今年の最高気温を叩き出した真夏日のバッティングセンタで、私はケン君に振られてしまったわけなのです。
失恋です。
初めての失恋はとっても。
なんと言いましょうか。
痛いものですね。
私の気持ちは直線的に憂鬱の底に落ちました。
泣きながら私は自転車を漕ぎました。
くそったれ!
何度も心の中で叫びました。
ケン君なんて。
男なんて嫌いよ!
家に帰って部屋で一人になったら生きている自信がなかった私は錦景第二ビルにある占いの館、マシロの家に向かいました。
そこにならハルカちゃんがいると思いました。ハルカちゃんはレズビアンですが、いい女の子です。彼女に話を聞いてもらいたかったのです。悲しみを伝えたかったのです。占い師のマシロ先生にも、藍染生徒会長にも、パワーストーンを私のために選んでくれた彼女にも、それからミヤビちゃんもいれば、話を聞いてもらおうと思ったのです。
でも、マシロの家はやっていませんでした。
猛暑のため今日は無理、という謎の張り紙がシャッタに張ってありました。
ちょっとふざけていると思いました。
ふざけ過ぎだと思いました。
私はこんなに悲しいのに、誰も話を聞いてくれないなんて。
この状況はふざけ過ぎではないでしょうか。
そう思った私はマシロの家のシャッタを殴ってしまいそうでした。
そんな風に思うなんて、その時の私の精神状態はおかしかったんだと思います。
狂っていたんだと思います。
だから私は彼女たちのことを天使だと思ってしまったんです。
狂っていたんですからそれは。
仕方がないことですよね。
「あれぇ、なんだ、休みじゃん、」露出の多いメイド服を纏った茶色い髪の天使が張り紙を見て口を尖らせて言いました。「っていうか、猛暑で無理って何?」
「残念だね、せっかくハルカちゃんたちとご飯しようと思ってたのに、」同じくメイド服を纏った黒髪の天使が言いました。「どうしよっかぁ」
私は自分のことを凄い美人だと思っていました。
でもそれは間違いでした。
突然傍に舞い降りた二人の天使を見て、私の体は痺れてしまいました。
彼女たちの天使レベルの可愛さ加減を知ってしまったら、自分が凄い美人だっていう思い込みを、間違いだと認めざるを得ない、というものです。
とにかくこの日が私と。
エクセル・ガールズの森永スズメと橘マナミとのファースト・コンタクト。
「ま、しょうがないよね、ハルカは電話出ないし」
そう言ってシャッタの前から去りゆくスズメのスカートの裾を私は掴んでいました。
狂っていたので、多分、そんなことをしたんだと思います。
「え、何?」スズメは引っ張られたスカートを押さえて、私のことを睨みました。「っていうか、誰?」
「わ、私、ハルカちゃんの友達の水野レナですっ」
私は精一杯の笑顔を作り、スズメの瞳を真っ直ぐに見ました。「あの、もしよかったら一緒にご飯、どうですか?」
そこから私はストレートに。
向こう側へと堕ちていくのでした。
向こう側の色とはきっとブルー。
ブルー。
それは憂鬱の色。
しかしとても。
熱い色。




