第一章②
錦景市は雨に濡れる、六月の黄昏時。
錦景市立春日中学校に通う十三歳の丈旗マヨコの部屋には、錦景女子高校に通う十五歳の森村ハルカがいた。二人はベッドの上に横になり、おしゃべりをしていた。
マヨコは最初、ハルカに勉強を教えて貰うつもりだった。そのつもりで昨日の夜に彼女に電話を掛けたのだ。彼女は去年まで春日中学校の先輩だった。そして兄の丈旗ケンと仲がいい。だからマヨコはハルカに勉強を教えて貰えるポジションにいる。
これは余談だが、実は二人は付き合っているんじゃないか、とマヨコは勝手に思っていた。将来ハルカみたいな素敵な人がお姉さんと呼べる人になることは悪くない未来だ、なんてマヨコは勝手に思っている。
それはともかく、最初はハルカに勉強を教わる気満々のマヨコだったけれど、森村先生の天体史の講義が始まって十分も立たない内に睡魔が目の前を横切った。
そしてマヨコは夢を見た。
そこでアリスと出会い。
そしてまた。
「アリスはどこに消えた!?」
という台詞を叫んで跳ね起きた。
ハルカは驚いた顔をマヨコに向け、その表情のままじっと見つめてきてから二秒後、声を出して笑った。「あははっ、マヨちゃんってば、なんなの、それぇ?」
ハルカは座椅子に座り、何やら怪しい本を読んでいた。そしてマヨコは回らない頭を回転させて、どうやら自分は彼女の太股に頭を乗せて眠っていたらしい、ということが分かって、ハルカはなんて優しいお姉さんなんだろうって思った。ハルカは世界一セーラ服が似合う優しいお姉さんだって思った。
アリスの夢のことをハルカに話そうか、って一瞬思った。でも、笑われてしまうだけだと思うから、涎を拭いて口を閉じた。夢の中のアリスが現実にいるって信じている、なんて言っても優しい笑顔で流されてしまうだけだと思うから、マヨコは首を横に振った。「なんでもないよ」
マヨコが言うと、ハルカは笑うのを止めてじっとマヨコの顔を見た。まるでマヨコの心を読んでいるような目で見つめてくる。なんだか、魔性、という表現が頭に浮かんだ。彼女の一挙手一投足が魔性に担保されたものではないかと。一度そんな印象をハルカに対して抱いてしまうと、彼女がどんどん魔性に思えてきた。その優しげな微笑みは実は偽りで、何かとてつもなく悪いことを企んでいるのかもしれない、なんて、考えてもしょうがないことをマヨコは考えてしまった。本当に、しょうがないことだと思う。でも、彼女の今の瞳は凄く、魔性なんだもの。
「……ハルカちゃん、なぁに?」見つめられることに我慢できなくて、マヨコは声を上げた。
「別に、」ハルカは手元にある、もう魔性に見えて仕方がない本を閉じてマヨコの前髪を触って乱れを直した。「なんでもないよ」
「これ、」マヨコはハルカの本にそっと触れて言う。「何の本?」
「魔導書よ」ハルカはそっけなく答えた。
「あははっ、」マヨコの笑いは渇いている。「まーた、冗談ばっかり言って、」マヨコはハルカの本を膝の上で開いた。開いてみてちょっと驚いた。だって、そこには見慣れない言語がびっしりと、まるで昆虫の行列のように、並んでいたからだ。「……って、これ、本当に何?」
「だから魔導書だって、マヨちゃんは読めない?」
「……もぉ、」マヨコは片方の頬を膨らませた。ハルカが調子に乗って自分のことをからかおうとしていると思ったからだ。ハルカはよくマヨコのことをからかって遊ぶ。マヨコはハルカにどんな反応をするべきか、どんな反応が愛らしい妹として相応しいか、なんて二秒くらい悩んでから、片方の頬を膨らませることにした。なんの考えもなしに、マヨコは可愛い娘ぶったりはしない。「いくら私が寝起きだからってからかわないで欲しいな」
「別にからかってなんてないんだけどな、」ハルカは首をわずかに傾けて言って、小さく伸びをしてからマヨコに聞く。「天体史の続きは?」
マヨコは大きく欠伸をして、眼を擦り、ベッドの上に移動した。「そういう気分じゃないかも」
「じゃあ、どんな気分?」ハルカもベッドの上に来た。小さく欠伸をして顔を寄せて聞いてくる。
ちょっとハルカの顔が近すぎてドキリとした。
ドキリとしたなんて思われたくないからマヨコは突貫工事で笑顔を作った。ハルカのとびっきりの笑顔を鏡の前で練習し続けて習得した笑顔だ。その笑顔は絶品だって、ハルカは以前褒めてくれた。「ハルカちゃんとお話したいな」
「いいよ、」ハルカは眼鏡を外し、眼鏡を外すと彼女の美人度は増す、マヨコの枕に頭を乗せて言う。「何話す?」
それからマヨコは天体史のことなんて忘れてハルカと夢中でおしゃべりした。
天体史と違っておしゃべりの方は始まったら止まらない。眠気はすぐに吹き飛んだ。
マヨコは部活の素敵な先輩のこととか、気に入らない先生のこととか、理科室の幽霊のこととか、色々話した。
マヨコの話題が尽きることはなかったけれど、話題の切れ目に、ハルカは突然訊ねてきた。「ねぇ、マヨちゃん、マヨちゃんはさ、どうして急に、錦景女子に来たい、なんて思ったの?」
そう言えば、まだハルカには言ってなかったことにマヨコは気付いた。成績が微妙のマヨコが県内で二番目に頭がいい、名門の錦景女子高校に進学したくなった理由を話してなかったのだ。
「えっと、それは」
マヨコは躊躇った。マヨコが錦景女子高校に進学したい理由、というのはアリスの夢のこと関わってくるからだ。というか、理由はアリスだった。錦景女子に通えれば、アリスに会えるって思ったから、マヨコは頑張って勉強しようと思ったのだ。しかしこれはよく考えてみれば、よく考えなくても滅茶苦茶な理由だ。理由というか、ただの予感だ。予感でしかないのだけれど、でもマヨコはなぜか会える気がしている。二年生のマヨコの受験はまだまだ随分と先のこと。マヨコはその未来に予感している。もちろん、ハルカと同じ学校に通いたい、錦景女子のセーラ服を着たいっていう気持ちも大きいけれど、一番はアリスであることは間違いない。マヨコは錦景女子に行けばアリスに会えるって信じてる。
「変な夢ね」
質問について答えながら、マヨコが意を決してアリスの夢について話すとハルカは目を瞑ってそう言った。「変な夢、そもそも錦景女子に中等部なんてものはないし、そんな大きな校舎じゃないし、白くないし」
「え、じゃあ、私が夢で見た、あの学校は?」
「全部夢、」ハルカは魔性の目を見せて言った。「マヨコ・ドリーム」
「ハルカちゃんは、どうして私が同じ夢ばかり見るんだと思う?」
「同じ夢を見たいと思っているんじゃない、マヨちゃんが」
「え、私が?」
「うん、その、夢の中でアリスって娘に会いたいから、何度も夢を見続けているんだよ、そして最後にどこかに行ってしまうっていうのは、それは、酷いことを言うようかもしれないけれど、マヨちゃん、あくまで一つの意見として聞いてね、とにかくつまり、アリスなんて娘はいないってマヨちゃん自身がちゃんと分かっているからアリスは消えてしまうんだよ、アリスの消失は、アリスはこの世にいない、ということの暗示よ」
「アリスは絶対にいるもんっ!」
マヨコがむきになって叫んだからハルカは眼を丸くしてとても驚いていた。
あまりハルカに見せない自分だったと思う。
変な自分だったと思う。
変な娘だとハルカは思ったかもしれない。
そんな風にハルカに思われてしまうのは嫌なこと。
だけど。
でも。
アリスは絶対にいる。
いるんだから。
その予感があるから。
ハルカの意見に素直に頷けない。
夜。
マヨコはまた同じ夢を見てアリスと出会い別れた。
ただいつもと違うことが一つあった。
それというのは。
校舎の前にあるベンチに山高帽子を被ったハルカが座わり、体を隠すように海外の新聞を広げていて。
横を通り過ぎるマヨコとアリスのことをチラリと見た。
それだけだった。
強烈な印象に残っているのは、彼女の髪は紫色に煌めいていた、ということ。
なぜか。
ハルカのことを魔女だと思った。
傍に箒はなかったけれど。
彼女の瞳は夢ではさらに、魔性だったから。