第四章⑭
マルガリータの長い髪は素敵なブロンドだった。素敵なブロンドをツインテールにしていて、以前会ったときよりも明るい印象を受けた。なんていうか、天真爛漫、という雰囲気を身に纏っていた。
ハルカのエレクトリック・マグネットに引き寄せられたということと、彼女の素敵なブロンドから推測するに彼女は光の魔女だと言うことになるだろう。
「そう、私は光の魔女、」彼女はハルカの問いにきちんと答えてくれた。「とにかく三人に、紫色の可愛い魔女の三人にイリスに会ってもらいたいの、いいかしら?」
イリス。
マルガリータはアリスではなく、イリスと発音した。
「アリスじゃなくてですか?」ハルカは聞く。
「いいえ、」マルガリータは首を横に振ってツインテールを揺らした。「イリスです」
やっぱり、イリス。
なぜ、イリスなのか?
ハルカは一度目を瞑り、ちょっとだけ考えた。考えただけだ。そしてぱっちりと目を開けて、両サイドに座るアイナとニシキの腕に自分の腕を絡めてから返答した。「行きます、私たちイリスに会いに行きます」
ハルカとアイナとニシキの三人はマルガリータの箒に乗って、というわけではなくて黄色いビートルに乗せられてイリスの家に向かっていた。車内BGMはユーミンの『ルージュの伝言』だった。だからなんとなく箒に乗っている、ような気分でもあった。マルガリータは運転しながら陽気にルージュの伝言を口ずさんでいた。彼女の日本語の発声は完璧だった。マルガリータは後部座席に座る三人に向かって言う。「ほら、皆も一緒に歌いましょうっ」
マルガリータがそう言うので、三人もルージュの伝言を口ずさんだ。ルージュの伝言は魔女のテーマソングみたいなものなので、三人とも実は歌いたくてうずうずしていたのだ。黄色いビートルの中での合唱はとても楽しくて、マルガリータという魔女との、心の距離、みたいなものが少し縮まった気がした。ルージュの伝言が終わっても、合唱は続いた。
「着いたわ、ここがイリスの家」
ビートルは一時間くらい北に向かって走っていた。そろそろ錦景山に差し掛かろうという田園風景の中で、周囲を木々に覆われた二階建ての洋館があった。マルガリータはその敷地の中にビートルを滑り込ませた。
「さあ、降りて」
三人はビートルから降りて洋館を見上げながらその玄関に向かった。周囲の暗い緑は風に揺れて、不気味にざわめいている。もうそろそろ太陽が完全に沈む時刻。遠くの空は紫色に滲んでいる。マルガリータが先を行き玄関を開け三人を招いた。「さあ、どうぞ、中へ」
『お邪魔しまーす』
玄関ホールの絨毯を三人は踏んだ。ホールの天井は高く見上げれば金色に輝くシャンデリア。正面には大きな両開きの扉。玄関ホールの左右に階段があって曲線を描きながら二階に伸びている。二階の真正面にはバルコニィのように手前にせり出している箇所があり、なんだか童話の世界に入り込んだ気分だった。
「お化け屋敷みたい」アイナがハルカの耳元で小さく囁いた。
「そうとも言えるね」ハルカは頷き笑う。
「失礼よ」ニシキは言って、そして怖くなったのかハルカとアイナと手を繋いだ。
マルガリータは玄関ホールの左手にある扉を開けて言う。「イリス、魔女たちを連れてきましたよ」
「あら、早かったのね」イリスの声が聞こえる。
「彼女がちょうど、エレクトリック・マグネットを編んでくれていたので、すぐに見つけることが出来たんです」
「そう、それはラッキィだったね」
「さあ、」マルガリータは三人の方に笑顔を向けて言う。「どうぞ、こっちに来て」
『失礼します』ハルカを先頭に三人はイリスのいる部屋に入る。
その部屋は応接室のようだった。奥のソファにイリスの小さな体が沈んでいた。彼女の膝の上には三毛猫がいて三人の姿をじっとその瞳に映していた。
イリスの顔をハルカはじっと眺め見た。マルガリータよりも素敵なブロンド。大きな鳶色の瞳。彼女は以前と同じ、白いワンピースを着ていた。素足だった。間違いなく、彼女だと思った。アリスだとハルカは思った。
でも違和感があった。
何か、違う。
どの部分か、というところまでは分からないけれど、違う。
いや、きっとそれは夢の中の世界の彼女が現実にいることによるものだと思う。それに集約出来ると思う。心はなんだかそう思うことに反発しているんだけど。
「こんばんは、紫色の魔女の皆さん、」イリスは三人を見て優しく微笑んだ。「ハルカとアイナに会うのは確か二度目よね、ニシキとは初めましてになるわね、ああ、どうぞ、立ってないで好きなところに座って」
そう言われたので三人は左手のカーテンを背にしたソファに固まって座った。ハルカが一番奥、イリスに近い場所に座った。
「あら、皆、仲がとっても良さそう」
とりあえず三人は顔を見合わせながら笑顔を作った。
「紅茶でいいかしら?」マルガリータが三人に聞く。
三人は頷く。
「あら、緊張しているの? そんな必要ないのに、」イリスは言って、テーブルの上のグラスを手にして注がれていた赤い液体を飲んだ。「可愛い魔女たちね」
可愛いイリスに可愛いと言われるのは、なんだかとっても変な感じがした。
「それ、ワイン?」ハルカは聞く。
「ええ、ワインよ、あなたたちも飲む?」
「いいえ、」ハルカは首を横に振る。「未成年なので」
「そう、」イリスは再びグラスを傾ける。それはとても彼女に似合わない。「真面目なんだね」
「あなたも未成年でしょう?」ニシキが言う。
「あははっ、」イリスは急に笑い出した。「マルガリータは何も話してないの?」
「ええ、何も話してませんよ、」カップをハルカたちの前に並べながらマルガリータが言う。「ずっと歌を歌っていましたので、ああ、とても楽しかった」
「歌?」
「ええ、ビートルに揺られながらルージュの伝言を皆で合唱してたんです」
「ふうん、」イリスは肩に掛かる髪を指に巻き付けて言う。「とにかく私、あなたたちよりも年上のお姉さんなのよ」
「二十八歳です」マルガリータが言う。
「こら、」イリスがマルガリータを睨み言う。「正確に言わなくてもよろしい、とにかくもうね、結構この世界に生きているんだよね」
ちょっとそれは信じられなかった。
イリスはどこからどう見ても、年下にしか見えない。
子供にしか見えない。
「あの、」ニシキが控えめに声を出す。「マルガリータさんがベビーシッタっていうのは、もしかして」
「ええ、」イリスは頷く。「私には娘がいるわ、今は離れて暮らしているけれど、娘が大きくなるまで面倒を見てくれていたのがマルガリータなの」
ハルカはイリスに娘がいるという事実を知って途方に暮れた。
なんていうか。
こういう人もいるんだなって思った。
「マルガリータには今、私の面倒を見てもらってる、ベビーシッタ、というか、メイドね、日本でも大人気のメイドさん、マルガリータは目薬を差すのが上手だから」
「目薬?」
「ええ、」マルガリータが頷く。「目薬です」
イリスはマルガリータに視線を向ける。「マルガリータは三人に何も話していないのよね?」
「ええ、」マルガリータはハルカたちの対面に腰を降ろし紅茶をすすっている。「歌を歌っていましたので、何も話していません」
「それじゃあ、身分を説明するところからだね、」イリスは膝の上の三毛猫を脇に寄せて足を組み、祈るように五指を組み、それを膝の上に置いた。「私の名前はイリス・S・クレイル、ご覧の通り光の魔女で、オクスフォード大工学部の準教授、そしてパイザ・インダストリィのスクリュウ・プロジェクトの最高顧問」
「それから、」マルガリータが付け加える。「ロンドンで最高の魔女と言えばイリスのことです」
「あなたたちにここに来てもらったのは、他でもなくスクリュウのことよ、あなたたちはスクリュウが素晴らしい発電システムだと言うことは知っているわよね?」
「はい、里見博士から聞きました」
「そのスクリュウが、最近になって実はある魔女によって壊されようとしている、その魔女の名前はミア・セイレン、彼女のことはよくご存じよね?」
「……ええ、はい、よく知っています、ミアのことは、」ハルカは小さく頷く。ミアの名前が急に出て来たものだから脳ミソの回転は二秒間止まってしまった。「……ミアがスクリュウを壊そうとしている?」
「ええ、ミアはスクリュウを壊そうとしているの、」イリスは淀みなく言った。ワインの効果できっと、唇が滑らかに動いているんだ。「あなたたちのその、お友達である、御崎ミヤビにミアが近づいたのはスクリュウを壊すためなの、一人であの巨大な塔を破壊するのは難しいから発電機の彼女のことを仲間にしたんだわ、そして先ほど連絡があった、スクリュウ・プロジェクトのリーダである里見アキラが私たちのことを裏切ったという連絡があった、彼女はミアの協力者になった、裏切った理由は分からない、脅されたのか、色々と様々なことが考えられるけど、今のところよく分からないけれど、ああ、アキラの裏切りは本当に信じられないことよ、とにかくこのことは、アキラの裏切りは、スクリュウ・プロジェクトの停滞を意味するの、そしてスクリュウをミアに壊されてしまえば全てがゼロになってしまう」
「あ、あの、」ハルカは聞く。「どうしてミアはスクリュウを壊そうとしているんですか?」
「……ミアは私のことを愛しているの、」イリスは首の角度を傾けてハルカの目を覗き込むように見ながら言う。「ミアは私のことを愛しているから、スクリュウを壊そうとしているの」
「愛しているから?」
「そう、十一歳で魔女になったミアは私のところに来たわ、私はその頃、チェルシの街の片隅で研究費を稼ぐために魔女のための塾のようなものを開いていた、ミアは塾に入ってからすぐに私のことを好きになった、ミアの初恋は私だった、思えばあのときに強く拒絶していればこんなことにならなかったのよね、中途半端に彼女のことを受け入れてしまったから、彼女は私のことを恨んでしまった、初恋をこじらせてスクリュウを壊したいと思うほどの憎悪を抱いてしまった、それには私にも大きな過失があるわ、責任がある、彼女に対して罪を犯したとも思う、本当に過去に戻れるのなら私はやり直したい、」そこでイリスはワインを傾けた。「……でもスクリュウを破壊することは絶対に間違っていること、スクリュウは次世代エネルギア研究の発端なのだからそれを終わりにしてはいけない、だから夏休みの間、あなたたちに守ってもらいたいの、スクリュウのことを、具体的にはミアにエネルギアを摂取させないようにして欲しいの、彼女はエネルギアを体内に摂取してスクリュウを破壊するための強力な魔法を編もうと企んでいる、そういうことが彼女には出来る、出来てしまう、でもあなたたちがそれを邪魔すればミアはスクリュウを壊すことは出来ない、それからミアと話せる機会があればあなたたちで彼女のことを説得して欲しい、スクリュウを壊すなんて莫迦げているって教えてあげて欲しい、イリスのことを殴れば済む話だって伝えて欲しい、イリスはどこにも逃げないからって、もちろん私も彼女のことに関しては努力をしてみる、ああ、それからあなたたちの友達に、」
「友達じゃありません、」ハルカは強く言った。「ミヤビは私たちの恋人です」
「恋人に、」イリスは言い直す。「考え直すように言って欲しい、やろうとしていることは間違いだって、それからアキラのこともね、注文が多いけれど、頼めるかしら、あなたたちの紫色に、もちろん報酬は払う、いくらでもね」
ハルカはイリスに確かめる。「ミアはミヤビのことを利用しようとしているだけなんですね? ミヤビのことを愛していないんですね?」
イリスはしばらく考える素振りを見せ、ゆっくりと口を動かした。「ミアがスクリュウを破壊したいほど私のことを愛しているのなら、ミアはミヤビのことは愛していないと思うわ、彼女はなんていうか、そう、まっすぐだから、その純真が、純真さゆえに、こんな風になってしまったんだと思うんだけど」
「最低な女ですね、自らの目的のために人の恋心を弄ぶなんて」
イリスは苦笑し、下を向いた。「……そう言われても仕方がないことをしているって思うわ、思いたくないし、あなたにミアのことを最低な女だって言って欲しくないけれど、でも、それが事実なのよね、ミアは酷いことをしていると思う」
「ええ、ミアはクソ女です、ミアのこと、殴ってもいいですか?」
「引き受けてくれるの?」
「はい、恋人の間違いは正さなくてはいけませんから」
「そちらの二人は?」イリスはアイナとニシキの方を見る。
アイナとニシキは顔を見合わせていたが頷いた。
「お力になれるかどうかは分かりませんが」ニシキが言う。
「ミャアちゃんのためだもんね、」アイナが言う。「やらなくちゃ」
「ということです、」ハルカはぎゅっと拳を握り締めて言う。「トワイライト・ローラーズ、今は三人ですが、精一杯頑張りますっ」
「ありがとう、」イリスは笑顔を作り、組んでいた五指を解いて言う。「なんとなく、ほっとしたわ、ああ、よかったらディナーを一緒にどう?」
部屋を変えて広間で五人は夕食を食べた。夕食はマルガリータが用意してくれたものだ。彼女が作った料理はどれもおいしかった。マシロにも食べさせてあげたいってハルカは思った。
ハルカはその席でイリスに聞いた。「アリスの夢の登場人物はあなたですか?」
「急に何の話?」ワインを一本飲み干したイリスの頬はピンク色だった。
「マヨコ、という仲がいい女の子がいるんですけれど、その娘は同じ夢を何度も見ています、何度も同じ夢を繰り返し見ていてその夢にアリスという登場人物がいます、そのアリスは、あなたにとてもよく似ています、夢見という魔法で彼女の夢に入って私はアリスのことを見ました、本当にそっくりです、私はそのアリスがあなたなのではないかって思っていましたが、違いますか?」
「違う、というか、」イリスは微笑み、ハルカから目を逸らして言う。「知らない話ね」




