(シー・イズ)エレクトリック・マグネット
梅雨も明けて錦景市は初夏。
錦景市の夏は暑い。錦景市は周囲を山に囲まれている、いわゆる盆地なので冬は異常に寒く、夏も異常に暑い。近年では隣のS県の熊谷市を越える気温を叩き出すことも珍しくなくなった。
土曜日のこの日、斗浪アイナは森村ハルカと二人きりだった。
県内一の進学校である中央高校に通う御崎ミヤビと桜吹雪屋藍染ニシキの二人は土曜日には補講がある。だから今日は二人きりだった。
ハルカとアイナはプールに行った。ハルカの自宅がある、六供という町のプールで、ハルカはロック・ウェイ・ビーチ、と格好付けて呼んでいた。ロック・ウェイ・ビーチ、というのはラモーンズの曲だ。ハルカは大のロック好きで、マシロのエッセイの執筆に疲れたときはふらっとマシロの家の前のタワーレコードに行って大量のCDを購入してくる。そんなハルカに影響されて、アイナも徐々にロック・モードになりつつあった。
このプールは清掃工場に隣接していてその排熱で水は暖められている。つまり温水だ。温水の流れるプールには沢山の人がほとんど隙間なく流されていて、とてもこの中に飛び込む気分にはなれなかった。
「うげぇ、」アイナはプールサイドに浮き輪を置いて、その上に座って言う。「人多過ぎぃ」
「だから言ったでしょ、」ハルカはアイナの隣に膝を抱いて座った。「ロック・ウェイ・ビーチはめちゃ混んでるって、ここ市営で安いし、綺麗な方だし」
「こんなに混んでるとは思わないよぉ、ああ、ウォータ・スライダも混んでるぅ」アイナはウォータ・スライダに向かう列を睨みながら言った。
「ウォータ・スライダなんて一瞬なのにね、長い時間並ぶほどのスリルもない、あの人たちは時間を捨てているね、いや、もしかしたら子連れのお父さんたちは経験を持って時間の大切さを子供たちに教えているかもしれないぜ」
「あ、隙間がある、」アイナは流れるプールに二人でぷかぷか浮かぶことの出来る隙間を見つけて立ち上がった。「行くよ、ハルちゃんっ」
アイナは浮き輪を持ち、ハルカの手を引っ張ってプールに飛び込んだ。
水しぶきが上がる。
温いけど、夏なので、気持ちいい。
気持ちいい。
そう思ったのもつかの間。
プールの監視員のボディビルダみたいなおじさんに笛を鳴らされ、飛び込んじゃ駄目って注意された。「君たち、小学生じゃないんだからっ」
「……小学生じゃないんだから」おじさんのお説教が終わった後、ハルカにも言われた。
「……うるちゃい、」アイナはハルカを睨み言う。「夏だもの、飛び込みたくもなるさ」
アイナはしかし、それにめげることなく、もちろん飛び込むのは止めたけど、再び流れるプールに入った。浮き輪に乗ってハルカと一緒にぷかぷかと流された。ハルカも恍惚の表情を見せていた。ハルカはなんだか温泉に入っているみたいな顔をしていた。
「ねぇ、君たち、二人だけ?」
多分流れるプール、十週目に入った頃くらい。
私たちはプールサイドから茶髪のお兄さんに声を掛けられました。
「二人ともすっごく可愛いよね、」茶髪のお兄さんはプールの流れに合わせて歩きながら言う。「高校生? よかったらさ、一緒に遊ばない?」
アイナとハルカは顔を見合わせた。
「まさか、ナンパ?」ハルカがアイナに顔を近づけて言う。「ナンパなのかな?」
「うん、多分ナンパ、」アイナは茶髪のお兄さんに軽蔑の視線を送りながら言う。「ハルちゃんはナンパされたことない?」
「ない、」ハルカは首を横に振る。「全然ない」
「えー、本当のこと言えよ」
「本当にないんだって、」ハルカはそして、少し嬉しそうな顔をする。「でも、可愛いって言われるのって、いい気分だよね、私、男の人に可愛いって言われたの、初めてかも」
「そんな顔しないでよ、可愛いなんて私が、ミャアちゃんも、キンちゃんも、しょっちゅう言ってるっしょ?」ハルカがそんなことを言うからアイナはちょっと嫌な気分になった。「それともなぁに、あんなのと遊びたいの?」
「遊びたくはないね、魔女だもの」
「そりゃそうだ、」アイナは大きく頷いた。「魔女だもの」
二人が会話している間にも茶髪のお兄さんは何かしら言っていたが、アイナの耳にはノイズにしか聞こえなかった。二人が無視を決め込んでも、彼は付いてくる。
「おーい、何してんだよっ」
冷やかしの声が上がった。少し離れた先に彼の連れのような髪が茶色い人たちの姿が見えた。大学生だろうか。この近くには工科大学があったと思う。その人たちはアイナとハルカのナンパに手こずっている彼を指差しバカ笑いしている。
本当に不快な笑い方。
ああ、本当に。
不愉快。
てめぇらのせいでハルちゃんとのデートが最悪だぜっ。
「ねぇ、頼むよ、君たち、」茶髪のお兄さんは今度は手の平を合わせて懇願してきた。「俺を助けるためだと思ってさ、ナンパ成功させないとバカにされるんだよぉ」
アイナはハルカに視線を移す。
ハルカは彼に向かって「べぇ」って赤目を見せて舌を出していた。
つまり。
同じ気持ち。
だから、アイナは右手をライジング・リボルバの形にして、それを彼に向けた。「うるせぇ、黙れ、アホか、クソ野郎」
アイナはきちんと罵倒が伝わるように歯切れよく言った。
「え?」お兄さんの笑顔はひきつる。「何、急に」
アイナはほんのりと紫色に煌めいて。
「ばーんっ」言って、素敵なウインクをお兄さんにプレゼント。
アイナはライジング・リボルバを外さない。四人の内で一番ライジング・リボルバが巧いのはアイナだった。まるでドラえもんののび太君みたいな才能がアイナには隠されていたのだった。
まあ、それはともかく。
茶髪のお兄さんは電気を頭にくらって卒倒。
救急車が出動する事態になった。
自業自得だ、くそったれ。
ああ、いけない。
ミヤビの口癖が移ってしまったみたいだ。
プールから上がって着替えた二人は、二階にある談話室でベンチに座り、売店で買ったソフトクリームを食べていた。
ハルカと一緒に食べるソフトクリームはおいしくて、アイナは茶髪のお兄さんのことはすぐに忘れた。
ハルカはジーンズに、コレクターズのバンドTシャツというラフな出で立ちだった。コレクターズっていうのは、あの『世界を止めて』のコレクターズだ。
来月に新譜が出るんだ、ってハルカはソフトクリームを猥褻に舐めながら嬉しそうに話していた。濡れた髪のハルカは何をしても猥褻だ。「コレクターズの曲に、あの娘は電気磁石って曲があるでしょ?」
「あるね、」アイナは頷く。「私、あれ好きよ」
「電気磁石って魔法があるんじゃないかって探してみたんだけど」
「そんなのないっしょ」アイナはニコニコして言う。
「あったんだよ」
「嘘ぉ」アイナはまたハルカの冗談だと思った。
「正確には、魔女を引き付ける魔法なんだけど、あったんだ」
「えー、何、その魔法」
「これ、幽霊にも使えるんじゃないかなって思ってるんだけど、とにかく、編んでみていい?」
「え、もう覚えたの?」
ハルカは濡れた髪にタオルを被せた。談話室にいる女の子も何人か、同じように頭にタオルを乗せているから不自然じゃない。
ハルカの前髪が紫色に煌めくのが見えた。
凄い。
ぐっと吸い寄せられた。
ハルカの頬にぴったりとアイナの頬がくっついている。
なるほど。
これは電気磁石だ。
ハルカが煌めくのを止めると、彼女の頬とアイナの頬は離れた。
「どう?」ハルカはタオルを頭から取り得意な顔を見せる。「面白いっしょ?」
そのときだった。
ベンチに座る二人の前に突然、少女が立った。
白人の女の子だった。
中学生くらいだろうか。
ドレスのような白いワンピースを着ているからフランス人形みたいだった。
彼女のプールで泳いだ後なのだろう、ブロンドの髪が濡れている。
彼女はハルカのことをじっと見ていた。
ハルカもじっと見つめ返している。
ハルカの表情はなぜか少し、いや、凄く張りつめていた。
「どうしたの?」アイナは少女に微笑み、優しい口調で聞いた。「どうしたのかな?」
「この娘に、」少女はハルカのことを指差し言った。「吸い寄せられたから」
「え、」アイナは、まさか、と思う。「もしかして、あなた」
魔女?
聞く前に少女の横に、彼女の母親のような女性が現れて、それにしては髪の色も目の色の顔つきも違っていたけれど、英語で勝手にどこかに行くな、というようなことを言って少女を連れて行った。その人は少女のことを、イリス、と呼んでいたと思う。
「アリス」
ハルカは難しい顔をしたままポツリと呟いた。
「ああ、アリスって呼んでた?」アイナは聞き間違えたみたいだ。「でも、可愛い女の子だったね、……って、ハルちゃん?」
アイナはハルカの横顔を見る。
視線が宙に浮いている。
おそらく何も見えていない。
エッセイを執筆しているときとか、本を夢中に読んでいるときとか、プラモデルを作るときとか、ハルカはこういうとても魅力的な表情を見せる。二十四時間、ずっと眺めていても飽きない横顔だ。
でもアイナには分からない。
今、どうしてハルカがそんな顔をしているのか。
「ハルちゃん?」もう一度、アイナは呼び掛ける。
するとハルカははっとなって、やっと現実に戻ってきた。
そして慌てて周囲を見回し、アイナに向かって叫んだ。「アリスはどこに消えた!?」
「どこって言われても、もう帰っちゃったんじゃない?」
「な、なんで引き止めて置いてくれなかったの?」
「はあ、ハルちゃんってば、何言ってんの?」
「だって、あの娘は紛れもなく、」ハルカはハルカとは思えないくらい、取り乱している。「アリスだったから!」
「ハルちゃん、とにかく落ち着いて、それとも、」アイナは大きく息を吐き、ライジング・リボルバをハルカの顔に向けた。「ハルちゃんも撃たれたい?」