第二章②
天気快晴ののち、曇り空。
六月十五日の錦景市の黄昏には雲が掛かっていて、空気にはざらついた不純物が混じっているように感じた。
この日、春日中学校に通う十三歳の丈旗マヨコの部屋には、錦景女子高校に通う十六歳の森村ハルカがいた。二人はベッドの上にごろんとなり、例によっておしゃべりをしていた。おしゃべりの内容は一分後には忘れてしまう取り留めのないものだった。
「さて、そろそろ、」森村先生はベッドの上からテーブルの前に座り、天体史の教科書を胸の前に持ち上げた。「マヨコ君、天体史の講義を始めましょうか?」
「はい、えっと、」マヨコは上半身を持ち上げて、枕に擦れて乱れた髪を直しながら、ハルカから視線を逸らして声を出す。「ごめん、ハルカちゃん、実は今日呼んだのは、天体史の講義をしてもらおうって思ったんじゃなくて、その、ハルカちゃんに聞きたいことがあって」
「え、」ハルカは首を傾ける。「天体史とは関係がないこと?」
「うん、全然、全く、その関係ないことなんだ、それにもう、天体史はいいから」
「天体史はいいって、それって錦景女子を諦めるってこと?」
「ううん、そうじゃなくて、」マヨコは勢いよく首を横に振った。「スポーツ推薦で、勉強よりも部活を頑張って、錦景女子に行こうって思って、あの、陸上部の先輩がそうするって言うから、私もそうしようって思ったの、その、ハルカちゃんには浅はかだって笑われちゃうかもしれないけど、私にはそっちの方が近道だと思ったの、勉強は駄目だから」
「笑わないよ、」ハルカはニッコリと笑う。「私もそっちの方が正解だと思うよ、マヨちゃんは一つのことに集中して結果を残すタイプだもんね、そうと決めたのなら天体史は邪魔しちゃいけないね、コレはもう、必要ないね」
ハルカは天体史の教科書を部屋の隅にぽいっと投げた。
「ありがとう、」ハルカにそう言ってもらえてマヨコは嬉しかった。ハルカは本当に素敵なお姉さんだ。マヨコは彼女のことを抱き締めて、ハルカの大きめな胸に顔を埋めたくなった。ハルカが本当のお姉さんだったら、マヨコは我慢出来ずにすぐに実行していただろう。「でも、ごめんね、今まで教えてくれたのに」
「え、マヨちゃんに天体史を教えてあげたことなんてあったかな、」ハルカは笑顔のままで言う。「ただおしゃべりしてた記憶しかないんだけどな」
「ああ、」マヨコは大きく息を吐いて、じっとハルカのことを見つめて言う。「ハルカちゃんが本当のお姉ちゃんだったらよかったのにな」
「え、私はマヨちゃんのことを本当の妹だと思っているけど」
「……抱き締めていいですか?」
「センチメンタルになった?」
「違うけど、」マヨコは一度ハルカから視線を逸らす。恥ずかしい。抱き締めたいなんて、誰にも言ったことがない台詞だ。ああ、熱い。「とにかくハルカちゃんのことを抱き締めたいの」
「いいよ、」ハルカは言う。魔性の目をする。夢の中で一度見た、ハルカのことを思い出した。「テディベアみたいに抱き締めて」
マヨコはハルカの前にペタンと座り、そのまま倒れ込むようにして、彼女の体を抱き締めた。
柔らかい。
ハルカの匂いがする。
凄く、ドキドキした。
なんでだろう。
ハルカのことが好きなのかな。
何かが頬にくっついた。
ハルカの唇だ。
驚いてハルカの顔を見る。
「マヨちゃんが可愛いから、つい、チュウしちゃった」
マヨコはハルカのことを喜ばせるためにはどうしたらいいか、考えた。
マヨコはハルカの頬にキスした。
「あらま、」ハルカは声を上げた。「キスされちった」
そしてもう一度、マヨコはハルカのことをギュッと抱き締めた。「ねぇ、ハルカちゃん」
「なんだい、我が妹よ」ハルカはおどける声を出して、マヨコの頭を優しく撫でる。
「アリスの夢の話なんだけど」
「ああ、前に話してた?」
「うん、アリスの夢にね、ハルカちゃんが出て来たんだ、前に会った日の夜に見たアリスの夢にハルカちゃんがいたの、一回だけ」
「なんだ、見つかってたんだ、見つからないように変装してたんだけどな」
「その冗談、全然面白くない」マヨコは目を瞑ってハルカの体温を感じている。
「相変わらず、同じ夢を見続けているの?」
「うん」
「マヨちゃんはまだ現実にアリスはいて、彼女に会いたいと思ってる?」
「うん、だからちょっと、最近試していることがあって」
マヨコはハルカの体から離れた。なんだか充電されたみたいにエネルギアが体中に満たされている気がした。
「試しているって?」テーブルの上にあったカップを手にしながらハルカは聞く。
「夢から覚めないようにすれば夢の続きを見られるんじゃないかって頑張ってるの、でも、それが中々上手くいかなくって、寝る前に今日は絶対に起きないぞって思っても、どうしても起きちゃう、アリスが消えたところで目が覚めちゃう、どうしたらいいかな?」
「手伝うよ、いつがいい?」
「もぉ、ハルカちゃんってば、冗談しか言わないんだからぁ」
その時だった。
部屋の外から階段を登ってくる足音。足音の種類は二つ。
一つは兄の丈旗ケンのものだ。
もう一つ。
それが問題なのだ。
それが今日、マヨコがハルカに会いたくなった理由なのだ。
部屋が軽くノックされる。
「何?」マヨコは立ち上がり、扉を小さく開ける。
「ただいま」学生服姿のケンが言う。
「おかえり」
「ハルカが来てるんだろう?」ケンはマヨコの部屋を覗き見ながら言う。
「おかえり」ハルカはケンに言って笑顔の横で小さく手を振る。
「誕生日おめでとう、ハルカ」ケンは唐突に言った。「ケーキでも買って来ようか?」
「ありがと」ハルカはそれにきちんと反応した。
「え?」マヨコはひっくり返った声で言う。「誕生日って?」
「え、今日は六月十五日だろ?」
「うん、」マヨコは頷いて思い出した。ハルカの誕生日が今日だってことに。「うん、そうだった、今日はハルカちゃんの誕生日だった」
「だから二人でパーティをしてたんだろ?」ケンは言う。「違うの?」
「違う、すっかり忘れてた、」マヨコはすっごい悲しい気持ちになった。大好きなハルカの誕生日を忘れていたなんて、自分で自分のことを信じられなくなった。最低だ。お姉ちゃんの誕生日を忘れるなんて最低な妹。妹失格。「ごめん、ハルカちゃん、すぐにケーキ買ってくるから」
「いいよ、別に、お祝いとかされるの好きじゃないし、どっちかって言うと祝う方がいいよね、私はそういうタイプよ」
「好きとか嫌いとかじゃなくって、ああ、本当に信じられない、忘れちゃうなんて、もぉ、最悪っ」
「本当にいいよ、気にしてないから、マヨちゃんはそう細かいことを覚えていないタイプだって分かってるし」
「いや、駄目、そんな私、絶対嫌、ああ、とにかく、ごめん、ハルカちゃん、」マヨコは言いながら机の引き出しを開けて自転車のキーを手にする。自宅から自転車で飛ばして十分くらいのところにシャトレーゼっていう洋菓子店がある。確か夜の八時までは開いていたはずだ。「私、ケーキ買ってくるね」
「あ、マヨちゃんっ?」
呼び止めるハルカの声を背中にマヨコは部屋を飛び出した。
そしてすれ違う。
最近になって、ケンの部屋に来るようになった中央の人。
水野レナ。
すっごく綺麗な人だけど。
マヨコはレナのことが嫌いだった。
今のケンの彼女さん、なんだろうけれど。
なんていうか、可愛くない人。
ハルカの方が可愛い。
ハルカと付き合えばいいのに。
というか、ハルカはケンと付き合っていなくてなんだかマヨコはショックだったのだ。ハルは将来のお姉さんになる人だと思ったから。
まあ、勝手に思っていただけなんだけど。
本当に見る目がないと思う。
とにかく、ケーキを買って戻ったら、マヨコはハルカに聞かなければならない。
ケンがレナと付き合っていてどんな気持ちか。
……いや。
でも、それでもいいかとマヨコは思い直す。
ハルカがマヨコのことを妹だと思ってくれていたら、それでいいかってマヨコは思った。