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あの娘は発電機(She Is Electric Generator)  作者: 枕木悠
第一章 アバラート
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第一章⑩

 梅雨の空の変化は激しくて、教室から見えていた風景は晴天だったのに、春日中学校の放課後の空は濃い灰色になっていた。空気も絡みつく質感へと変化している。

 学校指定の紺色のジャージに身を包んだマヨコは、グラウンドをゆっくりと走っていた。

 マヨコは陸上部に所属している。マヨコは短距離の選手だった。昔から球技は全然駄目だけど、駆けっこだけは誰にも負けたことはなかった。だから陸上部に入って誰にも負けない速い女子になろうと思ったのだ。

 マヨコは今のところ、錦景市の中学生の中では一番速い女子だった。でも県大会まで行くとマヨコは八番目くらいになる。今年の春にあった大会で八位入賞。表彰台はずっと遠くに見えた。

 夏にはもっと、速く走れるようになりたいな。

 誰かの背中を見ながら走るのってあんまり楽しいことじゃない。

 あ。

 でも、アリスを追いかけている夢では。

 どうかな。

 少なくとも嫌な気持ち、というのはない。

 でも、緊張するんだよな。

 緊張?

 変なの。

 理解不能意味不明。

 マヨコはグラウンドを走り続けた。走り続けていれば余計な思考が遮断される。理解不能意味不明でも、それでいいか、という爽快な気分になる。

 あるいは鈍感になるのか。

 体が熱を持ち始めたところで。

 マヨコはギアをニュートラルからハイに繋ぐ。

 泣きたくなるほど苦しくなる瞬間まで全速力で走り抜ける。

 もう無理だと思う。そこからさらに大きく一歩踏み込む。そこでやっとスピードを緩める。

 ギアをニュートラルに。

 呼吸を整える。

 昨日より、進歩しただろうか。

 明日は今日よりももっと。

 マヨコはそんな、インターバル・トレーニングを繰り返す。

 そのうち雨が降ってきた。

 雨が降ってきてもマヨコは走り続けていた。他の部員たちも同様に練習を続けていた。野球部とサッカー部は泥に汚れている。

 雨が強くなってきたから、部長が校内に引き上げようと言った。マヨコの髪はシャワーの後みたいに濡れていた。ひとまず陸上部のメンバは渡り廊下の屋根の下に集合。段々と強さを増す雨を見ながら、休憩ということになった。

 三年の鏑屋リホがマヨコの髪を拭いてくれた。彼女は幅跳びの選手。リホは日本の中学生で一番遠くに跳ぶことの出来る女子だ。

 マヨコは彼女のことを尊敬している。なんてたって、一番遠くに跳ぶことが出来るんだから。

 マヨコは他の先輩の言うことは聞かなくっても、リホの言うことだけは素直に聞いた。ほぼ無条件でなんでもだ。彼女が突然気分が変わったと言ったら、マヨコも気分を変えた。

 それになんてったって、彼女は綺麗だ。春日中学で茶髪のショートヘアが一番似合っているのは彼女だ。同性から見ても、リホはとてつもなく綺麗な人。

 とにかく、リホはマヨコにとって憧れの先輩なのである。だから、

「髪、短くすれば?」と言われてしまったら、今すぐに短くしたくなった。「ポニーテールもいいけどさ、私ぐらいにしたらちょっとはタイムが縮まるんじゃない?」

「はい、分かりました、」マヨコは絶品のスマイルで頷いた。「切ります、今すぐ、美容院に行ってきます」

「え?」リホはちょっと困惑している。「いや、別に命令したわけじゃないよ、ただ言っただけ、っていうか、せっかく伸ばしてたんだから、切るときはよく考えなきゃいけないと思うよ」

「え、どっちですか?」マヨコは後ろに振り返り首を傾ける。「リホ先輩は私に髪を切れと言っているんですか? それとも切るな、と言っているんですか?」

「マヨちんが切りたいなら切ればいいし、切りたくなければ切らなければいいし、」リホは形のいい唇を尖らせて、なんだかはっきりしないことを言う。「私が決めることじゃないって言うか、とにかく、よく考える種類のことだよ」

「つまり私は、よく考えればいいんですね?」

「まあ、そういうことかな、」なんだかリホの声には力がない。疲れているみたい。胡乱の目で雨の景色を見ている。「雨、止まないなぁ」

 マヨコは水分を含んだ髪の毛に指を入れて言った。「切ろうかな」

「よく考えた?」

「はい、」マヨコは嘘を付いた。よく考えていない。ただ、水分を含んだ髪の毛が重くて、それがちょっと煩わしいと思ったのだ。この髪の毛は梅雨に相応しくないと思った。髪を切るのには十分な理由だろう。伸ばそうと思ったときだって、ただハルカの長い髪が羨ましいな、って少し思っただけなんだもの。「考えましたよ、実は一週間前からそろそろ切ろうかな、と考えていたんです」

「本当に?」リホは笑う。「得意のマヨちゃんジョーク?」

「ハルカちゃんだって短いですし、でもハルカちゃんの真似をして短くしたなんて思われるのは嫌なので時期を考えていたんですよね」

「森村先輩も、髪、長かったよね」

「そう言えば、昨日の夢に、ハルカちゃんが出てきたんですよね」

「あ、またアリスの夢?」

「はい」

 マヨコは頷き膝を抱いた。リホにはアリスの夢のことを話していた。リホはクラスメイトのまだまだ幼い女子たちとは違って、アリスの夢の話を真剣に聞いてくれる。まあ、信じてくれているかどうかは別として。「ハルカちゃんが夢に出てきたんです、初めて」

「へぇ、それで?」

「夢にいただけです、夢にいて、私とアリスのことを見ていたんです、紫色の髪をして」

「紫色?」

「はい、紫色です」

「何の暗示だろう、紫色ねぇ、」リホは紫色の意味を知っている風に言ってジャージのファスナを閉めた。「あ、そう言えば、私、決めたよ」

「何をですか?」

「私、錦景女子に行くことにしたの」

 マヨコは少し驚いた。リホが錦景女子を進路に選ぶことはないと思っていたからだ。だって。「……あの、失礼だと思いますけど、リホ先輩の成績じゃ、錦景女子は無理なんじゃ」

「ちょ、失礼だなぁ、」リホは笑ってから頬を膨らませて怒った顔をする。「まあ、確かに私の成績じゃあ、錦景女子は無理な話ってもんだけど」

「そうですよ、」マヨコは真顔で言う。「無理ですよ」

「もぉ、わざと言ってるでしょ?」リホはマヨコの頭を小突く。

「いいえ」マヨコは笑顔で首を横に振った。

「スポーツ推薦ってあるでしょ?」リホは片目を瞑って人差し指を立てて言う。「推薦貰えそうなんだ、まあ、夏の大会の頑張り次第なんだけど、どれだけ遠くに跳べるかだね、とにかく、目標が定まったわけなのだよ」

「ああ、そっか、」マヨコは声を上げた。スポーツ推薦なんて一ミリも思わなかったことだからだ。「その手があったか」

「なぁんだ? なんだかマヨちんが、悪い顔をしているよ」

「いえ、ただ、それなら私も錦景女子に行けるかもしれないなって思ったんです、勉強を頑張らなくたって、誰よりも速く走れるようになれば錦景女子に行けるんだって思ったら、なんだか愉快になりました、へへっ」



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