ハサみ男
昨日はデスクの引き出しを閉める際に親指を挟んだ。勢いのついたスチールの凶器は容赦なく俺の右手親指第一関節を強打し、俺は床の上をのたうち回ることになった。
同僚たちの間で、俺は「ハサみ男」と呼ばれている。もちろん、巨大なハサミを抱えて人を惨殺しまくるホラー映画の殺人鬼とはまったく関係がない。身体の一部を物によく挟む、挟まれることから名付けられた不名誉なあだ名だ。
根がそそっかしいのだろう。指をクリップで挟んだり、腕をドアに挟んだり、同僚が運んできた荷物で壁にプレスされたりと、一日一度は必ず何らかのハプニングが発生し、そのたびに俺は身体の一部を痛めるのだ。おかげで、俺の身体には年中生傷が絶えなかった。
先日など、今日こそは無事に一日を終えるぞと決心したその五分後、電車のドアに身体の中心線を挟まれた。俺の額にはそのときできた赤痣が、今もまだ残っている。
気をつけてはいるのだが、その緊張が持続できない。何かあると、焦ったり慌てたりしてしまう。そんな俺を、何よりも俺自身が一番不甲斐なく思っていた。変わらなきゃいけないという強迫観念が、俺の内面に渦を巻いていた。そのことが俺をさらに焦らせ、心の平穏を失わせるのだった。
そんな俺に光を与えてくれたのは、隣の席のユキコちゃんだった。
ユキコちゃんは、俺の親指に冷湿布を巻きながら言ってくれた。そそっかしいのは性格だから仕方がない。だったら人の二倍も三倍も周囲に気を配って、少しでも回数を減らしていけるようにすればいいじゃない。
ユキコちゃんの優しい言葉に、俺の心は大いに癒された。そして彼女のためにも、がんばらなければと思ったのだった。
そして今日。俺はここまで身体のどこにも傷をつくることなく仕事をこなすことができた。今日一日、俺は凄腕の狙撃手のごとくに身辺に気を配り、ドアや引き出しなど稼働する物品に注意を払い続けた。もちろん、背中には課長でさえ立たせなかった。
そして今。俺の目の前で、時計の長針が退社時刻を指した。
「やったわね」
ユキコちゃんが小走りで俺に近寄ってきた。俺は彼女の手を取り、満面の笑みを返した。
オフィスを出た俺には、自信がみなぎっていた。自分が何か一回り、大きくなったような気がしていた。
電車には落ち着いて乗り込めた。焦っていたときには見えなかった周囲の状況が、クリアに見えていた。
俺は、無事家へと帰り着いた。
トイレで小用を足しながら、俺は一日を思い返していた。明日からは新しい自分になれる。そんな実感があった。胸の奥から感動が少しずつ込み上げてきた。
玄関で来客を告げるブザー音がした。俺は、慌ててズボンのチャックを引き上げた。
(完)