ちちのひ
ちちのひだったのでちちにちちをプレゼントしました。
いぜんからほしいほしいといっていたちちはそのおくりものにおおよろこびで、せっかくだからタマもとってしまおうかしらとごまんえつです。ただしそのあとの「もしかするとおとなになったぐれ子ちゃんよりもおおきいかもね」というひとことはちょうしにのりすぎだとおもったので、マウントでさんじゅっぱつくらいなぐっておきました。さおだけやがつぶれないのはけりあげられようがにぎられようがつぶれるそのものじたいがないからなのです。
プレゼントのおかえしね、と、ちちはわたしをやまへとつれていってくれました。なぜやまなのか。そこにやまがあるからでもあるのですが、やはりきょうがちちのひであるからなのでした。
ちちによると、このよにはふたつのちがあるそうです。わたしたちせいめいのははとなるだいちと、それをゆうこうかつようするじんるいのえいち。これらふたつがもりあがりをけいせいしてこそ、それはりっぱなたにまをもつ『ちち』となりうるのだそうです。かたほうどちらがおおきすぎても、またちいさすぎてもゆたかなデコルテをいじすることはかなわない。おっきいほうがいいのはまちがいないですが、なによりだいじなのはトータルバランスなのだそうです。わたしも、ただおっきいだけでは、あんさつけんでんしょうしゃに「ただのしぼうのかたまり」よばわりされてもしかたがないとおもいます。
いま、このちちきゅうはこのバランスがおおきくくずれてしまい、まほうやてんしのちからをもったほせいようぐをもちいてもどうにもできないじょうたいになりつつあるそうです。そのことをぐれ子ちゃんにもしってほしいの。そういってちちはさみしそうにわらいました。
うにゅうやまではペンギンがだいはっせいしていました。うみでくらせなくなったペンギンたちのなかからしだいにりくじょうにてきおうできるものがあらわれ、うみでくらすものたちよりもそれらがいきのこって、すこしずつすこしずつ、かれらはやまへとせいかつけんをいどうしてきたのでした。いまではそらをかっくうできるしゅや、くびがながくのびてたかいところのさかなをとれるしゅや、つばさからしょうげきはをだせるしゅ、うでどけいがたリモコンできょだいなロボットをあやつるしゅもふえてきたそうです。
さにゅうやまではアザラシがふえているの。となりのやまをゆびさして、ちちがいいました。そのうちペンギンとアザラシのなわばりがぶつかりあって、おおきなあらそいがおきるでしょう。そして、かれらはそのうちきづくはずです。おたがいよりももっとくみしやすく、じぶんたちをそのようなじょうきょうにおいやったげんきょうをこうげきすることに。
そのうちわたしたちもかれらにのっとられるかもしれない。ちちのそのことばが、わたしにはよげんのようにきこえました。
ちちのちちが、きゅう、とないたようなきがしました。
(完)




