浪漫艶話♯番外編『メリークリスマスMr.ロレンス』
和泉が彼――Mr.ロレンスに出会ったのは、二十三日の午後のことだった。会社は休日だったが、和泉は午前中いっぱい出勤して、現在開発中の新製品のプレゼン資料を作成していた。その、帰り道。乗り物酔いが激しい和泉は役職付きであるにも拘わらず、社用車を使うのを嫌い、最寄りの駅からリニア通勤していた。駅から自宅まで十分ほどの道のりの丁度中間に、彼がいたのだ。
Mr.ロレンスと言っても、彼自身が名乗ったわけではない。首輪の鑑札にそう書いてあった。
毛足の長い、チワワらしき白い小型犬は、和泉を見るなり小さな体で目一杯毛を逆立てて威嚇し、吠え立てた。 しかし、いかんせん種族の違いはどうにもならず、背中を掴まれてあっさり抱き上げられてしまう。
「なんだ? お前、迷子か?」
和泉の整った顔立ちが困惑の色を映すと、犬は吠えるのを止めて鼻を鳴らし、黒目がちの大きな瞳で訴えるような眼差しを向けて来る。そうして、和泉は首輪の鑑札を見つけたのだった。
「Mr.ロレンス? お前の名前か」
彼は誇らしげに一声吠えた。
「わんっ」
十二月二十四日は言わずと知れたクリスマスイブである。二十三日はイブの前日。しかし、休日にあたる今年、街はより一層の人波でごった返していた。家族と離れ独り暮らしの長い栄木にとっては、単なる普通の休日と言ってもいい。一緒に過ごす恋人もいない。密かに想う相手はいるものの、決して打ち明けてはならない恋心だった。
ところが、どういう運命の悪戯か、その想い人から連絡があった。「暇ならちょっと来い」という、ぶっきらぼうな誘いであったが、今日のこの日である。栄木が内心、少しだけ、ちょっとだけ、何か甘い展開を期待したとしても、誰にも責められはしないだろう。
しかし、栄木のアパートから徒歩五分の距離にある和泉邸に出向いてみれば、かの想い人は小さなもこもこした小動物を抱えていたのだ。
二人きりじゃないのか。
いつものことながら、栄木は少しがっかりした。
そんな彼を威嚇するように、和泉の腕に抱かれたMr.ロレンスは、あらんかぎりに声を張り上げ吠えたてている。
小型犬の声は甲高くてうるさい。
「どうしたんですか、その犬?」
栄木は苦々しい顔をしたまま和泉に訊ねた。低く響く声音に落胆の色が滲む。
「それがさ……」
和泉がMr.ロレンスを見つけたいきさつを話すと、栄木の眉間は益々皺が深まり、和泉の眉尻が下がっていく。
どうしてこの人はこう厄介事を拾ってくるのだ。
栄木はこっそりため息を吐いた。
「鑑札もついてるし、首にチップも入ってたから、飼い主の住所と連絡先はすぐわかったんだけど、連絡がつかないんだ」
「連絡がつかないなら仕方ないでしょう。保健所に届けるとか、犬猫の保護団体に預けるとか……」
「住所はわかってるから、行ってみようかと思ってさ。栄木、悪いけど車出してもらえるか?」
頭半分高い栄木を上目遣いで見つめる和泉の瞳に射抜かれると、どうしても嫌とは言えない。栄木が和泉に弱い事を知ってか知らずか、何故かこうした面倒なことに限って頼み事をしてくる彼が恨めしい。反面、和泉に頼りにされるのが嬉しくもある。
和泉は乗り物酔いが酷いせいで、免許を取ったはいいが、一度も車を運転した事がない程のペーパードライバーの為、車での移動が必要な時は、和泉家お抱えの運転手に頼むか、今日のように栄木を呼びつけるかするのが常だった。
栄木は再びため息を吐くと、項垂れるように力なく首肯する。
「わかりました。住所はどこですか?」
「行ってくれんのか? 悪ぃな、栄木!」
ちっとも悪びれた様子もなく嬉しそうに白い歯を見せて笑う和泉に呼応するかのように、Mr.ロレンスも何故かしっぽを激しく振って、甲高く吠えた。
海上を貫くハイウェイを抜けて、海沿いを二時間ほど走ると、閑静な住宅街に入る。目的の家はその奥まった一角にあった。和泉の実家程では無いにしても、周囲の家々より遥かに広い敷地を有するその洋館が、Mr.ロレンスのチップに登録された住所だった。 屋敷の前に車を止めると、Mr.ロレンスは早速飛び出してリードを持つ和泉を慌てさせた。屋敷の門に真っ直ぐに向かい、その格子状の鉄門から中を伺う。庭には立ち枯れた雑草が目立ち、あまり手入れが行き届いた印象はない。見える範囲の窓は全て鎧戸が閉めきったままになっていて、人が暮らしているのか怪しい状態だった。念のため、インターフォンを鳴らしてみても返事がなく、更にもう一度携帯端末から連絡を入れてみても応答がなかった。
一心不乱に尻尾を降り続けていたMr.ロレンスが、焦れて甲高く吠え出す。
それはどこか、悲しい叫びのように聞こえる。
「誰もいないみたいだぞ、Mr.ロレンス?」
「犬にわざわざ敬称付けるんですか?」
何故か犬の言葉がわかってでもいるかのように話かける和泉の様子を訝しく思いながら、栄木は疑問を口にした。
「たぶん飼い主がそうしてたんじゃねぇかな。こいつ、『Mr.』を付けないと自分の名前だってわからないみたいなんだ」
和泉が小さな犬を指差すと、彼は首を傾げて和泉と栄木を交互に見上げた。二人に向かって鋭い一声を発すると、また門に向かって吠え、更にもう一度二人を見上げる。
「開けろって?」
「言葉がわかるんですか?」
今度は和泉が怪訝に眉をひそめる。
「お前、動物飼ったことねぇの? だいたい態度でわかるだろ」
横目で睨む和泉に、一瞬見惚れてしまう栄木はちょっと病んでいる。頭の中からおかしな妄想を追い払い、彼は一つ咳払いをして気を取り直した。
「どちらにしろ、中に人がいるようには見えませんね」
「ん~~、引っ越したのかな?」
「若、これ……」
栄木が何かに気づいて、外塀の隙間という隙間から生える雑草を掻き分けた。彼の指し示す先には「売り家」という小さな看板が針金でくくり付けてある。
「『売り家』……? やっぱ、引っ越したのか?」
門の前で頑として動こうとしない小さな犬を見遣り、和泉は情けなく眉尻を下げた。
「……もしかしたら、引っ越し先で迷子になったのかな。だったら、うちの近所に飼い主がいたかもしれないな」
「だとしても、携帯の番号は変わらないと思いますが」
栄木の言葉に反応してか、和泉は不意に俯き、険しい顔で足元に目線を落とす。
「……捨て犬は犯罪だ。するわけない」
実際には、リサイクル法違反の不法投棄より、捨て犬捨て猫の方が遥かに多いことを、和泉もわかっている筈だ。それでも、人の善意を信じたいのだろう。
甘い。と、思う。
大人とは言え、未だ彼は二十三歳の若造だ。普通に大学を出た者なら、入社一年のぺーぺーでもおかしくない。まだまだ子供の部分もある和泉を、支えてやりたいと、栄木は思うのだ。自分が憎まれ役になってでも、和泉を守りたい、と。
「あの、もしかして、奥様の親族の方ですか?」
唐突に声を掛けられて、和泉たちは驚いて振り返った。歳の頃は三十前後と思しき、瓜実顔の古風な美人が、背の高い男二人を見上げるようにして立っていた。
Mr.ロレンスが千切れんばかりに尻尾を振って女性の足元にすり寄ると、彼女も屈んで犬を撫でる。
「まぁ、やっぱり。Mr.ロレンス? 元気そうね」
「この犬をご存知なんですか?」
訊ねる栄木に女性は慌てて立ち上がり、丁寧にお辞儀をして、言った。
「私、奥様のお世話をさせていただいておりました。家政婦の市川と申します」
「奥様っていうのは、この犬の飼い主の方ですね。今はどこにいらっしゃるか、わかりますか?」
市川と名乗った女性は、急に警戒の色を濃くした顔で、和泉を見上げた。
「……奥様のご親戚の方ではないんですか?」
和泉がMr.ロレンスを保護したいきさつを説明すると、市川は納得して、ひどく落胆した様子をみせた。
三人は近くにある市川の行きつけのドッグカフェで、話を聞く事にした。
「こう言ってはなんですけど」と前置きして、彼女はMr.ロレンスの飼い主について話し始めた。
市川が奥様と呼んでいたMr.ロレンスの元の飼い主は、西城由美子という資産家の女性だった。彼女は生涯独身を通したので子供はなく。市川や他の使用人達を家族のように親身に面倒をみてくれていたという。特にMr.ロレンスの事は我が子同然に可愛がっていた。その、西城女史が亡くなったのが、丁度一年前の今頃だった。彼女に子供はいなかったが、甥が二人おり、彼女の遺産はこの二人に相続される事となったらしい。市川は西城女史の葬儀の席で、その話を耳にしたという。
「奥様がご病気の時には見舞いにも来ないような方々だったんですよ。亡くなった途端に、やれ相続だ、家はどうする、土地はどうするって、そんな話ばかり。それもお葬式の最中に、ですよ」
「まぁ、遺産相続するとなれば、手続きもあるし、相続税だの固定資産税だの払わなきゃならないものもありますからね。当事者としては一族が集まってる時に話し合いたいのが心情でしょう」
手帳型の端末で何やら調べものをしながら、口を挟む栄木の口調は冷淡だ。隣の和泉が無言で睨むと、一瞬手を止め、心外だとでも言うように肩をすくめてみせる。
「それは、そうなのかも知れませんけど、お葬式の時くらい、奥様とのお別れを悲しんでくれたって良いじゃありませんか」
カフェ・オ・レを一口飲んで、市川は足元のMr.ロレンスに目を落とした。犬用のクッキーを貪るように食べ続ける様子に目を細める。
「奥様は、Mr.ロレンスの事を一番案じておいででした。結局、Mr.ロレンスは甥御さんの家に引き取られる事になったと聞いていましたから、私も心配だったんです。ちゃんと可愛がってもらえているのかどうか……」
「それで、俺達をMr.ロレンスを引き取った親戚だと思ったんですね?」
和泉が確認すると、彼女は一つ大きく頷いた。しかし、栄木は首を傾げる。
「葬儀の時にご親戚の方々の顔を見ているでしょう? 我々に似たような人物でもいましたか?」
「いえ、そういうわけでは。ただ、甥御さん二人がいらしたのは見ましたが、そのご家族まではちょっと……」
「一年も前の、それも一度会ったきりの相手の顔なんかはっきり覚えてやしねぇだろ、ふつー」
和泉の助け舟に、市川は恐縮したように「すみません」と、呟いた。
和泉の猛禽類のような鋭い瞳に睨まれて、栄木はなんだか面白くない。
「それで、市川さんは、その西城さんのご親戚の連絡先はわかりませんか?」
和泉の質問に、彼女は力なく首を振る。
クッキーを食べ終わったMr.ロレンスが、一声鳴くと市川の隣の席に飛び乗る。彼女が頭を撫でてやると、犬はうっとりと目を細めた。
「あのお屋敷の売買を管理している不動産屋に連絡が取れました。ここから売り主の連絡先も聞き出せるでしょう。その犬の飼い主かどうかはわかりませんが」
栄木が手帳型の端末画面を和泉に見せる。不動産屋の担当者はすぐにこの場に来る旨をメールして来ていた。
「仕事が早いな、栄木」
「恐れ入ります」
にやりと口の端で笑う和泉に、栄木は慇懃に頭を下げてみせる。
「すみません。なんのお役にも立てなくて」
市川が申し訳ないと肩を窄める。和泉は慌てて手を振って否定した。
「いえいえ、貴女のお陰で事情がわかって良かった。Mr.ロレンスも貴女に随分懐いているようだし」
彼女に背を撫でられながら、丸くなって寝入っている小さな犬に目を落とし、和泉は微笑んだ。つられて市川も微笑みを返す。控えめで上品な笑顔は、儚げな撫子の花を思わせる。
和泉がいつになく機嫌が良いので、尚更に栄木の心中は穏やかではない。和泉はなぜかこういうタイプの女性に惹かれやすいのだ。
暫くすると、三人の待つドッグカフェにスーツ姿の男が二人現れた。二人の内、白髪まじりの年配の男は、カフェの中を歩き回る犬達の様子に眉を顰める。三十前後と思しきフレームの細い眼鏡をかけた小柄な男の方は、栄木を見るなり愛想良く会釈した。
「栄木様ですね。先ほどご連絡いただきました、チバリビングの高橋です」
日本のビジネスマンらしく素早く名刺交換を済ませると、高橋は店員の用意した椅子に、傍らの男を促して、自らも腰掛けた。
「いやぁ、丁度いいタイミングで、こちらの物件の売り主さんとお話していたところだったんですよ。あのお屋敷は少々大きすぎますからね、このままじゃ買い手が付かないんじゃないかと、更地にする事をお勧めしていたんです」
高橋はそう言って、隣の男を紹介した。西城一太というのが、屋敷の売り主の名前だった。
「では、貴方が西城由美子さんの甥にあたる方ですか?」
和泉が訊ねると、西城はあからさまに嫌な顔をしてみせた。
「貴方がたは随分お若く見えますが、本当にあの屋敷を買い取る気があって呼び出したのか?」
「すみません。実は、Mr.ロレンスという犬をご存知ないかと思って」
和泉がこれまでの経緯を話すと、西城は益々険しい顔つきになり、高橋は苦笑いを浮かべた。
「その犬は確かにウチで預かったが、噛み付くわ、無駄吠えは多いわで、子供達も嫌がるのでね、半年前からペットショップだかホテルだかに預けてあったんだ。逃げ出したんなら店の責任だろう。全く、伯母も厄介な遺言を残したもんだ」
苦々しく吐き捨てる西城に、市川が刺すような視線を放つ 。
「Mr.ロレンスは頭のいい子です。おおかた、そちらの扱いが酷かったんじゃありませんか」
刺々しい言い様に、西城は苛立たしげに舌打ちする。
「なんなんだ、君達は。ウチの犬をどう扱おうが、ウチの勝手だろう」
ここがドッグカフェだという事も忘れて、声を荒げる西城に、店内の視線が集まる。休日の午後を楽しんでいた犬好きの人々にとっては、西城の言葉を好意的に受け取れるものではなかったのだろう。すぐにひそひそとした批判的な囁きが何処からともなく溢れ出す。
大声に眠りを妨げられたMr.ロレンスが、西城を見るなり低く唸った。
「じゃあ、私がこの子を引き取ります。半年もペットホテルに預けておくなんて、可哀想だわ」
市川は、「よっぽど淋しかったのよね」と、犬に語りかけながら抱きしめた。
「いや! それは困る」
「困る?」
西城の言い様に、和泉が怪訝に聞き返した。
「その犬は、その、私が面倒見る事になっているんだ。伯母の遺言だから」
「面倒なんか見てないじゃありませんか」
「何を言う。毎月高いホテル代を払ってやってるんだぞ!」
「その割には、チップの飼い主登録を書き換えて無いんですね」
栄木の低く落ち着き払った声が、市川と西城の言い争いに割って入ると、男は予想外の事だったのか、口を開けたまま、ぽかんとした顔で栄木を見遣る。
「どうもその、高いホテル代を払って迄も、この犬の名義をご自分のものにしておきたい理由がわからないんですが。世話をするのがお嫌なら、市川さんに譲っても構わないのではありませんか?」
西城は少しばかり口ごもりながら、栄木の指摘に答えた。
「それは、だから、伯母の遺言で」
和泉がははぁ、と、したり顔で頷く。
「なるほど、貴方の伯母様という人は、この犬の行く末をよほど案じていたんですね。それで『この犬の面倒を見てくれる人に財産を譲る』とかなんとか、遺言を残した。――おおかたそんなとこじゃありませんか?」
西城はさも忌々しいといった様子で、小さな犬を睨み付けた。
「ああ、全く。伯母も変な遺言をしてくれたもんだ。あの屋敷と土地を、こんな犬に遺すと言うんだから」
「しかし、いくら当人の遺言でも、さすがに犬の名義で登記は出来ないんじゃありませんか?」
「当たり前だ。登記は私の名義になっているが、弟はその事に不服でこの話を持ち出しかねない」
「それで、困るというわけですか」
「だからって、世話も出来ないのに……」
市川が抱きしめると、Mr.ロレンスはクゥン、と鼻を鳴らす。
「良い方法があります」和泉が徐に口を開く「俺があの屋敷を買い取りますから、Mr.ロレンスを譲ってください」
これには、西城だけでなく、高橋も市川も驚いた。
「買い取るって? 失礼だが、君は何処かの資産家のご子息か何かか?」
訝しむ西城に、和泉は口の端を吊り上げ、悪戯っぽい笑みを見せた。
「まぁ、そんなようなもんです」
「こちらは和泉家のご子息です。和泉グループというのはご存知ですか? 一般には食品・化粧品メーカーとして有名かと思いますが、紡績、工業用機械、宇宙開発事業にも功績があります」
栄木が皆まで言わずとも、和泉グループと言えば、日本はおろか、世界に名だたる大企業だ。和泉家はその創業者一族であり、和泉 萌はそこの跡取り息子である。
俄に不動産業者は満面の笑みを湛え、揉み手をせんばかりに身を乗り出した。
「そういう事でしたら、私どもも出来る限りのご要望にお答えしますとも」
早速、ノート型端末を持ち出して、契約書の一覧を和泉達に示す高橋。一方の西城は、狐につままれたように困惑した面持ちのまま、言い淀む。
「しかし、つまり、それは……」
「西城さんのお屋敷を買い取った上で、そちらの愛犬も譲っていただきたい、というお願いですよ。貴方は屋敷の代金も手に入り、バカ高いホテル代も払わなくて済むわけです」
和泉の提案に、西城は渋々といった態度を作りながら、漸く契約に応じる事を承諾した。
一通りの仮契約を済ませると、和泉達は市川を伴って、西城女史の屋敷へと戻った。不動産屋に渡された鍵で門を開けると、Mr.ロレンスは早速喜び勇んで駆け出した。屋敷の庭は、体の小さいMr.ロレンスが駆け回るには十分な広さがあった。
「よかった。Mr.ロレンスも嬉しそうで」
誰にともなく呟く市川の横顔は、夕暮れの赤い光を受けて輝くようだ。和泉は横目でちらちらと垣間見ながら、話しかけた。
「市川さんは、今はお仕事は?」
「今は、何も。奥様が亡くなってから、家政婦の仕事をまわしてもらえるよう、紹介業者に頼んであるんですけど、中々、条件が合わなくて……」
「そうですか。じゃあ、この屋敷の住み込みの管理人なんてお願いできますか?」
市川は目を丸くして、和泉をまじまじと見上げた。
「それ、本当ですか? いいんですか?」
「ええ、勿論。貴女の方が家の中の事は良くご存知でしょう。――それと、Mr.ロレンスの世話も、出来ればお願いしたいんですが」
和泉の提案に、彼女は思わず手で口を覆って、瞳を潤ませた。
「はい! ぜひ。ありがとうございます! 主人も喜びますわ!」
主人?
和泉は彼女の左手に光るものを見つけて、愕然とした。
「ご主人がいらっしゃるんですね?」
これ幸いと、栄木が問い質す。市川は照れたような微笑みを浮かべて頷いた。
「はい。主人も若い頃から長くこのお屋敷で執事をしておりました。私も主人も住み込みでしたから、子供達も奥様には大変可愛がっていただいて。またMr.ロレンスと暮らせると聞いたらうちの子達も喜びます」
夢見るようにきらきらと瞳を輝かせる市川に、和泉は精一杯の愛想笑いを返すしかない。
「お子さんもいらっしゃるんですか。それなら、Mr.ロレンスも淋しくありませんね」
和泉の心中とは対照的に、急に親しみを込めて話しかける栄木はどことなく嬉しそうだ。
「ええ。あの、宜しければ明日にでも、早速お屋敷のお掃除をさせていただいても良いですか?」
ぼんやりしている和泉を、栄木はこっそり肘で小突いた。はっと我に返って、和泉は慌てて頷く。
「ああ。ええ、はい。勿論。……いや、明日はクリスマスイブですよ、ご家族とのんびり過ごされても……」
「いえ、それはお気遣いなく。主人も明日はアルバイトが休みなので、手伝ってくれると思います」
「ご主人は今は何のお仕事を?」
余計な事まで訊き出す栄木である。
「はい。執事カフェに勤めております。ですが、本当はちゃんとした執事の仕事に復帰したいんです」
「でしたら、丁度いい。ご家族でお屋敷の管理人をしていただければ。ね、若」
なんでお前は上機嫌なんだ。と、和泉は栄木を睨みつけたが、彼は全く意に介する様子もない。和泉も仕方なしに気を取り直して、市川に愛想良く微笑んだ。
「そうだな。ご主人の都合が良ければ、ぜひ、お願いします」
市川は、感激に落涙し、何度も頷いて二人に礼を言った。
ひとしきり庭を走り回って来たMr.ロレンスが、三人の足元まで来ると、満足気に一声吠えた。
「わんっ」
翌日の二十四日は平日だったが、和泉は休日出勤の代休をとって、午後の半日を休みにした。ただでさえ、有給休暇も代休も溜まりに溜まっていて、体の弱い彼を心配する取締役の面々(主に義姉と父)から、休めと催促があるのだ。
リニアを乗り継いで、本社のあるメトロポリス東京から西城女史の屋敷まで行くと、既に市川夫妻が屋敷内の掃除をあらかた済ませていた。紹介された市川の夫の名が助三郎だった事に、和泉は笑っていいものやら迷った。助三郎氏は、なかなかの二枚目で、均整のとれた背の高い男だった。市川夫人が並ぶと、彼女の背は夫の肩までしかない。歳の頃は四十前後といったところだろう。柔和な顔立ちに、人の良さそうな性格が滲み出ている。元・執事というだけあって、きびきびとした身のこなしには無駄がない。
和泉を見つけると、Mr.ロレンスが走り寄って来て足元に戯れついた。それを追ってきた三人の子供達は初めて会う和泉を物珍しく見上げる。市川が挨拶を促すと、子供達はたどたどしい口調で、頭を地面につけそうなほど腰を曲げて、大げさに挨拶した。三人とも年子だという子供達は、上から五歳、四歳、三歳と、やんちゃざかりだ。
早速、和泉に遊んでくれとせがむ子供達に、和泉は仕方なく付き合う事になった。掃除を手伝うつもりで来たものの、手際の良い市川夫妻の仕事ぶりに、あまり手を貸せる必要もなさそうだった。
「さんたさん、きょうくるかな」
「きょうくるよ」
無邪気な子供達の会話に、和泉も我知らず笑みを零す。
「サンタさんのプレゼントは何をお願いしたんだ?」
「ごじらすー」
「すくりゅー」
「ぷかちゅ」
最近流行の、育成ゲームのモンスターの名を挙げる子供達に、和泉は苦笑をもらした。ゲームソフトが欲しいのか、モンスターそのものがどこかにいると信じてやまないのか、微妙な年齢だ。ゲームソフトかぬいぐるみを用意すれば一応は喜ぶだろうが、和泉はふと、良い事を思いついて、当てに出来る友人に連絡を取った。
十二月二十四日の夜も更けて、屋敷の裏庭に怪しい面々が集まっていた。和泉が連絡すると、ジェームズ・王と巽 幸星が駆けつけて来たのだ。丁度、巽は王と巽の実家に帰っていたところだったらしく、王の自家用機で、難なく飛んで来たらしい。しかし、それは良いとして、呼んだ覚えもない真っ赤な服を着た白ひげの老人も一緒だった。ついでにやたらでかい角の鹿のような生き物と、ご丁寧にそりまで用意してある。
「誰?」
驚きに目を丸くしている和泉に、しれっとした顔で王は言ったものだ。
「サンタクロース」
「劇団の人?」
「本物だよ」
真面目腐った王の一言に、和泉は一瞬耳を疑った。いや、王の頭の中が少々ズレてるらしい事には以前から薄々気がついていたのだが、まさかここまでとは思わなかったのだ。ましてや、傍らの巽はそのサンタクロース氏と和やかに談笑している。どうやら、話しているのはデンマーク語のようだ。
「グリーンランド国際サンタクロース協会公認の、本物のサンタクロースだよ。トナカイが空を飛んだりはしないけどね」
「なんでそんな人がここにいるんだよ?」
「あれ? 会った事なかった? 彼も〝月〟のメンバーだよ。今年はたまたま日本の施設を巡っていたらしく、声を掛けたらノリノリで来てくれたよ」
サンタクロースがノリノリ。
和泉は頭を抱えた。
「じゃあ、なにか? 彼も超能力者なのか?」
「だから、〝月〟のメンバーだって。テレキネシスと細胞再生の複合タイプだ」
“月”とは、王や和泉が所属している、特殊な能力を持つ者ばかりで構成された組織である。表向き、民間の営利法人を装ってはいるが、その実、世界政府のバックアップを得た、かなり直属に近い第三セクターであるとの、もっぱらの噂だった。
子供達が寝静まった頃合いを見計らって、市川夫妻に彼らを紹介すると、二人とも最大限に目と口を開いて驚いた。事情を簡単に説明して、夫妻が用意したプレゼントを受け取ると、サンタクロースは例の陽気なかけ声と共にソリに乗り込んだ。
「和泉」
王が小さく合図する。既に彼の青い瞳は、特殊な力を使う時の常で、青く輝いている。どうやら、流石にトナカイとソリを宙に浮かせるのはサンタクロース氏だけでは無理なようで、和泉と王の念力も合わせて、ソリを夜空に浮かび上がらせると、市川夫人が驚きに小さく悲鳴を上げた。サンタのソリが屋敷の上空を暫し旋回している内に、巽は市川夫妻促して屋敷の中へと入った。
トナカイの首に付けた鈴の音が軽やかな音を立てる。
「メリークリスマス」
陽気な声で、サンタクロースが叫び鈴を鳴らすと、市川家の子供達だけでなく、近隣の家々にも灯りがつき始め、窓から顔を覗かせたり、家の外に出て来たりする人が増えていく。
「おい。おおごとになってないか?」
「抜かりはない。集中して」
和泉の心配にも、王は動じる様子もない。
市川家の子供達が大喜びで庭に飛び出して来たところで、サンタはソリを庭先に降ろした。
「メリークリスマス」
例の陽気な笑い声と共に、大きな布袋から預かったばかりのプレゼントを子供達に渡すと、彼らは寒さも忘れて大はしゃぎで跳ね回った。遅れて出て来た両親に、しきりにサンタから貰った包みを掲げて見せる。その目の前を、白い陰がつい、と過った。子供達が目で追う先には、白い毛足の長い犬のようにも見える生き物が、宙に浮いている。その背には羽が生え、ゆっくりと羽ばたきを繰り返していた。
「すくりゅーだ!」
真ん中の子がそう言うと、子供達は目を輝かせた。若干デザインが異なるが、似ていない事もないこともない、それは、巽の守護竜で風の力を司るドラゴニア神竜族のハクジだ。弟の水竜、セイジと共に、巽の肩に止まる。子供達は、初めて見る青年を不思議そうにぼんやりと見上げた。
「セイジ、ハクジ、お願いね」
巽が言うと、二匹の竜は一つ大きく頷いて、天に昇っていく。段々とその体が大きくなっていくのは錯覚ではあるまい。俄に空が曇り始めると、竜の体も小山程の大きさとなって、雲間から見え隠れしている。
やがて、はらはらと空から白いものが落ちて来た。
「ゆき!」
子供が歓声をあげる。
「ゆきだー」
「すごいすごい」
子供達は憧れの眼差しでいっぱいにして、巽に纏わりついてきた。
「おねーちゃんみにもんますたー? ますたー?」
ゲームの中の登場人物と、巽を重ね合わせる子供達に話を合わせ、そうだよと頷く巽。但し、性別に関する誤解は正しておきたい。
「おねーちゃんじゃなくて、おにーちゃんだよ」
もっとも子供達は聞いちゃいなかった。
騒ぎに集まって来た近隣の住民も、その子供達も、空を見上げ一様に驚いている。和泉が屋敷の門を開けると、我先にと子供達がサンタに駆け寄った。「抜かりはない」と、言った王の言葉は正しく、サンタは布袋の中から次々とプレゼントの包みを取り出して、子供達に配っていく。
「あれ、お前が用意したのか?」
和泉の問いかけに、王はウィンクしてみせた。
「アレくらいはお安い御用だよ。君の市川夫人へのプレゼントに比べたらね」
和泉はバツが悪い様子で、わざとらしく咳き払いしてみせた。
庭の騒ぎを聞きつけたか、屋敷の中からMr.ロレンスがしきりに吠えているのが聞こえる。和泉は、ちらりと王に目配せをすると、屋敷の中へと入っていった。
小型犬にしては十分な広さの専用の小部屋を与えられているMr.ロレンスは、和泉が入って来るなり外に出せと訴えた。しかし、あの騒ぎの中に飛び出せば踏みつぶされかねない小さな彼を外に出す訳にはいかない。和泉は、ダウンコートのポケットに押し込んであった小さな包みを出して、中身を犬に差し出した。
彼の好物だと市川夫人から聞いていた通り、Mr.ロレンスはササミジャーキーにかぶりついた。
窓の外には雪が降り、子供達の歓声が聞こえる。
ふさふさの尻尾をこれでもかと振りながら、一心不乱にジャーキーと格闘しているMr.ロレンスに目を細めながら、和泉はちょっとだけ、生あくびを噛み殺すのだった。
メリークリスマス、Mr.ロレンス。
終わり




