プロレスLOVE
作者は学生プロレスに関わった事が無く、プロレスは観戦した事しかないため、これらに関わる方から見れば非常に不快な表現や的外れな考察をしている事もあるかと思われますが、馬鹿な作者だと鼻で笑ってやってください。
小学生のころからプロレスが好きだった。
もともと空手、柔道などの格闘技が好きだったし、プロレス好きの父の影響もある。
だがそれ以上に観客を意識した戦いと言うものに惹かれたのだ。
観客である自分たちを飽きさせないように、それでいて自分たちの誇りも捨てずに戦う彼らは美しく勝ち、美しく負けた。
それを仕事にすることはかなわずとも、自分もそのような経験がしたい、その思いで大学入学後学生プロレスサークルに入った。
ただ一つだけ問題だったのは。
私――河原恵――はその地区唯一の女性レスラーだった事だった。
「君が噂の恵選手だね、よろしく」
夏、今年度最初の興行で合同開催先の五反田大学プロレス研究部部長の竜崎と言う男が私に握手を求める。
「はい、まだ一年生なので勉強させていただきます」
竜崎の手を握る、プロレス研究会に入っている割には細身で手の平からも筋肉質的なものは感じられない。
恵の疑念を察知したのか、部長の安田が「彼は空中技が得意なんだよ」と私に耳打ちをする。恵に言わせてもらえば空中技が得意だからと言って体を鍛えなくていいわけではない。プロレスに対する姿勢を少し疑がってしまう。
「いや、僕は試合はあまりしないんだ、やるより選手のコスチュームを作ったり、台本を書いたりする方が楽しいんだよ」
竜崎さんの発言にほっとすると同時に他人を軽く見てしまった事に対して自己嫌悪を覚えた。
『それでは第一試合開始です!』
アナウンサーの声が響く。学生プロレスでは観客に聞こえるようにスピーカーで実況と解説をすることが多い、テレビの様に中継があるわけではないので当然であるが。
「始まったね」
竜崎はリングと観客の方を見る。普段は体育館として使われているそこはさすがに二階席までは埋まっていないが学生プロレスとしては多いくらいの観客が入っている。
ここで試合をできる選手は幸せだと恵は感じた。
「あの太っている選手知ってる?」
リング上には太った小男と背の高い美男子が組み合っていた。太った男はなれた風だったが背の高い方はいささかぎこちない。
「いえ、申し訳ありませんが……」
「いや、初めから期待してないよ、彼をよく見とくと良い」
太った男が背後に回り相手の腹を抱え後ろに反り投げる――ジャーマン・スープレック――を狙うもののブリッジが決まらず、グチャっとマットに沈んでしまった、アナウンサーは情けない等の言葉を並べたが力量がないのではなく初めからそれ狙いであることが恵には分かった。
背の高い男が素早く立ち上がり、足元がおぼつかない――おそらくは演出だろう――太った男にハイキックを決めた。
そのまま倒れた男を抑え込みカウントスリー。
『すごい! 恐ろしいルーキーです二階堂!』
実況は背の高い男をほめたたえる、観客も彼に声援を送った。
ふとった男はスタッフに連れられリングから引き揚げた、ほんとはそんなもの必要ないのだろう。
「どうおもう?」
竜崎が恵に意見を求めた。
「おそらく彼は上級生なんでしょう? 背の高い方は新入生、体格が良く見栄えのいいルーキーを大学のスターへと押し上げるための踏み台、ジョバー――仕事師、ここでは負け役の事――ってとこですね」
「その通り! プロレスに精通してるね、彼はミート小堺、うちの大学の三年生だ、プロレスラーとしては五流だけど、エンターテイナーとしては一流だよ」
恵は内心腹ただしかった、小堺はプロレスをなめている。
花形スターを作ることは正しいが小堺の負け方には誇りがない。つまるところただの道化。プロレスラーとして五流と言うのもそこから来ているのだろう。
「申し訳ありませんが、私がやりたいこととは対極にいるレスラーです」
正直な気持ちであった。
「まぁそうだろう、安田から聞いているけど君は受け身、身のこなしも素晴らしいそうだから」
期待のルーキーの機嫌を取りたいのだろう、竜崎は恵の事を持ち上げる。
「でも、彼の動きは覚えておくといい」
第二試合目の準備を始めているリングを見ながら竜崎がつぶやいた。
恵はまだその意味が分からなかった。
『はじめてご来場した皆さん! 常連の皆さん! ここに紹介したいルーキーがいます!』
第三試合終了後のブレイクタイム、部長の安田と恵がリング上にいた。
と言っても試合をするわけではない、次の興行で可憐な美少女が試合をすると言っておき、最も盛り上がる興業――学園祭――の集客数を増やすという判断だ。最も恵にかかわらずほとんどの新入生は受け身の不安から早い時期に試合をする事はない。
『プロレス大好き少女、我等が二宮学園期待の星! 河原恵です!』
安田のマイクに合わせて手を振ると観客からも一定の声援を受ける。
恵は安田からマイクを受け取り、前夜に覚えてきた竜崎が事前に考えておいた観客に媚びるセリフ、学園祭の興行に誘うセリフを言った。
それも終盤に差し掛かり、ほとんど言うことがなくなってから事件は起こった。
『ちょっと待ってもらおうかぁ!』
耳をつんざくような声が響き、花道に誰かが現れた。
ミート小堺だ、これには恵も驚く、打ち合わせには無かった行為だからだ。勿論小堺に会うのもこれが初めてである。
『神聖なリングに娘っ子が入るたぁ聞いてねぇぞ!』
観客の罵声――と言っても大したものではない――を浴びながら転がってリングインする。近くで見ると背が低かった。
『娘っ子? お前の方が背は低そうだがなぁ』
安田が恵からマイクを奪いとり、まくし立てる。的を得たその意見に観客は笑い、小堺は慌てふためいた。
『背の事は関係ないだろうが! ここはなぁ、男達が命をかける場所なんだよ、おいおじょうちゃん、受け身の取り方知ってるか?』
マットを指でさしながら小堺が叫ぶ、あんな負け方をした男が命をかけるなどと言う事に、観客はさらに笑う。
『お前よりかな……そうだ。今日の最終戦の後にお前と恵の三十分一本勝負をしよう、誰かさんが瞬殺されたおかげで時間は余ってるはずだからな!』
誰かさんが小堺の事を指しているのは明確で、小堺は『いいだろう』と言った後は言葉にならないことを喚きながらリングを降りて行った。
『今日のエキシビジョンマッチ! 河原恵バーサスミート小堺! 観客の皆様どうですか!?』
女子選手がいかほどのものか、もちろん観客はそれを見たい。
会場の答えは一つしかなかった。
「こんな話聞いてません!」
恵は選手控室で二人の部長に不満をぶちまけていた。
無理もない、このこと――恵と小堺の対戦――は安田と竜崎、そして小堺のみが知っていることで、一試合目も本来ならあれほど早く終わる試合ではなかったそうだ。
「大丈夫だよ河原、全部を小堺に任せておけばいいんだ」
「そうだ、小堺は負けることに関しては天才なんだ」
そんな事は分かっている。
だが恵は自分の扱いに不満だった。
対戦がしたくないと言えばうそになる、だが内容は容易に想像できるのだ。
一戦目の様な瞬殺、小堺の誇りを踏み台に自らの価値を高めるだけの試合、そこに恵が望んだ誇りのぶつけ合いは存在しない。
「河原さん、君が望む対戦は二年、三年になればいくらでもできる、むしろそんな対戦をするためにも自分の価値を上げることは大切だ」
小堺が諭すように言う、先ほどと違い温厚で紳士的だ、まぁそうでなければ負け役など任されないが。
「小堺さんもそれで良いんですか!? 一年生の女の子に負けるんですよ!?」
小堺は本気の恵の目を見て少し考えた後、人差し指で自分の頬を掻きながら言った。
「俺は、プロレスが下手だから……」
パァン!
小堺は自分の頬を抑える。恵が彼をはたいたのだ。
そのまま恵は選手控室を出て行ってしまった。
「大丈夫か小堺」
追いかける安田を見送りつつ竜崎が言う。
「大丈夫、まぁ二階堂のハイキックよりかは痛かったかな」
ハハハと笑いながら答える。
「それより試合は大丈夫かな?」
「その点は心配ない」
開け放しになった選手控室の扉を見ながら竜崎が強く答えた。
「彼女の思想は古い昭和のものだが、それなら余計に観客の要求にこたえるさ」
『これより! 特別エキシビジョンマッチを行います!!!』
割れんばかりの歓声が起こる。誰かが連絡したのか、ブレイクタイム中よりも人が増えたようだ。
『赤コーナー、百六十八センチ、六十キロ、河原恵!』
恵は右手をあげ、観客の声援にこたえる。観客の期待を裏切るのかと安田に説得され、しぶしぶ出場したが、歓声を受けて悪い気がする人間などいないのだ。
「突然の出場決定」を強調するため、コスチュームはどこにでもありそうなトップスとスパッツだ。
『青コーナー、百六十二センチ、八十八キロ、ミート小堺!』
うぉーと言う叫び声とともにローブを脱ぐ、上半身は裸で腹を隠すように半ズボンのジャージを上げている。太った体系だが胸は垂れておらず相撲取りの様な体系だ。
観客からはブーイングと嘲笑が送られていた。
「河原、安心しろ、小堺に全部任せるんだ」
リング下で安田が指示を出す、恵はほとんど聞いていないのだが。
『ファイト!』
ゴングの音が響いた、観客もヒートする。
お互いにリングの中央による。小堺の体系からかいつもよりリングが狭く感じた。
「まぁよろしく頼むよ」
小堺はそう言って左手を差し出した。握手を求めているのだ。
恵もこれを断る意味はない、快く左手を差し出した。
その時下げられていた小堺の右手が動いた。
恵の短髪が揺れる、握手で油断させ頬をはたいたのだ。
「お返し」
『汚い! そこまでして勝ちたいのかミート小堺!』
実況と共に観客からは激しいブーング、小堺はいかにもそれで気を良くしたようにニタニタと笑ってみせる。
恵は自分が取るべき行動を考えていた。
プロレスのセオリー、定石では自分も小堺の頬を張る。もしくは何らかの攻撃をするだ、現に小堺もそれを待っているようにへらへらしている。
だがそれをすればおそらく小堺は倒れるだろう。勿論スリーカウントを取らせるためだ。恵が抑えなくともレフリーが失神KOを取るであろう。
それは恵の望んだ物ではない。恵は待ち続ける小堺を尻目に黙ってリングの端によるとスタッフにマイクを要求した。
『おおっと恵選手ここでマイクを要求です』
スタッフはその行為を台本の一部だと勘違いしマイクを渡した。
安田はそれを小堺の入れ知恵と勘違いしそれを止めなかった。
小堺とセコンドの二階堂と竜崎はそれを安田の入れ知恵と思い止めなかった。
恵はマイクを握り、叫んだ。
『小堺さん! 本気です! 本気のプロレスです!』
予想外の展開に観客と小堺、実況はあっけに取られる、一方安田は自分の後輩がしでかした失態に大慌てしていた。
『あなたもレスラーなら負けるのが悔しいでしょ! 勝ちたいんでしょ!? 周りの言うことなんて聞かなくていいんです! 自分と向き合ってください!』
オイ馬鹿やめろとリングに上がりかけた安田にマイクを投げつけ、再びファイティングポーズをとる。
『新人、それも女性選手がまさかのセメント――台本が関係ない、ガチンコの試合――要求! これはミート恥ずかしい!』
実況はこの異常事態に気づいていない、これも演出の一部であろうと勘違いしている。無論観客もだ。
リング上、それが演出ではない、本当のガチンコだと知っている小堺は体を返し、コーナーへ向かった。これを逃走と勘違いし噴き出した観客は少なくなかった。
「小堺……変な気を」
セコンドの竜崎は帰ってきた小堺に声を変えるが小堺はそれを手でさえぎった。
「竜崎、この試合はタオル投入ありか?」
「あ、あぁ、原則的にありだ」
「そうか……二階堂、竜崎」
普段とは違う堂々とした小堺の口調に思わず二人の背筋が伸びた。
「この試合、タオルを投げたりしたら……殺す」
小堺は三つある内の最上段のロープを掴んで二度屈伸したあと、再びリング中央へと戻っていった。
「最悪だ……」
小堺が試合へと戻った後、竜崎は頭を抱え、絶望の言葉を口にした。
「大丈夫っすよ、確かに小堺さんは三年プロレスやってますけどレスラーとして五流だっていつも言ってるじゃないですか」
一回戦で小堺をハイキックで倒した二階堂はそう言って竜崎をなだめようとした。
「お前はあいつと組みあった時何も思わなかったのか? 馬鹿が、小堺がレスラーとして五流なのは弱いからじゃない」
歓声が聞こえた、二人が頭を上げると恵と小堺が両の手と手を組み合わせる手四つの状態になっていた。
「あいつは手加減ができないんだ……お前絶対にタオルを投げるなよ、死にたくなければな。あいつは総合格闘技でもやれば良かったんだよ」
恵と小堺はリング中央で手四つ――右手と左手、左手と右手をそれぞれ組み合う事、プロレスの序盤で力比べとして行われることがある――の状態。
観客から見れば小堺は背こそ低いものの力士の様な男である。
そんな男と恵の手四つに、大きな歓声が送られる。
「ま、セメント宣言するだけあって力はあるね、ミーハーじゃないってことかな」
見た目通り、手四つでは小堺が勝る。
『やはり力ではミート! 恵選手若さゆえの選択ミスです!』
恵は押し倒されそう――両肩を三秒マットに付けると負けになる――になるが、体を後ろに反らし頭のみをマットに付ける、プロレスでよく見るブリッジだ。
そのブリッジは本日どの選手が見せたものよりも美しく、歓声がより一層大きくなる。
『美しいブリッジです、ミートもこの位できるといいのですが……』
ある程度ブリッジを継続させると、小堺はブリッジを崩すため恵の腹に膝を入れる。
演出ではない、本気のひざ蹴りに恵は顔をしかめる。
『これは酷い、ミート女子選手へ非情の攻撃です!』
今度は組み合ったままマットに付けている両手を軸に両膝を腹に入れようと小堺がジャンプする。
恵は素早くブリッジを崩し、両足の裏を小堺の腹に差し込み、巴投げの要領で後ろに投げた。
恵の後ろで小堺がマットに叩きつけられる音がした、手四つの状態は崩さず後転の要領で小堺の腹に座り込む、俗に言うマウントポジションだ。
小堺の両肩はマットについている。レフリーがカウントを始めたがカウントツーで右肩を上げた。
『カウントツー! ミート命拾いしました!』
ここでやっと小堺が組んだ手をほどき、背筋の力を使って体勢を入れ替える。
恵の両肩が付いているのでレフリーがマットを叩こうとするがそれを待たず恵が肩を上げた。
『素晴らしい攻防です、ミートがこれほどの動きを見せたのは初めてではないでしょうか? やはりプライドがかかっているからでしょうか!?』
一連の流れに観客は拍手を送る。小堺は素早く立ち上がり背中をさすりながら恵と距離をとった。
恵も体操選手の様に背筋のみで跳ね起きると、それを待っていたように小堺は距離を詰め、恵に狙いを定める。
小堺の右足が降りあげられる、恵の左横っ腹に足の甲を叩き込んだ――ミドルキック――
『これは強烈! ミートは高校時代一年だけですが空手の経験があります』
「ぐっ……」
歯を食いしばり痛みに耐える。追撃を覚悟するが小堺はそれをせず、両手をこまねいた。
「こいや!」
「あああぁぁあ!」
腹の底から声を出し、小堺の顎に肘をぶち当てる――顔面への鉄拳は原則的に禁止――小堺はよろめくがすぐに体勢を立て直す。
「来い!」
恵も両腕を引き寄せ挑発する。
その行為に観客席もどっと沸く。
何事かと体育館に入ってきたものも多く居る。
見入っているのか、実況は何も発言しない。
「っしゃぁ!」
もう一度小堺がミドルキック、恵の左横腹に先ほどよりより深い痛み。だが今度は恵が左腕と蹴られた左腹で小堺の右足を抱える。
小堺がその行為の意味を理解するより先に恵は右足で小堺の左足を払う、仰向けに倒れた小堺の右足をわきの下に抱え直し、左足を軸に右足で小堺を跨ぐように反転する。小堺の体はうつ伏せになり、右足を抱えられることにより背中、腰が大きく反らされ、激痛が走る、技の中ではポピュラーな逆エビ固めの片足版だ。
『……あ! 逆エビです! 恵選手電光石火の逆片エビ固め!』
実況が思い出したように喋り始める。
不意の関節技に小堺はうめき声を上げる、が、ほふく前進の要領でリングの端まで這おうとする。
もちろん恵はその場で踏ん張りそれを阻止しようとする。
だが最終的には体重が勝る小堺が恵を引きずる形で最も下段のロープに手をかける。
プロレスでは体の一部がロープに触れている相手への五秒以上の攻撃は反則となる。
レフリーが恵に分かるように反則のカウントを数え始めると恵はすぐに技を解いた。
『ミート、ロープに救われました! それにしても恵選手のスポーツマンシップは素晴らしい!』
小堺はロープを掴んで立ち上がると、右足をニ三回ぶらぶらと振った。そして特に異常がないことを確認すると軽快にリング中央へ戻る。恵も再び小堺と向き合う。
一閃、小堺の左前蹴りが恵の腹を狙う、恵はそれを少し体を引いて回避した。
だが次の瞬間不発に終わった左足でマットを踏みこみ、右足を振りあげる、前蹴りはブラフだった。
反射的に頭をガードした左腕に鈍い衝撃があった。八十八キロを支え続けている右足のハイキックは恵の体をガードごとなぎ倒した。
『ハ、ハイキック! 恵選手の身長は百七十弱のはず……私ミートを二年間見てきましたが、あんな蹴りが放てたとは……今日のミートはどこかがおかしい!』
うつ伏せに倒れた恵が起き上がる前に、小堺が動いた。
背中側から左腕を恵の左わきの下に通し、腕を絞るように手を後頭部に固定する、右腕は首に回し、左腕でわきの下を通る動脈を、右腕で頸動脈を締め上げる。柔道技でもある片羽締めだ。
小堺はそのまま恵の太ももに腰掛ける形となり、先ほどの自分の様にはってロープに到達することを防ぐ。
恵からロープまでは一メートルほどある。手を伸ばしてもとても到達しそうなものではない。
レフリーが恵の意識の有無を確認する。恵はあいている右腕を左右に振り、意識があることを証明する。そうすると今度は恵にギブアップの意思があるかどうかを確認する、恵は口から泡を吐きながら短く「ノー」と答える。
「ギブアップしろ、今ならまだ間に合う」
片羽締めが少し緩められ小堺が恵にだけ聞こえるように小さく言った。
「健闘むなしくもミート小堺の非情な攻撃の前に散る、学園祭でそのリベンジってシナリオを組めばお前の格も上がる、俺が加減ができないのはわかったろ? これ以上はお前の選手生命に関わる」
それだけ言うと、また片羽締めがきつくなる。
『恵選手ピンチ! ミートの絞め技に沈んでしまうのか!?』
観客からは「めぐみ」コールが起きている。この試合がただの顔見せ試合ではなくなっている事は証拠や確証はないが皆肌で感じていた。
レフリーが再び恵に確認をする「ギブアップ?」
口からは泡を吹き、意識ももうろうとしている中で恵は「ノー」と答えた。
その言葉に、小堺は両の腕をさらに絞ることで答えた。
「なら、もう知らん」
小堺は片羽締めの状態を崩さず立ち上がった。勿論首を捕らえられている恵も同じように立ち上がる形になる。
「いぃやぁぁぁ!」
恵の視界が観客席、天井、観客席と素早く変わる。
片羽締めの状態で小堺は腰を深く落とし後ろに反り、恵を後方に投げ捨てた。
恵は後頭部からマットに叩きつけられた、それだけでは勢いは死なず、そのまま半転しうつ伏せでマットに沈んだ。
『あぁ! 変形のスリーパースープレックス! ミートそれはまずい! それは女性に! ルーキーに! 未成年に! 一般人に! 人間にかけていい技ではない!』
デリケートな観客からは悲鳴が上がる。気づけば二階席からこの試合を見ている者もいる。
両腕で胴をクラッチ――右手と左手を掴んで固定――するジャーマン・スープレックス系統の技とは違い、スリーパースープレックスは受け身がとれない、これはその技の見たままの衝撃を、逃がすことなく、じかに受けるということである。無論後頭部から落ちることはかなり危険だ。
「ごほっ、けほっ」
嗚咽が止まらない、無理もないだろう、例えるとするならば縄を首に掛けられ、無理やり引き上げられた挙句、叩き落とされたのだ。
まだ立つことができない、小堺の追撃から少しでも逃げようと這って移動する、だがその方向はロープからは遠く離れ、逆にリング中央へと向かってしまっている。
「体を丸めて衝撃を最小限に抑えたか、確かにお前の技術はなかなかのもんだ」
小堺は恵の首筋を右足で踏みつける、そのまま両手をあげて観客にアピールするが浴びせられるのはブーイングのみであった。
だがそれを小堺が気にする事はない、いい反応でも悪い反応でも観客からの反応があれば、レスラーとしては成功しているからだ。
「だが挑む相手がまずかった、明らかなパワーの差、それでいて約三十キロの体重差、これは気合や根性で埋め合わせできるもんじゃねぇ」
「うぅあぁぁ!」
恵の口から悲痛な声が上がる。首筋を踏みつけたまま左足で頭を跨がれたのだ、八十八キロが首筋一点に集中した。
「立て」と短く言うと右手で恵の髪をわしづかみにする。
そのまま恵を無理やり立ち上がらせ、左手で左手を引っ張り恵をコーナーに振る――強制的に走り込ませること――
意識もうろう、足元もふらふらの中、恵は待っていた。相手が油断して無警戒に腕を差し出すとタイミングを。
打撃戦で分が悪い事はほかならぬ本人が最もよく知っている。しかし組み合って有利なわけでもない、相手の不意を突く一瞬、恵はそれを逃すつもりはない。
小堺は振り切るが恵は逆に小堺の左腕を離さない、反動を利用し小堺の正面に立つと自らは後ろに倒れつつ左腕を引き込んだまま左足のひざ裏を小堺の首――頸動脈あたり――にひっかけるように掛ける。右足の膝裏は左足の足首に掛け、絞るように曲げる――柔術によく見られる前三角締め――わきの下の動脈と頸動脈を締める原理は片羽締めと同じだが、腕の三倍の力を持つ足で締める技だけあってとりわけ強力だ。
『あぁ! 恵選手三角締め! 先ほどまでの劣勢を一瞬で入れ替えました!』
小堺はもともとスタミナがある方ではない、ただでさえ脳に酸素が足りていないのだ。そこでの絞め技は非常に効果的に小堺を追い詰める。
『ミートこれは苦しい! ロープに逃げることができるか!?』
まだ意識があるうちに手を打たないと意識が飛んでしまう、小堺はロープに近寄ろうともがくが恵の重みが首にかかっていることと掛けられている場所がリングの中央であることからあまり功を奏していない。
小堺の顔色が見る見るうちに濁っていく、あいた右腕が空を書いていたが、やがて動きが鈍くなり右腕が力なく垂れ下った。
『失神! ミート失神か!?』
レフリーが小堺の右腕を上げる、だがレフリーが手を離すと右腕はまた垂れ下った。
これがあと二回続くと小堺の失神が認められ、恵のKO勝利になる。
もう一度右腕が掲げられる、だが小堺が抵抗するそぶりはない、右腕が再び垂れ下がる。
恵は小堺の体から力が抜けていることを感じた。だが左腕のみ、恵に引き込まれている左腕は力が死んでないことが唯一不安だった。
三回目、レフリーが小堺の右腕を掲げ、離す。
「ふざけるなぁぁぁ!」
怒声が体育館に響いた。
恵の勝利を確信し、歓声を送っていた観客はその声の迫力に押し黙ってしまう。
小堺の右腕は天に突き出されたままだった。
「プロレスで、負けるかぁ!」
恵と同じく、小堺もまたプロレスを愛していた。
空手や柔道とは違う、ありとあらゆる技を取り入れ、ありとあらゆる技をかけあう。それがどんな危険な技であっても逃げずに受け、自分たちの身を削ることにより、観客を楽しませる。ショーと格闘技が高いレベルで融合したもの、それが彼にとってのプロレスであった。
それゆえに柔道、空手、レスリングを学び、受け身に時間を費やした。
だが求めらていたのは危険を嫌うショープロレスであった。
笑いと歓声を貰う事を第一に考え、危険な技よりも見栄えを重視する。
もちろんそれが悪い事だとは言わない、事実小堺は竜崎の台本を忠実に実行し、笑いと歓声を相手のレスラーに与えていた。
学年が上がり、後輩ができたことによって、自分の思っているプロレスは時代遅れのものだと確信した、彼らの肉体は弱弱しく、受け身はたどたどしかった。
だが、恵の言動を聞き、手を合わせ、技を食らい、窮地に追い込まれた今、小堺の中に眠っていた物が完全に目覚めた。
目覚めたそれは、自分がプロレスで負けることを頑として拒否している。小堺はいたって忠実に、それに応えた。
「うりゃぁぁ!」
雄たけびを上げ、背筋と首の力を使い、恵を持ち上げる。
『あげたぁ!』
恵はおそらく次にされるであろうことを予想して、背筋が凍る。
掴んでいたはずの左腕はいつの間にか恵の手には無い。
小堺は両腕で恵の両太ももを抱える。丁度肩車を逆にしたような体勢、それが恵にとって良いことではないのは素人目にもよく分かる。
小堺が勢いよく前屈する、恵は背中からマットに叩きつけられた――パワーボム――恵の体が少しバウンドしたようにも見える。
『三角締めを無理やりパワーボムで一蹴! 悲しいですがこれがパワーの差です! ミート圧倒的有利!』
小堺が恵の体に覆いかぶさり、片足を抱える。
レフリーがマットを叩いてカウントを取る。
ワン。
ツー。
スリーと、もう一度マットを叩かれる寸前、恵が片腕を上げる。
『終わらない! 恵選手執念のスリーカウント拒否!』
恵に大歓声が送られる、小堺は納得いかないような顔で再び恵の髪をつかんだ。
「抵抗すればそれ以上があるだけなんだがな」
そのまま立ち上がらせると恵の頭を左脇に抱え、恵の左腕を後頭部に掛ける。
『ミートこれは……ブレンバスター! ブレンバスターの体勢です!』
小堺は右手で恵のタイツを掴むとそのまま恵の身体が逆さまになるように真上に持ち上げた。あとは恵を背中から落とすだけだ。
しかし、恵は足をばたつかせ体を捻り、小堺の真後ろに着地する。
小堺が振り向く前に恵が仕掛ける。
左腕を恵の左わきの下に通し、腕を絞るように手を後頭部に固定する、右腕は首に回し、左腕でわきの下を通る動脈を、右腕で頸動脈を締め上げる。先ほど自分がやられた片羽締めだ。
『恵選手掟破りの片羽締め! ミート抜け出せるか』
この技は小堺が研究を重ねた最もお気に入りの技だ。
よって、この技の弱点もよく知っている。
小堺が技を解こうとした時だった。
恵が腰を落とそうとしている、先ほどの変形スリーパースープレックスを小堺にかけようとしているのだ。
それはあまりにも無謀、観客も実況もそう感じていた。
小堺もそう感じただろうが、反射的に投げられぬように前傾姿勢を取ろうとした。これが判断ミスになる。
小堺が前傾姿勢を取ろうとしていることを察知した恵は、技を解き、両手をそれぞれの肩に置いた。
そして両足を踏み込む、ちょうど跳び箱の要領で小堺を飛び越す形だ。小堺が前かがみになっているおかげで高さも低い。
しかし、飛び越すわけではない、体を捻り、右太ももの裏を小堺の後頭部に付ける、後は引力に任せれば良い。
尻もちを着くように、恵が着地する。
小堺は頭を恵の太ももでマットに顔を押しつぶされるように前のめりに倒れた。そのえげつなさに観客の中から悲鳴が上がる。
小堺をフォールせず、恵は体を反転させ、小堺から見て左側のロープへ向かって走った、体をロープに預け、反動を利用し再び小堺の元へと走る。
「ああぁぁぁあぁ!」
小堺は恵の雄たけびで我に帰り、立ち上がろうと頭を上げる。
そして、勢いよくマットに踏み込まれる恵の左足が見えて。
左顎に衝撃……
……。
……。
ここはどこだ? なぜ俺は寝ている?
あぁそうだ、プロレスだ。
顎に良いのを貰ってそれで……
くそ! 口の中が血だらけだ。
ん? マットを叩く音がする。
レフリーか、なぜそんな事を。
……! 俺だ! 俺がフォールされているんだ!
肩を、肩を上げないと!
「ツーカウント! ツー!」
『うわ! ミート敗北を拒否! 何と言う事だ! 顎へ助走付きのひざ蹴りをぶつけて尚! ミートを倒すには足りないのです!』
内心決まったと思っていた恵は愕然とした表情で倒れている小堺を見る。
小堺はまだ意識がもうろうとしている、たたみかけるチャンスだと判断した恵は再びロープへと走り込む。
反動を利用し、小堺に向かうと、小堺が素早く動いた。
立ち上がり、右腕を振りかざす。走り込んでくる恵ののど元に右ひじの裏を振り込んだ――ラリアット――
『カウンター! カウンターのラリアット!』
小堺は恵に覆いかぶさり片足を抱える、レフリーのカウントは2で止まった。恵が片足を再下段のロープにかけたからだ。
小堺は焦った、手ごたえはあった、完全に決まったと思っていた。
自分の意識も危ない、今決められなかったら後はないかもしれない。
ぐったりしている恵をリング中央まで引きずり再び片足を抱える。
ワン。
ツー。
再び恵が肩を上げる。観客の「めぐみ」コールがうるさいほど響き渡る、対戦開始から何分経っただろうか。
「終わりだ、この場にふさわしい最高の技で終わらせる、覚悟しろ」
あきらめた小堺は恵を立たせると、背後に回り片羽締めの体勢を取った。
『ミート! それはやめろ! 冗談じゃない! それは冗談にならないんだ!』
観客のコールを止まり、罵倒と悲鳴がこだました。『変形のスリーパースープレックス』を狙っているのは誰の目にも明らかだった。
小堺はミスをしていた、スタンディングでの片羽締めそのものは抜けだすことが容易な技だ。この技の最大のポイントは寝ている状態での、抜け出すことが困難な片羽締めで相手の意識、判断力を弱らせてから投げるという事だ。
小堺はぐったりとしている恵を見て意識、判断力を弱らせなくとも投げられるだろうと過信した、最も、寝技をする余裕はなかったが。
恵は空いている右腕の肘で、小堺の脇腹を二度、三度と打つ。
片羽締めこそとかなかったものの小堺の腕の力が緩んだ。
恵は体を捻ると小堺の左わきから右肩を抜いた、小堺が恵の頭を左わきで抱える形となる。
そのまま右腕を小堺の腰に回し、胴を抱えるように両手をクラッチする。
一般人でも馴染みがあるだろう、バックドロップの体勢だ、しかしこれには問題がある。
『恵選手片羽締めを解いた! しかし! 投げられるのか!? ミートは重量級です!』
恵六十キロ、方や小堺は八十八キロである。絶望的な体格差。
投げる側の恵も自分が本当に小堺を持ち上げられるのか不安だった、力に自信はあるが体格差がありすぎる、それに重み越しに伝わる小堺のプロレスに対する執念が怖かった。
だが、事は一瞬だ。
「あああああああ!」
ほとんどかすれた声で恵が叫ぶと、小堺の体が浮き上がった。
もうろうとする意識の中、小堺は自分の視界が逆さまになるのを感じた。
そして後頭部に衝撃。
恵は体を反らし小堺を投げた後、ブリッジを崩さない、投げられた小堺は両肩をマットに付け、動くことはない。
レフリーがカウントを取る、もう起き上がってくるな。おそらく恵よりも観客の方がそう思っている。
ワン。
ツー。
ツーと宣告されてから時が長く感じる、観客もレフリーと一緒にカウントしていた。
スリー。
待っていましたとばかりにゴングが鳴らされた。
五反田、二宮大学プロレス研究会合同学生プロレス
エキシビジョンマッチ、三十分一本勝負。
河原恵vsミート小堺。
十四分三十二秒。バックドロップホールド。
○河原恵――ミート小堺●
エピローグ
それから何があったのか恵は全く覚えていない。
ただ、安田の肩を借りて引き揚げるとき、何十もの歓声が自分に向けられていたことは覚えている。
あの時の恵は幸せだっただろう。
「本当にごめんなさい!」
五反田大学、プロレス研究会の部室の中で恵は小堺に頭を下げた。恵と小堺のほかには安田、と五反田大学プロレス研究会の部員が殆ど揃っていた。
「謝るくらいなら勝手な事すんじゃねぇ! 自分のしでかしたことの重大さが分かってんのか!?」
横にいた安田が思いっきり恵の頭をはたく。恵は頭を下げたままだ。
「いや、恵ちゃんが謝る事はない、挑発されたと言えすぐにかっとなった小堺にも問題はある」
竜崎は小堺を一瞥すると恵に頭を上げるように促した。
「ま、ま、俺も楽しかったよ、これはその料金だと思えばいい」
自分の左顎の大きな青あざを指さして小堺は大声で笑った。
「本当に、初めてリング上で本気を出せて満足だった、もう一生本気は出さない、本気を出すたびに体を痛めてたら堪らんからね」
その発言で再び恵は頭を下げるが、再び竜崎がそれを促す。
「何が満足だ。お前のやったことはただの殺人未遂だ、うちの二階堂が相手だったら前科がつくところだったぞ」
自分の名前が出て、二階堂が身震いする。モデル体型で美形の男だがどうやら気が小さいようだ。
「そうだな、俺も今度のことで自覚したよ、やっぱ俺は負け役がいいや」
おどけて言うと小堺は安田の肩に手をあてた。
「だがなぁ、俺も、五反田大学としてもこのまま負けっぱなしってーのは悔しい、そこでだ、俺と竜崎が提案する」
そう言うと小堺は二階堂の手を掴み、グイッと引き寄せると恵と対峙させて言った。
「両大学期待のルーキー、二階堂vs恵! どうよ? 今度の学園祭は貰ったも同然だ」
恵の前に突き出された二階堂は明らかなおびえの表情を見せ、恵から視線をそらした。