皮膚を越えない音
腐敗の美学
正午を過ぎた頃に目が覚めた。
口の中がひどく粘ついていて、まるで腐りかけたゴムを噛み締めながら眠っていたような感覚がある。カーテンの隙間から差し込む光は、埃の粒子を照らし出すためだけに存在しており、部屋の温度を上げる役には立っていない。枕元に転がっているスマートフォンの画面をタップすると、意味のない数字の羅列としての時刻が表示された。
通知はない。バッテリーの残量は四十三パーセント。世界が続いていることの証拠としては不十分だが、否定する材料もない。
身体を起こすと、関節がパキパキと音を立てた。乾いた音だ。骨と骨が擦れ合う、ただそれだけの現象。俺はベッドから降り、フローリングの床に足をつけた。足の裏に張り付く冷たさが、生きているというよりは、単に神経が通電している事実を伝えてくる。
キッチンへ向かい、シンクに溜まった食器の山を無視して、冷蔵庫を開ける。中には賞味期限の切れた納豆と、半分ほど残った炭酸の抜けたコーラ、そして正体不明のタッパーがいくつか鎮座している。コーラのペットボトルを掴み、直に口をつける。ぬるくて甘い液体が食道を下っていく。
異変に気づいたのは一週間前のことだったと思うが、正確な日時はどうでもいい。記憶の中の時間は、コンビニエンスストアで買ってきた弁当の消費期限のように意味を失っている。
俺の生活圏から発せられる音が、外部へと漏れ出さなくなった。
俺の耳には聞こえている。いま俺が咳払いをし、鼻をすすり、汚れたシーツの上で身体をよじった時の布擦れの音も、すべて鼓膜を揺らしている。だが、玄関のドア一枚、窓ガラス一枚隔てた外の世界にとって、俺の部屋は真空の密室と同じだ。
俺は実験をすることにした。
キッチンの戸棚から、埃をかぶったブレンダーを取り出す。中身は昨晩の残りの野菜炒めと、変色したバナナ、そして少量の水道水だ。固形物を咀嚼するという行為が億劫になり、すべてを液状化して胃に流し込むことに決めたのだ。
スイッチを入れる。
ガガガガガガガガッ!
凄まじい轟音が狭いワンルームに充満する。モーターの焼ける臭いと、プラスチックの容器が振動でテーブルを叩く音が鼓膜を圧迫する。通常であれば、薄い壁一枚を隔てた隣室の住人が、報復のように壁を蹴ってくるはずだ。隣に住んでいるのは昼夜逆転した生活を送る中年男性で、私が咳払いひとつしただけで、こちらの生活を呪うような壁ドンを返してくる。
しかし、壁は沈黙している。
俺は回転数を最大にした。コンクリートドリルで頭蓋骨を削るような音が響く。あまりのうるささに眉をひそめる。だが、壁の向こうからは何の反応もない。静寂というよりも、そこには最初から誰もいないかのような、あるいは俺の部屋だけが宇宙の真空に放り出されたかのような無反応だった。
俺はブレンダーを止め、ドロドロになった茶色の液体をコップに注いだ。
一口飲む。甘くてしょっぱい、嘔吐物のような味がした。
それを飲み干し、俺はリビングのソファに沈み込んだ。
テレビのリモコンを手に取り、電源を入れる。ワイドショーが流れている。不倫をした芸能人が謝罪し、コメンテーターがもっともらしい顔で倫理を説いている。
音量を上げる。
数字が20、30、40と上がっていく。スピーカーが割れんばかりの大音量が部屋を圧迫する。司会者の声が歪み、ノイズ混じりの音塊となって俺の鼓膜を攻撃する。窓ガラスがビリビリと震えている。
それでも、インターホンは鳴らない。
俺は窓の方を見る。カーテンの隙間から、向かいのマンションのベランダが見える。洗濯物を干している主婦がいる。俺の部屋からは、ジェット機が離陸するような爆音が鳴り響いているはずだ。だが、主婦は洗濯バサミをつまむ手を止めない。こちらの窓を一瞥もしない。
俺は音量をさらに上げる。50。60。限界値だ。部屋中の空気が振動し、床に置いた水の入ったコップに波紋が広がっている。俺自身の耳がキーンと鳴り始める。
それでも、世界は平然としている。
俺はリモコンを放り投げ、音量を最大にしたまま、スマホを手に取った。
SNSのタイムラインには、他人のどうでもいい感情の排泄物が無限に流れている。誰かが何かを激しく非難し、誰かが飼い猫の写真を上げ、誰かが死にたいと呟いている。
俺は画面をスクロールする指を止めることなく、それらの情報をただの光の明滅として処理する。
動画サイトを開き、再生数ランキングの上位にある動画を適当にタップする。
『巨大なゼリーをプレス機で潰してみた』
『1000度の鉄球を氷の上に置いてみた』
『スライムを混ぜていい音を出してみた』
俺はそれらを無表情で眺める。グチャっという音、ジュワッという音。スマートフォンのスピーカーから流れる無機質な音が、テレビの爆音と混ざり合い、カオスな音響空間を作り出す。
意味がない。
ここには何の意味もない。
ただ、データとしての映像と、振動としての音があるだけだ。
ふと、足の親指に違和感を覚えた。
見ると、爪が伸びて靴下に引っかかっている。
俺は引き出しから爪切りを探そうとしたが、面倒になって手でむしることにした。
爪の端に指をかけ、力を入れる。
メリッ。
鈍い痛みと共に、三日月型の爪が剥がれた。
俺はその爪を指先で摘み上げ、しげしげと眺めた。半透明で、硬く、少し臭う。俺の身体の一部だったものが、ただのゴミに変わった瞬間だ。
俺はそれを口に入れた。
ガリッ。
前歯で噛み砕く。カルシウムの味がするわけでもない。ただの異物だ。
飲み込む時、喉に少し引っかかった。
その時、インターホンが鳴った。
ピンポーン。
テレビの爆音にかき消されそうになりながらも、その電子音は確かに俺の耳に届いた。
俺はテレビのコンセントを足で引き抜いた。
プツン、という音と共に、突然の静寂が訪れる。耳鳴りがキーンと残っている。
俺はのろのろと起き上がり、玄関へと向かう。
ドアスコープを覗くと、作業服を着た男が立っていた。手にはガスの検針票のようなものを持っている。
ドアを開ける。
男は俺を見ると、無表情に口を動かした。
「ガスの点検です。給湯器の確認をさせてください」
男の声は聞こえる。
俺は頷く。「どうぞ」と言ったつもりだったが、声は男に届いていない。しかし、男は怪訝な顔をすることなく、ズカズカと土足のまま玄関に入り込んできた。俺の言葉が聞こえていないのか、それとも聞こえた上で無視したのか、あるいは俺の無気力な仕草だけで了承と判断したのかは分からない。
男は台所に入り込み、給湯器のパネルを操作したり、何やら数値をメモしたりしている。
俺はその背中に向かって話しかけてみる。
「あんた、俺の声が聞こえてるのか?」
男は振り返らない。ボールペンを走らせる音がするだけだ。
「おい、ハゲ」
反応なし。
「ここで包丁で刺したらどうするんだ」
男は作業を続けている。背中に汗染みができているのが見える。
俺は流し台の下から包丁を取り出すことはせず、ただ突っ立って男の作業を眺めていた。
三分ほどで作業は終わったらしい。男は俺の方を向き、軽く会釈をした。「ご協力ありがとうございました」と言って、男は出て行った。
鉄の扉が閉まる。鍵をかける音がする。
俺は一人残される。
台所の床に、男が落としていったらしいボールペンが一本転がっていた。
俺はそれを拾い上げる。何の変哲もない、百円ショップで売っているような黒のボールペンだ。
それを握りしめ、壁に思い切り投げつける。
カツン、と硬質な音がして、ボールペンは床に落ちた。
壁の向こうの住人は、やはり何も反応しない。
俺は部屋に戻り、部屋の隅に積み上げられた雑誌の山を蹴り飛ばした。
バサバサと音を立てて、雑誌が床に雪崩れ込む。数年前に買った思想誌、アダルト雑誌、家電のカタログ。それらが渾然一体となって床を覆う。
埃が舞い上がる。俺は咳き込む。
ゴホッ、ゴホッ。
その音も、誰にも届かない。
押入れの奥から、古いエレキギターとアンプを引っ張り出した。
昔、ノイズバンドの真似事をして遊んでいた頃の遺物だ。
シールドをジャックにねじ込む。ガリッというノイズが走る。
アンプのスイッチを入れる。赤いLEDが点灯する。
ボリュームのつまみを右いっぱいに回す。ゲインも最大にする。
ピックがないので、財布から十円玉を取り出した。
俺は弦に十円玉を押し当て、力任せに擦り上げた。
ギャアアアアアアアアアン!
凄まじいフィードバック・ノイズが炸裂した。
耳をつんざく高周波と、床を揺らす重低音。
空気が凶器のように震え、俺の全身を叩く。
俺はギターを床に叩きつけ、足で踏みつけた。
ズガガガガガガ、ピーーーー、ギュイイイイイイン。
制御不能の騒音。意味も旋律もない、ただの電気的な暴力。
俺はその轟音の中で、奇声を上げた。
「あーーーーーーーー! うーーーーーーーー! 死ね! ゴミ! 排泄物!」
喉が張り裂けるほど叫ぶ。
涙が出てくる。感動ではない。鼓膜への過剰な刺激に対する生理的な反応だ。
俺はさらに叫ぶ。
「1、1、2、3、5、8、13……」
フィボナッチ数列を叫ぶ。意味はない。ただの数字だ。
俺はギターを持ち上げ、アンプに叩きつけた。
ドガン!
バネが弾けるような音がして、ノイズが途切れた。
静寂が戻ってくる。
俺の耳鳴りだけが、キーンと鳴り続けている。
俺は肩で息をしながら、床にへたり込んだ。
窓を開けてみる。
眼下の道路では、相変わらず車が行き交い、人々が歩いている。
誰一人として、この部屋で起きた音響的なテロリズムに気づいていない。
俺の出したノイズは、窓枠という結界を越えることなく、完全に無効化されていた。
徒労感すら湧かない。
ただ、事実としてそうであるだけだ。
俺にとっての轟音は、世界にとっての無音だ。
あるいは、世界全体が巨大なノイズであって、俺のノイズなど最初から埋没しているだけなのかもしれない。
日が暮れて、部屋の中が暗闇に沈んでいく。
電気をつける気になれない。
暗闇の中で、冷蔵庫のLEDだけが緑色に光っている。
俺は床に横たわり、膝を抱えた。
自分の心臓の音が聞こえる。
ドク、ドク、ドク。
血液が流れる音。
内臓が蠕動する音。
俺は、俺という肉の袋の中に閉じ込められた音を聞き続ける。
この音もまた、俺の皮膚という境界線を越えて外部に届くことはない。
腹が減ったような気もするが、動くのが億劫だ。
スマホの画面を点灯させる。
午後八時過ぎ。
誰からも連絡はない。
ニュースアプリを開く。
『世界経済は深刻な局面へ』
『温暖化で氷河が消失』
『有名俳優が薬物で逮捕』
スクロールする。
情報の残骸が、網膜の上を滑っていく。
意味がない。
すべてが、遠い国の出来事だ。
壁の向こうの隣人の生活音よりも、もっと遠い。
俺はあくびをした。
「ふわあ」
涙を拭う。
眠いわけではないが、起きている理由もない。
そこに転がっていたタオルケットを引き寄せ、頭から被る。
生乾きの臭いがする。
自分の呼吸音が、布を通して増幅されて聞こえる。
スー、ハー。
スー、ハー。
うるさい。
自分の生きている音が、耳障りで仕方がない。
隣の部屋から、笑い声が聞こえてきた。
テレビを見ているのだろう。
ワハハ、という乾いた笑い声。
楽しそうだ。
俺は壁に向かって、小さく中指を立てた。
闇の中で。
誰にも見えないし、誰にも聞こえない。
俺は目を閉じる。
意識のスイッチを切る作業に入る。
冷蔵庫のコンプレッサーが、ガタンと鳴って停止した。
一瞬の静寂。
すぐにまた、どこかの配管を水が流れる音が聞こえ始めた。
チョロチョロ。
音は止まない。
俺が消滅するまで、あるいは世界が消滅するまで、この無意味なノイズの集積は続くだろう。
俺はそのノイズに身を委ね、泥のような眠りへと落ちていった。
換気扇だけが、まだ回っている。




