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星が重なる日  作者: 橘花


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8.返事のない空間

当たり前は、壊れた瞬間に姿を消すわけではない。

壊れたあとも、それはしばらく「機能しているふり」を続ける。

人がそれを疑い始めるまで、当たり前は当たり前の顔をやめない。


だが、当たり前が最も人を縛るのは、壊れたあとだ。

壊れたものを直そうとする発想そのものが、すでに壊れた前提に立っている。

人はそれに、すぐには気づけない。

昨日まで成立していた説明を、今日も成立させようとする。

それは優しさでも誠実さでもなく、単なる慣性だ。


午前十時。

首相官邸地下・危機管理センター。


壁面モニターには、航空・海上・宇宙・通信、すべての情報が整理された状態で並んでいた。

赤い警告表示はない。点滅もない。異常を示すアイコンも存在しない。

それが、この部屋に集まった全員を妙に沈黙させていた。


沈黙は恐怖からではない。

恐怖なら名前がある。名前があれば手順が動く。

だが今、手順を動かす言葉がない。

「通信障害」では狭すぎる。

「軍事侵攻」では合わない。

「自然災害」では説明がつかない。

「未知の現象」と言えば、情報が暴走する。

言葉がないということは、判断がないという意味ではない。

判断の器だけが、まだ見つからない。


「……ここまで来ても、“異常”は出ないな」

官房長官が、誰にともなく言った。


「はい」

統合幕僚監部の幕僚が応じる。

「計測系、航法系、通信系、すべてが内部的には成立しています」


「内部的には、か」


その言葉を、誰も訂正しなかった。

内部は、確かに正常だ。

速度も、高度も、燃料も、航跡も。

海図も、水深も、潮流も。

電力も、通信も、行政も、金融の国内部分も。

国内だけを切り出せば、昨日までの日本がそのまま生きている。


だが、外部が存在しているかどうかは、誰も保証できない。

日本が生きているという事実が、世界も生きているという証明にはならない。

むしろ、その逆が証明できないからこそ、日本の「正常」は不気味に浮いて見える。

まるで、巨大な舞台装置だけが残り、観客席が空っぽになった劇場のように。

照明は点く。舞台は回る。台詞も言える。

だが、誰に向けて話しているのかが分からない。


「距離が信用できない、という結論は変わらないな」

鷹宮首相は、椅子の背にもたれたまま言った。


「はい」


「だが、“距離が壊れた”と言い切る材料も、まだ足りない」


その通りだった。

壊れた、という表現は必ず原因を求める。

故障か。攻撃か。自然現象か。未知の物理か。

だが、どの仮説も今の情報では支持できない。

支持できない仮説を掲げれば、国家の行動は仮説に縛られる。

仮説に縛られた行動は、失敗しても修正できない。

だから今は、原因ではなく、現象の輪郭だけを拾う。


「つまり」

首相は一拍置いてから続けた。

「我々は今、“世界がどこまで存在しているか”を確認できていない」


誰も異議を唱えなかった。

それは、これまで一度も考える必要のなかった問いだ。

世界は存在しているものだった。

確認するまでもなく、そこにある前提だった。

だが今、その前提が静かに剥がれ落ちている。


空幕の幕僚が、淡々と報告を重ねる。

「航空と海上は、すでに限界が見えています」

「飛べば飛ぶほど、情報が増えない」

「航続距離は稼げますが、“確認できる世界”は広がりません」


海幕が続ける。

「同じことは、海でも起きています」

「航行は成立する。測位も成立する。だが、“他者の存在”が増えない」


首相はゆっくりと頷いた。

「つまり」

全員の視線が集まる。

「人が行って確認する手段は、すでに“人が存在する世界”を前提にしている」


その言葉は重かった。

人が飛ぶ。人が航行する。人が観測する。

そのすべてが、「人が行ける範囲に世界が続いている」という前提の上に成り立っている。

だが今、その前提自体が揺らいでいる。


「……では、どうやって境界を測る?」

誰かが、小さく問いかけた。


首相は、すぐには答えなかった。

答えが一つではないことを理解していたからだ。

そして、答えが複数あるということは、失敗の形も複数あるということだ。

失敗が複数ある局面で、最初に選ぶ言葉は致命的になる。


「“境界”という言葉を整理しよう」

首相は言った。

「我々が言っている境界は、国境でも、防空識別圏でもない」

「航路の端でも、索敵範囲の外でもない」

「“そこから先が、本当に存在しているかどうか分からない地点”だ」


その定義に、誰も反論しなかった。


「その境界は、必ずしも目で見える必要はない」

「数値として表示される必要もない」

「だが」

首相は言葉を切る。

「“人が行かなくても確認できる方法”が必要だ」


室内が静まり返った。

人が行かない。

それは、これまでの危機対応ではほとんど使われてこなかった発想だ。

危機管理とは、人を動かし、現場に送り、確認し、戻すことで完結する。

だが今、戻すこと自体が前提にならない可能性がある。

戻ることを前提にした計画は、戻らなかった瞬間に失敗として崩壊する。

崩壊した計画は、社会の不安を増幅させる。

増幅した不安は、情報の価値を潰す。

だから、戻らないことを計画の中に初めから含める。

恐ろしいのは、戻らないことではない。

戻らなかった事実を、社会が「損失」として数え始めることだ。


「無人機……ですか」

誰かが言う。


「候補の一つだ」

首相は即答した。

「人が乗らない、というだけで、前提が一つ外れる」

「恐怖も、帰投不能という判断も、別の形になる」


「だが」

ここで首相は首を振った。

「無人機も、距離を前提に飛ぶ」

「航続距離。通信距離。制御可能範囲」

「それらが“壊れた距離”の上にあるなら、同じ問題に突き当たる」


幕僚たちは、その意味を理解した。

無人であっても、距離という概念を使う限り同じ壁にぶつかる。

そして壁は、「遠くへ行けない」ではない。

「遠くへ行ったことが、遠くへ行ったという意味を持たない」という形で立ちはだかる。


「では、距離を使わない観測は?」

科学技術庁の担当官が、慎重に口を開いた。

「……時間ですか?」


「あるいは、因果関係」

別の担当が補う。


その言葉に、数人が視線を上げた。

距離が信用できないなら、距離を使わない尺度を探す。

だが尺度は、ただ置き換えればいいものではない。

国家の意思決定は、尺度の上に乗って初めて動く。

尺度を変えるということは、判断の物差しを入れ替えるということだ。

入れ替えた物差しで、過去の判断を測り直すことになる。

過去を測り直すことは、過去の正当性を揺らがせる。

正当性が揺らげば、現在の命令も揺らぐ。

だから、物差しは慎重に選ばなければならない。


情報通信研究機構の連絡員が言う。

「時間なら、動かせます」

「電波は、距離ではなく遅延として見られる。往復時間が測れれば、少なくとも“応答の有無”は判定できます」


「往復時間……」

官房長官が繰り返す。


「距離を出すためではない」

首相が言った。

「距離を出さない。“返ってくるかどうか”だけを見る」


その一文は、危機管理センターの共通語に合っていた。

原因を決めない。仮説を並べない。測れるものだけを測る。

ただ今回、測る対象が災害や敵ではなく、“世界の続き”そのものになっている。


科学技術庁の担当官が続ける。

「影響が及ぶかどうかを見る、という発想です」

「電波は一つ。レーザー照射も可能性があります。受動的観測も、粒子線の検出も」


「粒子線?」

官房長官が首を傾ける。


「宇宙線の到来は、地球規模でほぼ一定です」

担当官は慎重に言う。

「もし極端な偏りが出るなら、“外部”の構造が違うことを示唆します」


示唆。断言ではない。

だが、方向としては十分だった。


「宇宙側はどうだ」

首相が言う。


宇宙航空研究開発機構の連絡員が、落ち着いた声で答える。

「低軌道の観測衛星や通信衛星は、地上局とのリンクが成立しています。姿勢制御も、軌道決定も、今のところ正常です」


「なら、宇宙は繋がっている?」

誰かが問う。


「“今のところ”は」

連絡員は言い換える。

「少なくとも、人工衛星という物体が存在し、それが予測通りに運動している範囲では」


その言い方は、この部屋の共通語に合っていた。

断言しない。否定もしない。確認できるところまでしか言わない。


官房長官は、モニターの一角を指す。

情報収集衛星の最新取得データ。

日本列島と周辺海域は鮮明に写っている。

だが外側は。

写っていないのではない。

写っていても、それが何なのか言えない。

比較対象が消えているからだ。

「いつも見えるはずのもの」が写っていないと断言できるのは、いつも見えていた証拠があるからだ。

しかし今、証拠は「記憶」と「記録」に分断されている。

記録はある。だが、記録が示す場所が同じ場所である保証がない。

場所の保証がなければ、記録はただの画像になる。

ただの画像は、危機の証明にならない。


首相が言った。

「衛星から“投げる”ことはできるか」


「投げる……」

幕僚の数人が、その語感を噛む。


「信号でもいい。観測のための照射でもいい。何かを出して、返ってくるかどうかをみる」


その発想は軍事的にも科学的にも理解できる。

レーダーは照射して反射を見る。通信は送って応答を見る。

だが今の相手は、船でも航空機でもない。

世界そのものだ。


「電波の“返り”なら、できます」

NICTが言う。

「ただし、返りがない場合、機器故障との区別は必要になります」


「区別する」

首相は短く返す。

「機器故障なら、国内の相互検証で潰せる。問題は、相互検証を通過したのに返らない場合だ」


それはつまり、世界が返事をしない、という結論に触れる。

室内の誰も、その言葉を口にしない。

口にした瞬間、社会の外側まで飛び火する。

外側に飛び火した噂は、戻ってこない。

戻ってこない噂は、境界確認を妨害する。

妨害は敵意だけで起きない。

恐怖でも起きる。

不安でも起きる。

そして、好奇心でも起きる。


官房長官が話題を一段現実へ落とした。

「投げる対象は段階を切れ」

「いきなり一発勝負にするな」

「誤判定の余地を残すな」


首相は頷く。

「第一段階は、国内で完結する投射と応答」

「第二段階は、国内を越える投射」

「第三段階で、初めて“境界”を狙う」


“狙う”という単語が出た瞬間、軍人たちは背筋を伸ばした。

だが狙う対象は敵ではない。空白だ。

空白は撃ち返してこない。

だからこそ、撃つという動詞が危険になる。

撃てば、相手がいると人は思う。

相手がいると人が思えば、相手は噂の中で増殖する。

噂の増殖は、現実の確認を食い潰す。


「空白に向けて撃つのか」

誰かが思わず言いかけ、言葉を飲み込む。


「撃つ、ではない」

首相は即座に修正した。

「試す」

「問う」

「返事があるかどうかを確かめる」


言葉の置き方が、ここでは武器になる。

不用意な単語は手続きを動かす。

そして今、動かすべき手続きが決まっていない。

決まっていない手続きが動けば、誰も止められない。


海幕が言う。

「無人機を出すにしても、通信が届く前提が必要になります。衛星リンクを使えば範囲は延びますが、それでも“どこまでが世界か”を前提にしている」


「だから“届く”を目的にしない」

首相は言った。

「届かなかったら、それがデータになる」

「戻ってこなくても、欠損ではない」

「欠損として扱うから、我々は怯える」


その指摘に、官房長官が小さく頷いた。

怯えは未知からではない。

未知を損失として数える思考から生まれる。

損失の数え方を変えなければ、国家は動けない。


「境界は、そこに立つ線ではない」

首相は続ける。

「境界は、“応答が途切れる”という現象として現れる」

「つまり、境界は場所ではなく、関係だ」


関係。

相対距離が生きているという現実。

それと同じ系譜の言葉だった。


空幕の幕僚が言う。

「相対は生きています」

「編隊間隔は一致した。給油機との距離も一致した。航法も成立した」


「だからこそ」

首相は静かに言う。

「“絶対”だけが疑われる」


絶対距離。絶対位置。絶対的な外部。

それらは、いままで疑う必要のない土台だった。

土台は壊れても、上に建つ建物はしばらく立つ。

立っているから、土台が壊れたと気づけない。

立っているうちに補強しようとする。

しかし、その補強の設計図もまた、土台がある前提で描かれている。

だから補強は効かない。

効かない補強を重ねれば、安心だけが積み上がる。

安心が積み上がれば、判断が遅れる。

遅れた判断は、境界確認のタイミングを逃す。


「“直す”という発想が危ない」

首相は言った。

「直すには、壊れた箇所が特定できなければならない」

「特定できないものを直そうとすると、直す行為が前提を固定してしまう」


官房長官が息を吐く。

「つまり、今は“直す”段階ではない」

「“確かめる”段階だ」


「そうだ」

首相は頷いた。

「確かめるのは原因ではない」

「確かめるのは応答だ」


官房長官が、静かにまとめる。

「つまり、“行って見る”のではなく」

「“投げて返ってくるか”を見る」


首相は小さく頷いた。

「そうだ」

「境界は、必ずしも“そこに立つ場所”ではない」

「反応が返ってこない点として、初めて姿を持つ」


その瞬間、この部屋にいた全員が同じことを理解した。

次の段階は探索ではない。偵察でもない。測量ですらない。

試す、だ。


「……試す、ということですね」

誰かが言った。


首相は、その言葉を否定しなかった。

「そうだ」

「この世界が、どこまで“応答するか”を試す」


その試みは、これまでのどの任務名にも当てはまらない。

成功も失敗も定義できない。

ただ、返事があるかどうか。

それだけが結果になる。


「準備を進めよう」

首相は言った。

「人が行かない方法で」

「距離に依存しない方法で」

「そして」

一拍。

「戻ってくることを前提にしない方法で」


その言葉が、静かに空気を変えた。

戻らなくていい。

それは勇気ではない。犠牲でもない。

世界が返事をしない可能性を、正面から受け入れるという意味だった。


午前十時二十分。

危機管理センターの扉が一度開き、若い職員が紙束を抱えて入ってくる。


「国内の問い合わせが増えています。“海外が消えた”という言葉が、検索上位に入り始めています」


官房長官は頷くだけで、言葉を返さない。

境界確認は外へ出せない。

外へ出した瞬間、境界は噂になる。

噂は境界より速い。

噂は距離を要しない。

噂は遅延を持たない。

噂は返事を必要としない。

だから噂は、最も危険な投射になる。


首相は、ただ一言だけ言った。

「国内は、今日も通常で回せ」


それは矛盾ではない。

通常を維持することが、境界確認の土台になる。

土台が崩れれば、返事がないのか、こちらが倒れたのかが分からなくなる。

“返ってこない”という結果を測るには、こちらが測り続ける必要がある。

測り続けるには、社会が続いていなければならない。


官房長官が確認する。

「名称はどうする」


この段階で、名称は重要だった。

名称が決まれば、人はそれを案件として扱える。

扱えるようになれば、議事録も、予算も、部局も動く。

動けば、投射は準備として現実になる。


「“境界確認”でいい」

首相は言った。

「原因を言わない。敵を言わない。場所を言わない」

「ただ、境界を確認する」


それが、今の段階で使える言葉だった。


「担当は」

官房長官が問う。


統合幕僚監部が手を挙げる。

科学技術庁が頷く。

NICTとJAXAが、相互に視線を交わす。

内閣官房の危機管理担当が、実務の線を引き始める。

外務省の席は静かだった。

外を扱う部局ほど、今は沈黙が必要だった。

沈黙は放棄ではない。

沈黙は、余計な言葉を世界に投げないための行動だ。


ここで、ようやく外務省が低い声で言った。

「第三国経由の連絡を試みます」


官房長官が視線を向ける。

「第三国?」


外務省の担当は、言葉を選んだ。

「在日大使館の回線、在日公館の人的ネットワーク、民間の国際回線の残存ルート……」

「つまり、我々が“外”だと思っているものを、国内側に引き寄せて確認します」


首相が頷く。

「外へ投げるのではなく、内にある外を探す」


「はい」

外務省の担当は短く答えた。

「国外にいるはずの相手を探すのではなく、国内にいる相手の痕跡を辿る」


それは、遠回りのようで、いま最も安全な確認だった。

外へ届くかどうかを問う前に、外の欠片が国内に残っているかを問う。

残っているなら、世界は途切れていない。

残っていないなら、途切れている。

そして残っていないという結果が出ても、それは失敗ではない。

境界確認の第一歩になる。


午前十時三十分。

危機管理センターのモニターが一つ切り替わる。

国内SNSのトレンド分析。

検索語の増加グラフ。

問い合わせ件数の推移。

報道各社の質問リスト。


数字は、じわじわと上がっている。

爆発ではない。

だが、沈殿した不安が溶け出し始めている。

溶け出した不安は、いつか濁流になる。


官房長官は言った。

「広報は、国内の確認状況だけを出す」

「外の話は、“確認できていない”で止める」


首相も同意する。

「言い切らない」

「言い切れば、人はそこから物語を作る」

「物語は、確認より早い」


この部屋の全員が理解していた。

いま戦っている相手は、敵ではない。

不安でもない。

“前提”だ。

前提が壊れたとき、人は前提を守ろうとする。

守ろうとするほど、前提は人を縛る。

縛られたままの国家は、境界に近づけない。


午前十時四十五分。

統幕の幕僚が、次の段階の一覧を読み上げる。

「国内完結投射:超長波時刻信号の多点発信と反射検証」

「国内越境投射:高高度気球からの信号送出と遅延観測」

「宇宙投射:衛星搭載装置による指向性照射と帰還検知」

「海上投射:ブイ網による受動観測と異常分布の確認」


項目は多い。

だが、共通しているのは一つだけだ。

行って見ない。

投げて、返事を見る。


午前十一時。

会議は一度、いくつかの小部屋に分岐した。

危機管理センターの廊下には、普段なら見ない組み合わせの人間が並ぶ。

制服組と背広組、研究者と警察庁、通信の技術者と海上保安庁。

名札の肩書きが混ざり合う。

混ざり合うのは役割ではない。

前提が壊れたとき、役割の境界も薄くなる。


統幕の作業室では、即応の言葉が飛び交っていた。

「投射」の準備を、作戦計画として落とし込む必要がある。

だが作戦は通常、敵と味方と目的を前提にする。

今回は、敵がいない。

目的は「境界を確認する」だが、境界がどこにあるか分からない。

味方すら、国内という範囲に限定して初めて定義できる。

だから、作戦用語を一つずつ慎重に言い換えるしかない。


「発射」という語は避ける。

「照射」も避ける。

どちらも、相手の存在を確定させる響きを持つからだ。

代わりに「送出」「投射」「送信」「放射」。

それでも、言葉は完全には中立にならない。

中立にしたいという意図が、すでに不安の裏返しになる。


科学技術庁のブースでは、試験の順序が組み替えられていた。

過去の観測機器は、距離を出すために最適化されている。

今求められているのは距離ではなく、応答の有無だ。

同じ機械でも、見るべき値が変わる。

変われば、故障の定義も変わる。

故障の定義が変われば、整備の優先順位が変わる。

優先順位が変われば、社会の資源配分も変わる。

たった一つの「見る値」の変更が、国家の運用そのものに波及する。


JAXAの連絡員は、別の問題を提示した。

「衛星からの照射はできます。

ただ、衛星運用は予定と手順で成り立っています。

手順外の操作を増やせば、こちらの運用リスクが増える」


「リスクが増えるのは分かる」

官房長官が言う。

「だが、今のリスクは運用ではなく、前提だ」


連絡員は頷いた。

「了解です。

では、まず地上局からの送出で相互検証し、衛星側は受信専用で走らせます。

受信できれば、衛星系が正常である証拠になる。

その上で、衛星から送出する」


段階。

この日、あらゆる決定が段階になっていく。

一足飛びを避けるのは慎重さではない。

一足飛びが、境界を「場所」に固定してしまうからだ。

場所に固定すれば、外れたときに結論が崩れる。

崩れた結論は、次の一投を止める。


海幕側では、海上の「投射」が議論されていた。

海は空より遅い。

だが遅いことは、時に利点になる。

遅延を測るなら、遅さは分解能になる。

一方で、海は人の生活に直結している。

漁業、物流、海底ケーブル。

海で起きることは、すぐに民間に波及する。


「ブイ網はどうする」

「既存の気象ブイを活用できる」

「だが、配置は境界の仮説に依存する」

「依存させるな。既存配置の“応答の変化”を見る」


同じ結論に収束する。

仮説を立てるな。

比較をせよ。

変化だけを拾え。


警察庁は、国内秩序の維持について短く報告した。

「現時点で大規模な混乱はありません。

ただし、誤情報の拡散速度が上がっています。

“海外の都市が真っ黒になった”などの画像が回り始めています」


官房長官は頷く。

「画像は、真実の形をしている。

だから真偽より先に感情を動かす」


首相が言う。

「感情は止められない。

止めようとすれば、別の不安を作る。

我々が止めるべきは、判断の遅れだ」


判断の遅れ。

それは、境界が分からないことより危険だ。

境界が分からなくても、投げて確かめればいい。

だが判断が遅れれば、投げる手が止まる。

止まった瞬間、前提が戻ってくる。

戻ってきた前提は、壊れているのに当たり前の顔をする。

その顔に騙されれば、国家は静かに終わる。


午前十一時二十分。

再び全体会議が合流する。

机上には、各部局が持ち寄った「第一段階」の案が並んだ。

共通しているのは、小さく、確実に、国内で検証できること。

そして、返事がない場合を「欠損」としない設計だ。


首相は、紙束を一枚ずつ見た。

読むのは速い。

だが決裁は急がない。

急ぐと、目的が「成功」にすり替わるからだ。

成功が目的になれば、返事がない結果を失敗と呼び始める。

失敗と呼んだ瞬間、次の一投は政治的に止まる。


官房長官が最後に、念を押すように言った。

「この案件は、成功や失敗で整理する段階じゃない」

「返事があるか、ないか。それだけで進める」


首相は頷き、短く答えた。

「了解だ」


了解。

それは、現実を受け取るという意味だった。


首相が最後に確認した。

「返事がない場合、どう扱う」


NICTが答える。

「欠損ではなく、結果です」


科学技術庁が続ける。

「観測不能ではなく、応答なしとして扱います」


統幕が締める。

「作戦の失敗ではなく、境界の可能性として記録します」


首相は頷いた。

「それでいい」


この瞬間、ようやくこの国は、壊れた前提の上で動ける形を手に入れた。

直すのではない。

戻すのではない。

確かめる。


境界は、そこにあるとは限らない。

だが、返事がない点として、いつか姿を持つ。


次に投げられる問いは、その返事の形を探すための最初の一投になる。


そして、ここにいる誰もまだ知らない。

返事がない空間は、ただの空白ではない。

空白であること自体が、別の何かの輪郭になり得るということを。

そして、その輪郭に触れた瞬間、世界という言葉の意味が変わるということを。

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