7.境界は、そこにあるとは限らない
当たり前は、
壊れたあとも、
しばらくは人の思考を縛り続ける。
壊れたものを直そうとする発想そのものが、
すでに壊れた前提に立っていることに、
人はすぐには気づけない。
午前十時。
首相官邸地下・危機管理センター。
壁面モニターには、
航空・海上・宇宙・通信、
すべての情報が整理された状態で並んでいた。
赤い警告表示はない。
点滅もない。
異常を示すアイコンも存在しない。
それが、
この部屋に集まった全員を
妙に沈黙させていた。
沈黙は、恐怖からではない。
恐怖なら、名前がある。
名前があれば、手順が動く。
だが今、手順を動かす言葉がない。
「……ここまで来ても、
“異常”は出ないな」
官房長官が、
誰にともなく言った。
「はい」
統合幕僚監部の幕僚が応じる。
「計測系、航法系、通信系、
すべてが内部的には成立しています」
「内部的には、か」
その言葉を、
誰も訂正しなかった。
内部は、
確かに正常だ。
速度も、高度も、燃料も、航跡も。
海図も、水深も、潮流も。
電力も、通信も、行政も。
国内だけを切り出せば、
昨日までの日本がそのまま生きている。
だが、
外部が存在しているかどうかは、
誰も保証できない。
日本が生きているという事実が、
世界も生きているという証明にはならない。
むしろ、その逆が証明できないからこそ、
日本の「正常」は不気味に浮いて見える。
「距離が信用できない、という結論は変わらないな」
鷹宮首相は、
椅子の背にもたれたまま言った。
「はい」
「だが、
“距離が壊れた”と言い切る材料も、
まだ足りない」
その通りだった。
壊れた、という表現は、
必ず原因を求める。
故障か。
攻撃か。
自然現象か。
未知の物理か。
だが、
どの仮説も、
今の情報では支持できない。
「つまり」
首相は、
一拍置いてから続けた。
「我々は今、
“世界がどこまで存在しているか”を
確認できていない」
誰も、
異議を唱えなかった。
それは、
これまで一度も
考える必要のなかった問いだ。
世界は、
存在しているものだった。
確認するまでもなく、
そこにある前提だった。
だが今、
その前提が
静かに剥がれ落ちている。
「航空と海上は、
すでに限界が見えています」
航空総隊の幕僚が言う。
「飛べば飛ぶほど、
情報が増えない」
「航続距離は稼げますが、
“確認できる世界”は広がりません」
「同じことは、
海でも起きています」
海上幕僚が続ける。
「航行は成立する。
測位も成立する。
だが、
“他者の存在”が増えない」
首相は、
ゆっくりと頷いた。
「つまり」
全員の視線が集まる。
「人が行って確認する手段は、
すでに
“人が存在する世界”を
前提にしている」
その言葉は、
重かった。
人が飛ぶ。
人が航行する。
人が観測する。
そのすべてが、
「人が行ける範囲に
世界が続いている」
という前提の上に成り立っている。
だが今、
その前提自体が揺らいでいる。
「……では、
どうやって境界を測る?」
誰かが、
小さく問いかけた。
首相は、
すぐには答えなかった。
答えが、
一つではないことを
理解していたからだ。
「“境界”という言葉を、
整理しよう」
首相は言った。
「我々が言っている境界は、
国境でも、
防空識別圏でもない」
「航路の端でも、
索敵範囲の外でもない」
「“そこから先が、
本当に存在しているかどうか
分からない地点”だ」
その定義に、
誰も反論しなかった。
「その境界は、
必ずしも
目で見える必要はない」
「数値として、
表示される必要もない」
「だが」
首相は、
言葉を切る。
「“人が行かなくても確認できる方法”が、
必要だ」
室内が、
静まり返った。
人が行かない。
それは、
これまでの危機対応では
ほとんど使われてこなかった発想だ。
「無人機……ですか」
誰かが言う。
「候補の一つだ」
首相は即答した。
「人が乗らない、
というだけで、
前提が一つ外れる」
「恐怖も、
帰投不能という判断も、
別の形になる」
「だが」
ここで、
首相は首を振った。
「無人機も、
距離を前提に飛ぶ」
「航続距離。
通信距離。
制御可能範囲」
「それらが
“壊れた距離”の上にあるなら、
同じ問題に突き当たる」
幕僚たちは、
その意味を理解した。
無人であっても、
距離という概念を使う限り、
同じ壁にぶつかる。
そして壁は、
「遠くへ行けない」ではない。
「遠くへ行ったことが、
遠くへ行ったという意味を持たない」
という形で立ちはだかる。
「では、
距離を使わない観測は?」
科学技術庁の担当官が、
慎重に口を開いた。
「……時間ですか?」
「あるいは、
因果関係」
その言葉に、
数人が視線を上げた。
距離が信用できないなら、
距離を使わない尺度を探す。
だが尺度は、
ただ置き換えればいいものではない。
国家の意思決定は、
尺度の上に乗って初めて動く。
「時間なら、動かせます」
情報通信研究機構(NICT)の連絡員が言う。
「電波は、距離ではなく遅延として見られる。
往復時間が測れれば、
少なくとも“応答の有無”は判定できます」
「往復時間……」
官房長官が繰り返す。
「距離を出すためではない」
首相が言った。
「距離を出さない。
“返ってくるかどうか”だけを見る」
その一文は、これまでの会議の口調に似ていた。
原因を決めない。
仮説を並べない。
測れるものだけを測る。
ただ今回、測る対象が、
災害や敵ではなく、
“世界の続き”そのものになっている。
「影響が及ぶかどうかを見る」
科学技術庁の担当官が続ける。
「電波は一つ。
レーザー測距も可能性があります。
受動的観測も、粒子線の検出も」
「粒子線?」
官房長官が首を傾ける。
「宇宙線の到来は、地球規模でほぼ一定です」
担当官は慎重に言う。
「もし極端な偏りが出るなら、
“外部”の構造が違うことを示唆します」
示唆。
断言ではない。
だが、方向としては十分だった。
「宇宙側はどうだ」
首相が言う。
JAXAの連絡員が、落ち着いた声で答える。
「LEOの観測衛星や通信衛星は、
地上局とのリンクが成立しています。
姿勢制御も、軌道決定も、今のところ正常です」
「なら、宇宙は繋がっている?」
誰かが問う。
「“今のところ”は」
連絡員は言い換える。
「少なくとも、人工衛星という物体が存在し、
それが予測通りに運動している範囲では」
その言い方は、危機管理センターの共通語に合っていた。
断言しない。
否定もしない。
確認できるところまでしか言わない。
官房長官は、モニターの一角を指す。
情報収集衛星(IGS)の最新取得データ。
日本列島と周辺海域は、鮮明に写っている。
だが、外側は。
写っていないのではない。
写っていても、それが何なのか言えない。
比較対象が消えているからだ。
「衛星から“投げる”ことはできるか」
首相が言った。
「投げる……」
幕僚の数人が、その語感を噛む。
「信号でもいい。
観測のための照射でもいい。
何かを出して、
返ってくるかどうかをみる」
その発想は、軍事的にも科学的にも理解できる。
レーダーは照射して反射を見る。
通信は送って応答を見る。
だが、今の相手は、船でも航空機でもない。
世界そのものだ。
「電波の“返り”なら、できる」
NICTが言う。
「ただし、返りがない場合、
機器故障との区別は必要になります」
「区別する」
首相は短く返す。
「機器故障なら、国内の相互検証で潰せる。
問題は、相互検証を通過したのに返らない場合だ」
それはつまり、
世界が返事をしない、という結論に触れる。
室内の誰も、その言葉を口にしない。
口にした瞬間、社会の外側まで飛び火する。
官房長官が、話題を一段現実へ落とした。
「投げる対象は、段階を切れ」
「いきなり一発勝負にするな」
「誤判定の余地を残すな」
首相は頷く。
「第一段階は、国内で完結する投射と応答」
「第二段階は、国内を越える投射」
「第三段階で、初めて“境界”を狙う」
“狙う”という単語が出た瞬間、
軍人たちは背筋を伸ばした。
だが、狙う対象は敵ではない。
空白だ。
「空白に向けて撃つのか」
誰かが思わず言いかけ、
言葉を飲み込む。
「撃つ、ではない」
首相は即座に修正した。
「試す」
「問う」
「返事があるかどうかを確かめる」
言葉の置き方が、ここでは武器になる。
不用意な単語は、手続きを動かす。
そして今、動かすべき手続きが決まっていない。
「無人機を出すにしても」
海幕が言う。
「通信が届く前提が必要になります。
衛星リンクを使えば範囲は延びますが、
それでも“どこまでが世界か”を前提にしている」
「だから“届く”を目的にしない」
首相は言った。
「届かなかったら、それがデータになる」
「戻ってこなくても、欠損ではない」
「欠損として扱うから、我々は怯える」
その指摘に、官房長官が小さく頷いた。
怯えは、未知からではない。
未知を“損失”として数える思考から生まれる。
「境界は、そこに立つ線ではない」
首相は続ける。
「境界は、“応答が途切れる”という現象として現れる」
「つまり、境界は場所ではなく、関係だ」
関係。
相対距離が生きているという現実。
それと同じ系譜の言葉だった。
「相対は生きている」
空幕の幕僚が言う。
「編隊間隔は一致した。
給油機との距離も一致した。
航法も成立した」
「だからこそ」
首相は静かに言う。
「“絶対”だけが疑われる」
「絶対距離」
「絶対位置」
「絶対的な外部」
それらは、いままで疑う必要のない土台だった。
土台は壊れても、上に建つ建物はしばらく立つ。
立っているから、土台が壊れたと気づけない。
「“直す”という発想が危ない」
首相は言った。
「直すには、壊れた箇所が特定できなければならない」
「特定できないものを直そうとすると、
直す行為が、前提を固定してしまう」
官房長官が息を吐く。
「つまり、今は“直す”段階ではない」
「“確かめる”段階だ」
「そうだ」
首相は頷いた。
「確かめるのは、原因ではない」
「確かめるのは、応答だ」
官房長官が、静かにまとめる。
「つまり、
“行って見る”のではなく」
「“投げて返ってくるか”を
見る」
その表現に、
首相は小さく頷いた。
「そうだ」
「境界は、
必ずしも
“そこに立つ場所”ではない」
「反応が返ってこない点として、
初めて姿を持つ」
その瞬間、
この部屋にいた全員が
同じことを理解した。
次の段階は、
探索ではない。
偵察でもない。
測量ですらない。
「……試す、ということですね」
誰かが言った。
首相は、
その言葉を否定しなかった。
「そうだ」
「この世界が、
どこまで“応答するか”を
試す」
その試みは、
これまでのどの任務名にも
当てはまらない。
成功も、
失敗も、
定義できない。
ただ、
返事があるかどうか。
それだけが、
結果になる。
「準備を進めよう」
首相は言った。
「人が行かない方法で」
「距離に依存しない方法で」
「そして」
一拍。
「戻ってくることを
前提にしない方法で」
その言葉が、
静かに空気を変えた。
戻らなくていい。
それは、
勇気ではない。
犠牲でもない。
“世界が返事をしない可能性”を
正面から受け入れる、
という意味だった。
当たり前は、
壊れ始めたとき、
人に選択を迫る。
見ないふりをするか。
前提を疑うか。
この国は、
後者を選び始めていた。
境界は、
まだ見えない。
だが、
次に投げられる問いは、
確実に
その境界へ向かっている。
そしてこの時点で、
誰もまだ知らない。
――境界が存在しない可能性すら、
検証対象に含まれている
ということを。
その可能性が、最悪ではないことも。
最悪とは、壊れた前提を前提のまま守り、
静かに全ての判断を遅らせることだ。
官房長官が、最後に確認した。
「名称はどうする」
この段階で、名称は重要だった。
名称が決まれば、人はそれを“案件”として扱える。
扱えるようになれば、議事録も、予算も、部局も動く。
「“境界確認”でいい」
首相は言った。
「原因を言わない。
敵を言わない。
場所を言わない」
「ただ、境界を確認する」
それが、今の段階で使える言葉だった。
「担当は」
官房長官が問う。
統合幕僚監部が手を挙げる。
科学技術庁が頷く。
NICTとJAXAが、相互に視線を交わす。
外務省の席は静かだった。
外を扱う部局ほど、今は沈黙が必要だった。
首相は、椅子から身を起こす。
「急ぐな」
「だが、止まるな」
同じ言葉が、再び使われる。
その言葉だけが、
この壊れた前提の上で、
まだ壊れていない指針だった。
午前十時二十分。
首相官邸地下・危機管理センター。
厚い扉が、
わずかな油圧音を立てて開いた。
この部屋では、
扉が開く音そのものが
一つの情報になる。
緊急なら、
足音は速くなる。
呼吸も乱れる。
だが今、
入ってきた若い職員の歩調は、
訓練で叩き込まれた
「通常連絡」の速度だった。
胸に抱えた紙束が、
歩くたびにわずかに揺れる。
それは、
電子データではない。
敢えて紙で出された、
一次集約の速報だった。
「国内の問い合わせが増えています」
職員は、
定型文の最初を
正確に読み上げる。
声に感情はない。
それが、
この場に立つ最低条件だった。
「“海外が消えた”という言葉が、
検索上位に入り始めています」
その一文が、
部屋の空気を
わずかに動かした。
誰かが顔を上げる。
だが、
誰も声を出さない。
官房長官は、
紙束に目を落とすこともなく、
静かに頷いた。
否定もしない。
肯定もしない。
境界確認は、
外へ出せない。
外へ出した瞬間、
境界は「仮説」ではなく
「物語」になる。
物語は、
確認よりも速い。
噂は、
距離も境界も超える。
首相は、
若い職員の方を見ず、
壁面モニターからも視線を外さず、
ただ一言だけ言った。
「国内は、
今日も通常で回せ」
短い言葉だった。
命令でも、
スローガンでもない。
確認だった。
通常を維持する。
それは、
何も起きていないと
装うことではない。
何かが起きているかどうかを
測り続けるための
“基準線”を守るという意味だ。
通常が崩れれば、
返事がないのか、
こちらが倒れたのか、
区別がつかなくなる。
官房長官が、
ゆっくりと続ける。
「各省庁、
対外発表は従来通り。
“確認中”以上の言葉は使わない」
「国内向け説明も、
生活影響ゼロを前提に整理する」
誰も異議を唱えなかった。
生活が動いている限り、
社会は“世界が壊れた”とは
認識しない。
電車が走る。
水が出る。
店が開く。
それらが続いている限り、
最悪の仮説は
後回しにされる。
当たり前は、
壊れたあとも
働き続ける。
それは人を救う。
同時に、
人を縛る。
救われている間は、
疑う理由が見つからない。
この国が今やろうとしているのは、
当たり前に救われたまま、
当たり前から
ほんの一歩だけ離れることだった。
踏み外さない程度に。
だが、
戻れなくなる可能性を
織り込んだ一歩だ。
首相は、
再び口を開く。
「境界確認は、
まだ“中”の話だ」
「外は、
当たり前が続いていることだけを
事実として出せ」
それは、
隠蔽ではない。
情報統制でもない。
“測定環境の維持”だった。
境界は、
そこにあるとは限らない。
山の稜線のように
見えるものでもない。
それは、
返事が返ってこない点として、
初めて姿を持つ。
返事が返らない、
という現象そのものが
境界になる。
次に投げられる問いは、
その“返事の形”を探すための、
最初の一投だ。
投げるのは、
兵器ではない。
人でもない。
仮説だ。
そして、
その仮説が
返事を受け取れなかったとき、
この国は、
さらに一歩、
当たり前から
距離を取ることになる。
まだ静かに。
まだ誰にも見えない形で。
境界は、
まだ名もない。
だが、
この部屋ではすでに、
それを測るための
時間が動き始めていた。




