6.相対距離という現実
当たり前は、
壊れた瞬間に姿を消すわけではない。
壊れたあとも、
それはしばらく「機能しているふり」を続ける。
人がそれを疑い始めるまで、
当たり前は当たり前の顔をやめない。
午前五時三十分。
航空自衛隊 千歳基地。
空はまだ薄暗く、
滑走路の縁に設置された誘導灯が、
規則正しい間隔で地面を切り取っていた。
夜明け前の基地は、
昼よりも音がはっきり聞こえる。
発電機の低音、
格納庫内で動く整備車両の油圧音、
遠くで鳴る無線の確認音。
風に押されて、
どこかの扉がわずかに鳴る。
それらは、
いつもと同じ音だ。
千歳では、毎朝聞いてきた音だった。
そして、
今日だけは、それらすべてが
「訓練開始前の音」としては
妙に重く感じられていた。
理由は、分からない。
だが、理由が分からないこと自体が、
この基地では珍しい。
格納庫の前に、
F-15J戦闘機が二機。
どちらも単座機。
操縦士は一人ずつ。
二機一組で行動する編隊だが、
コックピットの中に入った瞬間、
世界は一人分に切り分けられる。
互いの存在は、
無線とレーダーと
編隊灯で確認できる。
だが、
思考と判断は共有されない。
それが、この機体の前提だった。
機体は、
昨日と変わらない。
灰色の外装に、
昨夜の整備で拭き取られた油膜の跡。
パネルの継ぎ目。
主脚のストラット。
増槽の固定具。
どれも、
何度も見てきたものだ。
AN/APG-63(V)1レーダー。
INS。
GPS補正。
データリンク。
IFF。
通信系。
すべて正常。
自己診断画面には、
いつも通りの緑色が並んでいる。
警告音は鳴らない。
再確認しても、結果は変わらない。
異常がないことが、
異常であるという感覚だけが、
ここにある。
操縦士は、
その感覚を言葉にしない。
言葉にした瞬間、
それは「報告」になってしまう。
報告には、
理由が要る。
理由のない報告は、
この世界では存在できない。
整備主任が、
チェックリストを閉じる。
紙の端を、
親指で一度だけ押さえる。
それは、
形式上の確認ではない。
自分自身への最終確認だ。
「機体、問題なし。
燃料、規定量。
増槽、固定良好」
いつもと同じ文言。
いつもと同じ順番。
声の高さも、速度も変わらない。
「了解」
操縦士の声は、
低く、短い。
了解、という言葉は、
「理解した」ではない。
「受け取った」という意味だ。
理解は、
このあと空で行う。
いつも通りであることを、
意識的に保っている声だった。
無線は静かだ。
必要なやり取り以外、
誰も話さない。
話せば、
余計な情報が混じる。
今日は、
余計なものを持ち込んではいけない。
滑走路の先。
まだ闇の残る空の向こうに、
何があるのか。
それを知るために、
この二機は飛ぶ。
敵を探すわけではない。
威嚇でもない。
迎撃でもない。
ただ、
「いつもの距離」が
本当に存在しているのかを、
確かめに行くだけだ。
だが、
その行為がすでに、
これまでの任務と
決定的に違っていることを、
誰も口には出さなかった。
午前六時十分。
千歳基地 滑走路。
F-15J、1番機。
F-15J、2番機。
二機は、
規定間隔を保ったまま、
ゆっくりと滑走路へ進入していく。
誘導路から本滑走路へ出る瞬間、
コンクリートの質感が変わる。
タイヤ越しに伝わる振動が、
「ここからは戻れない」という合図になる。
操縦士は、
それを意識しない。
意識しないことで、
これまで何百回も同じ動作を繰り返してきた。
エンジン始動。
F100エンジンが、
低回転から段階的に回転数を上げていく。
唸りが、
重低音から金属的な咆哮へ変わる。
空気が、震え始める。
吸い込まれる空気の量が増え、
排気が後方に叩きつけられる。
滑走路上の細かな砂塵が、
一斉に後ろへ流される。
コックピットの中で、
操縦士は計器を追う。
N2回転数。
EGT。
油圧。
燃料流量。
すべて、
想定通りの立ち上がり。
警告灯は点かない。
異音もない。
振動も、許容範囲。
計器は、
いつも通りの反応を返す。
それが、
今日最も信用できない情報だった。
正常であることは、
この機体が正しく機能している証明だ。
だが、
正しく機能している機体が、
正しい世界を飛ぶ保証にはならない。
操縦士は、
その考えを振り払う。
今考えることではない。
今は、
飛ぶことだけに集中する。
「千歳タワー、イーグル1、滑走準備完了」
声は、
意識的に平板に保たれている。
感情を乗せる必要はない。
「イーグル2、同じく」
僚機の声も、
同じ高さ、同じ速度で続く。
二機の間に、
多くの言葉は要らない。
編隊として必要なのは、
同じ情報を、同じ順番で受け取ることだけだ。
「イーグル編隊、離陸許可」
管制塔からの声は、
昨日までと何一つ変わらない。
抑揚も、
間の取り方も、
周波数の乗り方も同じだ。
平常。
それは、
この基地が最も得意とする状態だった。
だからこそ、
違和感が際立つ。
平常であることが、
状況を説明していない。
操縦士は、
ブレーキを踏み込み、
スロットルを前へ押し出す。
アフターバーナーは使わない。
訓練離陸だ。
形式は、あくまで通常。
推力が増し、
背中がシートに押し付けられる。
速度計が動き始める。
数字は、
これまで何度も見てきた加速曲線を描く。
80ノット。
100ノット。
120ノット。
僚機の位置を、
視界の端で確認する。
ずれていない。
遅れていない。
先行もしていない。
完璧だ。
だから、
不安が消えない。
「V1」
自分の声が、
ヘッドセット越しに聞こえる。
「ローテーション」
操縦桿を引く。
機首が、
わずかに持ち上がる。
タイヤが、
滑走路を離れる。
地面との接点が消えた瞬間、
世界は再び、
計器と空だけになる。
高度計が動く。
昇率は想定通り。
速度も安定している。
すべてが、
正しい。
正しすぎる。
操縦士は、
まだ何も見ていない。
まだ何も確認していない。
だが、
この離陸の感触が、
昨日までと同じであることに、
わずかな安堵と、
同じだけの不安を覚えていた。
空は、
何も語らない。
これから先、
どこまで飛べるのか。
どこまでが、
「いつもの距離」なのか。
その答えは、
まだ、どの計器にも表示されていなかった。
午前六時十五分。
離陸。
二機は、
ほぼ同時に滑走路を離れ、
北方へ向かって上昇する。
高度、安定。
速度、規定通り。
僚機は、
常に視界とレーダーにいる。
距離は、
ぴたりと一致する。
相対距離は、
壊れていない。
操縦士は、
それだけで少し安堵した。
世界が全部壊れているなら、
相対距離すら信用できないはずだ。
だが、
僚機との距離は正しい。
それは、
「壊れていない部分」が
確かに存在することを示していた。
午前六時三十分。
北海道北方空域。
予定されていた
KC-767空中給油機が、
水平飛行で待機している。
レーダー反応、正常。
目視、確認。
距離感も、
これまでの訓練と変わらない。
「給油機、視認」
「相対距離、問題なし」
給油機との距離も、
正確だった。
世界は、
少なくとも
この三機が共有する空間では
壊れていない。
給油は行われない。
今日は「確認」だけだ。
だが、
給油機がそこに「いる」こと自体が
極めて重要な情報だった。
午前六時四十五分。
さらに北へ。
二機のF-15Jは、
編隊間隔を保ったまま、
淡々と進路を維持していた。
高度は計画通り。
対地速度も、風補正を含めて想定内。
燃料流量に異常はない。
すべてが、
「訓練飛行」としては理想的だった。
だからこそ、
操縦士は違和感を切り捨てられない。
通常なら、
この距離、この高度、この時間帯で、
必ず何かが映る。
民間機の航跡。
国際線のトランスポンダ応答。
他国の防空レーダーに由来する反射。
あるいは、
遠方で発生している気象ノイズの縁。
それらは、
意味を持たない情報として
レーダー画面の端に現れる。
だが――
今日は、それがない。
AN/APG-63(V)1の表示は、
驚くほど整然としている。
ノイズは少ない。
クラッターも安定している。
レーダーとしては、理想的だ。
理想的すぎる。
操縦士は、
一度レンジを切り替える。
短距離。
異常なし。
中距離。
変化なし。
最大レンジ。
……何も出ない。
レーダーの外縁が、
円を描いたまま、
どこまでも空白だ。
「……何もないな」
独り言に近い声が、
意図せず無線に乗る。
感想のつもりではなかった。
確認でもなかった。
ただ、
口に出さなければ
飲み込めなかっただけだ。
数秒の沈黙。
「こちらも同じだ」
僚機からの返答は、
淡々としている。
感情を含ませない声は、
事実を事実として扱おうとする
意識の表れだった。
相対距離は正しい。
データリンク上の僚機位置も正確。
視認距離と数値にズレはない。
機体は正常。
操縦感覚にも違和感はない。
燃料消費は、予定したカーブをなぞっている。
それなのに。
「……世界が、増えないな」
今度は、
意識して言葉にした。
本来なら、
飛べば飛ぶほど
情報は増える。
距離が伸びれば、
他者の存在が視界に入り、
レーダーに重なり、
空は“賑やか”になる。
だが、
今日は違う。
飛んでも、
飛んでも、
増えるのは自分たちの航跡だけだ。
過去の自分の位置が、
後ろに積み重なっていくだけ。
前方には、
何も追加されない。
操縦士は、
もう一度レーダーを確認する。
設定は合っている。
フィルターも正常。
妨害を示す兆候はない。
「壊れてるわけじゃないよな」
誰にともなく言う。
「壊れてたら、
もっと派手だ」
僚機の声が返る。
確かにそうだ。
故障なら、
警告灯が点く。
数値が暴れる。
音や振動が出る。
だが、
今日は静かすぎる。
静かで、
整っていて、
説明がつかない。
レーダーの外縁は、
相変わらず空白のままだ。
まるで、
そこから先に
何も描くべきものがないかのように。
操縦士は、
無意識に高度計を見た。
数字は、
何度も確認した値だ。
正しい。
間違っていない。
「……遠いな」
ぽつりと漏れた言葉に、
僚機はすぐに返さなかった。
同じことを、
同時に感じていたからだ。
距離は、
縮まっているはずだ。
だが、
“到達している感覚”が
どこにもない。
飛行は続く。
空は広がる。
しかし、
世界は、
増えないままだった。
午前七時。
帰投判断ライン。
機内時計が示す時刻は、
計画通りだった。
燃料残量。
航続距離。
帰投余裕。
すべて、
訓練計画書に記された
数字の範囲内に収まっている。
だから、
判断に迷いはなかった。
「帰投する」
編隊長の声は、
短く、はっきりしていた。
確認でも、相談でもない。
決定だ。
その言葉に、
躊躇はなかった。
今日に限って言えば、
前へ進む理由より、
戻る理由の方が
圧倒的に明確だった。
戻れること。
それ自体が、
今日もっとも価値のある成果だ。
もし戻れなければ、
今日見たもの――
いや、
今日「見えなかったもの」すら、
誰にも伝えられない。
報告は、
生きて帰ってきてこそ意味を持つ。
「了解」
僚機の返答は即座だった。
二機は、
規定通りの手順で旋回を開始する。
過度なGをかけない。
無理に角度を詰めない。
機体に余計な負担を与えない。
いつもと同じ。
何も特別なことはしていない。
していないはずなのに、
旋回が終わった瞬間、
操縦士ははっきりと感じた。
――向きが変わっただけで、
安心している自分がいる。
それが、
何より異常だった。
二機は、
来た航路を正確になぞる。
データリンク上の航跡は、
寸分の狂いもなく重なっていく。
誤差は、
計測限界以下。
数値だけを見れば、
完璧な飛行だ。
だが。
距離は、
やはり長く感じられた。
進出時よりも、
明らかに長い。
帰りのはずなのに、
「戻っている」という感覚が、
なかなか追いついてこない。
高度計を確認する。
正常。
速度計を見る。
正常。
燃料計。
予定通り減っている。
すべて合っている。
合っているのに、
合わない。
体感だけが、
どうしても数字と一致しない。
操縦士は、
思わず口を開いた。
「……こんなに遠かったか」
独り言だった。
だが、
僚機はすぐに応じた。
「同じことを考えていた」
それ以上、
言葉は続かなかった。
言葉にすればするほど、
“何が違うのか”を
説明しなければならなくなる。
そして、
その説明ができないことを、
二人とも理解していた。
空は、相変わらず静かだ。
レーダー画面も、
帰り道に入ってなお、
新しい反応を増やさない。
本来なら、
帰投に入れば
民間機の航跡が現れ始める。
遠方の気象反射が、
画面の端ににじむ。
だが、
何も変わらない。
前も、後ろも、
同じ空白だ。
「……世界が、
戻ってこないな」
編隊長が、
無意識に漏らす。
戻っているのは、
自分たちだけだ。
世界の側が、
迎えに来る気配がない。
それでも、
二機は飛び続ける。
規定通りに。
計画通りに。
規定と計画だけが、
この空で
唯一信用できるものだった。
やがて、
基地方面のレーダー範囲に入る。
数値が、
はっきりと変化する。
誘導情報が入る。
地上からの応答が増える。
それを確認した瞬間、
操縦士の胸に、
遅れて安堵が広がった。
「……戻れている」
その事実が、
思った以上に重かった。
今日という一日は、
前に進む日ではなかった。
戻ること自体が、
成果になる日だった。
二機は、
その成果を抱えたまま、
南へ向かって飛び続ける。
だが、
誰もまだ気づいていない。
「戻れた」という事実が、
次に求められる行動を、
より過酷なものにしてしまうことを。
遠くを見るためには、
もっと遠くへ行かなければならない。
そしてその距離が、
もはや
“これまでの距離”では
測れなくなっていることを。
午前七時三十分。
千歳基地、着陸。
二機のF-15Jは、
間隔を保ったまま進入し、
誘導灯に沿って滑走路へ降りてきた。
接地。
逆噴射。
減速。
すべて、
教範通り。
ブレーキ圧も、
姿勢も、
計器表示も、
何一つ乱れていない。
管制塔からの指示も、
いつもと同じ調子だった。
「イーグル編隊、誘導路へ」
「了解」
そのやり取りに、
特別な言葉は含まれていない。
含める必要が、
なかった。
二機は誘導路を進み、
所定のスポットで停止する。
エンジン停止。
F100エンジンの回転音が落ち、
空気の震えが消える。
その瞬間、
基地に“朝”が戻った。
整備員が駆け寄る。
脚周り。
エアインテーク。
機体下面。
確認の手つきは、
いつもと同じだ。
だが、
視線だけが、
いつもより慎重だった。
「……異常なし」
一人が言う。
別の整備員が頷く。
「外装も問題なし」
操縦士がラダーを外し、
コックピットから降りる。
足取りに、
ふらつきはない。
医官が形式的に声をかける。
「体調は?」
「問題ありません」
血圧。
瞳孔反応。
簡易チェック。
すべて正常。
誰かが、
無意識に口にした。
「帰ってきたな」
その一言が、
今日一番重かった。
帰ってきた。
それだけで、
一つの結論だった。
“行って、戻れた”。
それは、
確認任務として
完全に成立している。
何も見つからなかった。
何も起きなかった。
だが、
戻れた。
戻れたという事実が、
「戻れなかった可能性」を
はっきりと浮かび上がらせてしまう。
操縦士は、
振り返って機体を見る。
見慣れたシルエット。
見慣れた塗装。
だが、
もう少し前まで、
この機体が
“世界の端”に向かって
飛んでいた感覚が、
頭から離れない。
――あそこから、
ちゃんと戻ってこれた。
それは安堵であり、
同時に、
次があることを意味していた。
午前八時三十分。
防衛省・市ヶ谷。
統合幕僚監部。
帰投から一時間も経たないうちに、
飛行ログと各種データは
分析室に集められていた。
速度。
高度。
燃料消費。
航跡。
すべて、
過去の訓練データと
完全に重なる。
「相対距離、問題なし」
「編隊間隔、誤差なし」
「INS航法、安定」
「GPS補正、取得維持」
「レーダー、自己診断異常なし」
次々に読み上げられる報告は、
どれも“正常”だ。
誰も、
そこに異論を挟まない。
挟めない。
内部データは、
完璧だった。
分析官の一人が、
画面を切り替える。
「通常であれば、
この地点、この時間帯で
必ず映るはずの外部反応です」
示されたのは、
過去数年分の比較データ。
民間航空機。
他国軍用機。
遠方レーダー反射。
だが、
今日のログには、
それが存在しない。
「外部反応、
依然としてゼロです」
「通信傍受は?」
「有意な信号なし」
「妨害兆候は?」
「確認されていません」
「意図的秘匿の可能性は?」
「それを示す痕跡がありません」
室内に、
短い沈黙が落ちる。
異常は、
どこにもない。
だが、
“あるべきもの”が、
どこにもない。
分析官は、
言葉を選びながら続けた。
「内部整合性は、
すべて取れています」
「しかし、
外部との整合が
成立しません」
その言い方は、
これ以上ないほど慎重だった。
官房長官は、
資料から目を上げ、
静かに言った。
「つまり」
誰も続きを促さない。
「壊れているのは、
個々の装置でも、
観測系でもない」
一拍。
「“世界の中身”ではなく、
“世界の広がり”そのものだ」
誰も反論しなかった。
反論できる材料が、
ない。
もし、
世界がこれまで通りなら、
説明はつく。
だが、
説明がつかない以上、
これまで通りである保証はない。
誰かが、
声を落として言う。
「……距離が、
前提として
信用できなくなっています」
その言葉に、
全員が頷いた。
距離。
それは、
軍事だけでなく、
外交、物流、経済、
すべての基盤だ。
距離が壊れた世界では、
「近い」「遠い」という判断が、
意味を失う。
官房長官は、
結論を急がなかった。
だが、
方向だけは示した。
「次は、
もっと遠くを見る必要がある」
誰も、
それに異議を唱えなかった。
遠くを見なければ、
世界がどこまで壊れているのか、
分からない。
そして、
遠くを見るという行為が、
これまで以上に
危険を伴うものに
なっていることも、
全員が理解していた。
この時点で、
日本という国家は、
まだ“何が起きているか”を
理解していない。
だが、
一つだけ、
確実に理解していた。
――戻ってこられた距離は、
もう
「安全な距離」ではない。
午前九時。
官邸地下・危機管理センター。
壁面モニターには、
夜明け以降に集約された情報が
整理された形で並んでいた。
航空。
海上。
通信。
測位。
気象。
どの項目にも、
赤い警告表示はない。
それが、
この部屋の空気を
必要以上に重くしていた。
鷹宮首相は、
最後の報告が終わるまで
一言も挟まなかった。
全員が、
「次の問い」を
待っていた。
首相は、
資料から目を離し、
静かに言った。
「帰ってきたことは、
重要だ」
誰も、
その意味を聞き返さなかった。
帰ってきた。
それは、
単なる飛行結果ではない。
・編隊は維持された
・航法は破綻していない
・燃料計算も成立している
つまり、
この国は
まだ“動ける”。
相対距離は、
正しく機能している。
機体と機体。
艦と艦。
自分と自分。
それらの関係は、
昨日と同じだ。
だが、
世界は広いままだ。
広がったのか。
伸びたのか。
それとも、
そもそも違っていたのか。
誰にも分からない。
それでも、
帰ってきたという事実は、
一つの線を引いていた。
――この国は、
まだこの世界で
行動できる。
それは、
希望と呼ぶには冷たく、
安心と呼ぶには危うい。
だが、
行動不能ではない。
同時に、
もう一つの事実も
はっきりしていた。
――この世界は、
昨日と同じではない。
誰かが、
資料の端をめくる音を立てた。
当たり前は、
完全に壊れる前に、
人に準備の時間を与える。
すべてが
一度に崩れれば、
判断はできない。
だが、
崩れ方が静かであれば、
人は考える余地を持てる。
今日という日は、
その準備期間の
はっきりとした始まりだった。
相対距離は生きている。
だが、
絶対距離は
もはや信用できない。
「ここから、
どこまで行けるか」
という問いは、
意味を失った。
代わりに現れたのは、
「ここから先に、
本当に“何かが存在するのか”」
という問いだ。
この世界で、
「遠くを見る」という行為は、
もはや地図の問題ではない。
縮尺でも、
航続距離でも、
索敵半径でもない。
それは、
どこまでが
“現実として存在するのか”を
確かめに行く行為へと
変わり始めていた。
官房長官が、
慎重に言葉を選ぶ。
「航空と海上では、
限界が見え始めています」
首相は、
ゆっくり頷いた。
空は、
距離を測る。
海も、
距離を測る。
だが、
どちらも
“距離が前提として存在する”
世界の道具だ。
そして今、
その前提が揺らいでいる。
首相は、
結論を口にした。
「次に必要なのは――」
一拍。
「空でもなく、
海でもない」
全員が、
その先を待つ。
「境界そのものを
確かめる手段だ」
その言葉は、
この時点では
まだ具体性を持たない。
だが、
方向だけは明確だった。
距離の外側。
地図の外側。
航路の外側。
世界と世界の、
“境目”。
それを確かめに行く。
日本という国家は、
まだ答えを持っていない。
だが、
問いは、
はっきりと定まった。
そしてこの瞬間、
静かに次の段階が始まった。
――探索ではない。
――偵察でもない。
“境界確認”。
それは、
これまでのどの任務名にも
当てはまらない行為だった。




