5.遠さが意味を持ち始めた日
当たり前は、壊れたあともしばらくは当たり前の顔をする。
だから人は、壊れたことそのものよりも、
「壊れたのに、何も起きていない」状態に耐えられなくなる。
午後四時二十分。
首相官邸地下・危機管理センター。
会議室の空気は、朝とは別の重さを帯びていた。
朝は「違和感」だった。
昼は「一致しない」だった。
そして夕方になって、その一致しなさが、
一日分の報告により、ゆっくりと否定しようのない形を取り始めた。
机の上には、要約紙が並ぶ。
気象庁:全国一律のズレ、外部基準同期不能。
国土地理院:電子基準点、同傾向の座標偏差。
総務省:国外回線、送信成立・応答なし。
金融:海外指標更新停止、障害アラートなし。
防衛:拡張索敵、反応なし、妨害なし、事故なし。
どの項目も、単体なら「原因調査」で済む。
だが、並べると、ひとつの輪郭だけが残る。
原因が違うのに、結果が同じ。
外側が、確認できない。
官房長官が紙を揃え、端を机の角に合わせた。
その仕草が、場の感情を整えるための儀式のように見えた。
「“確認できない”で統一する」
午前中から繰り返されてきた言葉だ。
だが、今はその言葉の重みが違う。
統一するのは表現ではなく、覚悟の方になっていた。
鷹宮首相は、資料から目を離さずに言った。
「距離についての報告を」
統合幕僚監部の連絡官が、短く答える。
「航空・海上ともに、従来の感覚と一致しません」
「数値は?」
首相の声は平坦だった。
怒りでも焦りでもなく、測るための声。
「速度、高度、燃料消費率、通信品質。すべて想定通りです」
連絡官は、そこで一拍置いた。
自分の言葉が次に何を呼び込むかを、理解している間だった。
首相は視線を上げずに続ける。
「……それで?」
連絡官は、言い換えを探し、結局、最も正直な言い方を選んだ。
「“次に見えるはずのもの”が、見えません。航空航路、商船航路、周辺国の反応。いずれも」
沈黙が落ちる。
沈黙の中で、誰もが同じことを考える。
「見えない」のは、観測が下手だからではない。
見えない理由を示す痕跡が、ない。
官房長官が、確認するように言った。
「妨害の兆候は?」
「ありません。ECM反応も検出されていません」
防衛省側の分析官が補足する。
「もし妨害なら、ノイズやスペクトラムの乱れが出ます。ログは平坦です。平坦すぎるほどに」
平坦。
その言葉が、怖かった。
異常は、本来、波として現れる。
波のない異常は、前提そのものを疑わせる。
村瀬が、机の端に立ったまま、低い声でまとめる。
「我々は、世界の異常を確認しているのではなく、前提の異常を確認している状態です」
前提。
地球は一つ。
距離は一定。
世界は地図の外へ続く。
それらは証明ではなく、習慣として信じられていた。
首相はゆっくりと息を吐き、次を言った。
「なら、次は“もっと遠く”を見る準備を。今日の範囲で、やれることはやった」
その言葉は命令ではない。
しかし、会議室の誰もが命令として受け取った。
命令に聞こえないように言わなければならないのは、
命令に名前を付ける理由が、まだ存在しないからだ。
午後四時三十五分。
防衛省・市ヶ谷。
統合幕僚監部の廊下は、普段より静かだった。
騒がしいわけではない。
むしろ、音を立てないようにしている。
誰かが焦って走れば、それだけで「何かが起きた」と伝わってしまう。
情報運用室では、画面が更新され続けている。
更新はされる。
ただ、更新される内容が増えない。
J/FPS-5の警戒線は、いつも通りの円弧を描く。
E-767のトラックは、訓練データと同じ精度で積み上がる。
P-1の索敵扇形は、予定通りに伸び、予定通りに折り返す。
IGSの最新取得データも、国内域は解像度を保っている。
国内は正常。
それだけが、恐ろしいほどの救いで、恐ろしいほどの罠だった。
正常が続く限り、人は「最悪」を先延ばしにする。
先延ばしにした瞬間、準備が遅れる。
幕僚の一人が、補給担当の資料を机に置いた。
「長距離偵察案です。空中給油を前提にした場合の航続限界、展開可能時間、帰投余裕」
紙には、いつも見慣れた計算式が並ぶ。
燃料量、消費率、予備率、給油点、離着陸に必要な余裕。
だが、最後の行にだけ、見慣れない注記がある。
「前提:距離一定」
その注記が、紙をただの紙ではなくしていた。
「前提が崩れた場合は?」
誰かが言った。
補給担当は、言葉を慎重に選ぶ。
「崩れた場合、という言い方は……。ただ、距離感がずれている場合、同じ装備でもカバーできる範囲が変わります。防衛線が物理的に伸びる可能性がある」
敵がいなくても成立する脅威。
それは、防衛という言葉から、最も厄介なものを引き出す。
相手がいない脅威は、抑止も交渉もできない。
午後四時五十分。
外務省。
定時通信の再試行は、すでに手順の一部になっていた。
ワシントン、ロンドン、パリ、北京、モスクワ。
未応答。
回線は生きている。
暗号装置も正常。
送信ログは成立を示す。
それでも返事がない。
外務省は「不通」という言葉を使わない。
使った瞬間、世界が「つながっているはず」という前提を公式に置いてしまうからだ。
担当官は上司に報告する。
「在外公館直通、未応答。第三国経由、試行中です」
「第三国経由?」
上司が聞き返すのは、知らないからではない。
確認のためだ。
言葉にすると現実が固まる。
担当官は、説明を削りながら答える。
「在日大使館経由で、本国および第三国の外務省・国際機関への照会を要請しています。こちらからの連絡は成立していますが、相手側が外へ出せていない可能性があります」
「在日側は?」
「在日公館は存在しています。職員もいます。ですが、本国と同様に、外側との連絡が取れていない、と」
外務省はそこで初めて、国内にいる「外側の代表」と向き合うことになる。
在日大使館という施設は、法的には国外に近い扱いを受ける。
だが、物理的には東京の一角だ。
その矛盾が、今日という日に限って、妙に生々しい。
「“世界はある”と言っているのか?」
上司が、半分だけ冗談めかして言った。
担当官は笑わない。
「“ある”とも“ない”とも言えません。確認できない、という点では同じです」
外交は、相手の存在を前提に成立する。
存在が確認できない相手に対しては、抗議も要請も成立しない。
だから外務省は、今日一日、最も「何もできなかった」組織になった。
そして、その無力さが、事態の異様さを強調していた。
午後五時十分快。
千歳基地。
滑走路は、いつも通りの色をしている。
管制塔の窓も、いつも通りの光を反射している。
ただ、待機スポットに並ぶF-15Jの姿だけが、今日の空気を違えていた。
二機は単座機だ。
操縦士はそれぞれ一人。
だが、任務は単独ではない。
二機一組の編隊として、同一の「状況確認」任務に就いている。
敵を撃つ任務ではない。
敵を探す任務でもない。
“世界が続いているか”を確かめる任務だ。
整備員は、機体の下面を確認する。
オイルの滲みなし。
パネル固定良好。
増槽接続問題なし。
いつも通りのチェック。
いつも通りのチェックであることが、今日を不気味にする。
操縦士はコックピットで、自己診断結果をもう一度確認する。
AN/APG-63(V)1。
INS。
GPS補正情報。
数値は、すべて正常。
正常は、安心ではない。
正常は、疑いの逃げ道を塞ぐ。
機体が正常なら、見えない理由は機体ではない。
管制塔から、落ち着いた声が来る。
「通信チェック、異常なし。周波数、訓練用」
「了解。VHF、UHFともに正常」
返答は短い。
余計な言葉は添えない。
言葉を増やせば、結論が先に走る。
基地のブリーフィングルームには、通常掲示される戦術空域図がない。
代わりに示されているのは、
指定訓練空域番号、高度帯、飛行時間、燃料消費目安。
それだけだ。
「指定訓練空域R-*まで進出。その先は状況判断」
第2航空団司令の説明は、それで終わる。
「進出方向は?」
誰かが聞く。
「北」
それ以上の補足はない。
質問は、それ以上出ない。
理由を聞いても、答えが存在しないことを、全員が理解している。
午後五時三十分。
官邸地下・危機管理センター。
広報担当が、控えめに口を開く。
「SNSの検索ワードが伸びています。“海外が消えた”“地図が変わった”。断定的な投稿はまだ少数ですが、増え方が速い」
官房長官は頷く。
「発表文は“通信障害”で組めるか」
「組めます。ただし、範囲が……」
広報担当の言葉が途切れる。
「範囲は言うな」
官房長官が即断する。
「言うなら国内の確認状況だけ。外は“確認できていない”で止める」
説明できない状況で説明を作ると、説明が独り歩きする。
独り歩きした説明は、人を動かす。
動いた人は、現実を汚す。
汚れた現実は、観測を狂わせる。
狂った観測は、判断を遅らせる。
この会議室にいる者は、その循環を知っていた。
だから、言葉を削る。
削るほどに、残る言葉が鋭くなる。
午後六時。
防衛省と自衛隊の間で、静かな準備が始まる。
長距離偵察のための「訓練計画」の枠組みが作られる。
予算上の処理、記録の取り方、指揮系統の整合。
すべてが「通常訓練」という語の中で行われる。
欺瞞ではない。
今の段階で、それ以上の言葉を使う理由が本当に存在しない。
理由がないのに言葉を増やせば、言葉が現実を先に作ってしまう。
補給担当が、空中給油計画を持ち込む。
給油点の設定、代替飛行場、救難の範囲。
救難の範囲、という言葉だけが、今日の会議室で少しだけ重くなる。
救難は、本来、想定の上に作られる。
想定が揺らげば、救難も揺らぐ。
「救難は?」
官房長官が問う。
統幕連絡官が答える。
「帰投を絶対条件とします。条件を外す理由がありません」
理由がない。
この日、最も多く使われた言葉だ。
午後六時三十分。
街。
電車は走っている。
店は開いている。
子どもは塾へ行き、会社員は会議をしている。
海外ニュースが更新されないことを、ほとんどの人はまだ「不便」程度にしか感じていない。
国際電話がつながらない。
海外の航空会社から連絡が来ない。
為替が動かない。
物流の予定が立たない。
それでも、人は夕飯を買う。
人は明日の予定を立てる。
人は生活を続ける。
生活が続く限り、人は最悪の想像を後回しにできる。
それが社会の強さであり、危うさでもある。
後回しにした最悪は、準備の遅れとして戻ってくる。
午後七時。
官邸地下。
鷹宮首相は、全体報告を聞き終えてから、一つだけ確認した。
「今日の範囲で、分かったことは何だ」
沈黙が落ちる。
誰も「分からない」とは言わない。
だが、分かったと言える情報もない。
やがて、官房長官が答えた。
「……分からない、ということが分かりました」
皮肉ではない。
冗談でもない。
事実の最小単位だった。
首相は頷き、続ける。
「次にやるべきことは?」
「もっと遠くを見る」
村瀬が答える。
答えるというより、全員の共通語を声にしただけだ。
「急ぐな。だが、止まるな」
首相は、短く言った。
急げば、言葉が先に走る。
止まれば、準備が遅れる。
その間の狭い道しか、今は歩けない。
午後七時四十分。
外務省。
在日大使館経由の照会に、断片的な返答が集まり始める。
返答と言っても、答えではない。
「こちらも確認できない」
「本国と連絡が取れない」
「国際機関本部に照会したが応答なし」
それだけだ。
つまり、世界のどこにも「繋がっている」場所がない。
少なくとも、繋がっているという報告が一つも上がらない。
担当官は、報告書の文言を削り続ける。
「未応答」
「確認不能」
「照会中」
言葉を削るほど、現実の輪郭が硬くなる。
午後八時。
防衛省。
航空総隊司令部では、飛行ログと地図の突合が続く。
速度は正常。
燃料消費は正常。
だが、通常なら目標物が現れる距離に、何も現れない。
分析官が、画面を見たまま言う。
「距離が合わない、というより……“期待される出来事”が起きない」
期待される出来事。
民間航路が映る。
他国レーダー反応が出る。
通信中継の状況が変わる。
それらが、起きない。
起きない理由が、妨害でも事故でもない。
だから、前提が疑われる。
海上自衛隊側でも同様だ。
護衛艦の航跡は、海図上では既知の位置をなぞっている。
水深も一致する。
潮流も予測に近い。
地形は、地球の海だ。
だが、“次に来るはずの何か”が来ない。
商船航路。
外国船。
漁船。
それらが現れない距離が、広すぎる。
艦長は、報告書には載せない言葉を、口の中で転がす。
世界が広い。
海が広いのではなく、世界が広い。
その言葉は、まだ仮説に近すぎる。
だが、否定できる材料もない。
午後八時三十分。
官邸地下。
一日の報告が、ほぼ出そろう。
致命的な異常は出ていない。
それが、会議室の空気を妙に重くする。
「壊れたものはありますか」
首相が問う。
誰も即答できない。
壊れたと言うには、目に見える破壊がない。
壊れていないと言い切るには、前提が多すぎる。
「通信は生きています」
総務省担当が言う。
「ただし、海外からの応答がありません。遮断ではない。呼びかけているが返ってこない」
「つまり、こちらは世界に向けて声を出しているが、世界が返事をしていない」
誰かが言い換える。
その表現は記録には残らない。
だが、全員の認識には残る。
官房長官が、結論をまとめる。
「本日得られた事実は、“世界が敵対している”証拠ではありません」
村瀬が続ける。
「だが、“世界が従来通りである”証拠もない」
この二文が、今日の終わりだった。
首相は、机の上の再計算案に目を留める。
航続距離。
補給。
展開可能範囲。
すべてが「地球サイズ」を前提にしている。
「これまでの前提では、どこまで見られる」
「地球サイズを前提にすれば、十分です」
「では、前提が違う場合は?」
沈黙。
誰も「違う」とは言わない。
だが、「違わない」と言える者もいない。
首相は、あくまで提案の形で言った。
「長距離偵察を考えるべきだな」
官房長官が確認する。
「長距離、というのは」
「これまでの“確認できるはずだった距離”を、明確に超える、という意味だ」
首相は言葉を一つずつ置く。
「空中給油を含め、帰投を絶対条件とする。武装は最低限。理由がない」
理由がない。
それが、この日、最大の抑止になっていた。
午後九時。
会議は終わる。
終わっても、現実は終わらない。
終わっても、世界は戻らない。
当たり前は、壊れたあともしばらくは当たり前の顔をする。
だから人は、壊れたことそのものよりも、
「壊れたのに、何も起きていない」状態に耐えられなくなる。
この国は今、遠くを見る準備を始めた。
だが、遠くを見るという行為が、
“距離が壊れた世界”では、まったく別の意味を持つことを、
まだ誰も理解していなかった。
そしてその夜、
日本列島の外縁に引かれた薄い補助線は、
翌朝には、もう一本増えることになる。
「ここまでは確実だ」
そう言い切るための線が、
確実に言い切れない現実の上に、静かに積み重ねられていく。
午後九時二十分。
航空自衛隊 航空総隊 司令部。
部屋の照明は落とされ、モニターの光だけが机上の紙を照らしている。
解析担当は、飛行ログを「機体の正常」としてはすでに整理し終えていた。
次に残るのは、機体の外側――世界の側の整合だ。
「航法誤差は?」
幹部が聞く。
「INSは安定。GPS補正も入力はあります。ただし、外部基準の絶対値は裏取りできていません」
若い分析官は、慎重に言った。
「入力はある。しかし、正しいと証明できない、という状態です」
それは、通信行政が言った「通っているが返事がない」と同じ構造だった。
データは来る。
だが、来たデータが“世界”から来ていると確証できない。
「なら、次は何を証明する?」
幹部は、結論ではなく問いを置く。
問いは、作業の方向を決めるための道具だ。
分析官は、あらかじめ用意していた図を出した。
「複数の手段で、同じ距離を測ります」
紙には、簡単な箇条書きがある。
・電波航法(VOR/DME)による距離
・慣性航法による推定距離
・レーダー地形照合による推定位置
・時間と燃料消費からの逆算
「同じなら、前提はまだ生きています。違うなら、前提が疑われます」
それは、科学実験の言い回しに似ていた。
軍の現場で科学が必要になるとき、状況は大抵、正常ではない。
「空中給油を組み込むなら、計測点も増やせる」
別の幹部が言う。
「給油機と戦闘機、複数機が同じ“空”を共有する。相対距離は測れる。相対が一定なら、少なくとも空の中は壊れていない」
相対。
今日一日、誰も口にしなかったが、皆が欲していたものだ。
絶対が疑わしいなら、相対に逃げる。
相対が揃えば、世界の輪郭を少しだけ掴める。
「給油機は?」
と問われ、担当が答える。
「KC-767、待機可能です。加えて、KC-130Hも。だが、前提が揺らぐなら、救難・代替の計画が要ります」
救難。
代替。
その言葉が出た瞬間、部屋の空気が少し硬くなる。
救難は“帰れない”を想定する言葉だ。
今日の会議では、帰投を絶対条件にしていた。
だが、条件は、守れない可能性が浮かんだ瞬間に条件ではなくなる。
「“守る”ための計画を作る」
幹部が言う。
「守れない前提で動くのではない。守れるように、保険を増やす」
それが、軍が使える最も穏当な表現だった。
保険、と言うことで、危機ではなく手順の延長に留める。
午後十時。
海上自衛隊 幕僚監部。
護衛艦の航跡、P-1の哨戒範囲、沿岸レーダー、潜水艦の受信状況。
資料は、同じ結論を指していた。
「遠い」
数字は一致するのに、遠い。
海洋観測の担当が、地図上に小さな印を付けていく。
「この水深は、海図と一致します。潮汐も一致。潮流も大筋一致。海そのものは地球の海です」
「なら、なぜ商船がいない?」
副長級の幕僚が問う。
「AISが切られている、という説明は成立しません。切っても、レーダー反射が残る。反射がない」
担当は、そこで一度言葉を止めた。
言葉を続けるほど、結論に近づいてしまう。
「……“航路が存在しない”とまでは言えません」
彼は、官邸と同じ言葉を選んだ。
「確認できない、です」
確認できない。
それは防衛の言葉というより、科学の言葉だった。
観測できないものに対して、確定を置かない。
確定を置けば、その確定が行動を縛るからだ。
午後十時二十分。
外務省。
在日大使館を通じた照会は、さらに広がった。
米、英、仏、中、露だけではない。
ASEAN各国。
国際機関の東京事務所。
外国企業の日本支社。
宗教団体やメディアの支局。
「外」と繋がる可能性のある窓を、片端から叩く。
返ってくる答えは、驚くほど似ていた。
本国と連絡が取れない。
衛星電話が成立しない。
インターネットの国際経路が途切れる。
だが、国内は動いている。
「東京は“島”になっています」
誰かが、うっかり口にした。
上司が目で制す。
島、という言葉は、比喩として強すぎる。
比喩が強いほど、人は現実として受け取ってしまう。
「表現は“国外との連絡が確認できない”で統一」
上司は、淡々と命じた。
命じたというより、自分自身に言い聞かせるように。
午後十一時。
首相官邸地下。
会議は終わったはずなのに、席は空にならない。
会議を終わらせるのは手続きで、現実は手続きに従わない。
官房長官は、紙の束の端を揃え直し、もう一度言った。
「明日の朝までに、長距離偵察の“訓練計画”案を出す。言葉は訓練だ。外へ出す言葉は、確認できた範囲だけ」
村瀬が頷く。
「“探す側”だということは、まだ外に出さない。探していると言った瞬間、何を探しているかを求められます。答えられない問いを増やしてはいけない」
首相は、短く言った。
「答えられる問いだけを作れ」
午後十一時三十分。
千歳基地。
夜の滑走路は、昼よりも静かだ。
静かさは、機械の音を際立たせる。
発電機の低い唸り。
整備車両の遠いアイドリング。
格納庫の扉が閉まる金属音。
F-15Jは、格納庫に収められた。
機体は正常。
それが、今日の最後の事実だった。
操縦士は、ヘルメットを抱えたまま、短く言う。
「数字は正しい。でも、体感が正しくない」
整備員は答えない。
答えられるはずがない。
体感は、機体ではなく世界の問題だからだ。
午後十一時五十分。
東京都港区虎ノ門、気象庁。
予報部主任予報官の佐久間は、昼から続くログをもう一度眺めていた。
日の出のズレは、依然として全国一律。
外部基準の同期は成立しない。
「四秒、か」
たった四秒。
だが、四秒のズレが全国で揃うなら、それは誤差ではない。
誤差ではないものが誤差の顔をしている。
それが、今日という日の象徴だった。
佐久間は、紙コップを捨て、内線を取る。
「明日も続く。そう考えて準備した方がいい」
相手は短く返す。
「分かってる。分かってるから、怖い」
日付が変わる直前。
官邸地下。
首相は、最後にもう一度だけ確認した。
「外へ出す言葉は?」
官房長官は、迷わず答える。
「国内は通常通り。国外との連絡は確認中。安全保障上の状況は、確認できる範囲で異常なし」
首相は頷く。
それは、国を動かす言葉ではない。
国が動いてしまわないための言葉だ。
当たり前は、壊れてもすぐには倒れない。
倒れないから、人は気づくのが遅れる。
この夜、遅れを取り戻すように、
各省庁の机の上に、同じ種類の紙が増えていった。
「前提:距離一定」
その注記が、明日からは、注記ではなくなる。
本文に入り込み、計画の中心に居座り、
そして、誰も言わないまま、国家の行動範囲を変えていく。
遠くを見る準備は、もう始まっていた。
午前零時三十分。
統合幕僚監部。
夜間当直の机上に、赤鉛筆で書かれた小さな文字が増える。
「確認距離:D+」
「給油点:T-1」
「代替:空自・民間併用」
どれも、訓練計画の言葉だ。
だが、書いている者の指先は、訓練の速度では動いていない。
当直幕僚は、ふと手を止め、窓のない壁を見た。
外は見えない。
見えないのに、外が気になる。
それが、今日の人間の感覚だった。
午前一時。
総務省。
国外回線の監視ログは、相変わらず「正常」を示し続けていた。
正常という表示が、今日は嘘のように見える。
だが、嘘ではない。
機械は正しく働いている。
正しく働いている機械が、正しいはずの世界を映さない。
この齟齬だけが、延々と積み上がる。
監理官の高瀬は、机の上のメモに一行書き足す。
「“相手側”の不在を示す証拠なし」
そして、その一行に線を引く。
証拠がない、と書いた瞬間に、相手側が“不在”である可能性を言葉にしてしまうからだ。
午前一時三十分。
官邸地下。
村瀬は、最終案の文言をさらに削った。
削って、残るのは一行だけになる。
「確認できる範囲で異常なし」
その一行が、国の声になる。
国の声が、明日の朝の社会を決める。
当たり前は、まだ倒れていない。
だが、ひびは走った。
ひびが走ったものは、もう元の形では支えられない。
明日は、そのひびの上に、初めて“遠くを見る”という重みが乗る。
そしてその重みが、ひびをただのひびではなく、
境界線へ変えるかもしれないことを、
この時点で誰もまだ、確信として口にできなかった。
午前二時。
千歳基地の当直室。
壁の時計は淡々と進む。
コーヒーの匂いだけが、夜を現実につなぎ止めていた。
当直員は、明朝の予定表を見て、思わず笑いそうになる。
そこにはいつも通りの文字が並ぶ。
「訓練」「整備」「飛行」「給油」
どれも、昨日までなら安心の単語だ。
だが今日は、その単語が、何かを隠す覆いにしか見えない。
「訓練か」
当直員は小さく呟く。
「訓練なら、帰ってこれる。帰ってこれるなら、明日も続けられる」
自分に言い聞かせるような理屈だった。
理屈にしないと、恐怖が形を持ってしまう。
遠くを見る準備は、机の上の紙と、誰にも言わない独り言で進んでいく。




