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星が重なる日  作者: 橘花


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6/16

5.遠さが意味を持ち始めた日

当たり前は、壊れたあともしばらくは当たり前の顔をする。

だから人は、壊れたことそのものよりも、

「壊れたのに、何も起きていない」状態に耐えられなくなる。


午後四時二十分。

首相官邸地下・危機管理センター。


会議室の空気は、朝とは別の重さを帯びていた。

朝は「違和感」だった。

昼は「一致しない」だった。

そして夕方になって、その一致しなさが、

一日分の報告により、ゆっくりと否定しようのない形を取り始めた。


机の上には、要約紙が並ぶ。

気象庁:全国一律のズレ、外部基準同期不能。

国土地理院:電子基準点、同傾向の座標偏差。

総務省:国外回線、送信成立・応答なし。

金融:海外指標更新停止、障害アラートなし。

防衛:拡張索敵、反応なし、妨害なし、事故なし。


どの項目も、単体なら「原因調査」で済む。

だが、並べると、ひとつの輪郭だけが残る。

原因が違うのに、結果が同じ。

外側が、確認できない。


官房長官が紙を揃え、端を机の角に合わせた。

その仕草が、場の感情を整えるための儀式のように見えた。


「“確認できない”で統一する」

午前中から繰り返されてきた言葉だ。

だが、今はその言葉の重みが違う。

統一するのは表現ではなく、覚悟の方になっていた。


鷹宮首相は、資料から目を離さずに言った。

「距離についての報告を」


統合幕僚監部の連絡官が、短く答える。

「航空・海上ともに、従来の感覚と一致しません」


「数値は?」

首相の声は平坦だった。

怒りでも焦りでもなく、測るための声。


「速度、高度、燃料消費率、通信品質。すべて想定通りです」

連絡官は、そこで一拍置いた。

自分の言葉が次に何を呼び込むかを、理解している間だった。


首相は視線を上げずに続ける。

「……それで?」


連絡官は、言い換えを探し、結局、最も正直な言い方を選んだ。

「“次に見えるはずのもの”が、見えません。航空航路、商船航路、周辺国の反応。いずれも」


沈黙が落ちる。

沈黙の中で、誰もが同じことを考える。

「見えない」のは、観測が下手だからではない。

見えない理由を示す痕跡が、ない。


官房長官が、確認するように言った。

「妨害の兆候は?」


「ありません。ECM反応も検出されていません」

防衛省側の分析官が補足する。

「もし妨害なら、ノイズやスペクトラムの乱れが出ます。ログは平坦です。平坦すぎるほどに」


平坦。

その言葉が、怖かった。

異常は、本来、波として現れる。

波のない異常は、前提そのものを疑わせる。


村瀬が、机の端に立ったまま、低い声でまとめる。

「我々は、世界の異常を確認しているのではなく、前提の異常を確認している状態です」


前提。

地球は一つ。

距離は一定。

世界は地図の外へ続く。

それらは証明ではなく、習慣として信じられていた。


首相はゆっくりと息を吐き、次を言った。

「なら、次は“もっと遠く”を見る準備を。今日の範囲で、やれることはやった」


その言葉は命令ではない。

しかし、会議室の誰もが命令として受け取った。

命令に聞こえないように言わなければならないのは、

命令に名前を付ける理由が、まだ存在しないからだ。


午後四時三十五分。

防衛省・市ヶ谷。


統合幕僚監部の廊下は、普段より静かだった。

騒がしいわけではない。

むしろ、音を立てないようにしている。

誰かが焦って走れば、それだけで「何かが起きた」と伝わってしまう。


情報運用室では、画面が更新され続けている。

更新はされる。

ただ、更新される内容が増えない。


J/FPS-5の警戒線は、いつも通りの円弧を描く。

E-767のトラックは、訓練データと同じ精度で積み上がる。

P-1の索敵扇形は、予定通りに伸び、予定通りに折り返す。

IGSの最新取得データも、国内域は解像度を保っている。


国内は正常。

それだけが、恐ろしいほどの救いで、恐ろしいほどの罠だった。

正常が続く限り、人は「最悪」を先延ばしにする。

先延ばしにした瞬間、準備が遅れる。


幕僚の一人が、補給担当の資料を机に置いた。

「長距離偵察案です。空中給油を前提にした場合の航続限界、展開可能時間、帰投余裕」


紙には、いつも見慣れた計算式が並ぶ。

燃料量、消費率、予備率、給油点、離着陸に必要な余裕。

だが、最後の行にだけ、見慣れない注記がある。


「前提:距離一定」

その注記が、紙をただの紙ではなくしていた。


「前提が崩れた場合は?」

誰かが言った。


補給担当は、言葉を慎重に選ぶ。

「崩れた場合、という言い方は……。ただ、距離感がずれている場合、同じ装備でもカバーできる範囲が変わります。防衛線が物理的に伸びる可能性がある」


敵がいなくても成立する脅威。

それは、防衛という言葉から、最も厄介なものを引き出す。

相手がいない脅威は、抑止も交渉もできない。


午後四時五十分。

外務省。


定時通信の再試行は、すでに手順の一部になっていた。

ワシントン、ロンドン、パリ、北京、モスクワ。

未応答。

回線は生きている。

暗号装置も正常。

送信ログは成立を示す。


それでも返事がない。

外務省は「不通」という言葉を使わない。

使った瞬間、世界が「つながっているはず」という前提を公式に置いてしまうからだ。


担当官は上司に報告する。

「在外公館直通、未応答。第三国経由、試行中です」


「第三国経由?」

上司が聞き返すのは、知らないからではない。

確認のためだ。

言葉にすると現実が固まる。


担当官は、説明を削りながら答える。

「在日大使館経由で、本国および第三国の外務省・国際機関への照会を要請しています。こちらからの連絡は成立していますが、相手側が外へ出せていない可能性があります」


「在日側は?」

「在日公館は存在しています。職員もいます。ですが、本国と同様に、外側との連絡が取れていない、と」


外務省はそこで初めて、国内にいる「外側の代表」と向き合うことになる。

在日大使館という施設は、法的には国外に近い扱いを受ける。

だが、物理的には東京の一角だ。

その矛盾が、今日という日に限って、妙に生々しい。


「“世界はある”と言っているのか?」

上司が、半分だけ冗談めかして言った。


担当官は笑わない。

「“ある”とも“ない”とも言えません。確認できない、という点では同じです」


外交は、相手の存在を前提に成立する。

存在が確認できない相手に対しては、抗議も要請も成立しない。

だから外務省は、今日一日、最も「何もできなかった」組織になった。

そして、その無力さが、事態の異様さを強調していた。


午後五時十分快。

千歳基地。


滑走路は、いつも通りの色をしている。

管制塔の窓も、いつも通りの光を反射している。

ただ、待機スポットに並ぶF-15Jの姿だけが、今日の空気を違えていた。


二機は単座機だ。

操縦士はそれぞれ一人。

だが、任務は単独ではない。

二機一組の編隊として、同一の「状況確認」任務に就いている。

敵を撃つ任務ではない。

敵を探す任務でもない。

“世界が続いているか”を確かめる任務だ。


整備員は、機体の下面を確認する。

オイルの滲みなし。

パネル固定良好。

増槽接続問題なし。


いつも通りのチェック。

いつも通りのチェックであることが、今日を不気味にする。


操縦士はコックピットで、自己診断結果をもう一度確認する。

AN/APG-63(V)1。

INS。

GPS補正情報。

数値は、すべて正常。


正常は、安心ではない。

正常は、疑いの逃げ道を塞ぐ。

機体が正常なら、見えない理由は機体ではない。


管制塔から、落ち着いた声が来る。

「通信チェック、異常なし。周波数、訓練用」


「了解。VHF、UHFともに正常」

返答は短い。

余計な言葉は添えない。

言葉を増やせば、結論が先に走る。


基地のブリーフィングルームには、通常掲示される戦術空域図がない。

代わりに示されているのは、

指定訓練空域番号、高度帯、飛行時間、燃料消費目安。

それだけだ。


「指定訓練空域R-*まで進出。その先は状況判断」

第2航空団司令の説明は、それで終わる。


「進出方向は?」

誰かが聞く。


「北」

それ以上の補足はない。


質問は、それ以上出ない。

理由を聞いても、答えが存在しないことを、全員が理解している。


午後五時三十分。

官邸地下・危機管理センター。


広報担当が、控えめに口を開く。

「SNSの検索ワードが伸びています。“海外が消えた”“地図が変わった”。断定的な投稿はまだ少数ですが、増え方が速い」


官房長官は頷く。

「発表文は“通信障害”で組めるか」


「組めます。ただし、範囲が……」

広報担当の言葉が途切れる。


「範囲は言うな」

官房長官が即断する。

「言うなら国内の確認状況だけ。外は“確認できていない”で止める」


説明できない状況で説明を作ると、説明が独り歩きする。

独り歩きした説明は、人を動かす。

動いた人は、現実を汚す。

汚れた現実は、観測を狂わせる。

狂った観測は、判断を遅らせる。


この会議室にいる者は、その循環を知っていた。

だから、言葉を削る。

削るほどに、残る言葉が鋭くなる。


午後六時。

防衛省と自衛隊の間で、静かな準備が始まる。


長距離偵察のための「訓練計画」の枠組みが作られる。

予算上の処理、記録の取り方、指揮系統の整合。

すべてが「通常訓練」という語の中で行われる。


欺瞞ではない。

今の段階で、それ以上の言葉を使う理由が本当に存在しない。

理由がないのに言葉を増やせば、言葉が現実を先に作ってしまう。


補給担当が、空中給油計画を持ち込む。

給油点の設定、代替飛行場、救難の範囲。

救難の範囲、という言葉だけが、今日の会議室で少しだけ重くなる。

救難は、本来、想定の上に作られる。

想定が揺らげば、救難も揺らぐ。


「救難は?」

官房長官が問う。


統幕連絡官が答える。

「帰投を絶対条件とします。条件を外す理由がありません」


理由がない。

この日、最も多く使われた言葉だ。


午後六時三十分。

街。


電車は走っている。

店は開いている。

子どもは塾へ行き、会社員は会議をしている。

海外ニュースが更新されないことを、ほとんどの人はまだ「不便」程度にしか感じていない。


国際電話がつながらない。

海外の航空会社から連絡が来ない。

為替が動かない。

物流の予定が立たない。


それでも、人は夕飯を買う。

人は明日の予定を立てる。

人は生活を続ける。


生活が続く限り、人は最悪の想像を後回しにできる。

それが社会の強さであり、危うさでもある。

後回しにした最悪は、準備の遅れとして戻ってくる。


午後七時。

官邸地下。


鷹宮首相は、全体報告を聞き終えてから、一つだけ確認した。

「今日の範囲で、分かったことは何だ」


沈黙が落ちる。

誰も「分からない」とは言わない。

だが、分かったと言える情報もない。


やがて、官房長官が答えた。

「……分からない、ということが分かりました」


皮肉ではない。

冗談でもない。

事実の最小単位だった。


首相は頷き、続ける。

「次にやるべきことは?」


「もっと遠くを見る」

村瀬が答える。

答えるというより、全員の共通語を声にしただけだ。


「急ぐな。だが、止まるな」

首相は、短く言った。


急げば、言葉が先に走る。

止まれば、準備が遅れる。

その間の狭い道しか、今は歩けない。


午後七時四十分。

外務省。


在日大使館経由の照会に、断片的な返答が集まり始める。

返答と言っても、答えではない。

「こちらも確認できない」

「本国と連絡が取れない」

「国際機関本部に照会したが応答なし」

それだけだ。


つまり、世界のどこにも「繋がっている」場所がない。

少なくとも、繋がっているという報告が一つも上がらない。


担当官は、報告書の文言を削り続ける。

「未応答」

「確認不能」

「照会中」

言葉を削るほど、現実の輪郭が硬くなる。


午後八時。

防衛省。


航空総隊司令部では、飛行ログと地図の突合が続く。

速度は正常。

燃料消費は正常。

だが、通常なら目標物が現れる距離に、何も現れない。


分析官が、画面を見たまま言う。

「距離が合わない、というより……“期待される出来事”が起きない」


期待される出来事。

民間航路が映る。

他国レーダー反応が出る。

通信中継の状況が変わる。

それらが、起きない。


起きない理由が、妨害でも事故でもない。

だから、前提が疑われる。


海上自衛隊側でも同様だ。

護衛艦の航跡は、海図上では既知の位置をなぞっている。

水深も一致する。

潮流も予測に近い。

地形は、地球の海だ。


だが、“次に来るはずの何か”が来ない。

商船航路。

外国船。

漁船。

それらが現れない距離が、広すぎる。


艦長は、報告書には載せない言葉を、口の中で転がす。

世界が広い。

海が広いのではなく、世界が広い。

その言葉は、まだ仮説に近すぎる。

だが、否定できる材料もない。


午後八時三十分。

官邸地下。


一日の報告が、ほぼ出そろう。

致命的な異常は出ていない。

それが、会議室の空気を妙に重くする。


「壊れたものはありますか」

首相が問う。


誰も即答できない。

壊れたと言うには、目に見える破壊がない。

壊れていないと言い切るには、前提が多すぎる。


「通信は生きています」

総務省担当が言う。

「ただし、海外からの応答がありません。遮断ではない。呼びかけているが返ってこない」


「つまり、こちらは世界に向けて声を出しているが、世界が返事をしていない」

誰かが言い換える。

その表現は記録には残らない。

だが、全員の認識には残る。


官房長官が、結論をまとめる。

「本日得られた事実は、“世界が敵対している”証拠ではありません」

村瀬が続ける。

「だが、“世界が従来通りである”証拠もない」


この二文が、今日の終わりだった。


首相は、机の上の再計算案に目を留める。

航続距離。

補給。

展開可能範囲。

すべてが「地球サイズ」を前提にしている。


「これまでの前提では、どこまで見られる」

「地球サイズを前提にすれば、十分です」

「では、前提が違う場合は?」


沈黙。

誰も「違う」とは言わない。

だが、「違わない」と言える者もいない。


首相は、あくまで提案の形で言った。

「長距離偵察を考えるべきだな」


官房長官が確認する。

「長距離、というのは」


「これまでの“確認できるはずだった距離”を、明確に超える、という意味だ」

首相は言葉を一つずつ置く。

「空中給油を含め、帰投を絶対条件とする。武装は最低限。理由がない」


理由がない。

それが、この日、最大の抑止になっていた。


午後九時。

会議は終わる。


終わっても、現実は終わらない。

終わっても、世界は戻らない。


当たり前は、壊れたあともしばらくは当たり前の顔をする。

だから人は、壊れたことそのものよりも、

「壊れたのに、何も起きていない」状態に耐えられなくなる。


この国は今、遠くを見る準備を始めた。

だが、遠くを見るという行為が、

“距離が壊れた世界”では、まったく別の意味を持つことを、

まだ誰も理解していなかった。


そしてその夜、

日本列島の外縁に引かれた薄い補助線は、

翌朝には、もう一本増えることになる。

「ここまでは確実だ」

そう言い切るための線が、

確実に言い切れない現実の上に、静かに積み重ねられていく。


午後九時二十分。

航空自衛隊 航空総隊 司令部。


部屋の照明は落とされ、モニターの光だけが机上の紙を照らしている。

解析担当は、飛行ログを「機体の正常」としてはすでに整理し終えていた。

次に残るのは、機体の外側――世界の側の整合だ。


「航法誤差は?」

幹部が聞く。


「INSは安定。GPS補正も入力はあります。ただし、外部基準の絶対値は裏取りできていません」

若い分析官は、慎重に言った。

「入力はある。しかし、正しいと証明できない、という状態です」


それは、通信行政が言った「通っているが返事がない」と同じ構造だった。

データは来る。

だが、来たデータが“世界”から来ていると確証できない。


「なら、次は何を証明する?」

幹部は、結論ではなく問いを置く。

問いは、作業の方向を決めるための道具だ。


分析官は、あらかじめ用意していた図を出した。

「複数の手段で、同じ距離を測ります」

紙には、簡単な箇条書きがある。


・電波航法(VOR/DME)による距離

・慣性航法による推定距離

・レーダー地形照合による推定位置

・時間と燃料消費からの逆算


「同じなら、前提はまだ生きています。違うなら、前提が疑われます」

それは、科学実験の言い回しに似ていた。

軍の現場で科学が必要になるとき、状況は大抵、正常ではない。


「空中給油を組み込むなら、計測点も増やせる」

別の幹部が言う。

「給油機と戦闘機、複数機が同じ“空”を共有する。相対距離は測れる。相対が一定なら、少なくとも空の中は壊れていない」


相対。

今日一日、誰も口にしなかったが、皆が欲していたものだ。

絶対が疑わしいなら、相対に逃げる。

相対が揃えば、世界の輪郭を少しだけ掴める。


「給油機は?」

と問われ、担当が答える。

「KC-767、待機可能です。加えて、KC-130Hも。だが、前提が揺らぐなら、救難・代替の計画が要ります」


救難。

代替。

その言葉が出た瞬間、部屋の空気が少し硬くなる。

救難は“帰れない”を想定する言葉だ。

今日の会議では、帰投を絶対条件にしていた。

だが、条件は、守れない可能性が浮かんだ瞬間に条件ではなくなる。


「“守る”ための計画を作る」

幹部が言う。

「守れない前提で動くのではない。守れるように、保険を増やす」


それが、軍が使える最も穏当な表現だった。

保険、と言うことで、危機ではなく手順の延長に留める。


午後十時。

海上自衛隊 幕僚監部。


護衛艦の航跡、P-1の哨戒範囲、沿岸レーダー、潜水艦の受信状況。

資料は、同じ結論を指していた。

「遠い」

数字は一致するのに、遠い。


海洋観測の担当が、地図上に小さな印を付けていく。

「この水深は、海図と一致します。潮汐も一致。潮流も大筋一致。海そのものは地球の海です」


「なら、なぜ商船がいない?」

副長級の幕僚が問う。


「AISが切られている、という説明は成立しません。切っても、レーダー反射が残る。反射がない」

担当は、そこで一度言葉を止めた。

言葉を続けるほど、結論に近づいてしまう。


「……“航路が存在しない”とまでは言えません」

彼は、官邸と同じ言葉を選んだ。

「確認できない、です」


確認できない。

それは防衛の言葉というより、科学の言葉だった。

観測できないものに対して、確定を置かない。

確定を置けば、その確定が行動を縛るからだ。


午後十時二十分。

外務省。


在日大使館を通じた照会は、さらに広がった。

米、英、仏、中、露だけではない。

ASEAN各国。

国際機関の東京事務所。

外国企業の日本支社。

宗教団体やメディアの支局。

「外」と繋がる可能性のある窓を、片端から叩く。


返ってくる答えは、驚くほど似ていた。

本国と連絡が取れない。

衛星電話が成立しない。

インターネットの国際経路が途切れる。

だが、国内は動いている。


「東京は“島”になっています」

誰かが、うっかり口にした。


上司が目で制す。

島、という言葉は、比喩として強すぎる。

比喩が強いほど、人は現実として受け取ってしまう。


「表現は“国外との連絡が確認できない”で統一」

上司は、淡々と命じた。

命じたというより、自分自身に言い聞かせるように。


午後十一時。

首相官邸地下。


会議は終わったはずなのに、席は空にならない。

会議を終わらせるのは手続きで、現実は手続きに従わない。


官房長官は、紙の束の端を揃え直し、もう一度言った。

「明日の朝までに、長距離偵察の“訓練計画”案を出す。言葉は訓練だ。外へ出す言葉は、確認できた範囲だけ」


村瀬が頷く。

「“探す側”だということは、まだ外に出さない。探していると言った瞬間、何を探しているかを求められます。答えられない問いを増やしてはいけない」


首相は、短く言った。

「答えられる問いだけを作れ」


午後十一時三十分。

千歳基地。


夜の滑走路は、昼よりも静かだ。

静かさは、機械の音を際立たせる。

発電機の低い唸り。

整備車両の遠いアイドリング。

格納庫の扉が閉まる金属音。


F-15Jは、格納庫に収められた。

機体は正常。

それが、今日の最後の事実だった。


操縦士は、ヘルメットを抱えたまま、短く言う。

「数字は正しい。でも、体感が正しくない」


整備員は答えない。

答えられるはずがない。

体感は、機体ではなく世界の問題だからだ。


午後十一時五十分。

東京都港区虎ノ門、気象庁。


予報部主任予報官の佐久間は、昼から続くログをもう一度眺めていた。

日の出のズレは、依然として全国一律。

外部基準の同期は成立しない。


「四秒、か」

たった四秒。

だが、四秒のズレが全国で揃うなら、それは誤差ではない。

誤差ではないものが誤差の顔をしている。

それが、今日という日の象徴だった。


佐久間は、紙コップを捨て、内線を取る。

「明日も続く。そう考えて準備した方がいい」

相手は短く返す。

「分かってる。分かってるから、怖い」


日付が変わる直前。

官邸地下。


首相は、最後にもう一度だけ確認した。

「外へ出す言葉は?」


官房長官は、迷わず答える。

「国内は通常通り。国外との連絡は確認中。安全保障上の状況は、確認できる範囲で異常なし」


首相は頷く。

それは、国を動かす言葉ではない。

国が動いてしまわないための言葉だ。


当たり前は、壊れてもすぐには倒れない。

倒れないから、人は気づくのが遅れる。


この夜、遅れを取り戻すように、

各省庁の机の上に、同じ種類の紙が増えていった。

「前提:距離一定」

その注記が、明日からは、注記ではなくなる。

本文に入り込み、計画の中心に居座り、

そして、誰も言わないまま、国家の行動範囲を変えていく。


遠くを見る準備は、もう始まっていた。


午前零時三十分。

統合幕僚監部。


夜間当直の机上に、赤鉛筆で書かれた小さな文字が増える。

「確認距離:D+」

「給油点:T-1」

「代替:空自・民間併用」

どれも、訓練計画の言葉だ。

だが、書いている者の指先は、訓練の速度では動いていない。


当直幕僚は、ふと手を止め、窓のない壁を見た。

外は見えない。

見えないのに、外が気になる。

それが、今日の人間の感覚だった。


午前一時。

総務省。


国外回線の監視ログは、相変わらず「正常」を示し続けていた。

正常という表示が、今日は嘘のように見える。

だが、嘘ではない。

機械は正しく働いている。

正しく働いている機械が、正しいはずの世界を映さない。

この齟齬だけが、延々と積み上がる。


監理官の高瀬は、机の上のメモに一行書き足す。

「“相手側”の不在を示す証拠なし」

そして、その一行に線を引く。

証拠がない、と書いた瞬間に、相手側が“不在”である可能性を言葉にしてしまうからだ。


午前一時三十分。

官邸地下。


村瀬は、最終案の文言をさらに削った。

削って、残るのは一行だけになる。

「確認できる範囲で異常なし」

その一行が、国の声になる。

国の声が、明日の朝の社会を決める。


当たり前は、まだ倒れていない。

だが、ひびは走った。

ひびが走ったものは、もう元の形では支えられない。

明日は、そのひびの上に、初めて“遠くを見る”という重みが乗る。

そしてその重みが、ひびをただのひびではなく、

境界線へ変えるかもしれないことを、

この時点で誰もまだ、確信として口にできなかった。


午前二時。

千歳基地の当直室。


壁の時計は淡々と進む。

コーヒーの匂いだけが、夜を現実につなぎ止めていた。


当直員は、明朝の予定表を見て、思わず笑いそうになる。

そこにはいつも通りの文字が並ぶ。

「訓練」「整備」「飛行」「給油」

どれも、昨日までなら安心の単語だ。

だが今日は、その単語が、何かを隠す覆いにしか見えない。


「訓練か」

当直員は小さく呟く。

「訓練なら、帰ってこれる。帰ってこれるなら、明日も続けられる」

自分に言い聞かせるような理屈だった。

理屈にしないと、恐怖が形を持ってしまう。


遠くを見る準備は、机の上の紙と、誰にも言わない独り言で進んでいく。

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