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星が重なる日  作者: 橘花


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4.距離という前提

当たり前は、一度壊れ始めると、

元に戻ろうとはしない。


人がそれを「元に戻すべきもの」だと

まだ信じている間は、なおさらだ。


壊れているのに、壊れていない前提で、

判断だけが積み重なっていく。

それは、事故のように派手には起きない。

静かに、手順の中に入り込み、

「いつも通り」を装ったまま、社会の背骨を削っていく。


午前十一時二十分。

航空自衛隊 千歳基地。


滑走路端の待機スポットに、

二機のF-15J戦闘機が、規定間隔を保って並んでいた。


両機とも単座機だ。

操縦席にいるのは一人ずつ。

だが、任務は単独ではない。

二機一組の編隊として、同一の状況確認任務に就いている。


編隊という言葉は、これまでなら安心を連れてくる。

互いが互いの盲点を埋め、異常を見逃さないための形。

しかし今日に限って、その形は別の意味を持っていた。

「一人に判断させない」

それが暗黙の目的になってしまっている。


機体番号は見慣れたものだ。

外装に異常はない。

増槽は装着されているが、武装は通常訓練仕様。

AAM-5およびAAM-4Bはいずれも搭載されていない。


ここで武装を外しているのは、平時だからではない。

「理由がない」からだ。

武装を載せるには理由が要る。

理由が要る、ということは言葉が要る。

そして今日、使える言葉は極端に少ない。


エンジンは、まだ始動していない。

始動前点検のチェックシートは、いつもと同じ順番で埋まっていく。

整備員はパネルの留め具を触り、吸気口の内側を覗き込み、

脚部の油圧の滲みをライトで照らして確認する。

点検の動作が丁寧になるほど、逆に不安が濃くなる。

見える異常は、見つかれば終わる。

だが今日は、見えない異常を探している。


操縦士はコックピットで

AN/APG-63(V)1レーダーの自己診断結果を確認し、

INS(慣性航法装置)とGPS補正情報の表示を交互に見比べていた。


数値は、すべて「正常」を示している。

正常だという表示は、本来なら背中を押すはずのものだ。

だが今は、正常であることが「説明できなさ」を増やす。


僚機の存在は、レーダーとデータリンク上で常に確認できる。

距離、方位、高度、相対速度。

どれも規定範囲内で、計器は一切の迷いを見せない。

しかし操縦士は、数字の正しさを疑うのではなく、

数字が意味している「距離感」を疑っていた。


今日は、距離が信用できないかもしれない。

その疑いは、口に出せば瞬時に現実になる。

現実になった疑いは、手順を変え、手順の変更は社会を動かす。

だから、口には出せない。

出せないものは、コックピットの中で黙って膨らむ。


無線は静かだった。

必要な報告以外、言葉を交わす理由がない。

言葉は結論へ向かう。

結論は、今日いちばん危険だ。


「通信チェック、異常なし」


管制塔からの声は落ち着いている。

使用周波数は、いつも通りの訓練用だ。


「了解。VHF、UHFともに正常」


返答は短い。

余計な一言を足せば、そこに感情が混ざる。

感情が混ざれば、場の空気が変わる。

空気が変われば、人は「何かが起きた」と理解してしまう。

理解されれば、今度はその理解に合わせて社会が動き始める。


この基地では、説明がないこと自体が異常になる。

だが今日は、その異常が誰にも説明されていない。

説明がない異常は、異常として共有できない。

共有できない異常は、各人の胸の内で「独自の恐怖」に変わる。


ブリーフィングルームには、

通常掲示されるはずの戦術航空図がなかった。

壁に掛かっているべきTACチャートの場所は空白で、

代わりに貼られているのは、簡素な紙の束だけだ。


・指定訓練空域番号

・高度帯

・飛行時間

・燃料消費目安

・帰投判断ライン


それだけ。

「目的地」は書かれていない。

目的地が書かれていないのではなく、

書ける目的地が存在しない、という理解が共有されている。


「指定訓練空域R-*まで進出。その先は状況判断」


第2航空団司令の説明は、それで終わった。


「進出方向は?」


誰かが聞いた。


「北」


それ以上の補足はない。

北、という言葉だけが、薄い氷のように場に落ちた。

北へ行けば、何があるのか。

北へ行けば、何がないのか。

そのどちらも、今は言えない。


質問は、それ以上出なかった。

理由を聞いても、答えが存在しないことを全員が理解していたからだ。

理解しているからこそ、質問は喉の奥で固まり、飲み込まれる。

飲み込まれた質問の数だけ、空気は重くなる。


午前十一時四十分。

防衛省・市ヶ谷。

統合幕僚監部 情報運用室。


大型スクリーンには、複数のレイヤーが重ねられていた。

J/FPS-5固定式警戒管制レーダーのトラック。

E-767早期警戒管制機の監視情報。

P-1哨戒機の索敵範囲。

情報収集衛星(IGS)の最新取得データ。

そして、既知の航路、既知の航跡、既知の「世界」。


日本列島周辺は正常だ。

北海道から沖縄まで、空域・海域ともに既知の反応しかない。

異常はない。

異常がないことが、異常だ。


室内に立つ者は少なかった。

誰もがスクリーンから一歩引いた位置で、腕を組んでいる。

画面に近づくと、無意識に「この先」を探してしまう。

探してしまうと、「ない」ことが確定してしまう。

確定させる材料がまだ足りない。

足りないまま確定することが、いちばん危険だった。


「範囲拡張後も同様です」


幕僚の一人が淡々と報告する。


「索敵距離を延ばしても、反応は増えません」


「減ってもいない、か」


「はい。“増えない”だけです」


増えない。

その言葉には、奇妙な保守性があった。

消失と言えば世界が壊れる。

遮断と言えば誰かがやったことになる。

侵攻と言えば防衛の言葉が動く。

だが増えない、なら、まだ現実は昨日の枠に残る。

残ってしまうことが、逆に恐ろしい。


「外側の対象は?」


上席が問う。


「ロシア極東沿岸、中国沿岸、朝鮮半島、台湾周辺。

通常なら有効反射がある海空域で、確認できていません」


「死角では?」


「E-767とJ/FPS-5、双方でクロスチェックしています。

死角では説明できません」


「妨害は?」


「兆候なし。ECM反応も確認されていません」


「……存在しない可能性は?」


一瞬、室内が静まった。

誰かが口にしてしまった言葉は、取り消せない。

だが取り消さなければ、次の手続きが動く。


「その表現は使用できません。正確には、“確認できていない”状態です」


修正の言葉が、冷たく、しかし救命索のように響く。

確認できていない。

それは、まだ世界を壊さない言葉だ。

壊さないが、直しもしない。


同時刻。

海上自衛隊 第2護衛隊群。


護衛艦DDG-177「アタゴ」は、通常の情報収集航海として日本海へ進出していた。

通常、という言葉がここでも使われる。

使われるからこそ、異常は「通常の皮」を被ったまま深くなる。


AN/SPY-1D多機能レーダーは正常。

ソナー(OQS-102)も異常なし。

戦術データ・リンクLink-16も生きている。

艦内の時計も、燃料計も、機関回転数も、いつも通りだ。


艦橋から見える海は静かだった。

波高は低い。

視程は良好。

水平線はくっきりと線を引き、

空と海の境界は、視覚としては何も変わらない。

変わらないのに、距離感が掴みにくい。

近いのか遠いのか、確信が持てない。

確信が持てないことが、嫌な予感を呼ぶ。


「……きれいな海だな」


航海長が無意識に口にする。


「ええ。日本海としては、いつも通りです」


副長の返答も同じ温度だ。

だが、その「日本海としては」という但し書きが、

艦橋の空気に小さな引っかかりを残す。

いつも通り、という言葉は範囲を必要とする。

範囲の外側を、今日ほど意識する日はない。


CICでは、空白が続いていた。

自艦の位置、味方の識別、航跡。

そこまでは描ける。

しかし、その先にあるはずの商船、漁船、外国艦艇の点が増えない。


「水上反応、なし」

「水中反応、なし」

「航空反応、なし」


同じ報告が、同じテンポで繰り返される。

繰り返されるほどに、その報告は「通常」ではなくなる。


「AIS信号もゼロです」


当直員が言う。


「意図的に切っている船は?」


「……この範囲で、すべてが切っているとは考えにくいです」


誰も反論しなかった。

偶然は、重なるほど偶然ではなくなる。

だが「偶然ではない」と言い切るには、

誰かを指す言葉が必要になる。

指す言葉は、まだない。


艦長は戦術航法図の端を指でなぞった。

紙の上の線は、いつもと同じ場所に引かれている。

だが今日、その線は境界ではなく「限界」に見える。


「ここまでは、水上、水中、空中ともに確認できる」


艦長の声は静かだ。


「だが、この先は――誰も“確認した”記録がない」


危険ではない。

進入禁止でもない。

ただ、確かめられていない。


確かめられていない、という状態は、

軍隊にとって最も扱いづらい。

危険なら避ける。

安全なら進む。

だが確かめられていないなら、

進む理由も、避ける理由も、言葉として成立しない。

言葉にならないものは、命令にならない。


午後零時過ぎ。

外務省。


在外公館定時通信。

ワシントンD.C.、ロンドン、パリ、北京、モスクワ。

すべて未応答。


回線は生きている。

暗号装置(TTC-105)も正常。

こちらからの送信は成立している。

それでも返答が来ない。


「不通、ではありません」


担当官はそう強調した。

不通と言えば、障害扱いにできる。

障害なら復旧の手順がある。

だが今は、復旧できる箇所が見当たらない。


「呼びかけに、返答がないだけです」


「未達ではないのか」


「未達ではありません。送信ログは成立しています」


上司はゆっくりと頷く。


「……つまり、世界に向けて声は出ている」


「はい」


「だが、世界が返事をしない」


その言葉は公式記録には残らなかった。

残せなかった。

外交は、相手が存在することを前提に成り立つ。

相手の存在が確認できない場合、

交渉も、抗議も、要請も成立しない。

結果として、外務省は何もできなかった。

何もできない、という事実だけが積み上がる。


午後二時。

首相官邸地下・危機管理センター。


鷹宮首相は、資料から目を離さずに言った。


「距離についての報告は?」


統合幕僚監部の連絡官が答える。


「航空・海上ともに、従来の感覚と一致しません」


「どの程度だ」


「数値上は一致しています。

速度、高度、燃料消費、すべて想定通りです」


「だが?」


「“次に見えるはずのもの”が、見えません」


首相は、その言い回しを修正しなかった。

修正すれば、仮説を置くことになる。

仮説は、まだ置けない。


「見えない理由は?」


「妨害なし。事故なし。意図的な秘匿を示す兆候もありません」


「つまり」


首相は一拍置いてから続けた。


「距離という前提が、怪しい」


誰も否定しなかった。

否定できる材料がないのではない。

否定するには、「距離が正しい」という証拠が要る。

その証拠を、今日はまだ世界が返してこない。


午後二時二十分。


F-15Jは燃料計を確認しながら、規定に従って旋回を開始した。

帰投判断のラインだ。

燃料消費は想定通り。

飛行時間も想定通り。

高度も、速度も、計器は完璧だ。


だが、操縦士の体感は完璧ではない。

「遠かった」と感じる。

遠かったという感覚は、報告書の数値にはならない。

数値にならないものは、組織では共有しにくい。

共有しにくいものほど、現場では不安になる。


「……戻るか」


独り言のように呟き、操縦士は機首を南へ向ける。


何も見つけていない。

何も確認できていない。

それなのに、「戻れる」という事実が妙にありがたい。

戻れることがありがたい、という感覚そのものが、

今日が平時ではないことを示している。


飛行ログには、いつも通りの数字が並ぶ。

だが、その数字が示す距離感が、どうにも腑に落ちない。


「……遠かったな」


誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。

僚機も同じタイミングで針路を変えている。

機体間の距離は規定通り。

規定通りであることが、今日は慰めにならない。


午後三時。

官邸地下。


各所からの報告は、一枚の要約にまとめられていた。


・索敵範囲拡張後も異常なし

・他国航空機、船舶、反応を確認できず

・妨害、攻撃、事故の兆候なし


官房長官は、その紙を静かに置いた。


「つまり」


誰に向けるでもなく言う。


「世界は、敵対していない」


敵対していない、という結論は本来なら安心だ。

しかし今日は、安心にならない。

敵対していないのに、世界が返事をしない。

その不一致が、背中を冷やす。


「しかし」


村瀬が補足する。


「従来の世界である保証も、失われつつあります」


首相は深く息を吸った。


「距離が違うだけで、世界は別物になる」


誰も、その言葉を否定できなかった。

距離が違えば、補給線が変わる。

距離が違えば、救援の速度が変わる。

距離が違えば、防衛線の意味が変わる。

距離が違えば、地図の価値が変わる。

地図の価値が変われば、国家の意思決定の土台が揺らぐ。


午後三時三十分。

民間。


物流会社では、海外向け輸送の計画が次々と保留に回されていた。


「距離が出ません」


「航程は?」


「数字は出ます。ただ……信じられません」


数字は出る。

だが信じられない。

信じられない数字は、契約にならない。

契約にならないものは、動かせない。


為替市場は、更新されない数値をそのまま表示し続けている。

動かないことが、かえって不安を煽っていた。

止まっているのに、止まっている理由がない。

理由がない止まり方は、最も扱いづらい。


それでも街は動いている。

電車は走る。

店は開く。

人は働く。


だからこそ、誰も「世界が変わった」と口にしない。

口にした瞬間、変わった世界に合わせて行動しなければならなくなる。

行動すれば、変化が確定してしまう。

確定した変化は、元に戻れない。


午後四時。

官邸地下。


鷹宮首相は静かに結論を口にした。


「今日一日で、答えは出ない」


誰も反論しなかった。


「だが」


首相は続ける。


「一つだけ、確かなことがある」


全員が首相を見る。


「距離という前提は、もはや信用できない」


それは宣言でも命令でもない。

ただの、事実の共有だった。

共有された事実は、次の事実を呼ぶ。

次の事実は、次の手順を呼ぶ。

手順が変われば、国は動く。


当たり前は、壊れたあとも、しばらくは当たり前の顔をする。

人が「元に戻すべきだ」と信じている間は、

なおさら当たり前の顔をして、こちらを欺く。


この日、日本という国家は、そのことをようやく理解し始めていた。


そしてまだ、誰も気づいていない。


午後四時二十分。

統合幕僚監部では、航空・海上の“空白”を数値に落とし込む作業が始まっていた。

空白を数値にする、という言い方自体が倒錯している。

だが、数値にできないものは、予算にも計画にも編成にも載せられない。

載せられないものは、国家の意思決定の外側に追いやられる。


スクリーンの横には、ホワイトボードが出され、

「確認できる範囲」「確認できない範囲」という二つの枠が引かれた。

誰かが言う。

「確認できない、では広すぎる。段階を付けろ」

別の誰かが返す。

「段階を付けた瞬間、それは“距離”として固定される」

固定してしまえば、固定した距離が“前提”になる。

前提が壊れているかもしれないとき、新しい前提を作るのは危険だ。

危険だが、作らなければ動けない。

動けないことも、危険だ。


「なら、こうだ」


官房長官がボードの前に立ち、

“確認できる”をさらに二つに割った。


・確実に確認できる(多系統一致)

・一応確認できる(単系統/解釈必要)


そして最後に、

・確認できていない(情報不足)


その三段階に落とした瞬間、

室内の空気が少しだけ落ち着く。

分類は、恐怖を小さく見せる。

小さく見えた恐怖は、扱えると錯覚させる。

錯覚でもいい。

今は扱わなければならない。


午後四時四十分。

千歳基地。


帰投したF-15Jの操縦士は、ハシゴを降りた後も、

ヘルメットをすぐには脱がなかった。

耳に残るエンジン音の余韻より、

頭の中で反復している言葉の方がうるさい。


“何もない”

“増えない”

“見えない”


それらは報告書の語彙としては不適切だ。

不適切だが、最も近い。


整備員が機体の下面を覗き込みながら言う。

「異常、なかったですか」

操縦士は即答しない。

異常があった、と言えば、その異常の定義が必要になる。

異常がなかった、と言えば、今日の飛行そのものが意味を失う。

どちらも言えない。

だから、事実だけを返す。


「機体は正常だった。

計器も正常。燃料も想定通り」

それだけ言って、視線を滑走路の先へ向ける。

滑走路の先にある空は、相変わらず青い。

青いことが、腹立たしいほど平穏だ。


午後五時。

海上自衛隊。


「アタゴ」から上がってきた航跡は、海図上では整然としていた。

深度、潮流、海底地形。

すべてが“日本近海のデータ”と一致する。

一致するのに、船がいない。

一致するのに、信号がない。

一致するのに、世界が続いていないように見える。


分析官は言葉を選びながら、報告書の下書きを作る。

“ゼロ”

という表現は避ける。

ゼロと言えば、断定だ。

断定は、世論を動かす。

世論が動けば、政治が動く。

政治が動けば、軍が動く。

軍が動けば、世界が動いたことになる。

世界が動いたことに、まだ誰も責任を持てない。


午後五時二十分。

総務省。


国外向け回線のモニターは、相変わらず“正常”を示していた。

正常でありながら、返事がない。

担当者は、あり得ない手順を試す。

同じメッセージを、別回線で送る。

暗号を変える。

タイミングを変える。

宛先を変える。

しかし、返るべき応答は返らない。


「通信の障害ではない可能性が高いですね」


若い職員が口にしてしまい、室内が一瞬止まる。

上司は、叱らない。

叱れば、その言葉が「禁句」になり、

禁句になったものは逆に意識され続ける。


「評価はまだだ。事実だけを積む」


上司はそれだけ言った。

今日、どこでも繰り返されている合言葉だ。


午後六時。

官邸地下。


会議は続く。

だが議題は、原因究明ではなく、

“明日、何を同じにして、何を変えるか”に移り始めていた。


「国際線の扱いは?」


国交省の連絡官が答える。

「目的地側の空港と交信できません。

天候でも紛争でもない。

ただ、確認できない」

「飛ばせるか?」

「現状では無理です。理由が説明できません」


説明できない、という理由で飛べない。

それは逆説だが、航空は逆説の上に成り立っている。

安全を説明できなければ、危険を許容できない。


「物流は?」


経産省の担当が言う。

「国内は回っています。

ただ、輸入の前提が揺らいでいます。

為替が動かず、契約が止まり始めています」

「止まったら?」

「止まります。理由がないまま」


理由がないまま止まる。

その言い回しが、部屋を少し冷やした。


午後六時四十分。

統合幕僚監部。


「明日は、どこまで見る?」


誰かが問う。

答えは簡単だ。

“もっと遠く”

だが、もっと遠くは、燃料で決まる。

燃料は、地球サイズを前提に計算されている。

前提が怪しいのなら、燃料計算も怪しい。

怪しい計算で遠くに行けば、戻れない可能性がある。

戻れない可能性がある行動には、理由が要る。

理由がない。


「空中給油を組み込む」


空幕の幕僚が言う。

「帰投を絶対条件にする」

「給油機は?」

「KC-767、KC-46が使える」

「海上は?」

「補給艦を動かせます。ただ、補給艦も“行ける距離”の前提が同じです」


前提の問題は、どこへ逃げても付いてくる。


午後七時十分。

街。


海外ニュースが更新されないことに、ようやく人が気づき始めた。

SNSには断片的な投稿が増える。

「海外が静かすぎる」

「国際電話が繋がらない」

「地図アプリが変だ」

だが多くは、冗談めいた口調を保っている。

冗談でなければ、受け止めきれないからだ。


テレビは平常運転だ。

番組表も、CMも、天気予報も、いつも通り。

いつも通りであることが、

視聴者を安心させるのではなく、

逆に「本当に起きているのか?」という疑いを生む。

疑いは、情報を求める。

情報を求める声は、やがて圧力になる。


午後七時四十五分。

官邸地下。


官房長官は、最後のまとめに入った。

「今日の範囲で言えるのは三つだ。

国内は機能している。

敵意の兆候はない。

だが、外側は確認できていない」


鷹宮首相は頷き、短く言う。

「明日は、遠くを見る準備を整えろ。

急ぐな。だが、止まるな」


急がない。

だが止まらない。

それは、壊れた当たり前を相手にする時の、

唯一の姿勢だった。


当たり前は、壊れたあとも当たり前の顔をする。

人はそれを、見慣れた景色だと錯覚する。

錯覚している間に、次の手順が組まれ、

次の燃料が積まれ、

次の航路が引かれていく。


そして翌日、

“遠くを見る”という行為が、

単なる確認ではなく、

この国の生存条件そのものになることを、

まだ誰も言葉にできていなかった。


午後八時十分。

国土地理院からは、基準点の再計算結果が追加で届いた。

数センチ単位のズレは、依然として全国一律に近い傾向を示している。

担当技官は電話越しに、乾いた声で言った。

「地殻変動ではありません。衛星測位の系統障害とも一致しません。

“地面が動いた”のではなく、“地面の位置を決める前提”が揺らいでいます」

前提、という言葉がまた出た。

前提は、壊れるときに音を立てない。

壊れた前提の上で測り直した数字は、正しいのに、信用できない。

その矛盾が、全員の背中に重くのしかかる。


午後八時三十分。

気象庁も追記を送った。

日の出のズレは、依然として全国同方向。

気圧配置は平常。

だが、外部基準時刻との同期は回復していない。

「観測は正常です。ただ、基準が閉じています」

閉じている、という表現は危険だったが、

担当者は他に言いようがなかった。


午後九時。

官邸地下の会議は、いったん散会となる。

誰も勝利を確信していない。

誰も敗北を認めてもいない。

ただ、明日も続く仕事のために、

“今日の当たり前”を仮固定しただけだ。


散会後、村瀬は廊下で立ち止まり、窓のない壁を見た。

地下では空が見えない。

空が見えないことは、今日はむしろ助かる。

見えたら、遠さを考えてしまう。

遠さを考えたら、次の一歩が怖くなる。

それでも、止まれない。


彼はメモ帳に、今日一日で最も多く出てきた言葉を書いた。

「確認できない」「理由がない」「前提」。

その三つを並べた瞬間、背筋が冷えた。

確認できないものに、理由を付けず、前提を疑う。

それは、国家運営として最も苦い姿勢だ。

だが、今はそれしか選べない。


そして、廊下の蛍光灯の唸りだけが、

いつも通りに鳴っていた。

それが、いちばん不穏だった。

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