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星が重なる日  作者: 橘花


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48/60

47.海へ出る

夜明け前の港は、

思ったよりも

静かだった。


夜と朝の

境目の時間。


世界が

まだどちらにも

属していない

曖昧な瞬間。


空は

完全には

白んでいない。


東の端だけが

わずかに

薄くなる。


黒と紺の

境界が

ゆっくり

溶けていく。


歓声もない。

見送りの列もない。

報道のカメラもない。


制服姿の家族も、

横断幕も、

敬礼もない。


式典という

形を与えられなかった

出港。


静寂だけが、

岸壁を

均等に覆っている。


風が

一度だけ

吹き抜ける。


旗が

小さく鳴る。


金属の

かすかな振動音。


それだけで、

ここが港であることを

思い出す。


測量艦しょうなんは、

ただそこに

浮かんでいる。


巨大でもなく、

威圧的でもない。


灰色の船体は、

夜の色を

まだ残している。


戦闘艦のような

緊張感もない。


砲塔もない。

垂直発射装置もない。

威嚇するものは

何もない。


ただ、

測るための

装置だけが

整然と並んでいる。


だが、

艦橋の窓には

まだ灯りが残っている。


眠っていない。


静かに、

目を開けている。


出港時刻は

公表されていない。


記者クラブにも、

自治体にも、

通知は回っていない。


海上保安部の

掲示板にも、

貼り出しはない。


港湾管理者の

内部予定表にも、

特別な印はない。


だが、

港の人間は

知っている。


今朝だ。


それは

噂ではない。


空気で分かる。


クレーンの動き。

トラックの止まり方。

作業員の目線。

警備員の立ち位置。


視線が

海に向いている。


すべてが

「今朝」を

示している。


甲板では

最終確認が

進んでいた。


「係留索、順次解除」


「了解」


短い言葉が

往復する。


感情は

乗らない。


声は

必要最小限だ。


無駄な

強調もない。


焦りもない。


ただ、

手順だけがある。


ケーブルは

固定された。


観測装置は

再確認された。


海底探査用の

曳航体は

収納状態を確認。


格納ハッチ、

ロック。


磁気センサー、

正常。


音響測深機、

校正済み。


慣性航法装置、

ドリフトなし。


データ記録装置、

記録開始。


予備系、

オンライン。


電源系統、

二重確認。


レーダーは

生きている。


まだ

港内モードだが、

感度は

一段高い。


AIS信号も

出している。


隠れてはいない。


だが、

目立ちもしない。


存在は

宣言しないが、

否定もしない。


それが

今回の立場だった。


「航路、再確認」


「問題なし」


「合流ポイント、更新なし」


「気象予報?」


「現時点では安定」


「予備案?」


「設定済み」


しょうなんは

ゆっくりと

岸壁を離れる。


推進器が

微かに

唸る。


水面が

わずかに

震える。


波は

ほとんど立たない。


水が

後ろに

押し広げられるだけだ。


見ていなければ、

動いたことにも

気づかない。


ただ、

岸壁との

わずかな距離が

広がる。


数メートル。


十メートル。


二十メートル。


その距離は、

物理的なものだ。


だが同時に、

政治的な距離でもある。


港という

「国内」から、

海という

「未定義」へ。


それだけで、

もう

戻らない。


——


少し遅れて、

護衛艦あさひが

動き出す。


その姿は

測量艦より

明らかに鋭い。


角度。

影。

レーダーマスト。


無機質な

幾何学。


艦影が

朝焼けに

切り取られる。


甲板員の

動きは少ない。


露出を

抑えている。


武装は

隠していない。


だが、

強調もしない。


これは

演習ではない。


作戦でもない。


公式には、

「状況確認」だ。


だから

式典もない。


敬礼もない。


隊員整列もない。


発艦号令もない。


ただ

機械が動き、

船体が進む。


艦橋。


「測量艦、速度維持」


「あさひ、距離保持」


「対空・対水上監視、通常より一段上げろ」


「ソナー、パッシブのみ」


「了解」


レーダー画面が

静かに回転する。


円が

繰り返される。


何も映らない

ことが

続く。


それが

最良であるとは

限らない。


だが、

今は

そうであってほしい。


今回の航行は、

“いつもと同じ”ではない。


観測航行の名を持ち、

護衛を伴い、

公表されない。


三つの条件が

重なると、

意味は

変質する。


——


同時刻。


南半球。


豪州海軍の

フリゲートも

すでに沖へ出ていた。


夜のうちに

港を離れている。


出港は

さらに

目立たなかった。


補給艦の

動きに

紛れている。


発艦準備を終えた

P-8哨戒機が

滑走路で待機している。


燃料満載。


データリンクは

暗号化済み。


衛星はない。


だが、

それでも

情報は回る。


事前共有した

座標。

HF通信。

高周波バースト送信。

航空機経由の中継。


世界は

狭くなっている。


完全ではない。


だが、

十分だ。


「日本側、出港確認」


「了解」


「合流予定時刻、変わらず」


「了解」


簡潔。


余計な

形容はない。


確認とは、

見ること。


だが、

見られている可能性も

受け入れることだ。


——


日本側。


外洋に出ると、

陸の感覚は

急に薄れる。


港の建物は

水平線に溶ける。


都市の輪郭は

曖昧になり、

やがて消える。


残るのは、

海と空。


そして、

数値。


「水深、通常域」


「海流、想定内」


「水温、異常なし」


数字は

安心を与える。


だが、

数字は

裏切らないとも

限らない。


しょうなんの役目は、

測ることだ。


だが今回は、

“何を測るか”が

はっきりしない。


地形か。


磁気か。


音響か。


それとも、

存在しないはずの

何かか。


艦長が

低く言う。


「記録は

 すべて残せ」


「了解」


「通常域もだ」


「はい」


通常を残さなければ、

異常は証明できない。


確認とは、

未来の

比較材料を

作ることだ。


——


レーダー画面に

一瞬、

小さな点が浮かぶ。


「……反応?」


「距離?」


「二十八海里」


「速度、低い」


「針路?」


「不定」


「識別信号なし」


点は

揺れる。


「距離維持」


「記録」


数秒。


十秒。


点は消える。


誤反応か。


小型船か。


あるいは。


判断は

保留。


だが、

ログは残る。


確認とは、

曖昧なまま

消さないことだ。


——


官邸。


「しょうなん、外洋到達」


報告は

短い。


官房長官は

頷くだけだ。


拍手も、

感想もない。


だが、

全員が

同じことを思う。


始まった。


——


キャンベラ。


「日本側、予定通り」


「合流を優先」


「異常発見時は即共有」


言葉は

短い。


位置は

動いている。


——


日豪の艦艇は、

まだ互いの姿を

視認していない。


水平線は

広い。


だが、

座標上では

すでに

同じ空白へ

向かっている。


日本は

言葉を整え、

豪州は

手順を整えた。


そして今、

両者は

同じ海を

進んでいる。


まだ

何も起きていない。


発砲も、

警告も、

接触もない。


だが、

一つだけ

確かなことがある。


“確認”は、

もう

会議室の言葉ではない。


海の上で、

それは

距離と、

速度と、

座標の意味を

持ち始めている。


そしてその意味は、

静かに、

確実に、

重くなっていく。


まだ何も起きていない。


だからこそ、

全員が

海を

見続けていた。


何かが

映るまで。

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