2.見えるはずの世界が、見えない
午前十時三十分。
海上自衛隊の航空基地では、通常の訓練と何も変わらない手順で、P-1哨戒機が準備されていた。
整備員は機体の下面を確認し、燃料計は予定通りの数値を示している。
点検表の項目は、チェックされる順番までいつも通りだった。
油圧、電源、航法装置、通信機材、対潜装備の自己診断。
ひとつずつ潰していく確認作業の積み重ねが、基地の朝を作っている。
武装は最低限。
弾薬搭載も、通常の哨戒任務と変わらない。
違うのは、目的が「敵を探す」ことではないという点だけだった。
ブリーフィングルーム。
スクリーンに映し出されたのは、日本列島とその周辺海域。
普段なら、その外側に当然のように続いているはずの地形は、今回、あえて表示されていなかった。
表示しない、というより、表示しようがなかった。
そこに何があるか、確認できていないからだ。
「索敵範囲は、通常哨戒より拡張する」
指揮官の声は落ち着いている。
海上自衛隊 航空集団司令部からの命令を読み上げるでもなく、現場の言葉に落として伝える。
階級章の重みより、言葉の選び方が場を支配していた。
「ただし、航続距離の七割を上限とする。帰投を前提とした行動だ。
機材は正常。天候も良好。だが、状況は不明。
だからこそ、決める。——戻る」
誰も異議を唱えなかった。
敵情が不明なとき、戻れない行動を取る理由はない。
そして「戻れない」という可能性が、今日は妙に現実味を持ってしまうのが厄介だった。
ブリーフィングの最後に、指揮官は念を押す。
「報告は“事実”のみ。評価は、帰投後に本部でまとめる。
機内で言葉を先に走らせるな。
画面に出たもの、見えたもの、見えなかったもの。
全部、記録する」
この「見えなかったもの」という表現に、室内の空気がわずかに動いた。
普段の任務で“見えなかった”は、未熟か、怠慢か、運の悪さとして片づく。
だが今日は、見えなかったことが、むしろ最も重要なデータになる。
午前十一時五分。
海上自衛隊のP-1哨戒機は滑走路を離れ、雲一つない空へと上昇していった。
機体が浮いた瞬間、轟音が床を抜け、機内の計器が一斉に「飛行」という状態へ切り替わる。
空へ出る行為は、いつも同じだ。
いつも同じであることが、今日の不安を際立たせた。
上昇が安定し、巡航高度に入ると、P-1の内部はいつもの作業音に満たされた。
ヘッドセット越しに交わされる短い確認。
レーダー画面を操作する指の動き。
キーボードを叩く乾いた音。
紙のメモと端末のログが、同じテンポで増えていく。
どれも、昨日までと何も変わらない。
変わらないからこそ、違和感は時間とともに増幅していった。
「レーダー、異常なし」
**戦術航空員(TACCO)**の声は淡々としている。
だが、その報告が何度目になるのかを数え始めている自分に、本人が気づいていた。
異常がない、という報告は本来なら一度で十分なはずだった。
操縦席では、パイロットが高度計と燃料計を交互に見ていた。
高度、予定通り。
速度、問題なし。
燃料消費率、想定範囲内。
「……順調だな」
独り言のような呟きだった。
副操縦士は前方の空を見つめたまま応じる。
「順調すぎますね」
それは皮肉でも冗談でもない。
通常であれば、この時間、この距離、この高度で、何かしらが視界に入る。
遠くを飛ぶ他国の航空機。
航路を進む大型船舶。
レーダーに映る点滅。
だが、今日は何もない。
「静かだな」
誰かが言った。
「静かですね」
誰かが繰り返す。
会話はそれ以上続かなかった。
会話を続けると、言葉が勝手に結論へ向かってしまう気がした。
機内の誰もが、無意識にそれを避けていた。
レーダー画面は、あまりにも整然としていた。
ノイズは少ない。
反射も安定している。
機械としては理想的な状態だ。
だが、理想的すぎる。
「通常なら、この辺りで民間航路が一本、映っていいはずなんですが」
レーダー担当員が言う。
「……そうだな」
指揮官席からの返事は短い。
否定はしない。
だが、肯定もしない。
肯定した瞬間に“異常”が確定してしまうからだ。
確定させるには材料が足りない。
足りないまま確定してしまうことが、最も危険だった。
時間が進む。
時計の針が、確実に回っていく。
「燃料、まだ余裕あります」
「分かってる」
「航続距離的には、もう少し行けますが」
「規定通りだ」
規定。
それは、地球サイズを前提に作られた言葉だ。
そのことを、誰も口には出さなかった。
口に出した瞬間、
規定が「前提」に変わってしまい、
前提が崩れているかもしれないという話に接続してしまう。
窓の外。
太平洋はどこまでも同じ色をしている。
境目が、ない。
空と海の境界は視覚的には存在している。
だが、意味としての境界が感じられない。
「……遠いな」
誰かが、思わず漏らした。
「何がだ?」
「……分かりません。ただ、遠い」
それ以上、説明できなかった。
オペレーターは画面を一度リセットし、再同期をかける。
手順は完璧だ。
訓練で何度もやっている。
結果は変わらない。
「……反応、なし」
その報告に、誰も驚かなくなっていた。
それが、一番危険な兆候だった。
人間が異常に慣れ始める時、判断は遅れる。
操縦士は計器ではなく、自分の感覚を疑い始めていた。
距離感。
時間感覚。
速度感。
どれも数値上は正しい。
だが、正しいはずなのに納得できない。
「なあ」
副操縦士が言う。
「いつもより、飛んでる時間、長く感じないか」
「……感じる」
「実際は?」
「実際は、計画通りだ」
二人はそれ以上話さなかった。
やがて、燃料計が帰投判断のラインに近づく。
「帰投判断、入ります」
「了解」
その声に安堵が混じっていたことを、誰も指摘しなかった。
帰る、という行為が、今日はやけに現実的だった。
戻れると分かっていることが、妙にありがたい。
機体が反転する。
来た道を、そのまま引き返す。
何も見つけていない。
何も確認できていない。
それなのに、行きよりも重い空気が、機内を満たしていた。
「……報告は?」
「事実だけをまとめます」
「それでいい」
事実だけ。
それは、今日一日、何度も使われた言葉だった。
この飛行で、敵は見つからなかった。
異常も、発見されなかった。
だが、
「何も見つからない」という事実だけが、
確実に増えていった。
同時刻。
海上自衛隊の護衛艦(DD)も、通常の警戒監視任務として出港していた。
——ただし、艦の側から見れば「通常」という言葉ほど頼りないものはない。
出港はいつも通りだ。
汽笛も、係留索の外し方も、岸壁から離れる角度も、何一つ変わらない。
変わらない手順は安心を作る。
だが安心は、状況が説明できる時にだけ機能する。
護衛艦は慣れた動きで港を出て、指定された警戒海域へ向かう。
艦橋から見える海は静かだった。
静かすぎるほどに。
「対水上レーダー、通常動作」
当直士官の報告は平板だった。
「表面反応?」
「なし」
「航空反応?」
「なし」
「漁船も?」
「確認できません」
一つ一つ確認される項目が、すべて同じ答えで返ってくる。
「なし」
それは本来、安全を意味する言葉だ。
だが、この日は違った。
護衛艦の**戦闘指揮所(CIC)**でも、同じやり取りが繰り返されていた。
画面に浮かぶのは自艦の位置、航跡、味方識別信号——
しかし、その“味方”という概念も、今日に限っては曖昧だ。
味方がいるという前提自体が、まだ確認できていない。
当直員がヘッドセット越しに短く報告する。
「民間AIS信号、受信なし」
「機器不調か?」
「自艦AIS受信機、正常。アンテナ系統、異常なし」
「……ゼロのまま?」
「はい」
AISは停止されることもある。
意図的に切る船もある。
だが、広い海域で完全なゼロが続くのは、偶然としては出来すぎている。
通常であれば、この距離、この時間帯で必ず何かが映る。
外国船籍の商船。
沿岸を移動する漁船。
遠くを横切る小型艇。
それらは航路や時間帯に左右されながらも、完全に消えることはない。
だが、画面は空白だった。
「……珍しいな」
副長がレーダー画面を見ながら言った。
「ここまで何もないのは」
艦長は双眼鏡を下ろし、視界を一巡させてから答える。
「珍しい、で済めばいいがな」
それ以上、言葉は続かなかった。
艦は淡々と進む。
速力は規定通り。
進路も予定通り。
海上保安庁海図に示された水深は想定と一致している。
潮流も、ほぼ予測どおりだ。
「海そのものは、昨日と同じだ」
航海士が言う。
「少なくとも、ここまでは」
その「ここまで」という言葉が、艦橋に小さな引っかかりを残した。
“ここまで”が正しいことが、逆に“ここから先”の不確かさを浮かび上がらせてしまう。
時間が経つ。
当直が交代する。
新しい当直士官も、最初に同じ確認をする。
「レーダー、通常」
「表面反応?」
「なし」
同じやり取りが繰り返される。
繰り返されるほどに、その異常性が浮かび上がる。
「いつもなら、この辺りで航路を横切る船がある」
航海士が記憶を辿るように言った。
「曜日も、時間も、だいたい決まっている」
「今日は?」
「……いません」
それは、偶然としては出来すぎている。
艦長は艦橋前方の海を見つめた。
波は穏やかだ。
視界も良好だ。
だが、距離感が掴みにくい。
水平線がいつもより遠いような、そうでもないような。
確信は持てない。
だからこそ、気味が悪い。
「艦長」
副長が声を落として言う。
「敵情は、ないんですよね」
「ああ」
「威嚇も?」
「ない」
「……なのに、落ち着きませんね」
艦長は短く息を吐いた。
「敵がいないからだ」
「?」
「敵がいれば、やることが決まる。——今日は決められない」
副長は理解したように黙った。
艦内では、見えないところで“いつもの仕事”が続いている。
機関科は回転数と燃料消費を監視し、
補給科は艦内物品と燃料残量を照合する。
「今日は何も起きない」という前提が崩れた瞬間、
どの程度まで持ちこたえられるのか。
誰も口にしないが、数字の扱い方が少しだけ慎重になっていた。
航行は続く。
時間だけが確実に過ぎていく。
何も起きないまま、海は広がり続ける。
「……広いな」
誰かが、先ほどと同じ言葉をもう一度口にした。
否定する声はなかった。
やがて、哨戒の折り返し点に近づく。
「この距離まで来て、本当に何もないとは」
当直士官が思わず言う。
「記録には残せ」
艦長は感想ではなく、事実だけを求めた。
帰投が決まる。
艦は来た航路をそのまま戻る。
何も見つからなかった。
だが、何も見つからなかった時間の長さだけは、全員の記憶に残った。
それは、報告書の行間にしか書けない種類の事実だった。
正午前。
官邸地下、危機管理センター。
各所から上がってくる報告は、奇妙なほど一致していた。
・空域に異常なし
・海域に異常なし
・気象に異常なし
それなのに、「いつもあるもの」がない。
官房長官は資料をめくりながら言った。
「つまり、“異常がない”という報告が、異常だということだな」
誰も否定しなかった。
内閣情報調査室の担当官が、静かな声で補足する。
「国内SNS上で、“海外が消えた”“地図が変わった”といった投稿が散見されます。現時点では断定的な言説は少数ですが、検索ワードの伸びが速い」
官房長官は頷くだけで、結論を出さない。
結論を出せる材料がないからではない。結論を出すこと自体が、情報を増幅させる引き金になる可能性があるからだ。
広報官が控えめに言う。
「記者クラブから問い合わせが増えています。“海外要人との連絡が取れない”という噂も回り始めているようです」
「発表文は?」
「“通信障害”としての文案は用意できます。ただ、範囲が——」
「範囲は言うな」
官房長官が即断する。
「言うなら、国内の確認状況だけだ。外は、まだ“確認できていない”で止める」正午前。
首相官邸地下、危機管理センター(BCC)。
各所から上がってくる報告は、奇妙なほど一致していた。
・航空自衛隊の航空監視網に異常なし
・海上自衛隊の警戒監視海域に異常なし
・気象庁の気象・海象観測に異常なし
それなのに、「いつもあるもの」がない。
内閣官房長官は資料をめくりながら言った。
「つまり、“異常がない”という報告が、異常だということだな」
誰も否定しなかった。
**内閣情報調査室(内調)**の担当官が、静かな声で補足する。
「国内SNS、主に**X(旧Twitter)**上で、“海外が消えた”“地図が変わった”といった投稿が散見されます。現時点では断定的な言説は少数ですが、関連検索ワードの伸びが急激です」
内閣官房長官は頷くだけで、結論を出さない。
結論を出せる材料がないからではない。
結論を出すこと自体が、情報を増幅させる引き金になる可能性があるからだ。
内閣官房報道官が、控えめに言う。
「官邸記者クラブからの問い合わせが増えています。“海外要人との連絡が取れない”という噂も、回り始めているようです」
「発表文は?」
「“一部通信障害”としての文案は用意できます。ただ、対象範囲が——」
「範囲は言うな」
内閣官房長官が即断する。
「言うなら、国内の確認状況のみだ。
外については、まだ“確認できていない”で止める」
午後零時三十分。
航空自衛隊のP-1哨戒機は、通常であれば他国軍用機や商船の一次反応がAN/APY-10レーダーに映り始める距離に到達していた。
だが、画面は静かだ。
反応なし。**電子妨害なし。電波撹乱なし。**ノイズすらない。
「……静かすぎますね」
戦術航法オペレーターの声が、インターカム越しに漏れた。
「妨害を受けてる感じじゃない」
「はい。“何もいない”感じです」
その言葉は、すぐに言い換えられた。
「……レーダー反応が、ありません」
同じ頃、海上自衛隊の護衛艦でも同様の報告が上がる。
「通常なら、**AIS信号を出した商船の一隻や二隻、**映っていい距離です」
「だが、映らない」
「はい」
艦長は、すぐに判断を下さない。
判断するには、材料が足りなかった。
午後一時。
首相官邸地下、危機管理センター(BCC)。
**統合幕僚監部(運用部)**からの報告が取りまとめられる。
・航空自衛隊哨戒機、海上自衛隊艦艇ともに索敵範囲を訓練上限まで拡張
・周辺国に相当する位置に、航空・海上目標反応なし
・電子妨害、攻撃、電磁異常の兆候なし
結論は、一行でまとめられた。
「確認可能な範囲において、他国の航空・海上戦力の存在を確認できず」
“存在しない”とは書かれていない。
だが、“存在している”とも書かれていない。
「これは、世界が消えたと考えるべきか」
誰かが、ぽつりと呟いた。
その言葉はすぐに否定されなかったが、採用もされなかった。
「仮説は、今はいらない」
鷹宮首相が言った。
「確認できない、という事実だけを積み上げろ」
午後一時三十分。
民間では、ようやく**「業務に支障が出る」**という感覚が表面化し始めていた。
海外向けの連絡が取れない。輸送計画が確定しない。為替レートが更新されない。
総合商社の海外取引担当者は、取引先に送信した電子メールの配送不能通知を見つめている。
未達と表示されているにもかかわらず、国内の通信回線は正常に動作している。
**通信が「どの段階で途絶したのか確認できない」**という状況が、最も厄介だった。
それでも、国内の経済活動は継続している。
それが、この状況をより不気味なものにしていた。
午後二時。
航空自衛隊の哨戒機は、燃料消費計算上の規定上限に近づき、帰投行動を開始した。
最後まで、航空目標・海上目標ともに確認されなかった。
敵対勢力も、友軍も、航路や位置確認の目安となる反応も。
官邸地下。
危機管理センターにおける最終報告が、静かに共有される。
「……確認可能な範囲内に、他国の航空機・艦船は存在しませんでした」
その言葉は、重く、しかし感情を交えずに受け止められた。
この時点で、日本という国家は、一つも確定的な結論に到達していない。
だが、一つだけ、関係者全員に共有された認識があった。
「地球規模を前提とした運用常識が、そのまま適用できる保証はない」
それは宣言でも、方針転換でもない。
ただの、静かな理解だった。
午後二時十分。
航空自衛隊・航空総隊司令部では、帰投したP-1哨戒機からのデータが、解析系統ごとに順次集約されていた。
搭載光学センサーの映像。対水上/対空レーダーの生ログ。ESM(電波情報)記録。機内通信ログ。飛行中に取得された気象観測データ。
いずれも、**機器性能・運用基準上は「正常値」**の範囲に収まっている。
それが、この室内にいる全員を困惑させていた。
「レーダーノイズは?」
「ありません。バックグラウンドレベルも想定内です」
「反射異常、ゴーストは?」
「検出されていません」
「妨害電波、ECMの兆候は?」
「ゼロです。意図的な電磁妨害の痕跡はありません」
航空幕僚監部出身の一等空佐・桐生は、報告を受けながら、モニターに並ぶあまりにも整いすぎたログを見つめていた。
戦闘よりも、災害対応よりも、「事象が発生していない」状況のほうが、判断は難しい。
「……確認できない理由が、見当たらない」
誰かが、思わず漏らした。
理由がない、という表現は正確ではない。
正確には、理由を示す観測痕跡が一切存在しない。
航空機が存在すれば反射が出る。
意図的に隠蔽していれば、電波環境に歪みが出る。
妨害であれば、周波数帯に乱れが残る。
だが、そのいずれも確認されていない。
「つまり……」
若い幕僚が言葉を区切り、続きを飲み込む。
「……通常の哨戒任務で前提とされている“存在反応”が、取得できていないだけです」
桐生は、その表現を否定しなかった。
「それでいい。今は、それ以上踏み込むな」
午後二時三十分。
海上自衛隊・自衛艦隊司令部でも、同種の検討が進められていた。
**護衛艦から送信された航跡データ(GPS航法ログおよび慣性航法装置記録)は、これまで何度も哨戒してきた日本近海の海域を、誤差の範囲内で正確になぞっている。
使用している海上保安庁刊行の電子海図(ENC)**とも一致する。
音響測深機による水深データも一致。
潮流についても、海上保安庁および気象庁海洋部の予測値と大きな乖離はない。
「海底地形は、既存の日本近海データと完全に一致しています」
海洋観測担当士官が、断定的に報告した。
「少なくとも、“日本周辺海域”として登録されている範囲内では」
その但し書きが、会議室に微かな沈黙を落とす。
日本周辺海域では。
では、哨戒想定の外縁、その先はどうなのか。
午後三時。
首相官邸地下・危機管理センター。
各省庁・自衛隊からの報告は整理され、一枚の統合要約資料にまとめられていた。
・近距離索敵(航空・水上・水中)に異常なし
・通常索敵距離において想定される他国艦艇・航空機反応なし
・妨害電波、攻撃兆候、事故発生の痕跡なし
それを見た官房長官は、ゆっくりと息を吐いた。
「つまり、地球が従来の前提どおり連続して存在していると仮定した場合、
この状況は説明できない、ということだな」
「はい」
「では、前提そのものが違うと仮定した場合は?」
その問いに、即座に答えられる者はいなかった。
仮定は、ここで口に出した瞬間、国家判断の方向性を固定してしまう。
今はまだ、そうすべき段階ではない。
内閣官房副長官補・村瀬が、慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「……現時点で我々が確認しているのは、
“世界そのものの異常”ではありません」
一拍置く。
「観測・判断・運用の前提条件が、成立していない可能性です」
前提。
それは、これまで一度も正式に確認する必要がなかったもの。
・地球は一つである
・大陸配置は固定されている
・距離と時間は一定の関係にある
それらは、証明されているからではなく、疑われたことがなかっただけだった。
午後三時三十分。
国内大手航空会社の運航管理センターでは、国際線の運航可否について、再び協議が行われていた。
壁面モニターには、ICAO基準の航路図、各国空港のNOTAM情報、気象データ、機材配置表が並ぶ。
「目的地側の空港が、閉鎖されたという通知は出ていません」
運航管理責任者は、言葉を慎重に選ぶ。
「滑走路閉鎖も、管制停止も、公式には確認されていない」
「だが、確認が取れない」
別の担当者が続ける。
「管制との交信が成立しない。
着陸許可が出る保証がありません」
「確認できない空港に、飛ばせますか?」
問いは、感情ではなく規程だった。
「……現時点では、運航規程上、困難です」
天候理由ではない。
戦争理由でもない。
だが、到着地の管制・救難・地上支援が“確認不能”。
その一点だけで、国際線は事実上、止まり始めていた。
午後四時。
街の感覚は、まだ「少しおかしい」という段階に留まっている。
海外からの連絡がつかない。
国際ニュースの更新が極端に少ない。
為替レートが、最後の値で止まっている。
だが、電車は動き、店は開き、業務は回っている。
それが、この事態をより長引かせていた。
機能している社会は、異常を急いで認めない。
官邸地下。
首相官邸・危機管理センターで、
鷹宮首相は静かに言った。
「今日一日で、答えは出ないな」
誰も否定しなかった。
否定できる材料が、どこにもない。
「なら、次は“これまでの想定距離を超えて”確認する準備をしろ」
それは、
索敵や監視の拡張ではなく、
前提そのものを検証する段階への移行を意味していた。
午後四時三十分。
**航空自衛隊 航空総隊司令部(横田)**では、帰投した P-1哨戒機 のデータ解析が続いていた。
モニターに映し出されるのは、GPS航跡、対地速度、気圧高度、燃料消費率、INSログ。
いずれも、機体性能・運用規程の範囲内に収まっている。
だが、そのデータを 国土地理院の基準座標系を用いた作戦地図 に重ねた瞬間、
違和感が数値として浮かび上がった。
「……距離が、合わない」
航空総隊分析担当の幹部が、画面から目を離さずに言った。
「どの区間ですか」
「区間じゃない。
全行程だ」
言葉は短いが、意味は重かった。
P-1は、これまで何度も飛行してきた 西太平洋の哨戒海域を、
いつもと同じ対地速度、同じ高度帯、同じ航法モードで飛行している。
だが、通常であればレーダー上に映り始めるはずの航路・通信中継点・目視目標が、
一切現れない。
レーダー反応がないだけではない。
SATCOM中継の想定位置、航法補正の感覚、時間経過に対する距離感――
そのすべてが、計算値よりも「遠い」。
「体感距離が、ずれています」
操縦士の所感報告は、
後から抽出された INS・GPS差分解析 と一致した。
「燃料消費率は、計画通りです」
「機体側の異常は?」
「ありません。機体・センサーともに正常です」
「……なら、何が違う」
誰も答えられなかった。
午後五時。
海上自衛隊 自衛艦隊司令部でも、同じ性質の報告が上がっていた。
護衛艦の航跡は、**海上保安庁の電子海図(ENC)**上では、
確かに既知の海域を正確になぞっている。
水深は一致する。
海底地形も、日本近海として矛盾はない。
潮流データも、JODCの予測値と大きく外れてはいない。
だが、
**「次に現れるはずのもの」**が、現れない。
国際商船航路。
外国船籍のコンテナ船。
沿岸で操業する漁船群。
それらが一切確認できない距離が、
航海経験上、明らかに広すぎた。
「……海が広い、というより」
護衛艦艦長が、言葉を選ぶ。
「“世界が広い”感じがします」
その表現は、
公式の行動報告書には記載されなかった。
だが、
その場にいた誰一人として、否定することはできなかった。
午後五時三十分。
首相官邸地下 危機管理センター。
航空自衛隊と海上自衛隊から上がった 索敵・航行データが、
同じ長机の上に並べられていた。
席には、
気象庁予報部、
国土地理院測地部、
防衛省防衛政策局および統合幕僚監部分析官が顔を揃えている。
全員が、
同じ仮説に触れかけ、
同じ理由で口を閉じていた。
「地形データ自体は、地球のものです」
国土地理院・測地部の技官が、
GNSS基準点と海底地形図を示しながら言う。
「少なくとも、日本列島およびその周辺海域については、
既存の測地基準と完全に一致しています」
「だが、距離感が合わない」
航空総隊司令部の幕僚が、
P-1の航法ログを指し示す。
「通常の対地速度、通常の燃料消費で飛行しているにもかかわらず、
この時点で確認できるはずの航路・反応が、一切現れていない」
「妨害ではない」
「事故でもない」
「センサー不良でもない」
個別に見れば、
すべてが“正常”だ。
官房長官は、
それらを一つの文にまとめた。
「つまり、“距離そのもの”が、
我々が前提としてきた条件と一致していない」
誰も反論しなかった。
「……地球が広がった、ということですか」
誰かが、思わず口にした。
その言葉は、即座に議事録対象から外された。
仮説としては粗すぎる。
だが、否定するだけの材料も、存在しなかった。
午後六時。
防衛省・統合幕僚監部 補給計画関連部署では、
通常の演習計画では行われない再計算が始まっていた。
・航空機の最大航続距離
・護衛艦の補給間隔
・空中給油を前提とした展開可能半径
それらはすべて、
**「地球の距離尺度」**を前提に組まれている。
もし、その前提が違うのだとしたら。
「……同じ装備でも、
実効的にカバーできる範囲が変わります」
補給担当官が、数字を示しながら言う。
「防衛線そのものが、
物理的に引き伸ばされる可能性があります」
それは、
敵が存在しなくても成立する脅威だった。
午後六時三十分。
民間では、
「理由が分からないまま業務判断が止まっている」
という状況だけが、静かに広がり始めていた。
大手物流会社の運行管理フロアでは、
北米・欧州・アジア向けの国際輸送計画が、
次々と「一時保留」のステータスに切り替えられている。
「現地側からの確認が取れません」
「出港そのものは可能ですが、
到着地の受け入れ可否が確認できない以上、
今日は動かせませんね」
「通信障害ですか?」
「……分かりません。
回線は生きていますが、
判断に必要な情報が返ってこないだけです」
輸送距離も、所要時間も、
帳簿上の数字そのものは昨日と変わっていない。
変わったのは、
それらを裏付けていたはずの「外部からの確認情報」だけだった。
午後七時。
首相官邸地下 危機管理センター。
鷹宮首相は、各省庁からの最終報告を聞き終えたあと、
一つだけ問いを投げた。
「今日の範囲で、
我々が“確定できたこと”は何だ」
沈黙が落ちる。
誰も、即答しなかった。
やがて、官房長官が、
事実だけを選ぶように答えた。
「……分からない、ということが分かりました」
それは、
皮肉でも、責任逃れでもなかった。
「だが」
首相は、言葉を続ける。
「次にやるべきことは、
はっきりしたな」
「はい」
「もっと遠くを見る」
それは、
探索行動を“確認できるはずだった距離”の外へ拡張する
という意味だった。
近くには、何もない。
ならば、
遠くを見るしかない。
午後七時三十分。
首相官邸地下 危機管理センター。
一日の報告は、ほぼ出そろっていた。
気象庁、総務省、国土地理院、防衛省、金融庁。
どの分野からも、
「致命的な障害」「即時対応を要する破綻」は報告されていない。
それが、この会議室の空気を妙に重くしていた。
「……今日一日で、
“明確に壊れた”と断定できるものはありますか」
鷹宮首相の問いに、誰も即答できなかった。
壊れた、と言うには、
設備破損も、システムダウンも、死傷事故もない。
だが、壊れていない、と言い切るには、
成り立っている前提が多すぎた。
「通信は、生きています」
総務省 情報流通行政局の担当者が言う。
「国内回線、国際回線ともに物理障害は確認されていません。
ただし、海外側からの応答がありません」
「遮断ではない?」
「はい。
送信は成立していますが、
相手からの応答が返ってこない状態です」
「つまり、
こちらは世界に向けて呼びかけているが、
世界が返事をしていない」
誰かがそう言い換えた。
その表現は議事録には残されなかった。
だが、全員の認識には、確かに残った。
「航空・海上は?」
統合幕僚監部の連絡官が、一日の結果を整理する。
「近距離索敵では異常なし。
通常距離において、
他国軍用機、民間航空機、商船・漁船を確認できず」
「攻撃の兆候は?」
「ありません」
「妨害は?」
「ありません」
官房長官は、ゆっくりと頷いた。
「つまり、
“何もされていない”」
その言葉が、かえって不安を呼んだ。
内閣官房副長官補の村瀬が、静かに補足する。
「本日得られた事実は、
“世界が日本に敵対している”証拠ではありません」
「だが、
“世界が昨日までと同じ形で存在している”
という証拠もない」
「はい」
この二文が、この時点での結論だった。
午後八時。
民間の感覚は、ようやく
「違和感」から「不便」へ近づき始めていた。
海外との連絡が取れない。
国際輸送の予定が立たない。
国際線の運航判断が保留されている。
だが、街はまだ騒いでいない。
理由は単純だった。
——国内は、何も壊れていない。
電気は点く。
水は出る。
店は開いている。
人は、生活が続いている限り、
最悪の想像を後回しにできる。
官邸地下。
鷹宮首相は、一つの資料に目を留めた。
それは、
航空自衛隊航空総隊と
海上自衛隊自衛艦隊司令部が提出した、
航続距離および補給計画の再計算案だった。
「これまでの前提では、
どこまで“確認できる”」
「地球サイズを前提にすれば、
十分な範囲をカバーできます」
「では、
前提が違う場合は?」
一瞬の沈黙。
誰も「違う」とは言わない。
だが、「違わない」と断言できる者もいない。
「長距離偵察を、
検討すべきだな」
首相は、あくまで提案の形で言った。
命令ではない。
だが、異議を唱える者はいなかった。
「長距離、というのは」
官房長官が確認する。
「これまで
“必ず確認できるはずだった距離”を、
明確に超える、という意味だ」
「補給は?」
「空中給油を含め、帰投を絶対条件とする」
「武装は?」
「最低限だ。
理由がない」
理由がない。
その言葉が、この日、
何度も、慎重に、繰り返し使われていた。
午後八時三十分。
防衛省・統合幕僚監部および各自衛隊司令部では、
静かな準備が始まっていた。
年度訓練計画の再確認。
関連予算の扱いの整理。
行動記録・飛行記録・航泊日誌の書式確認。
すべてが、
「通常訓練」および「平素の警戒監視活動」
という枠の中で行われる。
それは欺瞞ではない。
現時点において、
それ以上の法的・運用上の用語を用いる合理的根拠が存在しない
からだ。
民間からの問い合わせは、まだ少ない。
「海外の取引先と連絡が取れません」
「国際線の運航判断は、どうなりますか」
どれも、
行政対応を要求するものではなく、
“実務上、困っている”という段階
に留まっている。
政府は、それ以上の情報を出していない。
出せない、のではない。
公式に使える言葉が、まだ存在しない。
午後九時。
首相官邸地下 危機管理センター。
最終確認が行われる。
「今日の判断をまとめる」
官房長官が言う。
「世界がどうなっているかは、分からない」
「日本に対する敵意や攻撃の証拠はない」
「だが、
これまで当然視してきた前提条件が、
成立していない可能性がある」
「よって、
次の段階として
“より遠方の状況を確認する”」
それだけだった。
鷹宮首相は席を立つ前に、
一言だけ付け加えた。
「急ぐな。
だが、止まるな」
それは、
この国が選んだ、唯一現実的な態度だった。
日本という国家は、
まだ異変の正体を知らない。
どこへ行けば、
何が見つかるのかも分からない。
だが一つだけ、
確かなことがあった。
——この世界は、
もう「知っている場所」ではない。




