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星が重なる日  作者: 橘花


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23/60

22.止められない情報は、いつも正式ルートを通らない

官邸が最初に気づいたのは、

「動き」ではなかった。


部隊の移動でもない。

政策転換でもない。

声明でも、決定でもない。


ましてや、

抗議や要求の類ですらない。


それは、

雑音だった。


誰かが意図して発したものではない。

誰かが集めようとしたものでもない。


だが、

確実に存在していた。


存在していると

断言できるほど強くはない。

だが、

存在していないと

切り捨てるには、

少しだけ重い。


記録に残すには弱すぎる。

対応を決めるには曖昧すぎる。


「気のせい」と言えば

それで済んでしまう程度の違和感。


だが、

無視し続けるには

少しずつ耳につく。


正式な報告書の行間に、

決裁文書の余白に、

説明できない違和感として

静かに、だが確実に

混じり込んでくるもの。


それは、

文面そのものではない。


文面の選び方だ。

語尾の揺れ。

過去形への滑り。

「念のため」という前置き。


文字にはならない。

数値にもならない。


だが、

“感触”として残る。


この部屋で扱われる情報の中で、

最も厄介な種類のものだった。


単体では意味を持たない。

拾い上げるほどの音量でもない。

無視しても、

その場では何も困らない。


むしろ、

無視する方が楽だった。


対応しなければ、

責任も生まれない。

判断も要らない。


判断がなければ、

評価もない。

評価がなければ、

失点もない。


だから、

雑音は

最初に切り捨てられる。


それが、

この場所の

長年の習慣だった。


最初は、

誰もそれを

「一つの流れ」として

認識していなかった。


雑音は、

個別に存在する限り

問題にならない。


一件一件を見れば、

どれも説明がつく。

どれも正当だ。

どれも違法ではない。


問題になるのは、

それが揃い始めた時だ。


同じ種類の雑音が、

別々の場所から、

別々の文脈で、

ほぼ同時に聞こえ始めた時。


偶然という言葉で

片付けるには、

数が合わなくなった時。


経産省の若手職員が、

午後の業務報告のついでに、

あくまで“余談”として

口にした一言。


「……港湾会社から、

 ちょっと変な問い合わせが来てます」


その言い方には、

深刻さも、警戒もない。


むしろ、

「気にしなくていい話」を

共有しておく、

という調子だった。


雑談に近い。

正式報告ではない。

だからこそ、

安全だった。


だからこそ、

誰も身構えなかった。


会議室の空気は、

一瞬だけ揺れたが、

すぐに元に戻った。


この部屋では、

空気が戻ることが

最も重要だ。


「変?」


課長が、

画面から目を離さずに聞く。


すでに彼の意識は

次の資料に移っている。


ここで必要なのは、

判断ではない。

処理だ。


処理とは、

流れを止めないことだ。


「ええ。

 “念のための確認”って言うんですけど」


確認。


この言葉が、

ここ数日で

妙に増えていた。


確認したい。

確認しておきたい。

一応、確認。


どれも、

決断を伴わない言葉だ。

責任を生まない言葉だ。

誰の名前も残らない言葉だ。


言い換えれば、

誰も傷つかない言葉だ。


だからこそ、

便利だった。


だが、

確認が増えるということは、

信じられていない前提がある

ということでもある。


それは、

公式には認められていない不信だ。


不信は、

宣言されると問題になる。


だが、

確認という形を取れば、

問題にならない。


疑っているとは言っていない。

ただ、

確かめたいだけだ。


その言い訳は、

あまりにも万能だった。


「内容は?」


「次の船便が、

 本当に来るのかどうか、です」


「契約は?」


「あります」


「スケジュールは?」


「あります」


「……それで?」


「“それでも確認したい”と」


沈黙。


この沈黙は、

驚きではない。

怒りでもない。


面倒なものに触れた時の沈黙だ。


正しい答えはある。

だが、

それを言っても

話が終わらないことを

全員が理解した瞬間の沈黙。


「来る予定です」

そう言えば終わる。


だが、

それで納得しない人間が

増えているという事実だけが

残る。


経産省の課長は、

それ以上掘り下げなかった。


掘り下げれば、

判断が必要になる。


判断が必要になれば、

自分の机に

責任が落ちてくる。


そしてこの件は、

今すぐ困る話ではない。


今日止まるわけではない。

明日崩れるわけでもない。


「今すぐ」ではない問題は、

この場所では

後回しにされる。


だから、

その話は

議事録に残らなかった。


代わりに、

記憶に残った。


――変だな、という感触だけが。


この「感触」は、

数値化できない。

報告書にもならない。


だが、

消えもしない。


忘れようとした時、

別の形で

また現れる。


別の省で。

別の机で。

別の文脈で。


同じ頃。


外務省の中堅職員が、

業務時間外に

一本の電話を受けていた。


相手は、

海外の研究機関に勤める

古い知人だ。


学会で知り合い、

何度か酒を飲んだ程度の関係。


仕事の話をする間柄ではない。

だが、

仕事の匂いがする話は

いつもこの相手から来る。


「最近さ、

 日本からの“非公式な問い合わせ”

 増えてない?」


その言葉に、

中堅職員は

一瞬だけ目を閉じた。


否定できない質問だった。


「非公式?」


「研究者とか、

 民間とか。

 肩書きが揃ってないやつ」


外務省の中堅は、

即答しなかった。


それは、

事実だったからだ。


問い合わせは増えている。

だが、

誰も政府を名乗らない。


名刺は出さない。

文書も残さない。

「個人的に」という言葉だけが

必ず添えられる。


責任を引き受けないための

完璧な前置き。


偶然を装った、

組織的でない動き。


だが、

方向性だけは

不思議なほど揃っている。


「偶然じゃない?」


そう返すと、

電話の向こうで

知人は少し笑った。


「偶然にしては、

 質問の方向が似すぎてる」


似ている質問。

だが、

同じ文面ではない。


・航路は本当に存在するのか

・燃料供給は“続いている”のか

・市場は今も市場として機能しているのか


どれも、

公式ルートでは聞けない問いだ。


聞けば、

聞いた側の意図を

疑われる。


外務省の中堅は、

電話を切ったあと、

すぐに上司へは報告しなかった。


理由は単純だ。


正式な案件ではない。

公式ルートを通っていない。

説明する言葉がない。


だが、

手帳の片隅には

小さく書いた。


「非公式照会、増加傾向」


このメモは、

誰にも見せない。


だが、

消しもしない。


それは、

「まだ言葉にならない何か」を

留めておくための

楔だった。


同じ日の夕方。


官邸の危機管理センター。

前日の会議とは

別の顔ぶれが集まっていた。


議題は、

別件のはずだった。


だが、

配布資料の端に

小さな付箋が貼られている。


「民間照会、

 地方発、

 件数増」


付箋という形式が、

この情報の扱いを

象徴していた。


正式資料にするには

早すぎる。

だが、

完全に無視するには

多すぎる。


誰かが、

その付箋を

指で軽く叩いた。


「これ、

 どういう意味だ?」


内閣府の調整官が答える。


「正式ルートじゃありません」


「どこから?」


「港湾会社、

 エネルギー企業、

 大学関係者……

 個別に動いています」


「誰の指示だ?」


一瞬の間。


「……誰の指示でもありません」


その答えに、

部屋の空気が

わずかに変わる。


命令がない動きは、

止めにくい。


止めれば、

なぜ止めたのかを

説明しなければならない。


「違法では?」


「いえ。

 すべて合法です」


「問題は?」


「今のところ、

 ありません」


それが、

一番厄介だった。


問題がない動きを、

止める理由はない。


だが、

放置すれば、

事実だけが積み上がる。


「このまま続くと?」


調整官は、

言葉を慎重に選んだ。


「……官邸が何も言わないうちに、

 “確認された事実”が

 先に社会に出ます」


「それは、

 決断を迫られるということか?」


「いえ」


調整官は、

首を横に振った。


「もっと悪い」


「決断する前提が、

 勝手に作られます」


沈黙。


官邸が恐れていたのは、

外圧ではない。

抗議でもない。

内乱でもない。


既成事実だ。


誰も命じていない。

誰も違反していない。

誰も悪くない。


だが、

“確認された世界”だけが

静かに増えていく。


官邸は、

まだ何も決めていない。


だが、

官邸の外では、

決めなくても進む世界が

確実に形を持ち始めていた。


それは、

止めようとした瞬間に

必ず問われる動きだ。


――なぜ止めるのか。

――何を隠したいのか。

――誰のために沈黙するのか。


官邸は、

まだ沈黙している。


だが、

沈黙はもう

世界を止める力を

持っていなかった。


次に問われるのは、

「決めるかどうか」ではない。


**「いつまで決めないでいられるか」**だった。


その猶予が、

音もなく、

だが確実に削られ始めていることを、

この部屋にいる全員が

はっきりと理解していた。


そして誰も、

それを止める言葉を

持っていなかった。


雑音は、

もはや雑音ではなかった。


それは、

止められない情報になりつつあった。

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