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星が重なる日  作者: 橘花


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2/18

1.当たり前が、説明できなくなった朝

当たり前というものは、壊れるときに音を立てない。

少なくとも、人がそれを「当たり前」として扱っている間は。


それは、特別な前触れもなく、静かにずれていく。

音もなく、光もなく、揺れもない。

ただ、説明しようとした瞬間にだけ、言葉が詰まる。


その朝、日本列島には、何も起きていなかった。


少なくとも、地震計が反応するような揺れはなく、空を裂くような爆音もなく、警報が鳴り響くこともなかった。

夜明け前の街は静かで、道路を走る車の音はいつも通りに遠くへ消え、駅へ向かう人々の足取りも、普段と変わらない。

空はわずかに白み始め、街灯が順番に役目を終え、朝が来る準備をしていた。


それが、なおさら不気味だった。


異常があるなら、分かる形で現れてほしかった。

揺れるなら揺れてほしいし、壊れるなら壊れてほしい。

人は、見える異常には対応できる。


だが、その朝に起きていたのは、見えないはずのものが、少しずつ、しかし確実に噛み合わなくなっていく現象だった。


午前五時三十八分。

東京都港区虎ノ門、気象庁本庁舎。


予報部のフロアでは、夜勤と早番の引き継ぎが淡々と進んでいた。

蛍光灯の白い光の下、紙コップのコーヒーを片手に端末を操作する者、印刷された資料に目を通す者、壁一面に並ぶモニターを無言で確認する者。

そこにあるのは、いつもと同じ光景だった。


予報部主任予報官の佐久間は、引き継ぎ票を受け取りながら、フロア全体の「音」を聞いていた。

キーボードの打鍵音。

プリンタの駆動音。

空調の低い唸り。

椅子のキャスターが床を擦るかすかな音。


どれも平常だ。

平常であることが、この仕事の価値でもある。


異常が起きないこと。

それが、気象庁という組織が、社会から最も期待されている成果だった。


だが佐久間は、夜勤明けの若手――宮坂の表情が硬いことに気づいた。

硬いというより、視線が妙に一点に固定されている。


事故現場を見た人間がする目だ。

興奮ではない。

恐怖でもない。


「納得できない数値」を前にした人間の目だった。


モニターには、全国のアメダス観測点、気象レーダー、上空観測データ、海象情報が並び、気圧配置も、雲量も、風向も、すべてが平常を示している。

今日もまた、穏やかな一日が始まる。

少なくとも、数値だけを見れば、そう判断できた。


異常は、数字そのものではなかった。


「……合わないな」


宮坂の呟きは、誰かに聞かせるためのものではなかった。

自分で自分を説得しようとして、失敗した声だった。


「何か出たか?」


佐久間は、引き継ぎ票から目を離さずに聞いた。

声の調子を変えない。

変えれば、場の空気が変わる。


「いえ……出てないんですけど」


その返答の曖昧さに、佐久間は内心で一段階だけ警戒を上げた。


「出てない、ってどういう意味だ」


宮坂は、一度モニターを見てから、指先で別の画面を呼び出した。


「日の出時刻です。計算値と、実測値が、少しずれてます」


佐久間は椅子を回し、画面を覗き込んだ。

表示されている差は、四秒。


時計を凝視しなければ気づかない。

観測誤差として処理できなくはない。


大気の屈折。

雲の影響。

観測点の高度差。


理由を付けるなら、いくらでもある。


その「理由を付けるなら」という言い回しが、気象庁の現場ではいちばん危険だった。

理由が付けられる、ということは、結論を急げてしまうということだ。


佐久間は表情を変えなかった。

変えると、現場がざわつく。

ざわつけば、先に「異常」が生まれる。

異常を作り出してしまったら、観測は汚れる。


だが、宮坂の手は止まっていない。

彼は次の画面を開いた。

さらに次。


北海道。

東北。

関東。

近畿。

九州。

沖縄。


全国すべての観測点で、同じ方向に、同じ秒数だけ、日の出がずれている。


「……全国で?」


「はい。全部、同じです」


佐久間の思考が、一瞬だけ止まった。


誤差は、ばらつく。

ばらつかない誤差は、誤差ではない。


佐久間の頭の中で、過去のケースが高速で洗い出される。

観測系統の共通障害。

時刻同期のズレ。

端末設定ミス。

参照データの更新遅延。


だが、どれもこの「全国一律」を説明しきれない。

当てはまらないこと自体が、すでに不穏だった。


「標準時は?」


「庁内の原子時計は正常です。内部同期は取れています」


佐久間は一拍置いて、次を問う。


「外と合わせた結果は?」


宮坂は、ほんの一瞬だけ言葉を探した。


「……外の基準が取れません。GPSと準天頂、両方です」


通信が切れたわけではない。

受信はしている。

だが、同期が成立しない。


佐久間は、その一文が持つ重さを、現場の誰より知っていた。

「外」と繋がらないことは、気象予報の世界では単なる不便ではない。


上空のデータ。

海洋のデータ。

他国由来の観測。

衛星による補助情報。


それらは、毎日当たり前に“そこにある”ものとして組み込まれている。


当たり前が欠けた瞬間、予報は「できる/できない」ではなく、「どこまで信じられるか」になる。


佐久間は、声を荒げなかった。

こういう時に感情を出すと、現場の空気が変わることを、長年の経験で知っている。


「記録を残せ。他の系統も全部洗い直す」


「はい」


誰も「異常だ」とは言わなかった。

だが、誰も「問題ない」とも言えなかった。


気象庁のフロアを包んでいたのは、緊張ではなかった。

混乱でも、恐怖でもない。


もっと厄介なものだ。

説明できない違和感。


佐久間は内線を取り、予報部の上席――課長補佐の高木に短く告げた。


「全国一律のズレ。外部基準の同期不成立。原因不明。記録取ってる」


それだけで通じる。

通じてしまうことが、怖かった。


人は、危険には慣れることができる。

災害にも、事故にも、想定という名の備えがある。


だが、説明できない違和感には、対応手順が存在しない。


午前五時五十分。

東京都千代田区、国土地理院。


測量データの定期更新作業は、通常なら最も退屈な業務の一つだった。

基準点の数値を確認し、前回との差分をチェックし、問題がなければ承認する。

作業手順は決まっている。

判断の余地は、ほとんどない。


測地部係長の石黒が、画面を見て二度瞬きをしたのは、その「判断の余地」が、突然現れたからだった。


一度目は、生理的な反応。

二度目は、職業的な確認だ。


数値は大きくない。

数センチ単位。

一般人が聞けば、「誤差」と言って終わる数字だ。


だが、石黒はそれを誤差と呼べなかった。


全国に散らばる電子基準点が、同じ方向に、同じ傾向で、同じだけズレている。


地殻変動なら説明できる。

だが地震は起きていない。

微動も、歪みも、観測網に痕跡がない。


測位衛星の問題なら、ズレはばらつく。

局所的に乱れる。

だがこれは、あまりにも「揃いすぎている」。


石黒の背中に、じわりと冷たい汗が滲んだ。


国土地理院の仕事は、地図を作ることではない。

「この国が、どこにあるか」を定義することだ。


測位が狂えば、

国境線が揺らぐ。

災害復旧の座標が信用できなくなる。

自衛隊の射撃諸元も、航空機の進入経路も、すべてが前提不明になる。


これは、公表してはいけない種類の異常だった。


石黒は電話を取らなかった。

声にすれば、言葉が暴れる。


代わりに庁内チャットを開き、極限まで削った文面を打ち込む。


「全国基準点、同傾向ズレ。

 測位基準、外部確認不可。

 原因未判定。

 現時点、公表不可と判断」


送信ボタンを押したあと、石黒は椅子に深く座り直した。


これは異常ではない。

異常と呼べない何かだ。


午前六時十一分。

霞が関、総務省。


通信インフラを担当するフロアでは、夜勤から早番への切り替えが終わりかけていた。

回線監視用の大型モニターには、国内外の通信トラフィックが色分けされて表示されている。


通常であれば、海外向け回線は時間帯によって波がある。

早朝は一度落ち着き、欧州が動き出す頃に再び増える。

完全に「静止」することは、まずない。


その朝は、静止していた。


「……返ってきません」


通信監理官の高瀬は、モニターから目を離さずに言った。

誰かに聞かせるための声ではない。

事実を音にして、確かめるための言い方だった。


「どの回線だ」


隣に立っていた課長補佐が、即座に問う。


「国外向け全系統です。政府系、民間、衛星、短波。

送信は成立していますが、応答がありません」


「物理断は?」


「検知されていません。

海底ケーブル監視も正常です」


高瀬は一度だけ言葉を切った。

頭の中で、「使えない言葉」を整理している。


遮断。

障害。

攻撃。

不通。


どれも、この状況を正確に表していない。


「……国内向けは?」


「すべて正常です」


その一文が、フロアの空気をわずかに沈ませた。


遮断なら、原因を追える。

障害なら、復旧計画を立てられる。

攻撃なら、防衛案件に移行できる。


だが、

こちらが呼びかけているのに、返事がない。


それは、

「通信の問題」ではない可能性を示していた。


「不通、ではないな」


課長補佐が確認する。


「はい。

“通っているが、返事がない”状態です」


「相手がいない、という意味か?」


高瀬は、首を横に振った。


「……そこまでは言えません」


言えないのではない。

言わない、という判断だった。


通信行政は、言葉一つで現実を作ってしまう。

「遮断」と言えば、外交が動く。

「不通」と言えば、社会が騒ぐ。


だからこそ、

高瀬は最も無難で、最も不安を残す言葉を選んだ。


「確認できない」


午前六時三十分。

都内某所、金融機関のシステム監視室。


壁一面に並ぶモニターには、国内市場、海外市場、為替、商品先物、各種指数が表示されている。

担当者の佐伯は、為替の画面だけを凝視していた。


更新されない。


エラー表示はない。

通信状態も「正常」。

APIも生きている。


数値は、最後に取得した値のまま固定されている。


「……海外、止まってる?」


佐伯の問いに、後ろの席の同僚が振り向いた。


「止まってるって、取引停止?」


「いや。

更新が来ない」


「システム障害じゃないのか」


「それならアラートが出る。

出てない」


佐伯はマニュアルを開き、該当項目を一つずつ確認する。


ネットワーク。正常。

API接続。正常。

冗長回線。正常。


該当なし。

該当なし。

該当なし。


市場が止まるときは、必ず理由がある。

戦争。

災害。

政策。

事故。


だが、この朝には、理由がない。


「……今日は、やけに静かだな」


誰かが冗談めかして言ったが、笑う者はいなかった。


静かすぎる市場は、経験上、あまり良い前兆ではない。


為替が動かないということは、

輸入価格が決められないということだ。


燃料。

食料。

部品。

医薬品。


国家経済の前提が、音もなく宙に浮く。


それでも、市場は混乱していない。

誰も売りに走っていない。

誰も逃げていない。


それが、

この異常をより異様なものにしていた。


午前六時五十分。

東京都新宿区市ヶ谷、防衛省。


地下の情報関連部署では、人工衛星の追跡画面を前に、複数の担当官が席を離れずにいた。

交代時間は過ぎている。

だが、誰も「上がります」とは言わなかった。


空幕情報担当一佐・桐生は、画面を見ながら淡々と質問を重ねる。


「今、追尾できているのは?」


「日本上空に割り当てられていた軌道の一部です。

完全ではありませんが、通信は維持されています」


「他は?」


「……追尾不能が増えています」


「落下予測は?」


「ありません」


「異常軌道は?」


「確認されていません」


事故なら兆候がある。

攻撃なら痕跡が残る。

妨害なら、電磁的な乱れが出る。


だが、そのどれもない。


「消えた、とは言うな」


桐生は、あらかじめ線を引く。


「存在しない、とも言うな。

今言えるのは、“追えていない”だけだ」


「了解しました」


担当官の一人が、慎重に言葉を選ぶ。


「日本周辺以外の状況が、把握できません。

“外側”が……続いていないように見えます」


桐生は、その表現を即座に否定しなかった。

だが、修正は加えた。


「“見えない”と言え。

見えないことと、ないことは違う」


その場にいた全員が、同じ理解に至っていた。


言葉を間違えれば、判断が歪む。

判断が歪めば、国家が動いてしまう。


午前七時二十九分。

首相官邸地下、危機管理センター。


情報は、雪崩のようには集まらなかった。

むしろ、点が静かに増えていく感覚だった。


気象庁。

国土地理院。

総務省。

金融。

防衛省。


すべてが別の理由で、

同じ場所に近づいている。


——説明できない。


内閣官房副長官補の村瀬は、机の端に立ち、資料の束を見下ろしていた。

彼の役割は、判断を下すことではない。

判断が下されたとき、使えない言葉を提示することだ。


「“異常事態”とは言えません」


村瀬は、誰にともなく言った。


「そう言った瞬間、

法令と手続きが先に動きます」


官房長官が、静かに頷く。


「“防衛出動”も同様だな」


「はい。

要件を満たしていませんし、

満たしていないと説明すること自体が、

余計な憶測を呼びます」


つまり、

言えない理由が、いくつもある。


鷹宮首相は、まだ発言しない。

発言しないこと自体が、今は判断だった。


誰かが口を開く前に、官房長官が言った。


「原因は決めない。

仮説も並べない。

今は、測れるものだけを測る」


それだけが、

国家として取れる態度だった。


午前七時四十五分。

首相官邸地下、危機管理センター。


部屋の中央に、大型モニターが展開されていた。

紙の地図ではない。

複数の情報レイヤーを重ねた、デジタルマップだ。


日本列島の輪郭。

主要都市。

航路。

防空識別圏。

気象データ。

通信網。


どれも、見慣れたはずの表示だった。


だが、その「外側」が、異様に薄い。


情報が欠けている、というより、

情報を重ねられない。


「周辺国の通常観測は、どこまで可能だ」


官房長官の問いに、統合幕僚監部の連絡官が答える。


「レーダー、電波探知、海自の哨戒網ともに、

日本列島周辺までは想定通りです」


「その先は?」


一瞬の間。

連絡官は、言葉を選ぶ。


「……想定と一致しません」


その表現は、すでにこの部屋の共通語になりつつあった。

一致しない。

存在しないとは言わない。

だが、あるとも言えない。


「具体的には」


「ロシア極東沿岸、朝鮮半島、中国沿岸、台湾。

通常なら確実に映る範囲に、反応がありません」


「視認条件は?」


「天候的には可能です。

ですが、確認できていません」


官房長官は、短く頷いた。


「“確認できない”で統一しよう」


誰も異論を挟まなかった。


もし、本当にそこに「何もない」のだとしたら。

その問いは、ここでは使えない。


国家が恐れるのは、

危険そのものではない。

理由のない結論だ。


鷹宮首相は、ようやく口を開いた。


「これまでのやり方で、

“確認できる範囲”は、どこまでだ」


責任を押し付ける問いではなかった。

現実を、現実として測るための問いだった。


「航空レーダー、電波観測、海上監視。

いずれも、日本列島周辺までは問題ありません」


「航続距離を延ばした場合は?」


連絡官は、一瞬だけ視線を落とした。


「可能です。

ただし、通常訓練の範囲を超えます」


「超えると?」


「理由が必要になります」


理由。

今、この場に存在しないもの。


「理由は作らない」


首相は、はっきりと言った。


「攻撃ではない。

威嚇でもない。

接触でもない」


言葉を、一つずつ置く。


「ただ、

見に行く」


誰も反論しなかった。


それは、自衛隊を“動かす”決断ではない。

動かさない理由が、消えたという認識の共有だった。


「通常の訓練計画の範囲で」


首相は続ける。


「航続距離、燃料消費、通信範囲。

すべて記録しろ」


命令というより、条件付きの許可。


「武器の使用は?」


官房長官が確認する。


「不要だ。

理由がない」


理由がない、という言葉が、

この場では最大の抑止になっていた。


午前八時二十分。

航空自衛隊基地。


整備員は、いつも通り機体を点検していた。

ボルトの締結。

燃料量。

計器の反応。


変わった点は、一つだけ。


ブリーフィング資料に、

「目的地」が明記されていない。


「指定空域まで」


操縦士が確認する。


「その先は?」


指揮官は、短く答えた。


「状況次第だ」


それ以上の説明はない。

それで十分だった。


空は、いつも通りだ。

雲の高さも、風向も、計画通り。


ただ、

帰り道が同じとは限らない

という前提だけが、

誰の口にも出されず、共有されていた。


同時刻。

海上自衛隊。


哨戒任務の計画が、静かに更新されていく。


航路は見慣れたもの。

燃料計算も、通信計画も、通常通り。


だが、

航程表の「外縁」に、

薄く鉛筆で引かれた補助線が増えていた。


「ここまでは、確実だ」


誰かが言う。


その先は、

誰も断言しなかった。


午前八時三十分。

官邸地下。


内閣官房副長官補の村瀬が、慎重に言葉を選ぶ。


「……我々は、

“探す側”に立った、ということになります」


探す側。

それは、これまで想定していなかった立場だ。


災害対応ではない。

防衛行動でもない。


世界を、確かめに行く立場。


鷹宮首相は、短く頷いた。


「そうだな。

だが、“探している”とは、まだ外に出すな」


理由は明白だった。


探している、と言った瞬間、

人は「何を探しているのか」を求める。


答えられない問いを、

社会に投げるべきではない。


午前九時。

街では、ようやく小さな変化が現れ始めていた。


海外ニュースが更新されない。

国際電話がつながらない。

航空会社の案内が、曖昧になる。


だが、それでも、人々は日常を続けている。


理由は簡単だった。


日本は、まだ機能している。

交通も、電力も、通信も、行政も。

昨日までと同じ手順で、同じ速度で動いている。


だからこそ、説明ができなかった。


午前九時二十分。

東京湾沿いの港湾管理事務所。


コンテナの入出港予定。

積み替え作業の進捗。

燃料補給のスケジュール。


画面に並ぶ項目は、すべて「通常」。


だが、港湾業務課長の本田は、

海外向けの一覧だけを、何度もスクロールしていた。


「……距離、出てないな」


隣の職員が首を傾げる。


「航路情報ですか?」


「いや。

航路はある。

だが、距離が確定しない」


距離が分からなければ、

所要時間も計算できない。


燃料コストも読めない。

保険が掛けられない。


物流は、動いている。

だが、契約が止まり始めている。


同時刻。

羽田空港、運航管理室。


国際線のダイヤ表示を前に、

担当者たちが小声で話していた。


「海外の空港側から、確認が取れない便があります」


「天候?」


「違います」


「欠航判断は?」


「……材料がありません」


欠航には理由が要る。

理由を説明できなければ、航空会社は動けない。


「しばらく様子を見る。

国内線は通常通りだ」


それが、この時点で出せる

唯一の“正しい判断”だった。


午前九時三十分。

官邸地下。


鷹宮首相は、最後に一つだけ言った。


「今日一日は、

“何も起きていない一日”として扱う」


「内部では?」


「最悪を考える。

だが、外には出さない」


それは、国家としての決断だった。


午前十時。


航空機は、滑走路を離れる。

艦艇は、静かに港を出る。


誰も、世界が変わったとは言わない。


だが、

世界を確かめに行く行動だけが、

確かに始まっていた。


この静かな一日は、

後になって、こう呼ばれることになる。


——すべてが、

「分からないまま始まった日」。


そして、

その時点で誰もまだ理解していなかった。


——この世界は、

もう「知っている場所」ではない。

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