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星が重なる日  作者: 橘花


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17/19

16.境界が破れた音

夜だった。


転移以来、

夜の空は、奇妙なほど静かだった。


それは感覚的な静けさではない。

音が消えたわけではなかった。


国内線は飛んでいる。

貨物便も、医療搬送も、

警戒飛行も訓練も、

必要と判断されたものは、すべて続いている。


エンジン音はある。

滑走路の振動もある。

空港の管制塔は今も灯りを落とさない。


航跡もある。

レーダー画面は常に埋まっている。

空は、決して空白ではない。


それでも、

どこか一段、

薄い膜が張られたような静けさがあった。


理由は明確だった。


だが、

一つだけ、

決定的に失われたものがあった。


国際線だ。


転移以降、

日本の空に

「外から入ってくる航空機」は

一機も存在していなかった。


それは、

異常として扱われることもなかった。


空港の発着掲示板から、

国名が消えた。

かつて当たり前に並んでいた

都市名や国名は、

いつの間にか表示されなくなった。


時刻表は国内線だけで埋まり、

国際線用の誘導路は

夜ごと照明を落とされた。


閉鎖されたわけではない。

廃止されたわけでもない。


ただ、

使われなくなった。


理論上の理由は分からない。

説明も存在しない。

専門家の仮説も、

公式な見解も、

決定的なものは出ていない。


だが事実として、

空は“内側”だけで完結していた。


それは、

命令でも、宣言でもなかった。

誰かが決めたわけでもない。


ただ、

そうなっていた。


そしてその状態は、

繰り返され、

積み重なり、

いつの間にか

「当たり前」として

受け入れられていた。


外はない。

あるのは、内側だけだ。


その前提は、

誰にも明示されないまま、

制度の隙間に沈み込んでいた。


だから夜の空は、

落ち着いていた。


だがその落ち着きは、

安全というより、

閉じているという感覚を

人知れず伴っていた。


完全に日が落ち、

地上の輪郭が意味を失い、

視界という要素が

作戦判断から切り離される時間帯。


この時間の空では、

「見えるかどうか」は

判断材料にならない。


重要なのは、

映っているかどうかだった。


映っていないものは、

存在しないとは限らない。


だが、

映っているものは、

必ず分類されなければならない。


航空自衛隊・西部防空管制所。


照明を落とした室内で、

レーダーの淡い光だけが

人の顔を下から照らしている。


時間は深夜に近い。

だが眠気はない。

この部屋にいる者たちは、

眠らない前提で配置されている。


画面に並ぶ航跡は多い。

国内線、定期便、

夜間訓練、警戒飛行。


すべてが規定内。

すべてが想定内。

すべてが「分かっているもの」だ。


だからこそ、

当直管制官の視線が、

ほんの一瞬、止まった。


それは、

警告音が鳴ったからではない。

表示が切り替わったからでもない。


ただ、

そこに無かったはずのものが、

自然に存在している。


違和感というより、

配置のズレに近い感覚だった。


画面の端。

防空識別圏の外縁に近い位置。


新しい航跡が、

控えめな速度で現れている。


「……新規トラック」


声は自然に出た。

訓練通りの発声だ。


だが、

その声には

自分でも気づかない

わずかな引っかかりが混じっていた。


進入角度は緩やか。

高度も速度も、

数値だけを見れば

民間機として成立しなくはない。


だが、

識別信号がない。


「IFF応答、ありません」


その報告で、

室内の空気が

はっきりと変わる。


転移以来、

この言葉が意味してきたものは

一つしかなかった。


“内側にいるが、分からないもの”。


だが今回は違う。


航跡は、

外から来ている。


“外縁”から、

こちらに向かっている。


方位は、北。


その瞬間、

管制室にいる全員が、

ほぼ同時に

同じ二つの国名を思い浮かべた。


中国。

ロシア。


北から来る未確認機――

それは、

長年の訓練で

最初に当てはめるべき

“想定”だった。


だが、

次の数秒で、

その想定が

一つずつ外れていく。


速度が違う。

高度が違う。


接近の仕方が、

あまりにも素直すぎる。


威圧がない。

示威がない。

編隊行動の兆候もない。


電子妨害が、ない。


「……変だな」


誰かが、低く言った。


中国機なら、

この距離でこの静けさは選ばない。


ロシア機なら、

この高度でこの沈黙はありえない。


何より、

この航跡は

“こちらに見せるための飛び方”をしていない。


逃げてもいない。

探ってもいない。


ただ、

通っている。


「識別困難、じゃないな」


別の管制官が言う。


「当てはまる型が、ない」


その一言で、

室内の空気が

一段、冷えた。


敵かどうか以前に、

想定に入っていない。


それは、

この仕事において

最も嫌われる状態だった。


「……外から?」


誰かが、

思わず呟いた。


誰も咎めない。

なぜなら、

同じ言葉が

全員の頭に浮かんでいたからだ。


転移以来、

外から来た航空機は

存在しなかった。


理屈ではなく、

事実として。


「スクランブル用意」


命令は、

一拍遅れて出た。


遅れたのは、

判断が鈍ったからではない。


“外から来た”という事実を

頭が受け取るための

ほんのわずかな時間が

必要だったからだ。


筑城基地。


夜の滑走路灯が、

暗闇の中に

一本の線を引く。


二機の戦闘機が、

短い間隔で動き出す。


手順は通常通り。

アフターバーナーは使わない。


だが、

“通常”という言葉の意味が、

この夜だけは

どこか歪んでいた。


スクランブルとは、

空を空にする行為ではない。


常に何かが飛んでいる空の中で、

確実に目的の一点へ向かうための

精密な動作だ。


だが、

これまでのスクランブルは

すべて

“内側の空”で完結していた。


今回だけが違う。


レーダー上で、

日本機の航跡が

外縁へ向かって伸びていく。


その先にある航跡は、

確かに

“こちら側の文脈ではない”。


距離が縮まるにつれ、

管制室では

誰も口数を増やさなかった。


言葉を重ねれば、

この異常を

確定させてしまう気がしたからだ。


「目標、安定飛行」


「回避行動、なし」


「……通信、試みます」


英語が使われる。


それは規則であり、

長い年月、

何も考えずに使ってきた

“当たり前”だった。


だが今は、

その当たり前自体が

奇妙に重い。


「Unknown aircraft approaching Japanese airspace.

This is Japan Air Self-Defense Force aircraft.

State your intention.」


一拍。


その一拍が、

異様に長く感じられた。


そして、

応答が返る。


「Japan Air Self-Defense Force aircraft,

this is Royal Australian Air Force aircraft.」


管制室で、

誰かが

はっきりと息を吸った。


それは驚きの音ではない。

認識が

根本から切り替わる音だった。


「……オーストラリア?」


否定の声は上がらない。


即座に確認が走る。


識別コード。

データリンク。

機体情報。


一致する。


F-35。

オーストラリア空軍所属。


“存在している”。


その事実が、

ゆっくりと

全員に染み渡っていく。


北から来た。

中国でも、ロシアでもない。


転移以来、

国際線はなかった。

外から来る航空機はなかった。


だが今、

確かに外から来た機体が、

日本の空の縁にいる。


「こちらオーストラリア空軍機。

我々は自国周辺空域で

航法データの不整合を確認している。

その追跡中に、

貴国空域に接近した」


その説明は、

理にかなっていた。


だからこそ、

余計に重かった。


偶然ではない。

侵入でもない。


空そのものが、

連続してしまっている。


その理解が、

誰の口からも出ないまま、

全員の中で共有される。


首相官邸地下。


危機管理センターで、

報告を受けた官房長官が、

一瞬だけ

目を閉じた。


驚きはあった。

だがそれ以上に、

覚悟が固まる音がした。


「……来たか」


誰に言うでもない言葉。


敵ではない。

異世界でもない。


だが、

“外が本当に存在している”

という証拠だ。


空の上では、

二国の戦闘機が

慎重に距離を保って並走している。


照準は向けない。

背も向けない。


交信は、

制度の言葉で続く。


「貴国でも、

未応答の沈黙が?」


「はい。

複数地点で。

性質は……似ています」


似ている。


その言葉に、

日本側のパイロットは

短く頷いた。


これまで、

日本は沈黙を守ってきた。


だが今、

沈黙の向こう側に、

同じ沈黙を抱えた国がいる。


それは、

世界が再び広がった、

ということではない。


世界が、

本当に壊れていることが

確定した瞬間だった。


探索は、

まだ始まらない。


だが、

始めなければならない世界が、

ついに姿を現した。


沈黙は、

依然として沈黙のままだ。


だがその沈黙は、

もう

閉じた内側のものではなかった。


境界は、

音もなく、

しかし確実に、

破れてしまっていた。

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