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星が重なる日  作者: 橘花


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9.最初の投射

当たり前は、壊れた瞬間に姿を消すわけではない。

壊れたあとも、それはしばらく「機能しているふり」を続ける。

人がそれを疑い始めるまで、当たり前は当たり前の顔をやめない。


そして最も厄介なのは、

その「ふり」が、実際に多くの場面で役に立ってしまうことだ。


役に立つ限り、人はそれを捨てられない。

捨てられない限り、壊れた前提は思考の中心に居座り続ける。

それは誤りではなく、惰性だ。

惰性は、意図よりも長く残る。


午前十一時四十分。

首相官邸地下・危機管理センター。


室内の空気は、午前中とはわずかに質が変わっていた。

緊張が高まったわけではない。

焦燥が消えたわけでもない。


「議論が終わった」という感触だけが、

この場にいる全員に、静かに共有されていた。


終わったのは結論ではない。

仮説でもない。

ましてや理解でもなかった。


終わったのは、

「話し合えば前に進める」という幻想だった。


議論は尽くされた。

だが、尽くされた結果として残ったのは、

進む方向ではなく、進み方の制限だった。


机の上に並ぶ紙束は、どれも薄い。

分厚い計画書は存在しない。

作戦名も、達成条件も、成功指標も書かれていない。


書かれているのは、

「できること」と

「やらないこと」だけだった。


やらないことが明確になるのは、

国家が慎重になった証拠ではない。

それは、前提が壊れたときにだけ現れる判断様式だった。


官房長官が、一覧表の最上段を指す。


「第一段階。国内完結型投射」


誰も異議を唱えない。

この段階で反対が出ないという事実そのものが、

全員の覚悟を示していた。


国内。

完結。


それは、世界の外を疑わないという意味ではない。

世界の端に触れないという意味でもない。


「世界が存在している」という前提を、

いったん棚上げする、という意味だった。


まずは、

こちらから何かを出し、

それがこちらに返ってくるかどうかだけを見る。


返ってきたから正常、ではない。

返ってこなかったから異常、でもない。


ただ、

返ってきたか。

返ってこなかったか。


それだけを、結果として扱う。


その判断は、

科学的でもあり、

政治的でもあり、

そして何より、哲学的だった。


情報通信研究機構の担当者が、静かな声で説明を続ける。


「超長波時刻信号を、多点から同時に送出します」

「受信局は北海道、東北、関東、九州」

「反射ではなく、遅延と位相相関で評価します」

「距離算出は行いません」


距離を出さない。

その一文が、この投射の性質を決定づけていた。


距離を出した瞬間、

人は「どこまで届いたか」を考え始める。


どこまで、という問いは、

必ず境界を「場所」に変えてしまう。


場所になった瞬間、

境界は奪い合いの対象になる。

測り合いの対象になる。

勝ち負けの対象になる。


いま必要なのは、それではない。


必要なのは、

関係が続いているかどうかだけだった。


「国内なら、返ってきて当然だろう」


誰かが、思わずそう言いかけた。

だが、その言葉は最後まで口に出されなかった。


“当然”という言葉が、

いま最も疑わしい概念だということを、

全員が理解していたからだ。


国内でさえ、

本当に「同じ世界の中」なのか、

確証はない。


通信が届くことと、

世界が繋がっていることは、

同義ではない。


これまで、人はその二つを

無意識に同一視してきただけだ。


首相は、紙束を見下ろしたまま言った。


「返ってきた場合も、返ってこなかった場合も、

 どちらも同じ重さで扱え」


その一言で、

この投射が「試験」ではないことが確定した。


試験には合格と不合格がある。

だが、世界に対する問いに、

合格も不合格も存在しない。


あるのは、記録だけだ。


午前十一時五十分。


危機管理センターの一角に設けられた

臨時オペレーション卓に、複数のモニターが灯る。


秒単位で刻まれる時刻表示。

送信ログ。

受信レベル。

相関解析の進捗バー。


派手な演出はない。

警告音もない。

カウントダウンも行われない。


この投射は、

国民に見せるものではない。

敵に見せるものでもない。


世界に向けて、

「聞こえるか」と小さく声を出す行為にすぎない。


それは、

宣言ではなかった。

要求でもなかった。


確認だ。


「第一波、送出」


技術者の声は、感情をほとんど含んでいなかった。


ボタンが押される。

画面の一角に、時刻スタンプが刻まれる。


送った。


それだけだ。


誰も拍手しない。

誰も息を吐かない。


返ってくるかどうかは、

数秒で決まる話ではない。


だが、

返ってこない可能性は、

送出した瞬間から常に存在している。


「……待ちましょう」


誰かが言った。


その言葉は、

時間を稼ぐためのものではない。


「こちらが結論を先に決めないため」の言葉だった。


待つ。


それは、

この場にいる全員にとって、

最も能動的な行為だった。


行動しないことではない。

判断を遅らせることでもない。


意味付けを留保するという、

高度に意識的な行為だ。


午前十一時五十五分。


最初の相関解析が、静かに表示される。


数値は、見慣れた範囲に収まっている。

遅延は、国内伝搬として妥当。

相関は成立。


「……一次整合、取れています」


NICTの担当者が言う。


誰も安堵の声を上げない。

誰も「よかった」と言わない。


一度返ってくることは、

何の証明にもならない。


これまでの異変は、

必ず「その先」で起きてきた。


「第二波。同条件で送出」


同じ操作が、同じ手順で繰り返される。


違うのは、

受信局の組み合わせだけだ。


世界を試す前に、

こちら側の整合性を

徹底的に確認する。


結果は、再び成立。


国内は、まだ応答する。


それは、安心ではなかった。


「少なくとも、こちら側は壊れていない」


官房長官が言う。


それは、

次に進むための最低条件だった。


正午。


危機管理センターの時計が、

静かに十二時を示す。


昼休みという概念は、

この部屋から消えていた。


だが、時間は進む。


進むという事実そのものが、

いまは確認対象だ。


首相が、一覧表の次の行を指す。


「第二段階。国内越境型投射」


室内の空気が、わずかに張る。


越境。


それは地理的な意味ではない。

政治的な意味でもない。


応答の保証がない領域へ投げる、という意味だった。


「国内設備から送出し、

 国内で受信しない」


「返りを期待しない設計です」


科学技術庁の担当官が補足する。


返りを期待しない。


それは、諦めではない。

失敗を想定するという意味でもない。


返らなくても、

判断が止まらない設計。


それだけだ。


「……いよいよですね」


誰かが呟いた。


首相は、その言葉を拾わなかった。


“いよいよ”という言葉は、

物語の節目を作ってしまう。


いま必要なのは節目ではない。

連続だ。


当たり前が壊れても、

社会が連続して動き続けること。


その連続性を保ったまま、

境界に触れること。


首相は言った。


「淡々と進めろ」


「返事がなくても、声を荒げるな」


「返事があっても、意味を急いで付けるな」


誰も、その命令を記録しなかった。

だが、全員が覚えた。


午後に向けて、

最初の“国内越境投射”が準備に入る。


世界は、まだ沈黙している。


だが、その沈黙が

「聞こえない」のか

「答えない」のかは、

まだ分からない。


分からないまま、投げる。


それが、この国が選んだ方法だった。


返事のない空間に、問いは放たれた。


その問いが返るのか。

返らないのか。


それは、まだ誰にも分からない。


ただ一つ確かなのは、

この瞬間から、

世界は「前提」ではなく

「確認される対象」になった、

という事実だけだった。


そして、

返事がないという結果そのものが、

やがて何かの輪郭になる可能性を、

誰もまだ言葉にできていない。


境界は、

そこに線として引かれるとは限らない。


返事が途切れるという現象として、

初めて姿を持つ。


その最初の沈黙が、

いま、確かに記録され始めていた。


午後零時二十分。


危機管理センターの照明は、午前中から一切変わっていない。

明るさも、色温度も、影の落ち方も同じだ。


だが、時間だけが違っていた。


同じ部屋にいるはずなのに、

午前中よりも、距離が伸びたように感じられる。

誰かが遠くにいるわけではない。

世界が、少しだけ後退したような感覚だった。


「国内越境型投射、準備完了です」


科学技術庁の担当官が、淡々と報告する。

声に緊張はない。

だが、余計な抑揚もない。


それは、この投射が

“成功しても失敗してもいけない”

という性質を持っているからだった。


成功すれば、

「まだ大丈夫だ」という物語が生まれる。


失敗すれば、

「もう駄目だ」という物語が生まれる。


どちらの物語も、

今は不要だった。


必要なのは、

物語ではなく、反応だ。


首相は、机に置かれた資料から目を離さずに言った。


「開始していい」


それは、号令ではなかった。

許可でもなかった。


「止めない」という意思表示だった。


午後零時二十三分。


送信系が切り替えられる。

国内向けに最適化されていたフィルタが外され、

“返りを前提としない”設定へ移行する。


この切り替えは、技術的には些細だ。

だが意味としては、重い。


返ってこないことを、

最初から「異常」と呼ばないという決断だからだ。


「送出、始めます」


誰かが確認を求めることもない。

確認されないということが、

この投射の前提だった。


送信。


ログに、淡々と時刻が刻まれる。

それ以上、何も起きない。


モニターには、

“反応なし”を示す赤字も出ない。

“待機中”という表示すらない。


ただ、

時間が進んでいく。


数秒。

十秒。

三十秒。


誰も、時計を見ない。

時計を見た瞬間、

人は「いつ返るはずか」を考え始めてしまう。


考えてはいけないのは、

返るはずの時刻だった。


返るかどうか。

それだけでいい。


「……解析側、異常なし」


NICTの担当者が言う。

それは、安心材料ではない。


解析が正常に動いている、という事実が、

「返らない」という結果を

より純粋なものにしてしまうからだ。


午後零時二十七分。


依然として、反応はない。


誰かが、無意識に椅子の位置を直す。

その音が、この部屋ではやけに大きく聞こえた。


「……静かですね」


誰かが言いかけて、

途中で言葉を止める。


静か、という言葉は、

評価を含んでしまう。


今は、評価してはいけない。


「静か、ではない」


官房長官が低く言った。


「こちらは、正常に声を出している」


つまり、

静かなのは相手側だ。


相手、という言葉が、

この場で初めてはっきり意識される。


だが、それは

誰かの存在を指しているわけではない。


“返事をするはずだったもの”

という曖昧な輪郭を指しているだけだ。


午後零時三十分。


規定していた最短観測時間を超える。


誰も、その事実を口にしない。

だが、全員が知っている。


「……次の送出に移ります」


同じ条件。

同じ出力。

同じ方向。


返りを期待しない、という設計は、

繰り返すことでしか確認できない。


一度返らないことは、

偶然で済ませられる。


二度返らないことで、

“現象”になる。


三度返らなければ、

人はそれを

「傾向」と呼び始める。


誰も、三度目を口にしない。


午後零時三十四分。


依然、反応なし。


ここで、

初めて数字が意味を持ち始める。


受信感度は正常。

ノイズレベルも想定内。

誤作動を示す兆候はない。


つまり、

「聞こえない」のではない。


「返ってきていない」。


その違いが、

この部屋の空気を

ゆっくりと変えていく。


誰かが、紙にメモを取る。

だが、その内容は

数値ではない。


「返事なし」

そう書かれているだけだ。


午後零時四十分。


予定していた観測窓が閉じられる。


誰も「終了」とは言わない。

「一区切り」という言葉すら使われない。


首相が、初めて顔を上げる。


「記録は?」


「すべて残っています」


「欠損は?」


「ありません。

 応答なし、という結果が記録されています」


首相は、短く頷く。


「それでいい」


それは、

“うまくいった”という意味ではない。


“失敗していない”という意味でもない。


ただ、

世界が一つ、返事をしなかった

という事実を、

この国が初めて正式に記録した、

という意味だった。


誰も、拍手しない。

誰も、落胆もしない。


この結果が、

良いのか悪いのかを

判断する枠組みが、

まだ存在していないからだ。


官房長官が、静かに言う。


「……これで、

 “返らない”という可能性が、

 仮説ではなくなった」


首相は答える。


「可能性が、

 結果になっただけだ」


その言葉は、

冷静というより、慎重だった。


結果を

意味に変えてはいけない。


意味に変えた瞬間、

人は結論を急ぐ。


結論を急げば、

前提が戻ってくる。


壊れた前提は、

人が油断した瞬間に、

当たり前の顔を取り戻す。


午後零時四十五分。


会議は、いったん区切られる。


だが誰も、

席を立たない。


世界は、

まだ何も答えていない。


そして、

答えていないという事実だけが、

静かに、確実に、

この国の中に残り始めていた。


境界は、

まだ見えない。


だが、

「返事がない」という形で、

初めて触れられた。


それは線ではない。

壁でもない。

裂け目でもない。


沈黙だ。


返事のない沈黙。


それが、

この世界に向けて投げられた

最初の問いに対する、

唯一の応答だった。

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