三人の狩人
英語の血の語源は、古英語のBlodである。
そのまた語源は、「咲く(Bloom)」と同じBleana(吹く)だ。
つまり傷口から噴き出す血液の婉曲表現だと考えられている。
さらにBleana(吹く)の語源がBelである。
bel [ベル] 印欧祖語
意味:鳴らす(Sound) 話す(Speak) 吠える(Roar)
→Bello [ベロ] ゲルマン祖語
意味:鐘(Bell)
→Bellana [ベラナ] ゲルマン祖語
意味:吠える(Roar)
→Bel-mn [ベルン] 古アルメニア祖語
意味:精液 果物 成長する
→Blew [ブレウ] ギリシア祖語
意味:吹く(Blow) 風 吹き出す
→Bullo [ブロ] ゲルマン祖語
意味:球体(ball) 鉢(bowl) 丸く膨らんだもの
つまり血とは、「噴き出す」、「血管を膨らませるもの」という意味から来ている。
あるいは同じBelの派生語Blaze(炎、輝く、明るい)の派生で「赤い」が由来とされる。
他の派生語も音、声、息など身体から出るものが共通していることが分かる。
ちなみに獣(Baest)の語源は、ラテン語のBestia。
その語源は、Bwes(息をする)-tia(者)からの派生である。
マルカスターから北に直線距離で8マイル。
ソーアシャー州の中央にヘムヨックは、ある。
と言われてもソーアシャーの地理に詳らかでない者には、ピンと来ないだろう。
ソーアシャーの中心都市ロージャンドンは、州の南端にある。
ソーアシャーの人口は、州の南半分に集中している。
州都マルカスターより北には、辺鄙な田舎町がポツリ、ポツリとあるのみだ。
そこは、兀々した岩、棘のある灌木、丈の低い葉叢が広がる荒涼とした景色が支配する。
人はおろか動くものもまばらなローグランコ高原だ。
人の営みも消え去ったこの地に屹立する列柱石は、2万年前の信仰の残滓である。
特にヘムヨックは、人の出入りを拒む様な場所にある。
最寄りのマルカスターと繋がるまともな道もなく谷を挟んで隔たっている。
村に着くまで半日掛かるだろう。
周囲から孤立したこのヘムヨックでは、独自の宗教が蔓延っている。
聖ウルス教を拒んだ異端だ。
よって長い歴史の間、異端粛清を受け続けて来た。
しかし幾度かの弾圧を経ても、この村の邪教が根絶やしになることはなかったらしい。
それどころか産業革命以降、教会の権威が失墜し、邪教が蘇りつつあった。
月に一度、ヘムヨックから買い出しに来る者を気味悪がる住民も多い。
だが定期的にやってくる買い出しが半年も姿を見せなくなっていた。
「なんだありゃ。」
マルカスターの街頭に見たこともない風体の男がいた。
その顔立ちは、ヴィネア人とは違う。
異人だ。
顔に何か模様が描いてる。
民族の呪いだろうか、かなり目立つ。
刺青ではなく、何かの塗料で描かれているらしい。
肌は、浅黒いが黒人ではない。
がっしりした体型で着衣でも筋肉が盛り上がっているのが分かる。
また奇妙な形に結われた紫色の頭髪を胸の前に垂らしていた。
「昼間から気味が悪いじゃないか。」
「ヴィネア人じゃねえな。
…だがありゃ、狩人だ。」
そう住民たちは、ささやき合った。
人々が忌み嫌う獣狩りの狩人は、額面通りの猟師ではない。
人が獣に姿を変える獣化と呼ばれる怪異。
この現象で獣になった人間を殺す者たちだ。
獣は、二度と人には戻らない。
人間を襲う危険がある獣を狩るのは、意義深い行いである。
それでも大衆は、狩人を人殺しと恐れ、蔑んでいた。
狩人は、獣除けを着けている。
油にしろ香にしろ相当、匂うものだ。
それに不吉な眼差しの余所者は、狩人と決まっている。
ヘムヨックに向かうのだ。
誰もがそう思った。
あの谷と山の向こうにある村。
獣の出現が外に知られていなくとも不思議ではない。
連中は、村から滅多に出て来ないし、無口だったから。
だが、それにしてもだ。
狩人といってもこんな奇妙な恰好をするものかね。
その異人と来たらまるで悪魔の息子だ。
顔の模様も怪しいが呪いに使う道具を、ジャラジャラと垂らしている。
ダチョウの羽を背広に突き刺し、三角帽子にも獣骨が並んでいた。
「おい、あんた。
どこから来たんだ。」
辛抱しかねた警官たちが異人を取り囲む。
その口調、目には、蔑みの色があった。
「余所者がうろついてると危ないのか?」
その余所者が口を利いた。
しかしあまりに訛り過ぎていて聞き取れない。
あるいは、マルカスターの連中の方が酷く訛っていた。
「ああ~?
聞こえんぞ、野蛮人。
何言ってるんだ?」
「そうだ。
俺たちに分かるようにもっとゆっくりと丁寧に話せ。」
「はっは。
そんな知恵があればなあ。」
警官たちは、そういって威丈高に話した。
既に異人は、これまでにもこの街で理不尽な仕打ちに腹を立てていた。
なので憮然とした態度で答える。
「俺は、狩人だ。
ここからヘムヨックに向かうところだ。
あんたらには、関係ない。」
その言葉を聞き出して警官たちは、肩の荷が下りた。
皆、やっぱりなという表情で顔を見合わせる。
「狩人様か。
それは、ご苦労様ですな。
ですが皆が怖がってる。
できれば速やかに、このマルカスターから出て言って貰おう。
そして二度とこの街に足を踏み入れないで貰いたい。」
そう一人が言うと他の警官たちが哄笑した。
「あっはっはっは!」
「ひゃひゃひゃっ。
まったく、その通りだ。
訳の分らん外人は、二度と来るな。」
「だーはははは!
飯屋と寝床を探してるなら拘置所にブチ込んでやるぞ!?」
侮辱の声に背を向け、狩人は、歩き始める。
満足したのか警官たちも踵を返した。
警官たちがそのまま歩いていると三角帽子の少年たちに出くわした。
重々しいマント付きの薄汚れた外套、血と獣除けと硝煙の匂い。
彼らもまた狩人だった。
「おや、こりゃあ小さな狩人様だ。」
警官は、少年たちに声をかける。
先刻の異人と違い朗らかな口調である。
だが返答は、警官たちの予想を裏切るものであった。
「どいて!!!」
次の瞬間、少年狩人の一人の背中が裂ける。
「ぴッ…!!
ぶえッッッ!!!」
彼は、まるで開いた袋菓子から中身がこぼれるのように血を噴いた。
石畳の街路に倒れ、警官たちの足元に転がる。
真っ赤な傷口からは、眩しい鮮血が広がっていく。
異常な光景に警官たちは、唖然とする。
その場で釘付けになる。
倒れた少年の仲間たちは、一目散に逃げていった。
「き、きゃあああ!!」
一瞬の躊躇いの後、甲高い悲鳴を挙げたのは、子供たちではない。
警官たちだった。
「うあ、うわああっ!
何が、どうなッ……ふわあああッ!!」
突然の恐怖に触れた警官たちは、絶叫する。
しかし4人の警官たちもまた悲惨な死を遂げた。
「ぎゃう!」
一人目が恐ろしい怪力で弾き飛ばされる。
続いて二人目が見えない獣の鉤爪で引き裂かれた。
「ぐああッ!
……い。」
「い、嫌だ!
嫌だァ!!
………誰か、たすッ!?」
ようやく逃げ出した三人目の背中が血を吹く。
四人目は、二人目の傷口を抑えていた。
「おい、みんな!!
みんな、死ぬなッ!!
しっかりしゅぶッ!!」
白昼の街中を血に染め、獣は、確かにそこにいる。
しかしそいつは、無色透明のままだった。
誰の目にも獣の姿は見えない。
「…返り血を浴びても姿が見えない。」
生き残った少年狩人の一人が呟いた。
大勢の大人が惨殺され、仲間が死んでも冷静だ。
しかし狩人とは、そういうものである。
「ねえ。
ルイスが死んだっていうのに冷たくない?」
一人がそういって口を尖らせた。
オレンジ色の髪を三角帽子から覗かせ、アッシュが答える。
「狩人は、そういうモン。」
「やっぱりね。」
そう言って蜂蜜色の髪をした少年は、マスクを下ろして舌を出した。
彼は、一度深呼吸してからマスクを戻す。
「で。
こういう場合は、どうするの?」
ルーフレッドは、アッシュに方針を訊ねる。
もちろんまともな答えなんか期待しちゃいない。
こいつ、馬鹿なんだ。
「俺に頭を使わせるなよ。」
そう言いながら突然、アッシュは、横っ飛びする。
直後、石畳の道を獣の爪がひっかいた音だけが響く。
獣の連続攻撃をアッシュは、勘を頼りにかわす。
もう目を瞑っていても平気だろう。
「おまけに俺は、獣を探すのが苦手なんだよ。」
そう言ってアッシュは、手袋を嵌め直した。
ルーフレッドは、獣の居そうな場所からかなり離れている。
「ああ…。
それは、獣にもバレてるだろうね。」
二人とも頭を使うことが得意ではない。
挙句、ここまで姿の見えない獣を追い詰めたルイスが道の上でこと切れている。
「けほっ………。」
ルイスは、胸を大きく上下させて苦しそうに道の上で仰向けになっていた。
おそらく手遅れだろうが、すぐには死なない。
ルーフレッドは、ルイスをチラッと来てから視線を正面に戻した。
「………ジルを待った方が良いんじゃない?」
ルーフレッドは、忙しなく目を動かしながらいった。
もう諦めたのかアッシュは、両手を降ろしている。
だらけきった態度で答えた。
「いや、あの人は、あれで忙しい。
今日までよく付き合ってくれたと思うよ。
それよりもルイスが目を覚ますのを待った方が現実的かな。」
「目を覚ます?
今さっき死んだばかりだけど?」
さっきまで苦しんでいたルイスの姿が消えている。
ルーフレッドは、目線をやってそれを確認した。
アッシュも口元を拳で拭うと見えない獣に神経を尖らせた。
「…じゃあ、俺とお前とで何とかするしかない。」
二人は、細長い鎖をそろって振り回した。
嫌な音をたてて鎖は、宙を斬り、街路に当たって火花を散らした。
それは、普通の鎖ではない。
細かな刃を繋ぎ合わせたものだ。
狩人の使う仕掛け武器である。
鎖は、巻き上げ機構によって連なり、あたかも直剣の姿を取る。
武器の変形機構は、様々な状況に対応し、獣を翻弄する。
二人は、姿の見えない獣に手当たり次第に斬撃を放った。
だが全く手応えがない。
「………無駄っぽい。」
ルーフレッドは、唇を舌で湿らせる。
いい加減に腕が疲れて来た。
「他に手があったらな!」
アッシュは、そう答えて腕を振り続ける。
だが適当に鎖刃を振り回していても、この獣は、乗って来ない。
そもそも獣は、元は人間なのだ。
獣化に伴う凶暴性と獣性の強まりによって理性は、薄く削り取られている。
しかしなお狡猾な獣は、現に存在する。
今回、オツムの鈍い狩人より、獣の方が狡猾だった。
「…あああ!!
こんな腹立つ獣狩りなんか嫌だッ!!」
そう叫ぶとアッシュは、駆けだした。
ルーフレッドは、目を剥いて驚き、アッシュを制止しようと怒鳴る。
「アッシュ!
そんな無鉄砲なことするな!!」
アッシュは、鼻も利かないし、獣の痕跡を見つけるのも苦手だ。
こんな無色透明の獣は、天敵といえる。
だがルーフレッドに制御できるアッシュではない。
「おらッ、出て来いっての!!
出て来い、出て来い、出て来い!!」
キレたアッシュは、やたらめったらに武器を振り回し、獣を追う。
しかしそれこそ敵の思うつぼだ。
「───■■■■■■■■■■ギォ■■ッ!!!」
突如、獣の悲鳴があがった。
その声は、人間とも動物とも異なる。
獣特有の名伏し難い鳴き声が。
アッシュの鎖刃が偶然、獣を捉えた訳ではない。
獣の動体視力ならそんなことは、願うのも恥ずかしい確率でしか起こらない。
獣を撃ったのは、ルーフレッドである。
ルーフレッドの左手に構えた獣狩りの銃が火を噴いた。
発射されるのは、狩人自身の血を混ぜた水銀弾。
獣を狩るための数少ない術の一つとして狩人が古くから伝えて来た教えである。
「居た…ッ。」
彼は、獣がアッシュの背後に回ると賭けた。
これまでもこの獣は、人間の背中から襲い掛かっている。
公算は、十分にあった。
犯罪者は、同じ手口で犯罪を繰り返すものである。
そうすることで失敗を避けるためだ。
だから一度、背後から相手を襲った獣は、背後から襲うと決めているだろう。
もしこれでアッシュを撃っても悩む様な問題ではない。
「そこだッ!!」
獣の悲鳴を頼りにルーフレッドは、踏み出した。
死神の歩みに似て狩人の踏み出しは、速やかに敵に忍び寄る。
それは、静穏極まるところ他に類ない。
そして疾く速い。
苦しみ悶える獣にルーフレッドの右手に構える仕掛け武器が襲う。
仕掛けにより鎖刃は、直剣に変形した。
ルーフレッドは、剣を獣の首筋に―――推定される位置に突き立てる。
「■■■■■■ッ!!!」
透明な獣の悲鳴が聞こえる。
だが他人が見ればルーフレッドが剣を持っているようにしか見えない。
再び変形機構により直剣は、鎖刃となる。
ルーフレッドは、手応えを頼りに透明な獣に鎖刃を巻き付けた。
無惨な次の瞬間を理解し、獣は先に断末摩を響かせる。
「■■■■■■■■■■■ッ!
■■■■■■ァァァァ!!!」
ルーフレッドが右手を引っ張ると獣に絡みつく細い刃が勢い良く解ける。
無色透明の肉片、骨、腸や鮮血が撒き散らされる。
遠くから見たら正気の人間には、見えないだろう。
しかし確かに今は、獣の体温、匂いをルーフレッドは、感じている。
頬を伝う獣の返り血が狩人を恍惚とさせる。
「……ふっ。」
獲物の死を確信してルーフレッドは、凶暴な笑みを作った。