夫は毎晩のように私に“こぶし”をぶつけてきます
エストナ・シャーネは艶やかでふわりとしたチョコレート色の髪を持ち、可愛らしい顔立ちをした男爵家の令嬢だった。黄色のドレスを好み、その活発で人懐こい性格で、誰からも好かれていた。
そんな彼女は幼い頃から歌が得意で、家族や友人の前でよく披露していた。
やがて、デビュタントを迎えると、彼女は夜会でも歌うようになる。
この王国では、『歌とは曲というものに従う行為である。よって貴族は歌うべきではない』という価値観が根強く存在し、社交界では歌手を蔑む風潮があった。
だが、エストナの歌はそういった風潮をかき消してしまうほどに素晴らしいものであった。
澄み切った声で、ジャンル問わず様々な歌を歌い、その歌はたちまち聴く者を魅了してしまう。
数々の夜会で歌を披露し続け、ついには公爵家の令息ロインズ・オストーグに見初められるに至る。
ロインズは銀髪に透き通るような水色の瞳を持ち、長身で脚が長いそのすらりとした体型には黒いスーツがよく似合った。語学力に長け、優れた外交の腕を持ち、すでに儀礼称号として“侯爵”を賜っている。
稀代の歌姫と将来を嘱望される貴公子の結婚は大いに祝福され、当時はかなりの話題となった。
晴れてエストナ・オストーグとなった彼女。
家庭に入ったエストナはそのまま歌を封印してしまうのかと思いきや、そうはならなかった。
ホールでコンサートを開いたり、大衆酒場で歌ったりと、むしろ積極的に歌手として活動するようになった。
人前で歌うことが好きなエストナとしてはもちろん嬉しかったのだが、一度ロインズに尋ねたことがある。
「ロインズ様、あなたの妻となった私が、人々の前で歌ってもよろしいんでしょうか?」
するとロインズは笑ってこう答えた。
「もちろんだとも。むろん、私にも君の歌を独り占めにしたい気持ちはある。だけどそれは美しい蝶を籠の中に閉じ込めておくような愚かなことだからね。思う存分歌って欲しい」
これを聞いてエストナの顔はぱぁっと明るくなった。
「ありがとうございます!」
エストナは歌い続けた。
時には「報酬を支払いたい」という人間も現れた。元々金銭欲が薄く、なおかつ公爵家に嫁いでいたエストナは固辞していたのだが、ロインズはこう言った。
「お金のやり取りがあれば、それはいい意味での責任感や緊張感に繋がる。どうしてもというなら受け取ってもいいんじゃないかな」
このアドバイスを受け、エストナは職業歌手として本格的に活動を始めた。
貴族が職業歌手を兼ねるなど前代未聞であり、「貴族のくせにあさましい」という声もないではなかった。
だが、エストナの歌に対する真摯な気持ちは誰もが知るところであり、なにより彼女の歌が素晴らしいこともあり、そういった声はなくなっていった。
なお、多忙な夫に代わり彼女をサポートするのはドーン・アロンというベテラン執事だった。
白髪でモノクルをつけ、老齢ながら武芸にも長けた彼は、いわゆるマネージャーとして彼女を支え続けた。
「奥様、本日は市民ホールでコンサートです」
「ありがとう。皆様に歌声を届けなければね」
エストナの歌声は進歩していき、同時に夫人としての気品も身につけていく。
さて、そんな彼女にも“楽しみ”が一つあった。
***
ロインズは王国の外交官を務めているので、ロインズとエストナは王都に居を構えている。
そんなオストーグ邸の一室で、エストナは歌を楽しんでいた。
といっても彼女が歌っているのではない。
執事ドーンのギター演奏に合わせ、歌を歌うのは――ロインズ・オストーグその人であった。
「民を愛しィ~、国を愛すゥ~……それが貴族のォ~、生き様ァ~……」
しかも、その歌い方は極めて独特であった。
というのも、ロインズは半年前、外交官として異国の使者と出会った。
その使者から“演歌”というものを教えてもらっていた。
ロインズは演歌にハマり、自ら特訓し、毎晩のように自宅で妻に披露するようになったのだ。
演歌ならではの一瞬だけ音程を上下させる技術、小節を利かせている。
気持ちよさそうに歌う夫に、エストナも目を輝かせている。
やがて、歌い終わると――
「ふぅ……どうだった?」
「サイコー! ロインズ様、ブラボー!」
エストナは拍手をする。
むろん、お世辞などではなく、彼女は夫の歌に心底夢中になっていた。
「とてもよかったです、ロインズ様!」
「ハハ、愛する人に自分の歌を聴いてもらえるというのはいい気分だね」
演奏を担当したドーンも主人の歌を褒め称える。
「しかも、旦那様は自分で作詞と作曲までこなしていらっしゃる」
「我が国の歌はどうしても演歌の歌い方に合わないからね。だから自作したまでだよ」
ロインズは演歌を愛するあまり、自分で曲を作るまでになっていた。
「話は変わるけど、明日の君はブラウン家のお屋敷で歌を披露する予定だったね?」
「はい。ブラウン家のご当主様に請われて……」
「私も付き添うけど、客席からゆっくりと君の歌を堪能させてもらうよ」
「……はい」
ロインズの「客席から」という言葉に、エストナはどこか寂しげな表情を浮かべた。
しかし、当のロインズはそれに気づくことはなかった。
翌日、ブラウン家の屋敷でエストナの歌が披露される。
エストナの高く華やかで、天使のような歌声に、人々は目を潤ませる。
「す、素晴らしい……」
「私の中に天使が舞い降りたわ!」
「涙が止まらない……!」
ロインズもまた、妻の美声に穏やかな笑顔で拍手を送っていた。
馬車の運転は御者をこなすこともできるドーンが務める。
その帰りの馬車の中で――
「今日も君の歌声はパーフェクトだったよ」
「ありがとうございます」
「君のおかげで、オストーグ家の名もさらに高まった。だから、というわけじゃないけど、何か欲しいものはないかい?」
「欲しいものは特に……。ただ……」
「ただ?」
「一人で歌うのはちょっと寂しいと思う時もありますね」
エストナはロインズをちらりと見る。“誘う”つもりで。
「そうか……。だったら今度、誰か歌手を雇って、一緒に歌ってみるかい?」
「え、ええ……それも面白いかも……」
「ただし、前も一緒に歌う歌手を雇おうとしたら、『エストナ様と一緒に歌うなんて、自分の未熟があらわになってしまうので』と断られてしまったからね。見つけるのは大変かもしれないね」
エストナの意図は伝わらなかった。
(私が一緒にステージに立ちたい人は――)
***
それからしばらくして、エストナの国立大ホールでの単独コンサートが決まった。
このホールを建築したのは音響に造詣の深い人物で、歌や音楽がより美しく響くホールとして有名だった。「あそこで歌えば素人の歌もプロ並みになる」と評する人もいるほどだ。
エストナもこのホールのステージで歌ったことはなく、感激する。
「こんな大仕事を取ってきてくれて、ありがとう!」
ドーンは首を横に振る。
「いえいえ、全ては奥様の実力ですよ」
ロインズもうなずく。
「その通り。ドーンの力もあるが、やはり決め手は君の歌だよ」
「ロインズ様……」
「コンサート当日は、君の美声を思う存分披露してくれよ」
「はい、もちろんです」
返事をしつつ、何か言いたげなエストナ。
ロインズもそれに気づき、きょとんとする。
そして、エストナは勇気を振り絞って言った。
「お願いが……あるのです」
「なんだい?」
「ぜひコンサートに参加して下さい」
「それはもちろんだよ。夫として、君の歌を聴かなくてはね」
これにエストナは首を横に振った。
「……エストナ?」
「私は……あなたと一緒に歌いたいんです」
エストナの言葉に、ロインズは目を見開き、そのまま凍り付く。
やがて表情を取り戻すと、ロインズはこう言った。
「何を言ってるんだ、君は……」
「あなたとステージに立ちたい、と言ったんです」
ジョークの類ではないと悟るには十分な強い語調だった。
なによりエストナは歌に関しては絶対に冗談を言うような人間ではない。
「私もステージで歌えと?」
「はい」
「演歌を?」
「もちろん、そうです」
いつも穏やかな顔つきのロインズが珍しく眉をひそめた。
「今度のステージは君にとっても大舞台だ。お金まで取ってる。そんなステージで私が歌ったら、観客は大ブーイングだろうし、君の歌まで汚してしまうよ」
「そんなことありません!」
エストナの迫力にロインズは怯む。
「私の目……いえ耳からしても、あなたの歌声は十分、ステージに立つ水準にあります!」
「お、おいおい……」
「私もそう思いますな」ドーンも口を挟んできた。
「ドーン、お前まで……」
二対一となり、ロインズは追い詰められる。
「それに、ロインズ様は私に欲しいものはないか、とおっしゃった。ですから言わせて頂きます。私は一度でいいから、あなたと一緒にステージに立ちたかったの」
エストナの髪色と同じチョコレート色の瞳が、まっすぐにロインズを射抜く。
ロインズは自分の心臓が高鳴るのを感じた。
愛する妻からこんな風に見つめられ、その期待に応えなくていいのか――
そしてもう一つ、自分を試してみたい、という思いにも駆られた。
もう選択の余地はなかった。
「分かった……私もステージに立つよ。一曲披露しようと思う」
「やったぁ! ありがとうございます!」
飛びついてきたエストナに驚きつつも、その表情を緩ませるロインズ。
執事のドーンはそんな二人をニコリと笑って見守っていた。
***
コンサート当日。
エストナの大ホールデビューを祝うような、星空の美しい夜となった。
ホールの控え室では、エストナが普段着ているものよりグレードの高い、フリルのついた真紅のロングドレスを着飾っている。
その隣には、純白の礼服を纏ったロインズがいた。
ロインズの表情は強張っている。
無理もない。妻の前でしか歌ったことのない彼のデビューが、いきなり数千人単位の大観客が集まるステージになってしまったのだから。エストナでさえ、初ステージは小さな夜会だった。
普段の夫妻は「凛々しいロインズの傍に、エストナが慎ましく佇む」という構図だが、今は逆になっている。
エストナは歌手として堂々としているが、一方のロインズは表情が固く、手にも震えが見える。
「ロインズ様、大丈夫ですか?」
「ああ。私としたことが、情けない……」
「こんなに大勢の前で歌うんです。緊張するのは当然のことですよ」
エストナの笑顔を見ると、ロインズの緊張もいくらか和らいだ。
コンサートの流れとしては、エストナがまず何曲か披露し、それからロインズを紹介する。
ドーンが夫婦に告げる。
「ではお二人とも、そろそろお時間です」
エストナは颯爽とした足取りで、ロインズはギクシャクした足取りで、ステージ脇に向かう。
観客はもちろん満員。
チケットはこの手のコンサートとしては格安で、様々な人に行き渡るような販売方法を取ったので、庶民から貴族まで様々な客層の人間が観に来ている。
「じゃあ、まず私が行きますね」
エストナは堂々とした顔立ちで、ステージの中に入っていった。
全く気後れしておらず、その風情はもはやスターそのもの。彼女は紛れもない『プロの歌手』であった。
ロインズはそんな彼女を見て、嬉しそうに微笑む。
大歓声の元、楽団の静かな演奏に合わせ、エストナが歌を披露する。
音響に通じている建築家が作っただけあり、エストナの声が大きく高く美しく通る。
観客たちは彼女の歌声に感動し、熱狂し、酔いしれた。
そして、三曲ほど歌うとエストナが――
「ここで、皆様にお知らせがあります」
客席がざわつく。
「今日は私の夫ロインズ・オストーグにも来てもらっており、その歌声を披露してもらいたいと思います!」
ついにロインズの出番が来た。
ロインズも名門公爵家の跡取りとして名の知れた存在であり、客席が大いに沸いた。
先ほどまでは緊張していたロインズだが、貴族として腹のくくり方は心得ているのか、表情は凛々しいものになっている。
「このたびは妻のためにお集まり頂き、誠にありがとうございます。この大ホールで歌うのは妻の夢であり、それが叶ったのは妻を応援して下さった皆様のおかげです」
ロインズは自分に手を当てる。
「そして、このたび私も歌声を披露する機会を頂けました。歌姫の夫として、堂々と歌いたいと思います。それでは聴いて下さい」
演奏が始まる。
そして――
「貴族としてェ~……生まれたァ~、からにはァ~……」
“こぶし”をたっぷり利かせた歌声を披露する。
あまりに独特な歌い方に、観客たちは初めのうちきょとんとしていたが、
「……なんかいいな」
「こんな歌い方あったんだ」
「心を揺さぶられる……!」
次第にロインズの歌に引き込まれていく。
これを間近で見ていたエストナはほくそ笑んだ。
(やっぱり……。ロインズ様の歌声は人々に聴かせる水準に達していた……いいえ、それ以上!)
ドーンもモノクルに指を当てながら、顔に喜びの色を浮かべる。
(奥様に負けず劣らず、といったところですな)
ロインズもまた、“大勢の前で歌う”という初体験に感動していた。
(なんて……なんて気持ちがいいんだ……!)
そして、この機会を与えてくれた妻に感謝する。
(ありがとう、エストナ……。ありがとう……)
ロインズが歌い終わると、会場は熱狂的な拍手で包まれた。
「皆様、どうもありがとうございました」
ロインズも最上級のお辞儀で声援に応える。
しかも、これはまだ四曲目――コンサートは始まったばかりである。
再びエストナが歌い、ロインズももう一曲披露し、さらには夫婦でデュエットまでこなし――
「すごい夫婦だ!」
「二人とも歌の才能があったんだなぁ……」
「今日は来てよかったぁ!」
観客の中には涙を流す者さえ続出した。
コンサートは“大成功”という言葉ですら足りないほどの成功ぶりを見せ、観客はみな満足して帰っていった。
客が帰った後のコンサート会場で、エストナが言う。
「どうでしたか? 初めて人前で歌う気分は」
「最高だったよ。まだ心の中に熱が残っているんだ」
「でしたら、これからも味わってみませんか?」
「え?」
「これからも私とステージに立ちましょう。それに、“歌”に国境はありません。外交の役に立つこともあると思うのです」
「それもいいかもしれないね」
二人はうっとりとした表情で見つめ合い、ドーンもそれを優しい眼差しで眺めていた。
***
それからも、エストナは順調に歌手活動を続ける。
お互いに多忙なのでスケジュール調整は難しかったが、時にはロインズと一緒に出演することもあった。次第にロインズのファンといえる観客も増えていく。
ロインズもまた、外交の場でも歌を披露するようになった。
「この剣でェ~……人を斬るのではなくゥ~……人をォ、守りたいィ~……」
「す、素晴らしい……!」
ロインズの演歌は絶賛され、外交においても強い武器になった。
歌で知り合い、歌で結びつき、歌で愛し合った二人は、国を代表する貴族兼歌手となっていく。
今宵、二人は王家のプライベートな晩餐会に招かれた。
ドーンが馬車を用意し、ロインズがエストナに手を差し伸べる。
「さあ今夜は国王陛下と王妃様に歌を披露しよう」
「ええ、あなたの“こぶし”を王家の皆様にぶつけてちょうだいね!」
おわり
お読み下さいましてありがとうございました。