運命の彼女
お茶のCMで思い出したアルルの女をオマージュして書きました。
内容は全く別物にしていますが、原作主人公ファンの方は気分を害されます。申し訳ありませんが地雷の場合はブラウザバックをお願いします。
「はあっ……」
婚約者のフレディが吐いた溜息に、エスカーニャは内心で同じように嘆息した。
フレディはこのところ常に上の空で溜息ばかり零している。
婚約者同士といっても、この辺り一帯の地主の嫡男であるフレディと小作人の娘であるエスカーニャでは、立場が天と地ほども違う。
そのため彼の機嫌を損ねるなと父親に厳命されていた。
今日だって会う予定はなかったのだが、フレディの母親が元気のない息子を心配してエスカーニャに外へ連れ出すよう指示してきたので、小麦畑の草取りを弟に頼んで、村が一望できる丘までピクニックへ来たというのに、フレディは相変わらず溜息ばかりだった。
数週間前までは、ちょっと融通の利かない所はあるが真面目で純朴だったフレディ。
しかし父親の用事に同伴して初めて行った都会ルルアから帰ってくるなり、おかしくなってしまったのだ。
「どうして僕の婚約者は君なんだろう」
フレディは何の気なしに呟いたのだろうが、言われたエスカーニャの気分は重くなる。
「申し訳ありません」
「エスカーニャが悪いわけではないんだ……勿論嫌いになったわけでもない……だけど僕は……はあっ」
そう言うなり、また溜息を吐いたフレディは、どこまでも広がる小麦畑から忌々しそうに視線を逸らした。
エスカーニャが悪いわけではないと言いながらも不満タラタラなのは明白で、なんと答えたらいいのかわからないエスカーニャは、お腹を満たせば彼の不満も少しは解消するかと用意していたサンドイッチをバスケットから取り出した。
しかし、今日のフレディはいつになくエスカーニャに冷たかった。
手渡されたライ麦のパンにハムとチーズをはさんだ素朴なサンドイッチを見るなり、軽く舌打ちをする。
「なんで小麦のパンじゃないの?」
「小麦は高価なので」
「都会じゃパンといったら真っ白な小麦パンしかないよ?」
「そうなんですか? でもライ麦パンも美味しいですよ」
キョトンとしながらも微笑むエスカーニャに、フレディの苛々は募る。
「はあ~、そういうところが田舎くさいんだよなぁ。ライ麦を美味しいなんていうのは田舎者だけだよ」
嘲りの視線を向ければ、やっとエスカーニャはフレディの指摘が恥ずかしいことなのだと認識したようで頭を下げた。
「すみません」
「そうやってすぐ謝るのもやめてくれ。僕が苛めているみたいじゃないか」
「……」
謝罪しても責められ、どうしていいか返答に窮し黙ってしまったエスカーニャに、フレディの愚痴は止まらない。
「はあっ……彼女だったらこんな嫌な空気になんてならないんだろうな。身なりだって洗練されてるし、サンドイッチだってきっと真っ白いパンでオシャレに作ってくれるはずだ」
そう呟くと、フレディはいらないとばかりにライ麦パンのサンドイッチをバスケットに放り投げ、それきり遠くを眺めてしまった。
そんな婚約者の態度に立場の弱いエスカーニャは俯くしかできない。
フレディが言う彼女とは、彼が都会で一目ぼれした女性だ。
ルルアの街中でオシャレな髪飾りを売り歩いていた彼女は、初めての都会にキョロキョロと忙しなく辺りを見回していたフレディと目が合うと、ニコリと微笑んだらしい。
白と水色の縦縞模様の都会的なワンピースを着こなし、真っ赤な口紅をつけて妖艶に微笑んだ彼女に、フレディは全身を雷で打たれたかのような衝撃を受けた。
茫然と自分を見つめるフレディに彼女は微笑みを湛えたまま、ヒールの踵を鳴らして軽やかに立ち去って行ったそうだ。
一目ぼれした衝撃のまま暫く立ち尽くしていたフレディは、いなくなってから慌てて彼女の後を追ったが、既に姿はどこにもなく途方に暮れる。
名前も素性も知らない彼女に恋心は募っていくばかりで、父親の用事など放り出して滞在中は虱潰しに探したが、結局帰郷する日になっても会えず仕舞いであった。
フレディは悲嘆に暮れた。
ルルアから帰郷してからというもの生気を失ったように落ち込んだ。
しかし、そんなフレディを心配したエスカーニャが彼から聞き出した理由に、彼女は青天の霹靂のような衝撃を受けた。
好きで好きで堪らない人がいると、婚約者に告白されたのだ。さもあらん。
一方のフレディはエスカーニャに懺悔したことで開き直ったのか、彼女への恋心を隠そうともしなくなった。
ルルアに行きたいという彼を宥めるフレディの母親から、婚約者のエスカーニャが不甲斐ないせいだと詰られる毎日。
フレディも母親もエスカーニャが従順なのをいいことに、普通なら到底許されるべきではない言い分を、あけすけに曝してくる。
懺悔も非難も言った方の気持ちは軽くなるが、言われた方はたまったものではないというのに。
バスケットに戻されたサンドイッチを、エスカーニャは無言で見つめた。
婚約者のフレディが食べるのだからと母が厚めにハムを切ってくれ、食べ盛りの弟に羨ましがられたサンドイッチは、放り投げられたせいで形が崩れてしまっていた。
きっともうフレディは食べる気はないだろう。
そう思うと、笑顔で送り出してくれた母の顔が頭に浮かんで、益々エスカーニャの心が沈んでゆく。
そのことを悟られないようにバスケットの蓋を閉め、エスカーニャが帰り支度を始めていると、突然遠くを見ていたフレディが手を叩いた。
「そうだ……! エスカーニャ、僕がルルアに行けるように母さんを説得してくれないか?」
「私が奥様を説得ですか?」
「そう、説得だ。僕はどうしてもルルアへ行って彼女を探さなくてはならないんだ」
「それは……」
無理だと、エスカーニャは思った。
フレディには他に兄弟がいない。
つまりフレディしか跡継ぎがいないため、地主夫妻は彼を溺愛している。
村でも評判の美人だと言われているが、しがない小作人の娘であるエスカーニャを婚約者にしたのだって、フレディが彼女に懸想したのを地主夫妻が知ったからだ。
どうせなら富豪の娘とでも婚約させたかったが、同じ村のエスカーニャが相手なら、フレディが出ていく心配はなくなる。
こうして一石二鳥だと決められた婚約だったが、フレディの方は都会の女に夢中になってしまった。
フレディは思い込んだら突っ走る傾向がある。
エスカーニャに懸想していた時は、彼女がちょっとでも他の同年代の男性と話すだけで敵意をむき出しにしていた。
そんな彼を都会へやって、変な女に夢中になった息子が万が一戻ってこなかったら、とフレディの両親は危機感を抱いていた。
また父親の方が小麦の売買のため家を留守にしがちなことも、母親の不安を煽った。
今も父親は息子フレディを心配しつつも、販路拡大のため長期出張中である。
一人で生活するのは寂しいし、男手がないのは心細かった。
そのため母親はフレディがルルアに行くことに大反対なのだ。
しかし良くも悪くも田舎の裕福な地主の嫡男として溺愛されてきたフレディは、両親の不安もエスカーニャの心痛も慮れない。
「そうと決まれば早速家に戻ろう」
「え? いえ、私では説得は……」
言い澱んでいたエスカーニャの返事も聞かずに勝手に決定したフレディは、慌てる彼女を置いてずんずんと歩いて行ってしまう。
その後をバスケットを持って急いで付いてゆくエスカーニャだったが、いくら引き止めてもフレディは聞く耳をもたずに先に行ってしまい、とうとう彼の家までやってきてしまっていた。
「母さん!」
予定よりも随分早く帰宅してきたフレディだったが、可愛い息子の帰還に母親は相好を崩す。
「あら、フレディおかえりなさい。ああ、エスカーニャも一緒なのね」
「はい、おじゃま致します。奥様」
「挨拶はいいから。エスカーニャ、早く母さんを説得してくれ」
「あらあら、私を説得だなんて何の話かしら? 結婚式のドレスなら、ちゃんと作ってあげるわよ」
「そんなことはどうでもいいから! それよりエスカーニャの話を聞いてよ、母さん」
結婚式のドレスをどうでもいいと言ったフレディに、エスカーニャの胸がギュウッと絞めつけられたが、表情は端然としたまま首を横に振った。
「フレディ様、私では奥様の説得は無理でございます」
「なんで? 母さんを説得するためにエスカーニャをここまで連れてきたんだ。今更できないとか言わないでよ」
今更も何も、そもそもエスカーニャはフレディの提案を承諾してはいない。
けれどフレディが責めるような眼差しを向けてくるので、エスカーニャは渋々重い口を開いた。
「奥様、フレディ様はルルアへ行きたいのだそうです」
エスカーニャの言葉に、にこやかだったフレディの母親の顔が一気に凍り付く。
「何かと思えばそんなことを言いにきたの? ……許しません」
ピシャリと言い放った母親は、フレディではなくエスカーニャへ厳しい視線を向けた。
「はあっ……貴女にはがっかりだわ、エスカーニャ。婚約者の貴女に魅力がないからフレディが出ていくとか言うのよ」
「申し訳ございません」
「こんなことなら婚約は解消して、エスカーニャの家族もろとも、この村から出て行ってもらおうかしらね」
「それは……」
淡々と謝罪をしたエスカーニャが面白くなかったのか、母親の吐き捨てた言葉に絶句する。
しかしフレディは青褪めるエスカーニャなど視界に入っていないのか、彼女を押しのけるように母親へ詰め寄った。
「母さん、婚約解消でも何でもいいから僕をルルアへ行かせてよ!」
「ああ、フレディ。それはダメよ。だって貴方は嫡男なのよ? この家を継いでもらわなければ困るわ」
「でもきっと彼女は都会にいたいと言うと思うんだ。僕は彼女を見つけたら、きっと一秒だって離れて生きていけやしないし、彼女の願いはなんだって叶えてあげたい」
名前も知らない一目ぼれしただけの彼女をよくそこまで想えるものだと感心するが、フレディは本気だった。
そのままルルアに行く、行かないの押し問答を母子で始めた二人に一礼だけして、エスカーニャはフレディの家を後にする。
どうせ自分がいようといまいと、明日どちらからも叱責されるのは目に見えていた。
「婚約解消でも何でもいいから……か」
敷地の門を潜り抜けながら、エスカーニャは乾いた笑みを浮かべる。
甘ったれで、思い込みが激しく、多少我儘なところはあったが、小さい時から弟の面倒を見ているからか、しっかり者のエスカーニャはフレディのことが嫌いではなかった。
そうかと言って恋愛的な意味で好きかと問われれば微妙な所ではあるが、それでも婚約者として歩み寄る努力をしていたというのに、この仕打ちだ。
それでも地主の嫡男と小作人の娘という立場から反論することなど許されない。
婚約者になった頃は自分に夢中だったフレディはもういない。
いるのは何を言っても傷つかない婚約者という名の奴隷を虐げる、残酷で無垢な恋する青年だけであった。
「どうしてこうなってしまったの?」
誰に問うわけでもなく呟いたエスカーニャは落ち込む姿を家族に見せたくなくて、隠れるように小川へ降りてゆく。
川辺近くの小石へ腰かけると、バスケットの中に残ったままのサンドイッチを見て盛大な溜息を吐いた。
その背に朗らかな声が掛けられる。
「それ、いらないならくれ」
驚いて振り向くと、幼馴染のリックがバスケットを覗いていた。
「でも、これ形が崩れちゃってるから」
「味は変わらないだろ」
そう言って手を伸ばしてきたリックだったが、サンドイッチを掴む直前でエスカーニャの顔を伺った。
無理やり取ってしまうこともできたのに、こうやって確認してくれる配慮が今のエスカーニャには嬉しかった。
「どうぞ?」
どうせ一人では食べきれなかったのだ。かといって捨ててしまうのは勿体ないし、作ってくれた母に申し訳ない。
微笑んだエスカーニャにリックが礼を言って齧り付いた。
「うまい! お、しかも厚切りハムだ。ラッキー」
母の気遣いに気が付いてくれたことが嬉しい。
フレディは当たり前のようにサンドイッチを食べても、褒めてくれたことなどなかった。
しかも今日などは一口も食べすに放り投げたのだ。
村一番のお金持ちであるフレディと、エスカーニャの家同様小作人の息子であるリックを比較してはいけないが、それでも同じ価値観を持っている彼に荒んでいた心が救われたような気がした。
「ごちそうさま! あ~うまかった! エスカーニャは料理上手だな」
食べ終わったリックが満足そうに腹を擦る。
『ごちそうさま』も『うまかった』の言葉もエスカーニャは嬉しかった。
底辺だった気持ちが浮上してきてエスカーニャは苦笑を浮かべる。
「それ作ったの母さんだから」
「じゃあ、後でお礼言っとくわ」
ニカッと笑い返したリックだったが、途端にエスカーニャはまた曇った表情になった。
「それは……遠慮してもらえるかな」
「?」
エスカーニャの返事にリックは首を傾げる。
その顔には「なんで?」と書いてあり、エスカーニャは重い口を開いた。
「それ、本当はフレディ様に用意したものだったの」
「え? マジか? あ、だから厚切りハムか……俺、食べちゃってよかったのか?」
「あ、それは大丈夫、問題ない。こんなライ麦パンで挟んだサンドイッチなんて、いらないって放り投げられちゃったし」
「ライ麦パン、うまいのに勿体ねぇな。あれ? もしかしてうまさを知らねぇのか? だとしたら可哀想だな」
フレディに田舎者だとバカにされ自信を無くしていたエスカーニャだったが、あっけらかんと言い切ったリックに瞳を瞬かせる。
最近は鬱々としたフレディに付き合っていたせいで、気持ちが後ろ向きになっていたが、考えてみれば本当に田舎者なのだから田舎者と言われてもいいではないか? それよりも好きなものを好きだと言えることの方が大事だと気が付いた。
「だよね~? でもライ麦パンを美味しいっていう感覚が田舎臭いんだって」
「そうなのか?」
「そうらしいよ?」
「ふ~ん、俺にはわかんねぇな」
「そうだね。私にもわかんない」
リックと話すと気持ちが明るくなる。
いつもの軽い口調に戻ったエスカーニャは、それから少しだけリックととりとめのない会話を交わすと、家路に向かった。
◇◇◇
「ねえ、エスカーニャ。フレディ様とはうまくいってる?」
「え? う、うん。なんで?」
空になったバスケットを置き、弟に仕事を代わってもらった礼を言って夕飯の席に着いたエスカーニャは、母から突然振られた質問に曖昧に返事をするしかなかった。
「ううん、なんでもないわ。上手くいってるならいいの」
上手く動揺を隠せたのか、母親はそう言うとそれ以上追求するようなことは言ってこない。
フレディが他の女性に夢中になっていることは、まだ家族には言えないでいた。
言えばきっと心配する。それに小作人としての立場も悪くなる。
そう思うと言い出せなかったのだが、夕飯はなんとなく気まずくなった雰囲気の中終わった。
その晩、自室で街へ売りに行く内職の品を作っているエスカーニャの元へ、弟が怖い顔をしてやってきた。
「姉ちゃん、フレディ様が他の女に入れあげてるって本当?」
「あんた、何でその話を……」
夕飯の時はうまく誤魔化せたはずなのに、と絶句したエスカーニャに弟は舌打ちをする。
「やっぱ本当なんだ……くそっ! 勝手に姉ちゃんを婚約者にしたくせに、自分は浮気とかあり得ねぇだろ」
「その話、もしかして母さんも知ってるの?」
震える声で訊ねたエスカーニャに、弟は苦虫を嚙み潰したような顔になった。
「知ってる。村中の噂だもん。フレディ様本人が言いふらしてるし」
だから母は夕飯の時にあんな質問をしてきたのだ、と合点がゆくと共に、エスカーニャは己の至らなさに項垂れる。
考えてみれば幾らエスカーニャが家族に秘密にしたって、自分に懺悔したことで開き直ったフレディが、周囲へルルアの彼女への恋慕を隠さなくなっていたのだから、噂になって当然だった。
「しかも、みんなして姉ちゃんに魅力がないからとか言いやがるんだ。浮気をしてるのはアイツなのに、まるで姉ちゃんが悪いみたいで、俺、許せないよ!」
「フレディ様は、浮気はしていないわ。だって彼女の名前すら知らないのですもの」
主筋の息子をアイツ呼ばわりして激高する弟を、エスカーニャは窘める。
それでも自分のせいで両親が苦悩し弟が悔しい思いをしているのかと思うと、キリキリと胸が痛んだ。
「姉ちゃんという婚約者がいるのに、他に好きな奴を作るなんてれっきとした浮気だよ。最低だ。だって姉ちゃんは無理やりアイツの婚約者にされたから好きな奴と……」
「それ以上言ってはだめよ。それはもういいの」
弟の言葉を遮ったエスカーニャは、そのまま彼を抱きしめる。
押し黙ってしまった弟の頭を撫でれば自分も落ち着いてくる気がして、無言で涙を流した。
◇◇◇
その翌日、静かな村に商人達の馬車が駆け込んできたのは、まだ薄暗い明け方であった。
けたたましい音を立て現れた大きな馬車に村民は目を丸くする。
商人達は隣町へ向かう途中に夜盗に襲われ何とか逃げてきたらしいが、馬車の車輪は半ば壊れ、幌が裂けているのが生々しかった。
馬車の修理に数日滞在するという商人達に、父親の代行として挨拶を受けたフレディは、その中の一人の女性から目を離せなかった。
滞在中は商売をしたいと言う女性が扱う商品が髪飾りだったことも、時と共に朧気になってゆくのを必死で思い返して記憶を繋いでいた運命の彼女の顔と重なる。
「き、君、名前は?」
仮住まいとして貸し出した臨時の小作人用の納屋の軒先で、商品を広げていた彼女にフレディは意を決して声を掛けた。
「お客様、私の名前を知りたいなら飾りを一つ買ってくれる?」
ルルアで見かけた、あの日と同じように妖艶に微笑む彼女にフレディの心臓が跳ねる。
「買う! 一つ、いや、五つくれ!」
「まあ、素敵。でも貴方が飾るの?」
「う……」
髪飾りは女性用だ。
言葉に詰まったフレディに女性は苦笑すると、真っ赤な口紅をひいた蠱惑的な唇から少しだけ舌を出した。
「冗談よ。購入してくれるなら嬉しいわ。私の名前はケイティ。ぜひ今後ともご贔屓に」
「ケイティ……可憐な名だ……。あっ! ケイティは数週間前にルルアという街にいなかったか?」
崇めるようにケイティの名前を反復するフレディだったが、突然思い出したように身を乗り出す。
そんな彼にケイティは首を傾げた。
「いたわよ? どうして知ってるの?」
「ぼ、僕もいたんだ! その時僕に笑いかけてくれただろう?」
「そうだったかもしれないわね」
「ああ、これは運命だ。ケイティ、どうか僕と結婚してくれ!」
「そうね、考えておくわ」
ウインクしながらあっさりと答えたケイティの返事に、フレディは浮かれた。
これはやはり運命なのだ。
彼女も自分を好きでいてくれたのだ。
そして気づいた。
ケイティと結婚するには婚約者であるエスカーニャが邪魔である、と。
一方、商人達の馬車が逃げ込んできたことは知っていたが、昨日やれなかった分の仕事をするため小麦畑で作業をしていたエスカーニャは、再びフレディの家に呼び出されたためモヤモヤしながら彼の屋敷へ向かっていた。
地主と違って小作人は忙しい。
頻繁に抜ければ仕事は溜まり、その分エスカーニャ以外の家族の負担が増すのだ。
エスカーニャも家族も、商人が来たからといって見に行っている暇などない位働かなければならないのに、仕えている主がどうしてそれがわからないのか、と思いながら屋敷のドアを開けた彼女だったが、開口一番フレディの母親に言われた言葉に目を丸くした。
「エスカーニャ、貴女、浮気をしていたそうね?」
「は?」
「昨日、リックと小川に一緒にいたのでしょう?」
冷たく糾弾する母親の後ろにはフレディがいて、こちらを睨みつけている。
「それは……でもサンドイッチを食べてもらっただけです」
「そんなものを用意して逢引していたのね」
「違います! サンドイッチはフレディ様に用意したものでしたが、召し上がらなかったので、もったいないからとリックが食べてくれたんです!」
訳がわからないまま反論するエスカーニャだったが、母親は彼女へ冷たい眼差しを向けたまま、口調だけは優しくしてフレディに訊ねる。
「フレディ、そうなの?」
「僕は田舎臭いサンドイッチなんて知らない」
プイッと横を向いたフレディを、エスカーニャは信じられないような面持ちで見上げた。
エスカーニャを好きだったフレディは、本当にもうどこにもいなくなったのだ。
それどころかエスカーニャは悪くないと言っていたくせに、恋する男というものは、かつて好意を寄せた女性さえも邪魔になったら嵌めるというのか。
「浮気をするような娘と大切なフレディを結婚させるわけにはいかないわ! 婚約は破棄よ! 慰謝料としてエスカーニャの家には即刻この村から出て行ってもらいます! 勿論リックの家も同罪よ!」
「そんな……!」
母親からの絶縁宣言にエスカーニャは絶句するしかできない。
田舎臭いと言っている時点で、フレディがサンドイッチのことを知っているのは明白なのだが、相手は地主の嫡男であり擁護するのはその母親だ。
そのまま追い出されるように屋敷を出されたエスカーニャは、悔しさと申し訳なさで泣きながら家族が仕事をする小麦畑へ向かった。
◇◇◇
普段我慢強いエスカーニャが泣きじゃくりながら謝罪を繰り返すのを、どうにか宥めて事の顛末を聞いた家族は、今日の仕事を放棄して家路についた。
「ごめんなさい、私のせいでみんなに迷惑が……もう一度奥様に掛け合ってくるから、それで罰は私だけにしてもらうから……」
自宅へ到着しなんとか椅子へ座らせたものの、まだ泣き続けていたエスカーニャが立ち上がろうとする。
その肩を母が優しく押しとどめた。
「その必要はないわ、エスカーニャ」
「そうだ。それにどうしてエスカーニャが罰を受けなくてはならないんだ。お前は何も悪いことはしていない」
意外な父の言葉にエスカーニャが反射的に顔をあげる。
「でも……」
「確かに俺はフレディ様の機嫌を損ねるなとは言った。けれど、それはお前の心を犠牲にしてまで厳守することじゃない」
「そう……なの……?」
茫然とするエスカーニャに、父は酷く傷ついた顔になると頭を掻きむしった。
父としては、村でも評判の美人だと言われ地主の嫡男と婚約した娘がいい気になると、無駄なやっかみを受けるから自重の意味で言ったつもりだった。
まさかフレディが開き直って浮気を懺悔し、それを受け入れるほど娘が思いつめていたなど考えもしなかったのだ。
「姉ちゃん、もう我慢しなくていいよ。姉ちゃんは家のために我慢してアイツの婚約者になってくれたけど、やっと解放されたと思えばいいじゃん」
弟の言葉に母が弾かれたようにエスカーニャを見つめる。
その目は驚愕に満ちていた。
「エスカーニャ、我慢していたの?」
「姉ちゃん、他に好きな奴がいたのに、地主の嫡男との婚約だって父さんも母さんも喜ぶから言えなかったんだよ」
眉間の皺を深くした弟に、父も母も息を呑む。
「すまなかった」
「私も母親失格ね」
項垂れる両親にエスカーニャが首を振る。
「ううん、私も言い出せなかったから」
「あいつらは姉ちゃんの気持ちを知ってて、婚約をねじ込んできやがったけどね。それなのに都会の女に一目ぼれして、姉ちゃんが邪魔になったから捨てるなんてクソ野郎だ!」
暴露した弟に父はダンッとテーブルを叩いた。
「そうなのか? くそっ! わかっていればこんな家さっさと出て行ったのに」
「そうね。元々小作人だからってこんな納屋に押し込めて雑用ばかりさせるくせに、バカ高い地代を取ることに思うところはあったのよ。いい機会だから出ていきましょう」
「小麦だって作ってるのは僕らなのに全部取り上げられちゃうしね」
「土地は地主のものだから、それは仕方がない。だがライ麦も美味しいだろ?」
「うん! 僕、ライ麦パン大好き! 姉ちゃんも好きだから別に小麦がなくてもいいよね?」
両親に追随した弟の頭を父が撫でながら笑い、家族みんなでエスカーニャに頷く。
「みんな……うん、私もライ麦パン大好き」
答えたエスカーニャの頬に伝う涙は、もう悲嘆の色ではなかった。
その日のうちにエスカーニャ達は荷物をまとめると、父が急ごしらえで作った荷車に載せ、残りはめいめい手に持って家を出た。
昼食に戻ってきていた近所の者が、大荷物を抱えて出ていくエスカーニャ達家族を驚いて見ていたが、フレディの母親に即刻と言われた手前、グズグズしていて余計な慰謝料まで請求されるのはごめんなので、あらましを手短に伝えると、挨拶もそこそこに出立する。
フレディの家には行かなかった。
長年働いてきた地主に挨拶もなしに出ていくのは気がひけたが、出ていけと言ったのは向こうなのだから、こちらが少々礼儀を失しても構わないだろう、と父が言い母も同意したからだ。
荷車を押して慣れ親しんだ村の入り口を潜り抜け、エスカーニャ達は街道を北へ進む。
すると後方から声を掛けられた。
「おーい!」
呼びかけに先頭を歩いていた父親が肩を強張らせながら勢いよく振り返る。
まだ昼間ではあるが、商人達が盗賊に襲われたと聞いていたため敏感になっていたのだ。
しかし声を掛けてきたのは危惧していた盗賊ではなく、顔見知りの家族であった。
こちらへやってくるその家族も大きな荷物を抱え、年老いた祖母を荷車に乗せている。
その姿を見たエスカーニャは持っていた荷物を落とし、彼らの方へ駆け寄った。
「リック……ごめんなさい!」
フレディの母親は宣言通りリックの家族も追放処分としたらしい。
自分のとばっちりを受けて仕事と家を失ってしまった彼らに、エスカーニャは謝罪することしかできなかった。
だが困惑したように家族と顔を見合わせたリックは、慌ててエスカーニャの肩を掴んで顔を上げさせる。
「いや、それは俺のセリフ。俺が小川で話しかけたせいで、ごめんな」
「違う! リックは悪くない! 悪いのは……」
「フレディだよ!」
エスカーニャの言葉を遮ったのは弟だった。
その言葉に、エスカーニャの家族もリックの家族も堪えきれないように吹き出した。
「そのとおりだな」
「ええ、本当に。あの色ボケボンボンが悪いのよ」
「全くだ。あんな腐れ地主の所から出てこられて、せいせいした!」
「な~にが都会の女よねぇ? 夢見てんじゃないわよ、恥ずかしい」
「んだ。地主の倅はとんだボケナスじゃわい」
「解ってるね~、弟くん!」
みんなに賛同され、リックから頭を撫でられた弟はドヤ顔を決める。
「まあね!」
「そういうわけだから、エスカーニャも俺も謝る必要はないってことで!」
弟の頭をグシャグシャと撫で回し、ニカッと笑ったリックにエスカーニャが眉尻を下げる。
リックの両親と祖母へ目を向ければ、責める様子もなくにこやかに頷いていて、エスカーニャは涙ぐんでしまった。
そのまま、ここで休憩となりみんなでライ麦パンを頬張る。
ハムもチーズも挟んでおらず白くもない固いパンだが、エスカーニャはとびきり美味しいと感じた。
そうして腹ごしらえを済ませた二家族は、街道を北上して行ったのだった。
◇◇◇
さて、エスカーニャ達が旅立った後も、フレディはケイティを夢中で追いかけていた。
求婚に色よい返事をもらえたと思い上機嫌になったフレディは、彼女が売っていた髪飾りは疾うに全て買い取り、日がな一日ケイティに付き纏っては距離を詰めるのに必死であった。
「ケイティ、君の両親に会いたいから住所を教えて?」
「私の両親に? でも残念ね、もう売る物がないから教えてあげられないわ」
「売る物なら作ればいいじゃないか? 君から買った髪飾りは本当に素敵で、都会の洗練されたデザインはさすがだと思ったよ」
「ああ、あれ? あれは卸業者から安く購入したものだから私が作ったんじゃないわよ」
「君は美しい上に商才もあるんだね」
「フレディ、あなたって本当にパラノイアなのねぇ」
「パ? え?」
聞き慣れない言葉にフレディは首を傾げるが、その目はうっとりとケイティを見つめている。
さすが都会で洗練された彼女は、使う言葉まで田舎とは違うと賞賛しているのは明らかであった。
妖艶な微笑を浮かべるケイティは今日も綺麗に化粧をしていて、着ている服も美しい。
村では美人だと言われていても、エスカーニャなどいつもすっぴんで、泥のついたボロを着て田舎臭かった。
ケイティを見た今ならエスカーニャを好きだったこと自体が恥ずかしくなる。
だが首尾よく追い出せたことだし、こんな素敵な女性と結婚できるなんて人生は最高だと、フレディが彼女へ手を伸ばそうとしたところで、背後から野太い声がした。
「ケイティ!」
愛しい彼女を不躾に呼び捨てにする男に、不愉快も露わに振り返ったフレディの脇をすり抜け、ケイティが声の主に抱き着く。
「ダニエル! 迎えにきてくれたのね?」
「遅くなって悪かったな。盗賊は捕縛したからもう安心だ」
抱き合う二人が熱い抱擁を交わすのを、零れ落ちんばかりの目玉をして見ていたフレディが、我に返ってケイティを問い詰めた。
「な! この男はなんだ! ケイティ!」
「何って? 私の旦那様だけど?」
あっけらかんと言い放ったケイティにフレディは開いた口が塞がらない。
「旦那様? だと?」
茫然と言い返すフレディに、ケイティを抱いた男が嘲るように顎をしゃくった。
「ケイティ、こいつは?」
「ああ、ご贔屓にしてくれた、ただのお客様よ」
「……へ?」
無情な言葉にフレディは体も声も震えてくる。
何かの間違いだと、これは嘘だと、信じたかった。
「ただの客……? なんで? だって僕に優しくしてくれたじゃないか? ルルアの街でだって微笑んでくれて、運命だって……」
縋るようにケイティを見つめるが、フレディの言葉を聞いた彼女は呆れたように鼻で笑う。
「お客様に優しくするのは当たり前じゃない。それにルルアの街で貴方に会ったかなんて覚えていないわ」
「僕が訊ねた時、君は肯定したはずだ!」
「そうだったかもしれないって答えただけよ? だって私は売り子だもの、接客中はいつだって笑みを絶やさないわ」
「求婚だって考えておくって言ってたじゃないか!」
「すぐに断るのは悪いからそう言っただけよ? 承諾はしていないわ。だって私には愛する旦那様がいるもの」
ガツンと頭を殴られたような衝撃がフレディを襲った。
ケイティに夢中になっていた分、裏切られたという反動が強い。
「僕を騙したんだな! 僕はケイティのために婚約者まで捨てたのに……!」
「そんなの知らないわよ。全部自分が勝手にやったことでしょ?」
「この……性悪女め!」
身勝手なケイティの言い分に、フレディは怒りのままに腕を上げる。
しかし、その手が振り下ろされる前に納屋の端まで吹き飛ばされた。
ダニエルがフレディを殴ったのだ。
しかし妻のピンチに咄嗟に手を出してしまったものの、一発で伸びてしまったフレディを見てダニエルは瞳を瞬かせる。
まさか、体力勝負の田舎の村でこんなに貧相な人間がいると思わなかったのだ。
ダニエルは端くれとはいえ騎士団の所属である。
だから一般人を殴ったとなると何かと面倒なのだが、今回は盗賊も捕縛したし正当防衛だと主張もできるから問題ないだろうとケイティを振り返った。
「こんな面倒な客を引き寄せるなよ」
「そう? 都会の女性に夢見る典型的な妄想勘違い男なんて、掃いて捨てるほどいるじゃない」
「それもそうか」
売り子の微笑を消して、軽蔑の眼差しで気絶するフレディを見やったケイティだったが、ダニエルの腕に自分の手を絡ませると嬉しそうに破顔する。
「そういえばあの髪飾り全部売れたのよ」
「ああ、あの純朴そうな子から買い取った髪飾りか」
「そう! 物はいいのに売り子がイマイチだったから、化粧の技を伝授して私のお古の服をあげたら、お礼にあげますって言われて慌てて買い取った髪飾りよ!」
「コイツが買ったのか?」
ダニエルがフレディを指差すと、ケイティは心外そうに顔の前で手を振った。
「そんな勘違い男にあんないい品、売らないわよ。あれはルルアの街で売り切れちゃったの。そいつが買ったのは地下牢の囚人達が手慰みで作った粗悪品よ。それに比べて、あの髪飾りはすっごく評判で次回の販売日をいろんな人に聞かれて困っちゃったわ」
「作った子は確かエスなんとかって言ってたな」
「ええ。元が良かったから、化粧したらすごい美人になったわよね」
満足そうに頷くケイティに、ダニエルが苦笑する。
「確かにな。ただ、化粧の仕方も服もケイティのだったからか姉妹に見えたよ」
「あら? 私、そんなに若く見える?」
おどけたケイティにダニエルがニヤリと笑う。
「ああ、こんな若い男を手玉にとれる位だからな」
「もう、ダニエルったらやきもちやかないでよ。それより早く街へ戻りましょ? こんな田舎じゃ商売にならないもの」
「元田舎娘がよく言うよ」
「もう、それは言わないお約束でしょ!」
フレディには見せたことのない素の顔で、ダニエルと笑い合いながら去ってゆくケイティを、グラグラする頭でフレディが虚ろに眺める。
まだお天道様が高い日中だ。
村人のほとんどは農作業に出ており、誰もフレディを助ける者はいない。しかし、たとえいたとしても下心なしで彼を助けてくれる者はいないだろう。
何故なら、最初は都会の女に憧れるのは男のロマンだとフレディに同情的だった男共や、自分をだしぬいてフレディの婚約者になったエスカーニャに嫉妬して悪口を言っていた女共も、エスカーニャとリックの家にした仕打ちを見て、関わりあいになりたくないと思うようになっていたからだ。
助けてくれる人がいないまま、這う這うの体で帰宅したフレディを、母親が悲鳴をあげて出迎える。
母親を見て安心したのか、玄関で力尽きてしまったフレディだったが、自分より体格のいい息子を寝台まで運ぶのは容易ではなかった。
「こんな時にエスカーニャがいてくれれば……」
漸く息子を寝台へ下ろし、そう漏らした母親の言葉にフレディが顔を上げる。
振り回される都会の女にはもう懲り懲りだった。
そうなると優しかったエスカーニャのことが急激に恋しく思えてきた。
それにフレディは元々エスカーニャに懸想していたのであり、彼女を嫌いになって婚約破棄したわけではない。
「やっぱり僕にはエスカーニャしかいない」
エスカーニャを連れ戻してくると言ったフレディに母親は諸手を挙げて賛成した。
フレディの気持ちを汲んで、あのケイティなる派手派手しい女性でも我慢しようとしていたが、本音をいえば嫁にするならば従順なエスカーニャがいい。
追い出されて困っているだろうから、戻っていいといえば感謝して以前より尽くしてくれるはずだ。
彼らは自分達の土地を持っていないし、北へ向かったことは噂で聞いていたので、この辺りでは一番の都会であるルルアで下働きでもしているだろうと考え、フレディは母に見送られ意気揚々と旅立つ。
しかしルルアに着いてエスカーニャを探すも、広い街では全然見つからなかった。
「どこにいるんだ? エスカーニャ」
途方に暮れていた所でフレディは髪飾りを売る女性を見つける。
一瞬ケイティに似ていると思って不快気に眉を顰めたが、よく見ると彼女よりも若く美しい。
なにより彼女は、フレディが一目ぼれしたあの日と同じ、白と水色の縦縞模様のワンピースを着ていた。
「なんだ……やっぱり僕の運命の相手はあんな性悪女じゃなかったんだ!」
喜色満面、踊りだしたいような気持ちで、エスカーニャのことなどすっかり忘れて、一目ぼれした彼女に近づこうとしたフレディだったが、髪飾りを購入する女性客に押されて中々運命の彼女に辿り着けない。
彼女が売る髪飾りは大変な人気らしく、あっと言う間に完売していた。
勘違い男フレディは、それさえも誇らしかった。
購入できなかった女性客が残念そうに立ち去ったため、漸く彼女へ近づくことができたフレディは、出会えた興奮のままに彼女の腕を掴む。
今度こそ本物の彼女に会えたのだ。
これぞ正しく運命。
きっと彼女も自分を覚えていて受け入れてくれる。
だからあの時と同じ服で同じ商品を売って、自分に解るようにして待っていてくれたのだ。
フレディはそう信じて疑わなかった。
「ああ、運命の人。僕のことを覚えているだろう? 僕は……」
荒い息を吐いて詰め寄ったフレディが、彼女を引き寄せようと強引に腕を引く。
すると……。
「きゃああああっ!」
「売り子さんが悪漢に襲われてるわ!」
「警備兵を早く呼んで!」
悲鳴と共に周囲が騒めき、気づいた時にはフレディは地面にたたき伏せられていた。
「え? な、何?」
訳がわからず茫然とするフレディの両手に、警備兵によって手枷が嵌められる。
「暴行罪で逮捕する!」
「え、冤罪だ! 僕は何もしていない!」
「婦女子の腕を掴んだだろう!」
「腕を掴んだだけで暴行罪だなんて横暴だ! 怪我だってさせてないんだから!」
フレディの言い分に、集まっていた民衆は信じられないとばかりに冷たい視線を投げつける。
「なんて粗暴な考えなのかしら」
「田舎者はこれだから……」
蔑み、侮蔑、嘲り、憎悪、田舎の村でちやほやされて育てられたフレディは、それら悪意の視線を受け、喚きだしたいのを堪えながら、懸命に言い募った。
「ぼ、僕と彼女は運命の愛で結ばれているんだ! だからこれは暴行じゃない!」
口元に泡を吹きながら必死に叫ぶフレディを上から押さえながら、警備兵が縦縞模様のワンピースを着た売り子へ訊ねる。
「君はこの男の恋人かね?」
「いいえ。違います」
きっぱりと言い切った彼女にフレディは蒼白になった。
「嘘だ! 僕に笑いかけてくれたじゃないか!」
「売り子が笑みを浮かべているのは当然ですわ」
少し前に同じようにケイティに言われたそっくりにそのままの言葉に、フレディは息を呑む。
売り子と客。いや、フレディは彼女から何も買っていないのだから、それこそ路傍の石と変わらない。
運命の彼女だと思っていたのは自分だけという事実を突きつけられ、フレディは目の前が真っ暗になる。
都会の女には懲りたはずだった。
それなのに着飾った美しい彼女を目にしたら、薄汚れたボロを着て化粧っけのないエスカーニャのことなど、どうでもよくなってしまって、また同じ過ちを繰り返してしまった。
「やっぱり僕にはエスカーニャ位がちょうどいいんだ……」
そう呟いて項垂れたフレディを警備兵が連行してゆく。
田舎者が都会の美人に笑顔を向けられ勘違いしたのだと、周囲から失笑を向けられるのが屈辱だったが、フレディはエスカーニャを探すまでの辛抱だと己に言い聞かせ我慢した。
自分に靡かない女より従順なエスカーニャならば、傷ついた自分の心を癒してくれるだろう。
ついでに化粧をさせて服も少しいいものを着せてみれば、多少はマシになるかもしれない。
そう考えていたフレディだったが、人垣を通り過ぎ様、冷たい声で耳打ちされた。
「いかに都会でも牢屋で小麦のパンはでてこないぜ?」
怪訝な眼差しで顔をあげたフレディの視線の先では、運命の彼女だった人を守るように肩を抱く男がいる。
それを見たフレディは胸が焼け付くような嫉妬を覚えると同時に、その男の顔を認識して唖然とした。
「……リック? ではまさか彼女はエス……」
「さっさと歩け!」
言いかけたフレディの背を警備兵が乱暴に追い立てる。
「ま、待ってくれ! 彼女と話をさせてくれ! 僕の婚約者なんだ!」
懇願するフレディに民衆の視線は冷たく、警備兵は聞く耳をもたず彼を引き摺ってゆく中、夫人たちが眉を顰めて囁き合う声が聞こえる。
「まだ言ってるわ……」
「思い込みって怖いわね」
田舎の若者が華やかな都会の女性に一方的な恋慕をして、勘違い執着男になるケースは多い。
大抵はこっぴどく振られたり、牢屋で一晩過ごせば目を覚ますものだが、中にはいつまでも執着する者もいる。
案の定フレディは一晩たっても彼女は婚約者だと言い張る始末で、結局ルルアの街からたたき出されるように故郷の村へ強制送還された。
しかし村へ帰ってからも諦めきれないフレディは、何度もルルアへ通いエスカーニャを探し続ける。
ルルアにいることだけは確かなのだ。
だが、街中いくら探しても見つからない。
それでも虱潰しに探し続けたフレディだったが、父親が帰ってきたことで、彼の放蕩生活も終わりを告げる。
エスカーニャとリックの家は長年常駐の小作人としてフレディの家を支えてきた。
収穫期には臨時の小作人達を手配し取り纏めてもいた。
その家族をどちらも追放してしまったため、フレディの家では膨大な小麦畑の収穫がされず、立ち枯れの状態になってしまっていたのだ。
しかもフレディも母親も、農作業は小作人頼りであったため、父親が帰ってくるまで小麦畑の惨状を知らず、被害は甚大であった。
更に翌年には播種適期を逃し大幅に収穫量が減ってしまい損害は膨れ上がる。
父親が何とか立て直しを図ったが既にどうしようもなく、フレディの家は土地を手放すはめになったのだった。
それでもフレディはルルアでエスカーニャを探し続けた。
婚約者だったのだ。
一目ぼれした運命の彼女が、自分のものになるはずだったのだから到底諦められない。
それに着飾った彼女を見て、エスカーニャだってつまらない田舎暮らしより、洗練された都会の女になるのを夢見ていたのだと信じて疑わず、やがて父親が亡くなり母親と二人物乞いをしながらの生活をしても、運命の彼女がいるルルアから離れる選択肢はフレディにはなかった。
一方、エスカーニャは、時折手作りの髪飾りをルルア以外の街へ売りに行く以外は、北方の村でライ麦を育て家族と恙無く過ごしている。
ケイティにもらった縦縞模様の服と化粧は、都会に行く時だけの魔法のアイテムとしていた。
「魔法はたまにかけるから楽しいのよね。私は都会の女にはなれないわ」
そうエスカーニャがライ麦パンを頬張りながら呟くと、弟とハムの厚さを真剣に競っていたリックがにっこりと微笑んだ。
「綺麗に着飾ったエスカーニャも、すっぴん泥だらけのエスカーニャも、俺は可愛いと思うよ。だって俺にとってはエスカーニャがいる所が自分の居場所で幸せなんだから」
弟の前だと言うのに、平然と惚気るリックにエスカーニャの方が恥ずかしくなる。
リックは一緒に都会へ行ってもエスカーニャ以外の女性には目もくれない。
当たり前だとリックは言うが、そうではないことをエスカーニャは身を以て知っている。
フレディの婚約者になる前に好き合っていたエスカーニャとリックは程なく結婚し、厳しくも幸せな田舎暮らしを生涯続けたのだった。
エスカーニャは一目ぼれされた時はフレディに気づいていません。
ケイティに売り子は笑みを絶やすなと言われた通り頑張っていただけで、目が合ったことすら解っていません。
ご高覧くださりありがとうございました。