乗車①
霊の力が働いていたのに違いない。
そうでなくては、こんな得体の知れない女に声をかけ、その上車に乗せてやるなど考えられない。
こんな得体の知れない女。
こんな女。
幽霊に違いない女。
彼女は今、後部座席に座っている。
俯いているせいで顔はよく分からないけれど、肩甲骨よりも下まで伸びているだろう長い髪は、色素が薄く艶がある。
白っぽいと評していたワンピースは、実は薄い青を基調としたものだった。
バックミラーに幽霊が映っているという、どうしようもない状況。
これが、意外なことに怖くない。
もう、どうしようもなさ過ぎて、彼女を彼女の示す目的地へ連れて行くということが、僕には何のこともない単調な作業のようにしか思えなくなっていたのだ。
「着きましたよ」
無感情な声だった。
こんなに無感情な声が自分の口から出るのかと、内心驚いた。
窓の外には、ハルヒコがお札を貼った自動販売機。
彼女は何も言わなかったけれど、僕には彼女がここへ来たがっていると分かったのだ。
彼女を車に乗せるときだって、彼女が車に乗りたがっているのだと分かって、どうぞと言ってやったのだ。
その彼女が、
「なんだかつまらなさそうですね」
はじめて喋った。
不思議そうな響きを含んだ声は、幽霊のくせに張りのある、それでいて軟らかな声だった。
「あの子のときは、ひゃーひゃー言って逃げ出したじゃないですか」
笑い話でもするかのような口調。
いや、彼女にとっては笑い話なのかも分からない。
僕が彼女の言葉に笑うことができなかったのは、その笑い話が僕のことを嘲笑うものだからだろうか。
いや、そうではない。
僕は混乱しているのだ。
なにしろ、今までは幽霊に違いないと思っていた女性が実はなんでもないただの人間だったのではないかという、まるで希望の光のような予感が湧き上がってきているのだから。
「あ、もしかして、わたしのこと幽霊だって気づいていませんか?」
幽霊の陽気としかとらえることのできない声で、希望の光はぷっつりと途絶えた。
考えてみれば、あの子、つまりあの子供の幽霊のことなど、彼女がただの人間ならば知りえないことである。
それでも僕が、ほんの一瞬であれ彼女のことを人間なのではないかと思うことができたのは、
「こう見えても幽霊なんですよ」
俯いていたはずの顔が、いつの間にか持ち上がっていたせいなのだろう。
生気に満ちているのかといえばそうでもないし、健康的なのかといえば、べつだんそういうわけでもない。
ただ、バックミラーに映る幽霊は、とても軟らかい笑顔を浮かべていた。
血色が良いか悪いかで言えば悪く、ふくよかか痩せているかで言えば痩せている。
幽霊を自称する彼女の笑顔は、たったそれだけの、何ら特異性のないものだったのだ。
「あれ、反応薄いですねぇ。嘘だと思ってるんですか?」
幽霊は笑顔を、困った、とでも言うように歪めてみせた。
それでもすぐに、
「あ、怖すぎて声も出ないとか」
軽いいたずらをしたときの子供のような笑顔で言った。
僕は、子供の頃に鉛筆で書かれた幼稚ないたずら書きを思い出す。
机の上に消しゴムを走らせる、今の心境はあのときの冷めた気持ちに似ているのかも知れなかった。
「あの」
「なんですか?」
「着きましたけど」
自称幽霊の女は細い眉をハの字に傾け、小さな口をきゅっとすぼめた。
「あの、わたし、幽霊なんですが」
「それとこれと、どういう関係があるんですか」
「それとこれ?」
後部座席の女は、ちょこっと首を傾ける。
車を降りる気配はない。
「あなたが幽霊だっていうことと、目的地に着いたのに、あなたが車から降りようとしないことです」
「あ、降りて欲しかったんですか。だったらそう言ってくれればいいのに」
「降りて欲しいと言ったら降りるんですか」
言いながら、僕は内心で安堵のため息をついていた。
バックミラーの中でゆらゆらと表情を変える彼女は、自称幽霊の割には物分かりが良いらしいと思ったからだ。
それなのに彼女は、
「そういうわけにはいきませんよ」
むっとした顔でそう言った。
おかげで僕の中からは、何かを言い返す気力も、言うべき言葉も流れ出ていってしまったらしかった。
どのみち自称幽霊は、僕に口を開くタイミングすら与えてはくれなかったのだけれど。
「せっかく波長を合わせたっていうのに、これでさようならじゃあ意味がないです」
「どういうことですか」
「お話しましょうっていうことです」
にっこりと、青白い顔に薄明かりのような笑顔を浮かべて幽霊は言った。
ハルヒコのにやけ顔と同質の、友好的な笑顔に見える。