異常②
「幽霊退治へ行く途中に、信号で止まっていただろう」
「ああ、止まったね、二回」
一度目は、ハルヒコを乗せた直後の交差点。
二度目は、
「おれが、コーヒーを飲み始めた信号だよ」
二度目は、目的地直前にある横断歩道。
ハルヒコのコーヒーが何よりも気になった、あの場所。
「あそこをまだ通っていないのなら、回り道をした方が良い」
どうして。
そう尋ねるべきところを一秒間の沈黙としてしまったのは、ハルヒコの言葉を頭の中で三度ほど繰り返してしまったせいである。
その三度全てを同じ意味で捉え、同じ疑問を抱いたときには、
「まあ、さすがに、その道は避けているよな」
笑いの混じった声が、僕の耳に届いていた。
「どうして、どうして避けなくちゃいけないんだい」
結局、遅れて出てきた言葉は違う質問へと変化してしまう。
「どうしてって、そりゃあ……」
一秒か一瞬か。
ハルヒコが与えたほんの僅かな静寂の間に、
「見ただろう」
僕は、電話の向こうの友人と同じことを考えていた。
「あれは、人間だろう」
「そんなことは知らないよ。それに、それは本題じゃない」
あっさりと、ハルヒコは自分で出した話題を切り上げる。
あの出来事には極力触れまいと脂汗を流すハルヒコの姿が思い浮かび、なんだか面白い。
だけど、それはとても懸命な判断だ。
僕だって、幽霊のことなど思い出したくもない。
真夜中に一人きりでいるのだからなおさらである。
「あの、信号のことだよ」
あの信号。
俯いた女性のことばかりを思い浮かべていた僕にとって、信号機などは何の意味も持たない背景に過ぎなかった。
それが、話の中心へいきなり躍り出てくる。
僕は何も考えられず、黙ってハルヒコの言葉を待つことしかできない。
「あそこで止まったとき、ちょうど二時頃だったよな」
言われて思い返す。
多分、二時あたりだった。
「あの信号って、日付が変わった後はいつも、点滅信号だった気がするんだ」
「だけど、僕らは赤信号で止まっていたじゃないか」
「だから、おかしいんだよ」
ああおかしいな、と返そうとした。
だからハルヒコ、君の言っていることはおかしいぞ、と。
それでも僕がそう言わなかったのは、口が動くよりも前に、ハルヒコの言わんとしていることを頭が理解してしまったせいである。
「でも」
今度は頭で考えるよりも早く、口が動いていた。
そのせいで、僕は「でも」に繋げるべき言葉を探す間、泣き声のようなふにゃふにゃとした声を垂れ流してしまっていた。
「でも、なんだよ」
「でも、幽霊は退治したよな」
「あんなので退治できるかよ。見ただろう、あれ」
ハルヒコは、とうとう身も蓋もないことを言った。
僕は、理由も分からないのに泣きそうだった。
そのせいで、そんな無責任なと声を荒げようとしたのを、
「あれって、だからあれは人間だろう」
そう、すがるように言って、電話を切ってしまった。
携帯電話を握ったままで、サイドミラーに目をやる。
そこでは件の信号機が、黄色い明かりを点滅させている。
こんな、こんな残酷なことはない。
ハルヒコを乗せて通り越したときには、確かに赤く点っていた歩行者用信号機が、今は何の色も点さず沈黙している。
気が知れない。
帰り道にここを選んでしまった自分が、理解できない。
僕は、あの信号機を、電話をする直前に通り越してしまっていた。
さすがに避けているよなとハルヒコが言った道を、僕は当然のように通ろうとしていた。
ここからもう少し進めば、あの自動販売機のある場所へ行き着いてしまう。
ただ、それだけならば、まだ救いがないわけではない。
なにしろ、僕はまだ信号を通り越しただけなのだから。
僕はまだ、霊を見たあの場所に行き着いてしまったわけではないのだから。
今から引き返して違う道を通れば、何の問題もないような気がした。
だから、それだけならば、きっとまだ救いがあったのだ。
いつからだろう。
いつからそこにいたのだろう。
窓の外ではあの女が、白に近い色の服を着たあの女が、やはり俯いて、否定のしようもなく僕のことをじっと見ていた。
今度は声も聞こえないほど遠くではない。
手を伸ばせばドアに触れられるような、ごくごく近い位置。
僕は、
「どうかしたんですか」
窓を開けていた。