幽霊退治②
「だったら、さっさと飲み干してしまえばいいじゃないか」
「そうは言っても、苦いんだよ。ちょっとずつ飲まないと、喉がちりちりするんだ」
コーヒーをすする音が、ハルヒコの言葉に続いた。
そういえばハルヒコは、学生時代から苦いものが苦手だった。
それなのに無糖のコーヒーを彼が飲んでいるのは、深夜のドライブなので眠気覚ましが必要だろうという考えからである。
「だいたい」
缶に口をつけたままなのか、少しくぐもった声。
通常ならば、運転手ではないハルヒコが眠気覚ましの手段を用意してくる必要なんてないだろう。
だけど今日は、明らかに通常とは違う。
なにせ、
「これから幽霊退治っていう時に、そんな細かいことを気にしなくたっていいんじゃないのかい」
なにせ、今夜は幽霊退治にやってきたのだ。
この状況は、霊能力者の類ではない僕らにとって、少なくとも通常と呼べるようなものではない。
異常とも呼べるであろうこの状況において、運転手である僕はもちろん、唯一の同乗者であるハルヒコは、どうしてもしっかりとした意識を保っておく必要がある。
片方が霊に操られたりしたら、ぶん殴ってでも意識を取り戻させるんだぞ。ハルヒコの言葉である。
そのためには、どちらかが眠っていては話にならないのだ。
「それとこれとは関係ないだろう。気になるものは気になるさ。君にとっては他人の車だから細かい問題なのかも知れないけど、持ち主の僕にとっては大問題なんだよ」
「ああ、もう、わかったよ。がんばって早く飲むよ。それでいいのかい」
「べつに、無理をしなくてもいいよ。ただ、こぼさないように気をつけて欲しいだけさ」
助手席からは、言葉の代わりに嚥下の音が五回。
続いて、うほっ、とか、うげっ、といったむせ返る声が途切れなく吐き出されていく。
「にがっ。うえ、にが。話を戻すがな」
「無理したなぁ。大丈夫かい」
「苦すぎて化けて出そうだよ。それで、話は戻るが、どうして乗り気じゃないかっていうとだな」
アクセルから足を離す。
目的地は、もうすぐそこだ。
「お前がチヒロさんに振られた原因の比重を考えたとき、その幽霊の占める割合なんてそう大したものじゃないと思うんだよ」
他に車の姿は見当たらないけれど、交通ルールに従って左にウインカーを出す。
煌々と明かりを発する自動販売機の脇に、僕はとうとう停車した。
とうとう、目的地に辿り着いてしまった。
「それって、どういう意味さ」
「考えてもみな。その幽霊は、ただ出てきただけなんだ。お前のすぐ隣に割り込んできたっていうのは野暮としか言いようがないが、かといって幽霊が何か危害を加えてきたわけでもないんだろう」
エンジンを切ろうか迷った末、結局キーを回した。
幽霊が出てきたときにすぐ逃げられるようにだなんて、そんな逃げ腰ではいけない。
僕は今夜幽霊を退治しに来たのだし、なによりもガソリンがもったいない。
「結局、チヒロさん一人を置いて逃げるだなんていう愚行にはしったのはお前だろう。それが、チヒロさんに愛想を尽かされた直接の原因なんだろうが」
まばらに並んだ街灯が鈍く照らし出す、起伏も分かれ道もないシンプルな風景。
街灯なんかよりもずっと眩しい自動販売機が映し出す、昼間はにぎわっているはずの一本道。
チヒロと笑いあった、チヒロと缶ジュースを飲んだ、チヒロと口づけをした、チヒロとの思い出に溢れた場所。
チヒロにプロポーズした、チヒロに頬を打たれた、チヒロに脛を蹴られた、チヒロとの苦い思い出すら詰まった場所。
少女の幽霊が現れた、忌々しい場所。
それが、ここだ。
恐る恐る、バックミラーに目をやる。
しかし人の気配はない。
僕の両脇にも、ハルヒコの隣にも不審なことはなかった。
「それなのにお前は、それを棚に上げて幽霊を逆恨みしているんだろう。その上、幽霊を退治しようっていうんだから、もう、どっちが悪者だか分からないよ」
「逆恨みの復讐に手を貸すのが嫌だっていうことかい」
ほんとうに、今更だ。
どうしてそんなことを、ハルヒコはこんな段階になってから言うのだろう。
幽霊に復讐したいという僕の妄想じみた願望を、現実味のある計画に変えてくれたのは他でもないハルヒコじゃないか。
「卑屈な言いかたをするなよ。それに、やらないって言っているわけじゃあないだろう。幽霊がいるかいないかだったら、いない方がいいに決まってる。悪かったよ、変なこと言って」
「変なこと?」
「だから、乗り気じゃないって。やる気がなくなったわけじゃないから、あんまり気にしないでくれよ。缶、捨ててくるわ」
シートベルトを外しながら足を崩したハルヒコは、自分の脚に乗っている紙切れをちょいと持ち上げ、
「お札、持っといてくれ」
僕に手渡すと、脱いでいた靴を履き、ドアを開けて出て行った。




